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三国羅将伝  作者: 藍三郎
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第十八章 覇王の生誕(四)

「命令を、我が主」

「……俺をあいつらから無事に逃がしてくれ。できるよな?“子龍”……」

「問題ありません。その任、しかと承りました。“玄徳様”」


 彼が“問題ない”と言ったのは、気休めでも社交辞令でもない。

 己の能力と敵の戦力を冷静に比較した上で、絶対の確信を得たからこその発言だ。

 そうでなければ、彼が物事を断言することなどない。

 それが真実であることを、劉備はこれから存分に思い知る。



 一番手が呆気なく返り討ちにされたのを見ても、彼らの勢いは収まらなかった。

 今度は十数人で一斉に襲い掛かる。だが……


 馬を駆る劉備に背を向け、敵の大群と相対して乗る趙雲。

 眼鏡の奥の双眸は押し寄せる敵兵を正確に捉えている。

 その手に携えた槍が、音も無く動く。

 高速で突き出された槍が、敵兵の喉を、心臓を、あやまたず穿ち通す。

 十数に及ぶ敵兵は、断末魔の叫びさえ上げられず、次々と落馬する。

 さらに第二波が襲い掛かるが、結果は同じだった。


 触れない、近寄れない。


 趙雲の槍の届く範囲に踏み込んだ者は、例外なく急所を貫かれ、ただの屍と化す。

 近付くことを恐れて、遠くから矢を射かけても、残らず叩き落とされ、二人はおろか的廬にすら傷一つ付けられない。

 左右両面の死角をついても、結果は同じ。趙雲は前を向いたまま腕を動かし、死角からの敵を屠り去る。


 彼の周囲は、何であろうと立ち入ることを許さない球形の絶対不可侵領域と化していた。



 神経を研ぎ澄まし、全身の筋肉を稼動させ、一切の無駄を排除して、最短最速の動作で主に仇なす異物を打ち払う。

 神業とも言える動作を可能にしているのは、極限の集中力。

 さらにその原動力となっているのが、主の命令を果たそうとする強き意志。

 君命を受けた瞬間、趙雲の血管を熱が駆け巡り、全身の細胞を活性化させる。

 それでいて、脳内は氷の如く凍てつき、目的を果たすための冷徹な計算で埋め尽くされる。


 目が、耳が、腕が、脚が、全身のあらゆる器官が、命令を遂行するために十全の機能を発揮する。

 命令を実行する時の趙雲は、心技体を全て兼ね備えた理想の状態にあった。

 趙雲には、この時の精神状態を何と呼べばいいのかわからない。

 高ぶるような歓喜とも、悦楽とも程遠い。

 ただ、こうして主君のために戦う時、趙雲は、どんな時よりも己の存在を実感できるのだ。




(凄ぇ! 凄すぎるっ!!)


 あれだけ大勢の敵に追われているのに、まるで殺される気がしない。

 見えない壁に護られているようだ。

 優れた武人であることは知っていたが、まさかこれほどとは!

 以前易京で会った時とは、比べ物にならないほど強くなっている。

 単純な比較は難しいが、関羽に匹敵するのではないか。

 以前苦戦した文醜、顔良も、もはや敵ではあるまい。

 思えば、あれから八年近い月日が流れているのだ……

 勤勉実直なこの男のこと、八年間、たゆまぬ研鑽を続けてきたのだろう。

 その結実が、今の趙雲なのだ。


 俺は宝を得た! 劉備はその確信を噛み締める。


(これだっ! 圧倒的な武力! 絶対的な安心感! これこそが俺の求めていたものなんだっ!!)


 今まで劉備に足りなかったもの、それが、突出した将の存在だ。

 関羽、張飛の二枚看板は確かに強力だが、

 戦場ではどちらか一方が劉備の護衛に付かねばならず、その力を十全に引き出せていたとは言い難い。

 だが、そこに第三の将、趙雲が加わることで、単純に戦力が増すばかりか、戦略の幅も一気に広がる。

 もしこの場を切り抜けて、関羽が戻ってくれば……


 関羽、張飛、趙雲の三本槍を中核とした、全く新しい戦が始められる!

 彼ら三人は、劉備を天の頂まで勇躍させる翼となるはずだ。

 眼前に広がる未来に、興奮を抑えられない。





 希望に燃える劉備とは対照的に、追っ手を支配しているのは絶望だった。


 踏み込めば、死ぬ……


 その絶対の真理を、曹操軍の兵士達も理解しつつあった。

 莫大な報酬への欲求は、いつしか死の恐怖に塗り替えられ、彼らの動きを縛っていた。

 目の前に敵がいるのに、恐れが速度を鈍らせる。

 前に出ようとする者はいなくなり、曹操軍は劉備と一定の距離……即ち、趙雲の槍が届かぬ距離を保ったまま、馬を走らせていた。

 彼らに出来ることは、時折当たるはずの無い矢を射ることぐらいだった。




「へへっ、敵さん、あんたにびびっているみたいだぜ」


 満足げな劉備だが、趙雲の顔に愉悦の色はない。


「玄徳様……一つ、確認しておきたいことがございます」


 これまで、ずっと無言を通してきた趙雲が、初めて口を開いた。


「な、何だよ」

「現在、状況は非常に危険であると言わざるを得ません」


 趙雲の発言は、劉備にとって予想外のものだった。


「ど、どうしてだよ! 奴ら、あんたに完全にびびってやがるじゃねーか」


 話しながらも、趙雲は飛んできた矢を落としている。彼にとって、戦いながら会話するのはさしたる労苦ではないのだろう。


「拙速な攻めで兵を無駄に消耗する方が、こちらとしては都合がよかった。

 敵は慎重策に切り換えたようです。

 このままつかず離れずの距離を保ち、馬の脚が潰れるのを待つ算段でしょう。

 そうなれば、状況は極めて悪くなります」

「なるほどな……」


 長年乗ってきた劉備には分かる。的廬の疲労は、そろそろ限界に近い。

 馬を失えば、あれだけの数から逃げ切るのは困難となるだろう。


「趙雲さん、いや、子龍! 何かいい手はねぇか?」

「あります。敵の馬を奪い、それに乗り換えるのです」

「その手があったか!いや、待てよ……」

「はい、ですから確認を取りたかったのです。この馬を乗り捨ててもよいものかどうか……」

「……二秒待て」


 二秒の間に劉備は考える。

 愛着云々は捨て置いても、的廬の空間転移は戦闘力の無い自分の切り札だ。

 ここで失うのはあまりにも惜しい。このような絶体絶命の状況は、これで終わりではあるまい……

 その時、的廬が生死を分かつことは十分に考えられる。


「できれば、的廬こいつを失いたくはねぇんだが……他に何か手はあるか?」


 駄目元で聞いてみた。

 もし“無い”と言われれば、その時は僅かな未練も残さず的廬を切り捨てるつもりでいた。



「いささか危険ですが、それでよろしければ……」

「何だ! あるのかよ! じゃあそっちにしてくれ!

 馬を乗り換えるってのも、危険なのは同じなんだからよ」

「かしこまりました。では、私の申す通りの進路をお進み下さい。まずは、左に……」

「左だな!分かったぜ!!」


 進路を左に変える劉備。劉備から向かって左方向には、森林地帯が見えた。

 あの森に入って、木陰か木の上にでも隠れるのだろうか。

 それでも、あれだけの兵が探せば、いずれ見つかってしまいそうなものだが。


 その後も趙雲の指示に従い、馬を走らせる劉備。

 森の中は思ったほど深くなく、木がまばらに生えているだけだった。

 進行の妨げにはならないが、それは追っ手にとっても同じこと。

 隠れ潜む場所もありそうにない。一体趙雲にはいかな策があるのだろう。


「なぁ、子……」

「玄徳様、このまま真っ直ぐ進めば森を抜けます。どうか速度を落としませぬよう……

 それと、馬にしっかりと掴まり、絶対にお離しになりませんようお願いします」

「お、おう、分かった」


 話を聞くより、趙雲の指示に従うことを優先する。

 後に思い返せば、ここで詳しい内容を聞かなくてよかった。

 もし聞いていれば、きっと尻込みしていただろうから……



「下ります」


 森の先には道が見えない。趙雲の言葉からすると、急な坂道にでもなっているのだろうか。


「重ねて申し上げますが、絶対に馬から手を離してはなりません。しがみつくぐらいの気持ちでお願いします」

「随分と念を押すな……こうか?」


 馬の首に二の腕を回し、半ばへばり付くような体勢になる。


「はい。絶対に、離してはなりませんよ」


 三度念を押す趙雲。それほどまでに、急な坂道なのだろうか。





 結論を言えば、坂道などはなかった。




「へ?」



 そこには、道さえもなかった。


 行き止まり……という意味ではない。


 大地が、まるごと消失していたのだ。




 森を抜けた先は、垂直に切り立った断崖絶壁だった。




「う、うあああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ――――――!!!!」


 


 万有引力の法則に従い、二人と一頭は真っ逆さまに落ちていく。

 それでも、劉備は趙雲に言われた通り、的廬にしっかりとしがみついていた。

 最もこれは、恐怖によって生じた半ば本能ゆえの行動だった。

 崖の高さは城壁ぐらいはあった。

 いかに武将の肉体といえど、地面に叩き付けられれば果実のように砕け散ってしまうだろう。


 だが、そんな状況下にあっても、趙雲は毛ほども動揺しなかった。

 宙に踊り出て、落ちていく感覚を肌で味わいながらも、心の水面には僅かな波も立つことはなかった。

 いかな状況であろうと、彼は彼に課せられた使命を果たすこと以外頭にない。

 最も重要なのは、劉備と的廬を確実に生還させること。


 強靭な両脚で的廬の胴体を挟み込み、がっちりと固定する。

 そして、目の前の崖目掛けて槍を繰り出し、岩盤を穿ち通す。

 崖に突き刺さった槍は、壁面に亀裂を刻みながら落ちていく。

 その間も、趙雲は槍を手放さない。槍から伝わる激しい振動に耐え、的廬に騎乗したまま、垂直の崖を降下する。

 固い土をえぐり、摩擦で火花を散らしながら……槍はその反作用によって、落下の勢いを殺していく。

 その間ずっと、趙雲は冷静さを保ち続けていた。



 劉備の目からは、空が急上昇しているように見える。彼は虚空に向かって、ひたすら叫び続けた。



「うおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ――――――!!」






 やがて……崖の麓まで達する頃には……

 地面から少し離れた位置で、的廬は停止していた。

 趙雲の槍が、落下速度を完全に相殺仕切ったのだ。静かに槍を引き抜く趙雲。

 見上げれば、崖の頂上は遥か遠くに霞んで見える。

 それほどの断崖から降りてきたとは思えぬほど、静かに、軽やかに、的廬は着地する。


「………………」


 劉備の顔はげっそりとやつれ果て、死人のように青ざめていた。

 その表情が、彼の味わった恐怖の度合いを雄弁に物語っていた。

 間違いなく、十年は寿命が縮んだ。髪も何本か抜けたかもしれない。


「お、おま、おま、おま……」


 馬を降り、正面に回った趙雲に向けて、ぷるぷる震えながら、口をぱくぱくさせる劉備。

 言いたいことは山ほどあるはずのに、体に残る恐怖のせいで、まともに喋ることができない。

 だが、劉備が何か言う前に、趙雲は姿勢を正し、頭を下げた。


「申し訳ありませんでした、玄徳様。

 御身を危険に晒したことについては、全て私の落ち度です。

 一切の弁明はいたしません。いかな処罰とて承りましょう」


 それを見て、劉備は心の中が急速に静まっていくのを感じる。大きく息を吸い、一気に吐き出す。

 そして、ようやく的廬から腕を離した。


「はぁ……もういいぜ。一応、助かったんだしよ」


 あの断崖絶壁から飛び降りたのだ。敵も、もはや追ってはこれまい。

 回り道をするにしても、その間に逃げおおせるだけの距離は開けた。

 もしかすると、墜落して死んだと思われたかもしれない。落下の瞬間を思い出し、劉備は身震いする。

 とにかく、これで逃げ切ることができる。


 趙雲は戦場に向かう際に、通過した地形の情報は全て把握していた。

 だから、逃げる方向にあの崖があることも覚えていたのだ。


 自分も的廬も生かして逃がす……趙雲は、その難題に見事応えてみせた。

 責めることなどできようはずがない。確かに、一歩間違えれば死んでいた。

 だが、それも過去の話……今生きてさえいれば、それ以上望むことなどない。


 それにしても……涼しい顔をして、ここまで無茶苦茶なことをする男とは思わなかった。

 有能なことは確かだが、これからは、常に何をするつもりなのか問い質さねばなるまい。


「ありがとうよ。お前のお陰で逃げ切れそうだぜ」

「勿体なきお言葉……恐縮に存じます」


 またも深く一礼する趙雲。これでこの話は終わった。


「では玄徳様、この道を崖に沿って真っ直ぐお進みください。

 この先にはいくつか分かれ道があり、必ずや追っ手をまけるでしょう」

「おう。まだ逃げ切ったわけじゃねぇもんな。的廬、もう少しだけ、頑張ってくれよな」


 そう言って、劉備は愛馬の頭を撫でてやる。


「玄徳様、この後どちらに行かれるおつもりですか?」

「そうだな……荊州に行こうと思っている」

「荊州、ですか……」


 ここからさらに南に進めば、荊州に入る。あそこは、まだ曹操の支配が及んでいない。

 体勢を立て直すにはうってつけだ。


「本当は、官渡で曹操と袁紹の決着を見届けたいところだが……俺に出来ることはもう何もねぇだろう。

 それに、益徳と約束してる。もし離れ離れになったら、荊州で合流しようってな」


 張飛とは離れ離れになってしまったが、奴ならば必ず生きている。

 それに、関羽も……生きてさえいれば、いつかは巡り逢えるはずだ。


「玄徳様……」

「ん?何だ?」

「ここを左に進めば、先程と同程度の崖があります。よろしければ……」


 最後まで言い終わる前に、劉備ははっきりと告げた。



「 絶 対 に い や だ 」




 



 追撃部隊の報告を聞いた荀攸の表情は暗い。

 あれだけの数を追撃に割いても、むざむざ劉備を逃がしてしまうとは……

 予想はしていたことだ。あの突如乱入して劉備を助けたという謎の将……

 彼の実力が、張遼や四天王と同等以上ならば、どれだけ兵を費やしても、逃げおおせてしまうだろう。


 いかに規格外の戦闘能力を持つ将であれ、こちらに向かってくるならば、数に物を言わせて押し潰すこともできる。

 だが、逃げる将を捕らえるのは、その数倍は難しい。

 向かってくる敵ならば、自然と一定の位置に留まるため、集中攻撃を浴びせやすい。

 敵を包囲することも容易だ。どれだけ精強な将であろうと、時間と数を費やせば殺しきることができる。

 相手が逃げ出さない限りは。


 しかし、逃げる敵を追う時は話が違う。

 追撃する側の速度はそれぞれ異なるため、逃げる側は追い付いた者から各個撃破していける。

 足並みを揃えて追っても、そのせいで全体の速度が落ち、全力で走る敵に逃げられてしまう。

 包囲網を敷いても、敵がどこに逃げるかわからないため、自然と広範囲にならざるを得ない。

 包囲の壁は薄くなり、簡単に突破されてしまう。

 このように、逃げる強い将を捕らえるのはほぼ不可能に近いのだ。



 普通なら、予期せぬ強敵の出現を呪いたくもなるだろう。

 だが、荀攸はそんな考え方はしない男だった。全ては、早くに劉備を殺しきれなかった自分の落ち度。

 状況とは変化するもの、予期せぬ事態は起こるもの。

 不測の事態を言い訳にするようでは軍師失格だ。

 想定外の出来事は起こることを前提として、それを起こさせないような策を講じる。

 それこそが自分達軍師の役割だ。


 今日劉備の下に現れた謎の将……彼の情報を脳にしかと刻み付ける。

 関羽、張飛に続く第三の強敵の出現。彼は、今後劉備と戦う上で、無視できぬ存在となるはずだ。

 再び戦場で再び相見えることがあろうなら、次こそは負けない。

 完璧、かつ如何様にも変化しうる柔軟な策で、必ず劉備の野望を粉砕してみせる。

 今回の敗北を糧にして、荀攸は強く誓うのだった。


 

 やがて、曹仁が姿を現す。彼の仏頂面からすると、張飛には逃げられたのだろう。


「あのガキャあ、ちょこまかしやがって、腹立つったらありゃしねぇ!」


 曹仁はその太い脚で、地面を強く踏み鳴らす。

 しかし、すぐに神妙な顔つきになって、こんなことを言い出す。


「はぁ……俺も、まだまだだな」

「いえ、曹仁将軍の働きはお見事でした。何一つ私の計算から外れることはありませんでしたよ」


 厭味で言っているのではない。実際、曹仁には大いに助けられた。

 彼が張飛を抑えてくれなければ、荀攸の策は瓦解する。

 張飛とて、曹仁を正面からは倒せないと思ったからこそ逃亡したのだ。


「そう言ってくれるのは嬉しいけどよ。

 俺ぁ、そこで満足してちゃいけねぇ気がすんだ。前に淵の兄貴が言っていた」

「夏侯淵将軍が?」

「将たるもの、軍師の計算を超える策を発揮しなければならない。

 敵の軍師の思惑を崩すだけじゃねぇ。

 計算では計れない部分を補って初めて、戦略ってのは完璧になるんだとよ」

「戦は生き物、計算には限界がある。それを補うのが将の力。成る程……よく分かります」


 そこで、荀攸は考える……

 計算を超える将と、その将の力をも織り込んで

 策を練る軍師が組み合わさったその時こそ、“完璧を超える”ことができるのではないか。

 それこそが、曹操軍の目指す軍の理想形ではないか……


「お互い……まだまだ精進が必要なようですね」

「がははははは! そうだな!! 頑張ろうぜ、荀攸さんよ!!」


 曹仁にとっては軽く撫でるような気持ちで、荀攸の肩を叩く。

 それでも、荀攸には少々痛かったが、口には出さないことにした。



 



 こうして、曹操軍は許都周辺に展開していた反曹操勢力を一掃。

 許都の防備についていた青州兵は、官渡目指して進軍を開始する。


 その様子を、皇帝、劉協は城の窓から眺めていた。


(曹操と袁紹、どちらが勝つのか朕には分からぬ。

 ただ、ここで結果を待つことしかできぬのだ……)


 自分は、どちらに勝って欲しいと思っているのだろうか。


 袁紹が勝ち、許都に乗り込んでくれば、自分を禅譲を求めるだろう。

 自分は、それに抗う術を持たない。漢王朝は完全に滅び、袁紹の新王朝が誕生する。

 一方、曹操は漢王朝を護る側についている。彼の勝利は、漢王朝の存続へ繋がる。

 これだけなら、曹操の勝利を望むのが当然に思えるが……


 もし曹操がこの大戦に勝利すれば、彼の権力は絶対的なものとなろう。

 天下を治めるのに、“漢”の名前すら不必要となる。

 その時、いつまで彼が漢王朝という形骸を残しておくのか怪しいものだった。


 いや……本音を言えば、漢王朝の存続など大した問題ではない。

 自分は、曹操が怖いのだ。

 彼が天下を意のままに動かせるほどの権力を手中に収めた時、一体何をするのか……

 自分程度には想像もつかない。それが、酷く恐ろしくてならない。



 重臣の董承とうしょうが、曹操暗殺を申し出た時……

 自分は断ったのだが、彼らは勅を捏造してまで曹操を殺そうとした。


 後に、董承を初めとするこの陰謀に加担した者たちが揃って処刑された時、劉協は背筋が凍りついた。


 彼らを哀れむ気持ちは勿論ある……だが、重要な問題な自分自身にある。

 自分は曹操暗殺を止めるよう命じたが、そのことを曹操に伝えようとはしなかった。

 それは内心……“曹操の死”に、甘い誘惑を感じていたのではないか。

 自分のそんな内面を、曹操は見抜いているのではないか……

 そう考えるだけで、曹操が恐ろしく思えて仕方が無かった。



 だが……それと同時に、曹操の創る新時代に、胸が高鳴るような期待を抱いているのもまた事実だった。

 人は、未知の存在に恐れを抱くもの。曹操の器は、劉協には計り知れないほど大きい。

 曹操を過剰に恐れるのも、内心彼に惹かれている証なのではないか…… 



 結局……劉協は、自分の願望にすら決着をつけることが出来なかった。

 それに、所詮願望は願望……どれだけ強く望んだところで、力がなければ叶えられない。


 袁紹は安定、曹操は革新を求めている。

 どちらの未来がふさわしいかは、人民が、そして時代が決めることなのだろう。

 少なくとも、答えを出すことすら出来ない自分にそれを決める権利も力も無い。

 自分に出来る事は、ただ天子としての役割を全うすることのみだ。


 どちらが勝っても、少しでも民の為になる中華になるように……



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