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三国羅将伝  作者: 藍三郎
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第十八章 覇王の生誕(六)

「ええ〜い! 静かにするヨロシ!!」


 騒ぎ立てる重臣たちを鎮める沮授。

 許攸と張合の脱走の後、袁紹軍の軍議は紛糾していた。

 許攸が口を割るのは時間の問題……皆善後策を協議していたが、そう簡単に纏まるはずもない。

 次第に場は、裏切った許攸への怨嗟、罵利雑言で満ちていった。

 それを一喝したのが、筆頭軍師である沮授の大声だった。


 沮授は、いつになく緊迫した表情で、袁紹に進言する。


「エンショー様、烏巣ウソーに十五万の兵を割くコトをお許しクダサイ」


 十五万! 場は一気に静まり返る。総兵力四十五万から十五万を引けば、残りは三十万……曹操軍の全兵力と同じだ。

即ちこれは、本陣を離れて動員できる最大兵力ということになる。


「ソーソー軍は、今夜中にデモ夜襲を敢行するでしょウ。

 ウソーはワタシ達の生命線ネ。なんとしても守り抜く必要アルヨ」


 袁紹軍は四十五万の大勢力を率いて官渡に陣を敷いているが、それだけの兵を養うには当然莫大な兵糧が必要となる。

 そのために、袁紹軍は烏巣に食糧基地を築き、その場所が露見しないよう、万全の情報対策を施した。

 今回のように、重臣と将軍が同時に裏切るなどということが起こらぬ限り、絶対に発覚しなかったはずなのだ。

 だが、起きてしまった以上、許攸を怨んでも何の解決にもなりはしない。

 今すべきことは、一刻も早く対策を打つ必要がある。



「アイツらはとうに限界を迎えているネ。なりふり構ワズ奇襲をかけてくるはずヨ。

 ワタシ達はそれを返り討ちにした上デ、ウソーに残る全ての食糧を本陣に運び込むアルネ。

 後は短期決戦あるのみ。退路を絶チ、気の充実したワタシ達の軍は、必ずやカント城塞を陥落させるアルヨ」


 十五万ものの兵数は、戦わせるためだけのものではない。

 烏巣の食糧基地内部に存在する食糧を残らず運び出すためにも、これだけの数が必要なのだ。

 元々この計画は、食糧基地の位置が露見せずとも、明日には実行するつもりだった。

 曹操の食糧が尽き、こちらが最後の充填を済ませた時こそが、決戦の時……沮授はそう計算していた。


 ……全ては自分の落ち度だ。

 例え勝率が落ちようとも、もっと早くに食糧を運び出すべきだった。

 そうしておけば、不測の事態にも対応できたはずだ。

 臣下としての自責よりは、軍師としての屈辱の方が大きかった。

 この屈辱は、自分の手で雪がなければならない。

 寛大な袁紹様わがあるじは、笑ってお許しになるだろう。

 だが、沮授は自分で自分を許せなかったのだ。


「されど、ソーソー軍は決して侮れまセン。

 加えて、こちらはウソーの食糧を守りきらねばナラナイネ。

 敵は、食糧に油をかけ、火をつけるだけでよいのデス。

 状況はこちらに不利……例え十五万の兵を持ってしても、勝てるとは限らないアルヨ……」


 それを聞いて、場の空気が再び沈んだ。


「ゆえに、ワタシ自ら陣頭指揮に当たるヨ。

 曹操軍がドンナ策を仕掛けようとも、喝破してご覧にいれるネ!!」


 沮授は主君の前で、力強く宣言する。袁紹は、沈黙したままだ。


「……実は、キョユー殿の脱走を聞いた時から、

 既にウソーへ向けて出撃するよう、十五万の兵に号令を発しておいたアル。

 もう間もなく、全ての準備が整うはずアルネ」

「沮授殿!それは……」

「ええ……完全なワタシの独断先行デス」

 

 君命も仰がず、軍議にもかけず、独断で十万を超える軍を動すなど、許されない越権行為だ。

 軍紀に照らせば、極刑に値する。


「処罰を受ける覚悟はできているヨ。

 けれど、それはウソーの食糧を無事こちらに届けてからにしてくだサイ!

 ワタシを信用できぬなら、それで構わないネ。

 ですガ、オシショー様……我が師・田豊の組み上げた軍略は、これしきのことで崩れはしまセン!

 ワタシは、あの方の弟子として、それを証明しなければならないのデス!

 我が師のためにも、どうかワタシに一晩の猶予を!」


 袁紹に跪いて、懇願する沮授だったが……



「馬鹿を申すでない!沮授!!」


 袁紹の一喝が、沮授の言葉を遮った。

 怒りと拒絶の意思表示なのか……いや、そうではない。

 袁紹の双眼からは、大粒の涙が溢れている。


「沮授、お前のことはよく分かっている。

 お前は、いつでも我が軍の勝利のために働いてくれた。

 お前がいなければ、ここまで曹操を追い詰められはしなかった。

 私がどれだけお前に感謝しているか、分かるか?」


 その場に屈み込み、沮授の頬を撫でる袁紹。


「そんなお前を、処罰するなど、できようはずもない。沮授、表を上げよ。

 そして存分に戦ってくるがよい。お前の為した行為は、全てこの袁本初が認めよう」

「あ、ありがたき幸せに存じマス!!」


 再び平伏する沮授。


「だが、沮授! これだけは約束せよ!

 必ず生きて帰って来るのだ!

 お前は私の片腕、私の頭脳!これから先も、私を支えていて欲しいのだ……!」

「エ、エンショー様……!」


 沮授は、滂沱の涙を流して袁紹を見上げた。

 最初は、ただ自分の実力を試してみたい。ただそのためだけに戦に身を投じた。

 だが、主君である袁紹の傍らで戦う内に、いつしか本気でこの方に天下を掴ませたい、そう思うようになっていった。

 他の重臣たちの目からも、涙が流れていた。

 沮授の行いを責めようとする者など、誰もいない。

 この方は、本気で自分達の事を思いながら、天下を目指している。

 誰もを受け入れるその器こそ、天下の主にふさわしい。

 皆の意志は、袁紹への尊崇と忠誠で結ばれていた。


 袁紹は勢い良く立ち上がり、皆に向かって宣言する。

 その表情には覇気が漲っており、先ほどまでの優しい微笑みを浮かべていた彼とは別人のようだ。

 

「すでに決戦の鐘は鳴り響いた!

 もはや無為に時を重ねる必要はない!! 今こそが攻め入る最大の好機なり!!

 我らは残る三十万の兵力を持って、官渡城塞に総攻撃をかける!!」

 

 袁紹の宣言に、重臣達は皆士気を鼓舞される。


 烏巣の食糧基地を突き止めた曹操軍は何からの動きを見せるはず。

 だがそれは、袁紹軍にとっては付け入る隙となる。

 そう、これは窮地などではない。むしろ好機なのだ。

 そんな前向きな思考無くして、覇道を邁進することなどできない。


 例え城塞を落とせなくとも、袁紹軍の猛攻は、曹操陣営を激しく消耗させるはず。

 そこに、沮授が烏巣から持ち出した食糧が届けられれば、袁紹軍の勢いはまさに烈火と化すであろう。

 怒涛は溶岩流となり、曹操軍を溶かし、呑み尽くすに違いない。





「……沮授は、自ら十五万の軍を率いて烏巣に向かうでしょうねぇ!

 加えて、袁紹軍も今夜かつてない激しい攻撃を仕掛けてくるはずです!」


 郭嘉の予測を聞かされた荀或達は慄然となる。

 袁紹軍の総攻撃ならば、それがどれだけ苛烈なものであろうと耐え抜く覚悟は出来ていた。

 しかし、烏巣は敵地、しかも十五万もの軍勢が待ち構えている。

 あまつさえ、それを率いているのは袁紹軍の筆頭軍師、沮授だ。

 そのような死地に、むざむざ主君を行かせるわけには……

 だが、当の本人は、まるで恐れなど感じていないかのようだ。


「郭嘉よ」


 曹操は郭嘉の前に立ち、問い掛ける。


「あの沮授に勝てる自信は……あるか?」

「………………」


 あの自信過剰な郭嘉が即答できないことが、何より雄弁に答えている。


「そうよな! そなたとあやつの能力はほぼ互角……

 いや、ある点においては、沮授の方が上かもしれんのう」


 郭嘉の体のことを言っているのか……荀或はそう思った。

 郭嘉もそう解釈したのか、顔をやや俯かせる。


「だが、な。郭嘉、そなたは負けぬよ。

 何故ならば、そなたは沮授が持っていないものを一つ持っている。

 沮授が知らないことを一つ知っている。だから、何も心配することはない。

 いや……それは違うな……本当のところ、そなたは迷ってなどいないのであろう?」


 郭嘉は勢いよく顔を上げる。

 目の前には、曹操の全てを見透かすような妖しい眼光が輝いている。


「愉しみなのであろう? 心踊るであろう?

 絶対的不利な状況を、己が采配で覆すことこそ、そなたら軍師にとって史上の喜びであるからな!!

 何より……この曹孟徳を“駒”として使えるのだ!

 内心、すぐにでも実行したくてたまらんのであろう?

 その頭の中で、グツグツと煮えたぎっておる策をのぉ!!」


 郭嘉は何も言えなかった。全ては曹操の言った通りだったからだ。

 自分は何故ここにいるのか?

 忠誠? 恩義? 友愛? どれも違う。

 まして民草の未来のためなどであるはずがない。

 自分はただ、残された時間で、自分の才能を余すことなく振るいたかっただけだ。 

 誰のためでもない、自分自身のために。

 曹操はそんな自分が仕えるのに最も都合のよい主だった。

 ただそれだけの話なのだ。彼への忠誠など、所詮は幻想、まやかしだ……


 だが、この男、曹操に自分が惹かれているのは確かだ。

 破格の器に才能、さらに彼の奥にぽっかりと開いた“闇”は、郭嘉のような人間を引き付けてやまないのだ。


「郭嘉よ、余を駒として扱えい! 

 そして余に見せてみよ、そなたの一世一代の采配を!!」


 このお方を、駒に?

 想像しただけで、歓喜が脳髄を満たしていく。

 脳内の戦術が、四方八方無限の彼方まで広がっていく。


「ふはははははははははは……あははははははははははははははははは!!!!」


 先程の曹操と同じく、壊れた笑い声をあげる郭嘉。

 ああ、やはりこの方こそは私の最大の理解者だ。

 欲望の赴くまま、好き放題にやらせることが、最大の成果に繋がると分かっておられるのだ。


「え〜え!! お任せくださいませませ!!

 我が脳髄は溢れんばかりの天啓で破裂しそうであります!!

 殿と私が並び立つ以上、もはや袁紹軍など敵にあらあらず!

 燃え盛る我が知の業火で、燃やし尽くしてご覧にいれましょお――――!!」


 完全復活を強調するかのように、高らかに叫ぶ郭嘉。

 それでこそ、郭嘉……曹操は満足げに頷いた。






 真に美しいものと出会った時、人は言葉を失うのだということを、張合は実感していた。

 彼は今、許攸と隣り合わせの牢に入れられている。

 状況が状況だけに、そう簡単には信用できないということなのだろう。

 両手を拘束されないだけマシとは思わなければ。

 それに、張合は今の境遇に満足していた。

 何故なら、牢屋越しには彼の愛しの黒髪の君がいるのだから……


(ああ、あのひとを見つめているだけで、我が心は天上世界を駆け巡る……)


 隣の牢にいる許攸のことは、頭の中からすっかり消え去っていた。





 張合のいやにきらきらした瞳に見つめられ、徐晃は思わず肩を震わせた。

 許攸はともかく、張合は袁紹軍の中でも将軍級の実力者だ。

 投降したふりをして何か企んでいるなら、雑兵程度では抑えられない。

 ゆえに、自分が見張りに立つことになったのだが……

 この男に見つめられていると、言い知れぬ悪寒が込み上げて不快でたまらない。

 顔つきは美形だが、あの恍惚しているような表情が酷く不気味である。

 監視役という立場上、目を逸らすこともできない。まさに生き地獄だった。


(そういえばあの人、この前袁紹軍の本陣に潜り込もうとした時にいた人だっけ……

 あの時のことを根に持っているのかなぁ……うう、やだよぉ……)


 そんなことを考えていると、張合が片目を閉じてまた開くという、妙に気取った真似をしたので、徐晃はまたも総身を震わせるのだった。

 恨まれているならまだその方がマシかもしれない。

 あの張合が発しているのは、もっと気持ちの悪い何かだ。

 そろそろ蕁麻疹じんましんが出てきそうだったが、天の助けとばかりに曹操が夏侯兄弟を伴って現れた。


「そ、曹操様ぁ〜〜」


 つい安堵の声をあげる徐晃。だが、その表情は一瞬で凍り付く。

 曹操の顔つきが、今まで見たことがないほど恐ろしいものだったからだ。

 徐晃でこれなのだから、許攸などは「ひっ……」と呻いて牢の奥へと後じさった。

 張合は、全く意に介さぬかのように徐晃を見つめ続けている。


 曹操は、一言も発さないで許攸の牢へと向かう。代わって夏侯淵が徐晃に用件を話す。


「徐晃、これより直ちに烏巣を攻めることになった。お前も戦線に加われとのお達しだ」

「わ、わかりました」


 やはり烏巣に奇襲をかけるのか……徐晃は気を引き締める。だかその時……


「何だって!?」


 素っ頓狂な声をあげたのは、張合だった。牢の檻を掴み、身をぎりぎりまで乗り出している。


「そこな【風斬かぜきりの君】は、今から烏巣に行かれるのか?」

「か、かぜ、何だって?」


 首を傾げる夏侯惇。


「ひょってして、私のことでしょうか……」


 風を斬るように走るから風斬の君なのだろうか。

 そんな恥ずかしい呼び方は女装ともども御免被りたかった。


「ああ、その通りだが、それがどうかしたか?」


 夏侯淵が答え、問い掛ける。


「ならば、私も共に行かせてくれ、【百中の射手】殿。

 姫を守るは騎士の務め。ここで安穏としているわけにはいかない」

「……何言ってんだこいつ」

「姫って、誰のことですか〜?」


 理解不能の夏侯惇と、さらに怯える徐晃。夏侯淵だけが、何とか応対できるようだ。


「……当方では、まだ貴殿らを完全に信用しているわけではない。

 今夜の奇襲は絶対に失敗できない。不安要素を加えるわけには……」

「よいではないか、淵」


 渋る夏侯淵を、曹操の鶴の一声が遮った。


「こやつに関しては、深く疑う必要もあるまい。

 何故なら、こやつが投降してきた理由は実に明白なのだからな」


 そう言って、徐晃に意味ありげな視線を送る。


(なるほど、余の“勝利の女神”はそなたであったか、徐晃……)


 徐晃はまたも、悪寒を感じている。


「おいおい、また適当な思い付きで決めてんじゃ……」

「もしこやつに二心あるならば、こうして官渡内部に留めておく方が危険ぞ。

 烏巣は死地となる。こやつの真意を確かめるにはちょうどよい。

 それは、早いにこしたことはないのだ」

「感謝いたします。【紅の覇王】殿」


 またしても謎の呼称を用いて礼を述べる張合。


「徐晃!今宵は、例の格好をして出撃せよ!」

「えええ!? 例の……って、あれですか!?」


 そう、以前袁紹陣営に潜入しようとした時に着ていたあれである。


「そうだ! あれを着ていれば、こやつは絶対に裏切らぬ。

 よいか、これは君命であるぞ! あははははははは!」


 君命ならば従わざるを得ない。徐晃は諦めて俯いた。


「何も不安に思われることはない、【風斬の君】よ。

 貴女の御身は、私が命に代えても護りぬくことを約束しましょう。

 この張儁乂、片時も貴女のお傍を離れませぬ」

「それが一番不安なんですけどね……後、“あなた”の言い方何だかおかしくないですか?」



 張合が徐晃の正体を知ったら、どんな反応を示すだろうか。

 存外ありのままで受け入れるのかもしれない。

 夏侯惇と徐晃は鈍感だし、淵は分かってもあえて指摘しないだろう。

 だから、正体がばれるのはもっと先のことになりそうだ。

 自分はどうか? 勿論喋るつもりはない。

 それどころか、積極的に秘密にしていきたいと思っている。

 理由は勿論、その方が面白そうだからだ!





「して、許攸よ」

「ひっ……」


 檻越しに、許攸に話し掛ける曹操。

 許攸の顔はやつれ、すっかり憔悴しきっていた。

 拷問を受ける前に、全て喋ったので、これは彼の精神的な問題なのだろう。


「張合については、何の疑問もない。

 されど、そなたは何故裏切ったのか? それだけは皆目見当がつかぬ」


 琥珀色の瞳に射抜かれ、許攸の心はさらに畏縮してしまう。

 どう答えればいいのだろうか……張合に無理矢理連れだされた?

 いや、それは相手の心証を悪くするだけだ。

 事ここに至っては、袁紹軍に戻ることは不可能。

 このまま曹操軍に留まる他あるまい。

 そのためには、あくまで自分の意思で投降したように見せ掛けねば……

 だが、目の前にいる男に、嘘偽りが通じるだろうか。

 あの琥珀色の瞳に見つめられていると、心の奥底まで見透かされているように思えてくる。

 なるほど、世評通り、破格の人物であることは確かなようだ。

 だが、あの袁紹に相対した時のような安らぎや敬意は感じない。

 ただ、無機質な恐怖があるのみだ。同じ人間と向かいあっている気がしない。


 それに正直なところ……何故自分がここにいるのか、よく分かっていない。

 張合に拉致同然で連れ去られたとはいえ、そのきっかけを作ったのは自分だ。

 だが、袁紹に不満があったかというとそれは真逆で、口には出せずとも、袁紹こそが新時代の主にふさわしいと、今でも思っている。

 脳裏に浮かぶは、あの黒髪の美女……彼女の出現から、許攸の運命は狂い出した。

 そういう意味では、彼女は許攸の“運命のひと”だったのだ。



「そうか。答えられぬか。

 つまり、そなた自身にもよく分からぬ内にこうなった……というのが適切かの?」


 許攸は目を見開いた。全くその通りだったからである。

 間違いない、曹操は人の心が読めるのだ。あれこれ気を揉む必要など無かった。

 しかしこれもまた、袁紹の時とは違い、ただ不気味さしか感じなかった。



「まぁ、そんなことはもはやどうでもよいこと。

 そなたのもたらした情報で、余はようやく勝機を見出だすことができた。

 そなたには、いずれしかるべき恩賞を与えねばならんな」


 以前の許攸ならば、その申し出に小躍りしたかもしれないが……今は、疼くような罪悪感しか感じない。

 そんな許攸を見て……曹操は、底冷えするような薄ら笑いを浮かべて言い放つ。



「余は……袁紹あやつを、殺す」



 その言葉を聞き、許攸は弾かれたように身を震わせる。


「あやつの理想を壊す。あやつの信念を壊す。

 あやつが今まで築き上げてきた全てを、

 壊し、潰し、細切れになるまで刻んで中原にばらまき、

 地の肥やしになるまで踏み躙ってくれようぞ。

 そなたは全てが終わるまで、震えながら待つがよい!!」


 この瞬間、許攸の曹操への恐怖は最高潮に達した。

 この男は悪魔だ。血と暴力で持って、中華を破壊しようとする魔王……

 きっと彼は袁紹の弱みを徹底的に突き、傷口を広げていくのだろう。


 袁紹は勝てないだろう。

 確かに彼は、自分を含めたあらゆる人間を魅了し、受け入れる器を持っている。

 だが、相手は人間ではない、魔王なのだ。

 彼は心優しき袁紹に対し、一片の容赦もしないだろう。

 曹操という禽獣きんじゅうに、喉笛を食いちぎられる光景が脳裏に浮かんだ。


(私の……せいだ……)


 許攸は激しい罪悪感に打ちのめされた。

 自分が、あっさり口を割らなければ……いや、それが出来ないことは分かっている。

 自分は、拷問の恐怖に耐え切れるほど強い人間ではない。

 この状況はおろか、己自身さえも変えられない自分の弱さが、悔しくて苦しくて、許せなかった。


「う、わあああああああああぁぁぁぁぁぁぁ!!!」


 突っ伏して慟哭する許攸。

 自分は所詮、天下の争いに関わるような器ではなかったのだ。

 そんな自分の弱さが、取り返しのつかない事態を招いてしまった!


 許攸は、この戦に関わったことを、分不相応な野心を抱いたことを猛烈に後悔していた。



 そんな許攸を、曹操は無感動に眺めていたが……一人の伝令が、慌ただしく獄舎に駆け込んできた。


「曹操様!こちらにおられましたか!」

「何事ぞ」

「は……許都の李典様からです。例の“子供”が完成したとの報告が……」


 それを聞いて、曹操は口を三日月型に歪め、笑う。


「そうか。直ちに官渡に運び込むように伝えておけ。詳しい話は明日の朝に聞くともな」

「はっ!!」


 画竜点睛、最後の部品が、今埋まった。

 袁紹の王道を暗黒の闇で塗り潰す未来図は、ここに完成したのだ。



 そう、余こそは覇王、曹孟徳!

 

 我が覇業の妨げとなるものは、ことごとく蹂躙殲滅してくれよう!


 袁紹よ、そなたはもはや逃げられはせぬ!


 

 余の、悪意に満ちた刃からはな!!




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