第十八章 覇王の生誕(七)
烏巣に食糧基地があると聞かされて、曹操軍の者達は耳を疑った。
何故なら、その場所はすでに捜索済みであり、大規模な食糧基地などは影も形も無かったからだ。
ゆえに、許攸の口から出任せであると思われたが……
許攸が続けて話したのは、驚くべき事実だった。
烏巣の地下には、旧時代の遺跡と思しき広大な空間が存在しており、そこでは食糧の備蓄は元より、生産も可能だという。
さらに地上からの入り口は岩や樹木によって巧妙に隠され、行き方を知るもの以外に侵入することは不可能。
袁紹軍はこの地底遺跡で食糧を増産し、広大な輸送経路を使って官渡本陣に運び込んでいたのだ。
この地底遺跡が何のために創られたのかは分からない。
入り口の扉には、『9th SHELTER』という古代文字が描かれていた。
この施設の名称を指しているのだろうか。施設に散見される他の文字も含めて、全て解読不明である。
遺跡の由来などはどうでもいい。
重要なのは、この施設が袁紹軍にとって重大な戦略拠点であるということだ。
この遺跡を発見したことで、袁紹軍は大きく優位に立った。
偶然の賜物か? いや、開戦前から、豫州に多数の斥候を送り込み、念入りな探索を行った成果だろう。
袁紹軍は、この基地の存在を秘匿し続けることで、食糧面の憂いを完全に絶っていた。
だが、それも今夜まで。
その所在は、許攸によって曹操軍に知られてしまった。
もはや利用することはできない。
ゆえに、沮授は食糧を運び出すべく、十五万の大軍を率いて、急ぎ烏巣に向かったのだ。
沮授は全身に橙色の甲冑を着込んでいる。
いつもは細く閉じられた眼は開かれ、鋭い眼光を放っている。
大きく出た腹にある臍下丹田に力を入れ、脳細胞を活性化させる。
曹操軍の狙いはこうだろう……
こちらをあえて烏巣基地内に突入させ、食糧を運び出そうとしたところで、地下施設に火をかける。
食糧も、施設も、そして大軍をもまとめて焼き払える一石三鳥の策である。
それを防ぐため、沮授は烏巣一帯を取り囲むように兵士の壁を作らせた。
防壁が曹操軍の攻撃を凌いでいる間に、残る兵が食糧を運び出す。
無論、どの方向から攻めてきても対応できるよう、沮授の命令に自在に陣を変えられる。
護りは万全……いや、そんなことは有り得ない。
万全や完璧といった言葉は、過信と油断を生む。
大切なのは、驕らぬこと。全てが予測通りにいくことなどありえないのだ。
いかなる事態が起ころうとも、その場その場で適切に対処する。
対処できるような備えをしておく。
そんな当たり前のやり方こそが、沮授の、引いては袁紹軍の軍略の根底にあるものなのだ。
「沮授様! 来ました! 曹操軍です!!」
部下の報告を聞き、沮授は手綱を握る手が汗ばむのを感じる。
軍を率いているのは誰か。張遼か、四天王か。誰であろうと問題ない。
曹操軍の主力となる部将の能力と情報は、全て頭に入っている。
彼ら一人一人の対応策は既に出来上がっているのだ。
例え彼らが限界以上の力を発揮しようとも、脅威には値しない。
最初から、彼らは限界を数段上回るものと仮定して戦術を組んでいるからだ。
そのための兵力十五万である。
例え個の武力を頼みに突破しようとしても、食糧を運び出すまで封じ込めることは十分可能。
それに、こちらに強力な将を割いてくれるのはむしろありがたい。
その分官渡を攻める袁紹軍本隊の勝率が上がるからだ。
周囲の地形情報も、全て頭に入っている。土砂崩れのような地形を活かした戦術も通用しない。
沮授の思考は留まることを知らない。考えうるありとあらゆる可能性を考慮し、対策を捻り出す。
その中には、予期せぬ敵の援軍や天変地異といった類のものまで含まれていた。
彼はこの戦が始まるずっと前から、睡眠時間を除いて思考し続けている。
いや、夢の中でもその思考は止まらない。
全ての脳細胞を活性化させ、思考と思索を積み重ね、常に相手を上回る策を編み出すのだ。
そうすれば、負けることなどありえない。
だが……
次に伝令から聞かされた報告は、そんな沮授をしても驚嘆せざるを得ないものだった。
考慮しなかったわけではない。
一と二と三を組み合わせて数字を作るように、全ての人物と全ての行動を組合せれば、予測に漏れが生じることはない。
しかしこんな事態が起こる可能性は、限りなく無に等しかった。
まさか曹操自らが……
しかも、軍の先頭に立って真っ直ぐ突っ込んでこようとは……
折しも今宵は満月……
それを見て思うことは、この月明かりが戦況にどう影響するか……ただそれだけだった。
闇に紛れることが出来ぬという点では、こちらが若干不利だろうか……
最も両軍入り乱れた混戦となれば、この程度はさしたる差にはなるまい。
満月の青白い光と、曹操の琥珀色の瞳が重なり合い、碧色の輝きを生み出す。
その両眼には、烏巣とそれを守護する袁紹の大部隊が見える。
犇めく歩兵と騎馬の群れは、堅牢な城塞を思わせる。だが、あの城は生きている。
敵の攻撃に応じて自在に姿形を変える“生きた城” ……
その中核となっているのは、袁紹軍最高の軍師、沮授だった。
相手側も、突然の曹操の出現には動揺を隠せないようだ。
しかし、向かってくる敵を倒すことには変わりない。それが敵の総大将ならばなおのこと。
前方の兵が、一斉に矢を構えるのが見える。
こちらも、直ちに盾を備えた兵を前に出させる。
夜空を切り裂いて、降り注ぐ矢の豪雨。曹操軍の構えた盾が、一瞬で矢の針鼠と化す。
「んあああああぁぁぁぁぁっ!!」
一人前に出て、大鉄球を振るう許楮。曹操目掛けて飛んでくる矢を纏めて吹き飛ばす。
曹操の周囲には、彼の他にも、楽進ら精鋭が守りについている。
それでも、危険窮まりないことには変わりない。
最前線とは、どれだけ万全の備えをしていても命を落とす可能性を消せない……そういう場所なのだ。
「曹操だ! 曹操がいたぞ!」
「馬鹿な! 見間違いじゃないのか!?」
「いや、あれは間違いなく曹操だ!」
曹操の姿は、袁紹軍の兵達の眼にはっきりと刻み付けられた。
この情報は、すぐに十五万の兵全てに伝播していくだろう。もはや逃げることはできない。
逃げる? 馬鹿な。影に紛れてこそこそと動き回るつもりなら、最初からこんなところには来ない。
隠密活動ならば、自分などよりも適した人材がいる。
適材適所。
包丁は食材を切る道具であり、戦場で人を殺すには適さない。
一方、槍は戦場では強力な武器であるが、厨房で調理をするのには向いていまい。
全ての才には、それに適した場所がある。
曹操への忠誠心が特に強い許楮や楽進は、護衛を任せてこそ最大の能力を発揮する。
夏侯淵、張遼、曹洪は、兵を率いて独自の判断で戦うことのできる将だ。ゆえにこそ、自分が不在の官渡の護りを任せた。
夏侯惇のように、そのどちらにも長けた将も存在する。
人は宝であるが、磨き上げるだけでは用を成さない。
最も適した役割を与えてこそ、宝を越えた“人材”となるのだ。
ならば、この曹孟徳という人間を、最も活用できる役割とは一体何か?
単純な戦闘力ならば、許楮や楽進に及ぶべくもない。
指揮能力においても、郭嘉ら軍師達の方が遥かに上だ。
己の才を信じ、ただそれだけを磨き上げてきた者たちに、どうして自分が追いつけようか。
万能の天才が一人で活躍できる時代は終わったのだ。
この曹孟徳が、戦において果たせる役割、それは……
曹操軍と袁紹軍が、いよいよぶつかり合った瞬間、甲高い声が、夜空に鳴り響いた。
「作戦変更ぉぉぉ! 殺せぇ! 曹操を殺せぇ!
曹操ただ一人を狙え! 奴さえ仕留めれば、この戦、我らの勝利だぁ!!
よいか! 曹操を討ち取った者には百倍の報酬を与える!!
将軍や貴族の地位も思うがままだ!!
この命令に従わぬ者は、直ちにその首を刎ねるぞ!!」
大音声が十数万の兵の耳にこだまする。
その瞬間、全員の視線が曹操ただ一人に収斂する。
報酬、地位、名誉……そして、勝利!
溢れ出る欲望に飲まれ、彼らの瞳が妖しく輝く。持てる殺意の全てを解放し、曹操にぶつける。
だが……当の曹操は、実に涼しげな顔をしている。これだけならば、さして珍しいことでもない。
異様なのは、この中で最も驚いていたのが、先程の命令を発したと思しき男、沮授だったことだ。
(どういうつもりネ!? 曹操!?)
曹操を狙うよう指示したのは、沮授ではない。
戦場全てに響き渡るように、喉が潰れるような大声を発したのは、あろうことか曹操軍の軍師、郭嘉だった。
あそこにいるのは間違いなく曹操だ。
自らを囮として、こちらの注意を引き付け、戦陣を崩壊させるつもりなのか!?
愚策! 愚かな決断といわざるを得ない!
確かに曹操の存在は、囮としてはこの上ないほど役に立つであろう。
分かっていても引き寄せられてしまう、極上の囮だ。
だが、曹操の死は、曹操軍全体の敗北に直結する。
十五万の兵から狙われて、生き延びられると思っているのか?
例えこの策で烏巣を焼き払ったとしても、曹操が死ねば全てが水泡に帰す。
それが分かっていない曹操、郭嘉ではあるまい!
(そう! 愚策! この上ないほど愚策よ!
余がそなたであったなら、鼻で笑い飛ばしておるだろう!
だが、だからこそ……“揺れた”な、沮授……)
漆黒の影が、大地を駆ける。
曹操という獲物に舌なめずりする兵士達の間を苦もなくすりぬけていく。
(そなたは知らぬ! この曹孟徳が、どれほど狂っているかということを……
それが、郭嘉が知っていて、そなたが知らぬことぞ、沮授!)
沮授の読みは完璧だ。どれだけ優れた策を捻り出そうとも、必ずその裏をかく手を打たれてしまう。
田豊が見出だした中華最高の頭脳に、付け入る隙などありはしない……ように思える。
だが、郭嘉もそうなのだが、彼ら天才にも弱点は存在する。
それは、相手が最善手を繰り出すと決めて予測を立てていることだ。
本来なら、これは弱点になりえない。最善手が読めるならば、それより劣る策など問題なく対処できる。
盤上の戦で、どうあっても、素人が玄人には勝てないように……
だが、最善手の正反対である“最悪手”……
しかも、それが自分達にとって優位をもたらすものだとすれば……
今回曹操が取った策がまさにそれである。
普段の沮授ならば、例え今のような手を打たれても、軍を一喝し、本来の軍略に引き戻すだろう。
だが、その対象が曹操だったなら……話は違って来る。
曹操を殺すことと、烏巣から食糧を運び出すこと……そのどちらも、勝利条件としては同価値……
いや、曹操を仕留める方が、遥かに優しい条件のはずだ。
だからこそ、沮授は揺れた。本来の戦略を全うすることと、降って沸いた幸運にすがること……どちらにすべきか迷ったのだ。
沮授の長所は、いついかなる時も思考を重ね、どんな状況においても打開策を編み出すことだ。
だが、それゆえに、沮授は曹操の自殺行為とも言うべき策の裏に、何かあるのではないかと勘繰ってしまった。
いつもそうしているように、懐疑し、思考してしまった!
その結果、思考の落とし穴に嵌まり、対応がやや遅れてしまう。
それは、曹操と郭嘉にとっては、あまりに致命的な隙だった。
曹操は、沮授の天才的な頭脳を高く評価していた。だからこそ、その頭脳を逆用した策を思い付けたのである。
そして……彼の頭脳と才能を深く理解しているからこそ……
真っ先に消すべき対象と見なしたのだ。
地面を蹴って跳躍する黒い影……
軍師の迷いは、同時に軍全体の思考停止を意味する。
敵兵の動揺、指揮系統の撹乱……全てはこのためにあった。
もしもこの軍を率いていたのが袁紹だったなら、迷わず全軍での曹操抹殺を指示しただろう。
そして、曹操軍はそれに抗えなかったに違いない。
相手が沮授だったからこそ、通用した策である。
沮授は、聡明な男である。
数秒間の思考で、曹操の目論見と、自分が罠に嵌められたことを悟るのだった。だが、その時には既に遅く……
(アイヤー……)
最期に脳裏に浮かぶのは、優しく微笑む袁紹と田豊の顔……
彼の視界を、黒い髪を靡かせて走る人影が通り過ぎ去った時……
沮授の首は、胴体から離れて飛んでいった。
(上手くいけば……徐晃が沮授を討ち取っている頃か……)
曹操の計画は、最初から沮授の抹殺を主眼として立てられたものだ。
この戦は、袁紹軍にとっては決して負けられない戦い……ならば、万全を期すために、沮授自ら出てくるはず……
そこまで読んだ上で、曹操は自ら兵を率いて出撃したのだ。
沮授の思考を狂わせるために……
沮授が討ち取られた以上、指揮系統の混乱はさらに加速するだろう。
まして、中核たる頭脳を失った敵軍に、郭嘉の策略の嵐を凌ぎ切れるとは思えない。
(問題は、余の方か……)
さすがに十五万の敵から一斉に狙われては、彼といえども苦しい戦いをせざるを得なかった。
いや、もう何度も死にかけている。許楮や楽進も必死に戦っているが、どこまで持ちこたえられるかわからない。
沮授の思考を乱すためだけにこうして危険に身を投じたが、その代償は大きかった。
(だが、まだこの命、くれてやるわけにはいかんのう……!)
死を恐れているわけではない。戦いはまだ終わっていないのだ。
烏巣の食糧基地を焼き払わなければ、この戦いに勝ったとは言えない。
曹操の“囮”としての役割は、まだ終わっていないのだ。
押し寄せる万を越える敵兵の波に晒されても、楽進は僅かたりとも怯みもしなかった。
それどころか、彼の闘志は敵の全てを凌駕しうるほど昂ぶっている。
両の腕が唸りを上げ、砲弾となって撃ち出される。
瞬きの内に鉄甲が敵兵の顔面を粉砕し、頭蓋骨の中身ごと撃ち貫く。
高速で繰り出される拳の連打は、敵兵の目からはただ光が走ったようにしか見えない。
雷光の拳は、一瞬で十数の敵を屠り去り、敵兵の接近を許さない。
曹操様! 曹操様!
自分の後ろには主君がいる。
ただの一兵卒に過ぎなかった自分を、今の地位まで取り立ててくれた恩義は計り知れない。
何が何でも、ここは護り切らなければならない。
今の彼を突き動かす者は忠誠心……そして、底無しの歓喜。
主を護って戦えることに、楽進は歓喜の絶頂にあった。
膨れ上がる喜悦の嵐は、全身の細胞を活性化させ、己の内なる力を十全に引き出す。
溢れる闘志は紅蓮の劫火となりて、際限なく燃え上がっていく。
「うおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!!!」
獣の如き咆哮と共に、また数十の敵が血煙に沈む。
余分な思考は全て剥ぎ取られ、その肉体は向かってくる敵を殲滅するためだけに機能する。
その姿はまさに荒ぶる鬼神そのものであった。
「………………」
隣で戦う許楮は表情一つ変えず、無言のまま敵を屠っている。
だがその姿は、楽進以上に敵を恐怖のどん底に突き落とした。
ただ腕を振るだけで、数十の敵が吹き飛んでいく。規格外の膂力は兵の体を圧潰し、ただの血肉の塊へと変える。
手枷に接続された鎖鉄球には、何人もの兵士の肉片がへばり付いている。
楽進とは対照的に、彼はこの修羅場においても、激情に飲まれることなく己を保っている。
朴訥な印象ゆえによく思い違いされているが、許楮の本質は氷のような冷静さにある。
いかな状況においても、ただ主の身を護り、その命令を忠実に遂行する。
彼の肉体は、腕を振るだけで巨大な鉄鎚にも等しい破壊力を生む。
四肢と五体そのものが、既に万の軍を屠る凶器なのだ。
ゆえに、許楮には余分な力みや激情など必要無い。
理性を残したままでも、十二分にその戦闘力を発揮できるのだ。
曹操は、そんな許楮の特質をよく理解している。
楽進は前に進む事しか知らない……ゆえにこそ、楽進と組ませたのだ。
「やはり、こうなってしまいましたか……」
四方八方を隈なく敵兵に囲まれ、徐晃は呟く。
袁紹軍の陣形が乱れた隙を突き、全力疾走で沮授の元まで駆け抜け、首尾よくその首をはね飛ばしたまではよかったが……
予想通り、あっという間に敵兵に囲まれてしまった。
頼みの脚も、既に使い潰してしまっている。自力で脱出することは不可能だった。
危険な任務だということは承知していた。今更命を惜しみはしない。気になるのは曹操だ。
彼が敵の注意を引き付けてくれたお陰で、沮授を始末することが出来た。
だがそのせいで、今や多くの敵が曹操に殺到している。彼を護れずに死ぬのは、何とも心残りだった。
自分の取り柄は脚の速さだけ……これだけの数を打ち倒して突破するなど、出来そうもない。
それが分かっていながら、徐晃は剣を取る。最後の最後まで諦めない。それが曹操幕下のあるべき姿だ。
だが、その時……
「ぐはっ!」
敵兵の壁の一部が、血煙と共に突き崩される。
そこから飛び出して来たのは、白馬に跨がった紫髪の騎士……
「ち、張合さん!?」
「やぁ!助けに来たよ、ボクの姫君!!」
聞き捨てならない発言であるが、今は突っ込んでいる場合ではない。
張合の差し延べた手を取り、馬上に引き上げられる。
一斉に敵兵が襲い掛かるが、張合は涼しげな顔で長剣を抜き放つ。
「絢舞・流月華」
月の円弧を思わせる、流れるような動作で剣を振るう張合。
その軌跡に触れた兵士は、鮮血を吹き出して崩れ落ちる。
その鮮やかな立ち振る舞いは、血みどろの戦場にいるとは思えぬほど優雅だった。
「絢舞、紫艶華!」
続けて、新たな技を繰り出すと思った兵士達は咄嗟に身構える。
だが、張合は懐から小さな袋を取り出し、宙に放り投げる。
そして、剣の切っ先で袋を突き破ると……濃い紫色の煙が溢れ出て、瞬時に辺りを包み込む。
虚を突かれたこともあって、袁紹軍は標的を見失ってしまう。
張合は徐晃を抱き抱え、敵兵の間を駆け抜ける。
「ど、どうもありがとうございます。助かりました」
「礼には及ばないよ。悪漢に囲まれたか弱き姫を護るのは、男として当然のことだからね」
「は、はぁ……」
まだ何か勘違いしているような発言に、徐晃は戸惑うばかりである。
とにかく、彼のお陰で九死に一生を得た。もしかすると、曹操はここまで読んで張合を同行させたのだろうか。
これから自分はどうすべきか……徐晃は、張合の腕の中で考える。
この展開を曹操が予測していたとして、彼は自分に何を期待しているのか。
今の自分に出来ることは一体何か……
張合は、命令系統を一切無視して自分を助けに来た。
あまり深くは考えたくないが、彼にとっての最優先事項は自分なのだろう。ならば……
「ち、張合さん……」
「何かな?」
「お願いがあるのですが……」
張合は、身体から魂魄が飛び出る思いがした。
彼の姫君が、その真黒い瞳を潤ませて、自分に懇願しているではないか。
体中に異様な熱が帯びるのを感じる。恍惚のあまり、その瞳から目を逸らすことが出来ない。
……それでも、向かって来る敵や流れ矢はしっかり斬り払っているのだが。
その桜色をした愛らしい唇が動き、託宣を紡ぐ。
「このまま敵陣の深くにある、地下施設の入り口に行って下さい。
早くしないと、食糧を運び出されてしまいます。どうか……」
張合は、思わず叫び出しそうになるのをぐっと堪える。
愛する人の想いに応えることこそ、真の愛、真の美ではないか。
「ああ!任せてくれたまえ! 【風斬の君】よ!
貴女の切なる願い、この張儁乂が叶えて見せよう!!」
体中から力が沸き立つのを感じる。長きに渡って放浪してきたが、ようやく実感する。
自分の生は、この女に尽くすためにあったのだと!!
(だから、その何とかの君ってのは何ですか……)
徐晃は内心呆れながらも、思惑通りになったことに安堵していた。
彼の手綱は、今や自分が握っている。
これから自分がすべきことは、彼を操って烏巣食糧基地を潰すことだ。
先程見たように、彼の実力は張遼や許楮に追随する。
そして、彼を自在に動かせるのは自分だけなのだ。
先の先まで読んだ曹操の采配に感服しつつも、彼の身を案じる徐晃。
だが、最も重要なのはこの戦に勝利すること。
そのためには、主君である自分を見捨てても構わない……道中、曹操ははっきり言い切った。
自分は所詮新参者、彼の深慮深謀を量ることなどできようはずもない。
自分にできるのは、ただ彼の命令に愚直に従うことだけだ。
曹孟徳を信じて、ただ、真っ直ぐに……それが徐公明になせる、忠誠の形だった。
(今頃、徐晃は張合と食糧基地の方に行っておるかの……)
もし曹操の思惑通りに進んだならば、食糧基地の方は心配あるまい。
張合は、あの関羽と一時は五分に渡り合った男。
今の統率が崩れた袁紹軍では止められまい。
先程から、あちらこちらから郭嘉の甲高い声が聞こえてくる。
また、出鱈目な情報を流して、袁紹軍を撹乱しているのだろう。
沮授亡き今の袁紹軍では、郭嘉の舌に抗う術を持つまい。
こうして考えると、いかに沮授が素晴らしい軍師だったかよくわかる。
彼の不幸は、己の偉大さを自分で理解していなかったことだ。
もし分かっていれば、こうやって危険な戦地に出てくることはなかっただろう。
何を置いても、自分を護ることを優先しただろう。
だが、沮授は個よりも全を選んだ。袁紹への忠誠が、本来の彼を歪ませたのか……
袁紹は、それほどの器に成長したのか。曹操は、訳も無く笑みを浮かべた。
郭嘉は違う。
彼はいつでも己を優先する。部下も、軍も、そして主君でさえも、彼にとっては己の才能を余さず振るうための道具に過ぎない。
曹操軍にいるのも、曹操の目指す理想が自分に取って都合がいいからだ。
恩義や忠誠といった言葉も彼に取っては利己的な本性を隠すためのものでしかない。
荀或は、まんまと勘違いさせられたようだが……
その、利己と独善、世界の全ては自分のためにあるという傲慢こそ、郭嘉にあって沮授にないものだ。
いや、かつての沮授もそうだったのかもしれないが、袁紹に仕えることで変わっていった。
曹操は変えない。変わらせない。
彼が臣下に求めているものは、完璧な忠誠ではない。
不完全でもいい、十人十色なありのままの彼らなのだから。
そして、その郭嘉の本質こそが、今夜の作戦に彼を選んだ理由である。
曹操を囮とするこの作戦は、当然主君が討ち取られ、曹操軍全体が崩壊する危険をはらんでいる。
そんな危険を承知の上で、主君をただの駒として扱える軍師は、郭嘉だけだ。
荀或は言うまでもない。彼は曹操がいなくなった瞬間、自分の生きる意味を失う。
程旻は博打を打たない性格だ。そんな危険を侵すぐらいなら降伏を選ぶだろう。
荀攸は、単純に恐れをなすだろう。曹操軍に入ってまだ長くない彼にとって、そんな重大な決断は荷が重すぎる。
賈栩は、利己的という意味では郭嘉といい勝負だが、彼の関心は曹操にある。観察を生き甲斐とする彼ならば、観察対象を死なせることを良しとは思うまい。
従って、最悪主君を使い捨ての駒にしてでも勝利を優先させる軍師は、郭嘉だけなのだ。
全ては適材適所。
人にはそれぞれ、その才を最も発揮できる役割が存在する。
では、自分の……この曹孟徳の役割とは何なのか。
将軍が武を司り、軍師が策を司るならば、王の役割は“心”を司ることだ。
言葉、態度、眼力、経験、実績、あるいは存在そのものを用いて、人の心に忍び込み、揺さ振り、掻き乱し、掌握する。
熟練の傀儡師の如く人心を操る……それが王という役割の本質だ。
駒を操ることは、軍師にも将軍にもできる。
だが、何万何十万という民の心を掌握し、一つの方向へと動かせるのは、王しかいない。
王の精神操作は、味方のみのならず敵にも及ぶ。この戦いが良い例だ。
敵兵の誰もが、曹操という極上の獲物に眼を血走らせ、本来の役目を見失っている。
曹操の存在が、彼らを、そして沮授の頭脳をも狂わせたのだ。
曹操が天下に悪名を広めて来たのも、敵味方問わずより多くの民に自分の存在を印象づけるため。
それが世間から見て“善”であれ“悪”であれ、過剰なものはそれだけで有用な道具となりうる。
曹操にとっては自分自身でさえも駒の一つ。予めこのような事態を想定して、派手な戦や政を行ってきたのだ。
袁紹もまた、心を司る王としての資質を持っている。だが、その性質は曹操とは決定的に異なる。
将軍や軍師も、人によって細かな性質が異なるように、王もまた、王の数だけ異なる特質が存在するのだ。
董卓は“恐怖”、呂布は“強さ”、孫堅、孫策は“情義”で、それぞれ配下の心を繋ぎ止めた。
同様に袁紹は、圧倒的な“権力”、天井知らずの“傲慢”、それと対をなす“寛容”で臣民を治めている。
“権力”は“恐怖”や“強さ”になり、“寛容”は“情義”に繋がる。これまで曹操が戦ってきた王たる者の資質全てを、袁紹は兼ね備えていることになる。
実はこれは、曹操にも当て嵌まることだ。最も彼の場合は、冷酷さも寛大さも、裏に用意周到な計算が潜んでいるのだが……
異なる点は他にもある。
袁紹は、絶大な威光で人々を引き付け、その“個”を尊重しつつも、最終的には“全”に取り込む。 一方曹操は、数多の“個”を無理に纏めようとせず、“個”の積み重ねで“全”を形成する。
どちらがより優れているか、正しいかは、一概に言えない。
袁紹の王道も、十分最善と言えるもの……長期に渡る安定を優先するならば、袁紹の方が優れているかもしれない。
少なくとも、曹操は袁紹を認めている。
だからこそ、もし自分が敗れる場合は、降伏して彼に道を譲る選択も本気で考えていた。
荀或の説得に応じたのも、戦いを続けることで、袁紹を更なる覚醒を促す狙いもあった。
そう思ってしまうほどに、今までの状況は八方塞だったのだ。
だが、奇跡は起きた。勝機が見えた以上、曹操は後退することなどできない。何故なら……
倚天の剣が敵兵の脳天に食い込む。
いよいよ、曹操の傍にも敵が寄って来ている。
いつの間にか、許楮と楽進を除く護衛は全滅している。これからは、三人で押し寄せる袁紹軍を凌がなければならない。
郭嘉は偽情報と巧みな用兵で上手く敵勢力を分散、撹乱させているが……それでも一万を越える敵が常に押し寄せている。
許楮と楽進は、一言も口を聞かずに敵を殺し続けているが、さすがに疲労の色が濃い。
後、どれだけ持ちこたえられるか……
近寄ってきた敵を、今度は突き殺す。
人を自らの手で殺めたのは、呂布の時以来か……あの時呂布は首の無い半分死体だったので、厳密に言えばさらに昔に遡る。
初めて戦場に出た黄巾の乱では、毎日のように人を殺していた。
地位を高めるにつれて、自ら手を汚すことは少なくなったが、命を下して間接的に殺した人数はその数百、数千倍になるだろう。
左腕に激痛が走る。流れ矢が突き刺さった。
だが、声は上げない。表情も変えない。全霊で、本能ゆえの反応を押さえ込む。
今ここで悲鳴を上げて、必死で戦っている許楮と楽進の集中を乱してはならない。
彼らのためではなく、外ならぬ自分のためだ。
最後の防波堤が突き崩されれば、自分に待っているのは死だけなのだから……
彼は、戦場で命を賭けることを恐れない。
董卓との戦い、呂布との戦い、そして黄巾との戦いにおいて、彼は戦の最前線に出て、その身を死の危険に晒して来た。
今回もそうだ。破竹の快進撃を続けて来た曹操だが、重要な局面においては自ら死地に身を踊らせ、極限状況の中で勝利を掴み取ってきた。
死中に活あり、命を賭けなければ、大切なものは得られない。
人はそれを勇気、あるいは無謀と呼ぶ。
だが、曹操にとっては、自らの行動原理に基づいた、実に冷静かつ理性的な決断だった。
死ねば全てが終わり。それは正しい。人は自分の眼を通してでしか、世界を観測することはできない。
観測者を失えば、世界は存続できなくなる。個人の死は、世界そのものの崩壊に外ならない。
そのことを知らない曹操ではない。死ねば全て終わる……だが、“終わるだけだ”。
どの道人はいつかは死ぬ。それが早いか遅いかの違いしかない。
曹操の中で最優先事項は、“目的を達成する”、これに尽きる。
命を賭けずして目的を達成できるならば、全力で命を惜しむだろうが、そうでない場合は自らの命を使うことを躊躇わない。
確かに命は大切だ。だが、曹操にとって、さらに優先すべきものが他にある以上、命ですらも手段の一つにしかならない。
これで一体何人の敵を殺しただろうか。曹操の体は、返り血で真っ赤に染まっている。
血塗られた彼の覇業を象徴しているかのようだ。
疲労は極限に達し、矢に貫かれた左腕は感覚が無くなりつつある。
随分と衰えたものだ……黄巾の乱の頃は、四天王に混じって、百や二百は軽々と葬っていたものだ。
それが今やこのていたらくである。黄巾党と袁紹軍では、兵の練度が大きく異なる。単純な比較は出来ないだろうが……
このまま自分はここで果てるかもしれない。その時はその時だ……
袁紹の王道は、些細な“奇跡”ごときでは揺るがなかった。ただそれだけの話だ……元々、勝ち目などない戦だったのだ。
「ふははははははッ!! ここだ! 余はここにおるぞ!
この曹孟徳に刃向かう愚か者めが! そなたら程度で、余の覇業を押し留められると思うてかッ!
無駄! 無駄ァッ! そなたらの血で、この地を赤々と染め上げてくれようッ!!」
これは、虚勢ではない。体は熱を帯び、腕は全霊の力を発揮し、全身から生きる活力が沸いてくる。
曹操の中には、強気と弱気、興奮と諦念が同時に存在している。
いや、それ以上の種々雑多な感情が、混ぜ合い、溶け合い、共存している。
だが……その全てが、偽りの感情、造りものの感情だった。
彼にとっては、肉体も、精神も共に外装に過ぎない。
本当の彼は、幾重もの精神の皮に包まれた最奥でひっそりと佇み、“曹操”という人間に似せた外装を無言で見つめている。
それは静かで冷たく、正にも負にも振れることのない、極めて“無”に近い存在だった。
父、母、祖父、祖母、妻、息子、四天王、天子、董卓、呂布、劉備、そして袁紹……
これまで出会って来た全ての人々から学び取った感情を混合し、表出しているのが“曹操”という人間だ。
全ては目的達成がため、人間社会に溶け込むため……真に己の内から出でた感情など、何一つない。
人間は、まず感情が存在し、そこから目的が生まれる。
しかし、自分には最初から確たる目的が存在し、そのためだけに行動している。
感情が生まれる過程を飛ばされているのだ。
愉悦とは何か?
歓喜とは何か?
悲哀とは何か?
情愛とは何か?
苦痛とは何か?
憤怒とは何か?
欲望とは何か?
自分は一体、何のために戦っているのか?
心の奥底にある本当の自分が、前へ、前へと引き寄せられている。
暗闇の彼方に見える光を目指して、走り続けている。その光こそが“人間”だ。
自分は、人間を持たぬゆえに、人間に渇望している。
だが、自分の本質が“無”である以上、いくら人間を探究し、理解しようとも、自らの内に“人間”が宿ることはない。
底の抜けた桶で延々と水を汲み続けるような、虚しい行為だ。
それでも、自分はその行為を止めようとはしない。
決して手に入らないからこそ、永遠に求め続けるのだ。そうなるように出来ている。
自分は終生、人間を追い求めるのだろう。この命尽きるまで……
「撤収! 撤収ぅぅぅぅぅぅぅっ!!」
郭嘉の声が聞こえた瞬間、曹操の体は限界を迎えた。
そんな状態にあっても、彼は冷静に状況を把握しようとする。
こちらが撤収する状況は二つ……地下施設を焼き払ったか、軍が全滅の危機に瀕してこれ以上の作戦活動が不可能となったかのどちらかだ。
いずれにせよ、今の曹操には確かめる術がない。
意識が霞み、馬上から崩れ落ちるのを感じる。
そこを許楮に抱き留められたところで、曹操の意識は闇に飲まれた――