第十八章 覇王の生誕(二)
汝南で兵を起こした地方豪族の劉辟は、許都へと軍を進めていた。
彼は元々黄巾党であり、黄巾の乱終結後、多くの諸侯を渡り歩いた。
長きに渡って戦地を転々として、現在は袁紹に組している。
彼らの軍は、官渡の曹操軍とまともに戦える規模ではない。
ゆえに彼らの狙いは、曹操不在の許都に絞られる。
曹操軍が官渡に駐屯している間に、許都を襲い、天子を確保する算段だ。
天子を奪還すれば、形勢は一気に袁紹に傾く。
この戦略は、劉辟以外にも多くの勢力が考えていたことだ。
だから、曹操も許都に十数万の青州兵を配置し、万全の守りを敷いている。
曹操軍が軽々と全勢力を動員できないのも、許都の守りを固める必要があったからだ。
ゆえに劉辟を始めとする諸勢力は、安々と許都に攻め込めずにいた。
だが……開戦から一月が経ち、情勢に変化が訪れた。
「そいつぁマジかい、じいさんよぉ」
「ああ、確かな情勢ぢゃ。曹操め、近い内に許都の青州兵を官渡に呼び戻す腹らしいわ」
劉辟は、人懐っこそうな笑顔がよく似合う銀髪の老人だった。
皺だらけの茶色い肌をしており、側頭部を残して額はすっかりはげ上がっている。
つい最近不老年齢を迎えたばかりで、大体見た目通りの年齢らしい。
劉備は白馬の戦いの後、張飛を伴いこの劉辟の下に身を寄せていた。
「するってーと、曹操の奴、いよいよ官渡の戦にケリをつけるつもりか」
「そうぢゃ。そして儂らにとっちゃ、千載一遇の好機到来というわけぢゃ」
青州兵が許都を離れ、手薄になった時こそが攻め込む好機なのだ。
(……もし揚州の孫策が生きていたら、待つ必要もなかったんだがな……)
思わずそう考えずにはいられない。
もしも孫策率いる孫軍が参戦していれば、例え十数万の兵が相手でも、許都を攻め落とすことも出来ただろう。
実際には、孫策は何者かに暗殺され、孫呉は内部の混乱で北上どころではない。
曹操の悪運が強いのか……孫策暗殺もまた、曹操の差し金なのか……
思い返してみればこの大戦、曹操は毎回紙一重のところで窮地を乗り切っている。
もしも孫策が生きていたら……もしも、袁紹が最初の段階で南下を決断していたならば……
負けていた、とまでは言わないが、今よりさらに厳しい戦いを強いられていたのは確かだ。
あの曹操をしても、今回の戦は風が吹けば落ちる綱渡りの連続なのだ。
どこまでが運で、どこまでが策なのかは分からないが……
いずれにせよ、現時点では戦局は劉備の思惑通りに推移している。
どちらが優勢になることもなく進み、最終的には全面衝突に至る。
そうなれば、両軍共に戦力を消耗し、どちらが勝とうとも劉備には付け入る隙が生まれる……
最も、劉備自身もそうそう上手くいくとは思っていない。
今までの中華は確かなものなど何もない弱肉強食の乱世。
さらに言えば、力さえあれば誰にでも天下を掴む機会があった。
漢王朝から離れて宙ぶらりんになった天下に、数多の英傑が群がり、しのぎを削る……それが今まで劉備が生きてきた時代だ。
だが、これからは違う。
曹操と袁紹、この勝利した者は、名実ともに中原の覇者として認知される。
それは、中華全土の民が、二人のどちらかを新たなる統治者として認めるということだ。
民を省みない権力者が己の欲望を満たすためだけに作った王朝は、存外に脆く、崩しやすい。
だが、一度民の指示と信頼を得られれば、非常に強固かつ盤石となる。
それを外から掠め取るのは、極めて困難と言わざるを得ない。
漢王朝とて、曲がりなりにも四百年もの長きに渡って続いたのだ。
どちらが勝っても、天下への道は遥か遠いものとなろう。
その場合、どちらが劉備にとって戦いやすい相手か……それは……曹操の方だった。
袁紹はあまりにも真っ直ぐすぎる。彼の歩む王道は、中華の歴史と伝統をなぞるものになるだろう。
畢竟、彼はどこまでも普通の人間だからだ。そういった相手は、劉備にとっては酷くやりづらい。
袁紹の築く新王朝は、今までの漢王朝の王座をすげ替えたものに過ぎない。
劇的な変革があるわけではないが、袁紹は曹操と違って民に恐れられていない。
ゆえに、熱狂的に受け入れられることはないだろうが、それほど大きな反発も起こるまい。
堅実な王道に従って築かれた王朝には、付け入る隙が全くない。
袁紹から天下を奪うには、彼が王朝を築く前に、彼以上の力で正面から打ち破るしかない。
そして現在それが出来るのは、この中原で曹操ただ一人だ。
一方、曹操はどうか。
彼もある意味袁紹と同じく、純粋で真っ直ぐな男なのだが、傍から見ればその王道は酷く歪に見える。
袁紹は帝位に就き、自らの名を後世に残すことだけが目的だ。
だが、曹操にとっては天下統一は通過点に過ぎない。
彼の目指すものは、さらにその先……中華という社会そのものの変革にある。
彼の政は劇薬だ。よくも悪くも天下を掻き乱す。
間違いなく、あらゆる層から激しい反発が起こるだろう。
そこに、劉備の付け入る隙がある。
皮肉な話だ。曹操と袁紹、目指す未来の形は曹操の方が近いのに、彼を打ち破るために彼への反発を利用しなければならないとは……
しかし、確かに袁紹よりは曹操の方が戦いやすいのだが、それは勝率が零か百分の一割かという程度の違いでしかない。
現実的には、どちらを相手にしても勝ち目などないに等しいのだ。
双方共倒れで漁夫の利を掠め取るのが理想的なのだが、そう上手くはいくまい。
勝った側は負けた側を吸収してさらに肥大化する。相打ち、引き分けはありえない。
だから、劉備は袁紹につく道を選んだ。
正面から破るのは不可能だが、内部から変えることは十分可能だ。
その点、袁紹は曹操より遥かにやりやすい。ただその場合、劉備が天下人となる道は断たれるが……
「のう、玄ちゃんや」
そんなことを考えていると、劉辟がまた話しかけてきた。
「何だい、爺さん」
「この戦が一段落ついたら、お前さん、儂の息子にならんかね?」
あまりに突拍子もない提案に、劉備は思わず吹き出してしまう。
「息子だぁ? おいおい、勘弁してくれよ。
俺ぁもういい年だぜ?
そりゃなりはまだ若いが、実年齢は……おっかなくて数える気にもなりゃしねぇ」
「それを言うなら儂だってもう老いぼれぢゃ。年齢的にはちょうどいいと思うがのー」
確かに。故郷に残してきた母親も、生きていたら劉辟ぐらいの歳になるのではなかろうか。
「お前の嫁さんも、義弟も、みんなまとめて家族になりゃええ。
ちょうどいいことに、同じ“劉”性だしのー」
冗談混じりに話しているようだった劉辟だが、やがてその表情がしんみりしたものに変わる。
「儂の息子達は、孫を作る前に全員先に逝ってしもうた。
ぢゃから、ついお前さんや益徳を、息子達と重ねてしまう……
いや、それが理由ではない。
どうあっても、お前さんに息子の代わりにはなれないことは分かっておる。
そうではなく、玄ちゃん、儂はお前さんと家族になりたいんぢゃ」
「家族……?」
「益徳も、お前さんの部下達も、お前さんと一緒にいると実に楽しそうにしておる。
儂も、その環の中に入りたいんぢゃよ……
長く生きて来たが、こんな気持ちになるのはいつ以来か……
儂は今、とても幸せなんぢゃ……その幸せな日々を、ずっとずっと続けていきたいのぢゃよ」
「だから、家族になりたいってか」
「うっひっひ! こうやって口にするとやっぱり恥ずかしいのう……
やめぢゃやめぢゃ! さっきの話は忘れてくれい」
恥ずかしがりながらも、若干寂しそうに息を吐く。
「何だ、そんなことか。それなら、もう爺さんは俺の家族だぜ」
「玄ちゃん……」
劉辟は瞳を涙で滲ませる。
「玄ちゃん、あんたにゃ人を惹きつける天性の魅力がある。
お前さんの優しさは、きっと中華の人達を笑顔にできる。
玄ちゃんは次の時代に必要な男だと、儂は信じて疑わんのぢゃ」
急にそんな風に褒めちぎられると気恥ずかしくなる。自分はそんな上等な人間ではない。
皆から好かれるのも、適当に調子を合わせているだけだ。
その方が、信頼を得やすく、ひいては駒として利用出来る可能性も生まれるからである。
劉備の発言と行動は、全てが自分の益に結び付くよう計算し尽くされている。
そもそも、本心を隠したまま人と接することは、人間社会では誰もがやっていることである。
それなのに、人間は嘘や偽りを過剰なまでに嫌う。
虚偽の言葉が、何らかの不利益をもたらすから……というだけではない。
例えその嘘が、自らの損益に関わらなくても、本心を明かさなかったというだけで、不快に感じてしまう。
人間とはそういう生き物なのだ。
だが、裏を返せば……常に嘘をつかず、本音で物を言う人間は信用されやすいということだ。
さらに言えば、嘘を本音だと思い込ませれば、嘘をついているにも関わらず強固な信頼を得ることができる。
劉備は若くしてその真実に気付き、嘘を本心だと思わせる話術を徹底的に磨いた。
その一例が、いつも彼が使っている冗談めかした喋り方だ。
冗談とは、誰にでも嘘だと分かる嘘。人は、皆冗談の裏に真実があると思い込む。
それを利用して、冗談の裏の裏にさらなる嘘を忍ばせる。
信頼してくれるよう強く訴えても、そう易々と信頼は勝ち取れない。
それよりも、相手が自分を信頼してくれるよう仕向ける方がずっと効率的である。
この人間社会でのし上がるには、人と人との繋がりが何よりも重要。
たった一人で理想を声高に叫んでも、誰も聞き届けはしないのだ。
ゆえに、劉備は他者の信頼を得やすいように、数年かけて人格を作り変えた。
彼にとって、信頼や絆、友情といったものは他者を繋ぎ止め、
利用するための鎖であり、目的を果たすための手段以外の何物でもなかった。
それに、全てが全て、嘘というわけではないし、
利用すると言っても必ずしも捨て石にするわけではない。
相手も愚かではない。形あるもの、そうでないもの……何らかの見返りを用意しなければ、利用することなどできない。
劉備の嘘の中には、半分は真実が混じっている。
見かけ上は、完全な真実としか思えない。だからこそ、人を信頼させることができるのだ。
今のところ、自分の嘘を完璧に見破られるのは、曹操と二人の義兄弟ぐらいだ。
だからこそ、曹操とは敵対する以外の道は無いのだ。
その場で取り繕うだけの嘘はすぐに見破られ、信頼の崩壊という修復しようの無い傷をもたらす。
それでは駄目だ。自分は、天下を握るまでは立ち止まることはできない。
絶対の信頼は、唯一の真実か、完璧な嘘でなければ得られない。
自分に必要なものは、その両方だ。
利用できるもの全てを騙し続けてやる――そして、最後には全てを真実にしてみせる。
劉備はそんな覚悟を決めて、この大乱に臨んでいた。
許都へと軍を進める劉辟、劉備だったが、曹操軍もその動きを察知していたかのように討伐隊を差し向ける。
その規模は、劉辟軍の約二倍である。
「こっちの考えていることは、曹操はとうにお見通しみてぇだ。
青州兵を動かす前に、俺らを纏めて潰しておこうって腹だろうな」
地平線の先に見える曹操軍の軍勢を見つめる劉備。
「しかも、あの軍を率いておるのは、曹操軍きっての猛将、曹操四天王の一人、曹仁ぢゃ」
「おいおい、何ニタニタ笑ってんだよ。軽く絶対絶命の危機って奴なんだぞ」
何故か楽しそうに笑っている劉辟を見て、劉備は呆れたような顔つきになる。
「うひひひ。いやいや、これは好機到来という奴だよ玄ちゃん。
将軍が大物であればあるほど、討ち取られた時の衝撃も大きい。
四天王ほどの大物ならば、その衝撃の度合いは格別ぢゃろうて。
つまり、大将の曹仁さえ討ち取れば、儂らに勝てる目が出てくるというわけぢゃ」
少々楽観的に思えるが、この状況で敵に打ち勝つ術はそれしかないのも事実だった。
「総大将の曹仁は、突進しか知らぬ猪武者……
儂らに有利な地形に誘い込んで、一気にかたをつけてやるわい!
益徳や、その時は頼んだぞい」
「おう!任しときな!」
蛇矛を掲げ、自信満々で答える張飛。
劉辟軍、劉備軍を合わせても、曹仁を討ち取ることが出来るのは彼だけだった。
「そうと決まれば、全速で退くぞい! 奴らを岩場に誘い込むのぢゃ!」
意気揚々と軍を動かす劉辟。
「やれやれ、老いてなお盛んってのはあの人のためにある言葉だな」
半ば呆れている劉備。だがその口元には、微かな笑みが浮かんでいた。
「兄貴、あの爺さん面白ぇよなー」
劉備と違い、幼くして両親から引き離された張飛は、親への憧憬が人一倍強い。
劉辟を親に見立てて、親がいる気分に浸っているようだ。
関羽がいない寂しさを紛らわす意味もあるのかもしれない。
以上、全て劉備の推察である。
本人に言えば、きっと全力で否定するのだろう。
「ああ、そうだな……悪くねぇかもな、あの人の息子になるってのも……」
劉辟軍は、幾つもの岩が連なる複雑な地形で曹仁軍を迎え撃つ。
「がははははは!! 雑ァ魚どもが! 蹴散らしてくれるわぁ!!」
劉辟の予想通り、曹仁は軍の先頭に立って突撃を仕掛けてきた。
それでも、余裕で蹂躙できるほどの兵力差が、両軍の間には開いていた。
だが、その余裕こそが劉辟の付け入る隙となる。
劉辟軍が布陣している岩場には、いくつもの罠や伏兵が忍ばせてある。
迂闊に踏み入れれば、並の将兵では命はない。もちろん、曹仁は並の武将ではない。
これらの罠はあくまで足を止めるためのもの。
曹仁を仕留めるのは、岩陰に潜んでいる張飛の役目だ。
「ぐわはははは! 命知らずの老いぼれが!! 脳天から叩き割ってやるぜーっ!!」
巨大な戦斧を振り回し、居丈高に吠える曹仁。
劉辟は猛る敵将を見て、不敵な笑みを浮かべている。
(若造が……来るなら来い! 年季の違いを思い知らせてやるわい!!)
曹仁の駆る水牛のように大きな馬が、劉辟軍の勢力圏に入る。その時……
「今ぢゃあああああっ!!」
「!!」
曹仁の正面に、高い鉄網の壁がせり上がる。土中に劉辟が仕掛けていた罠だ。
馬の体が鉄網の棘に刺さり、搦め取られると同時に、左右を囲む岩場から多数の伏兵が襲い掛かる。
その中には、曹仁の心臓を狙う張飛の姿もあった。
曹仁の性格上、無理にでも鉄網を突破しようとするだろう。
その瞬間、致命的な隙が生まれる。
「もらったぁぁぁぁぁぁっ!!」
蛇矛の穂先を曹仁に向けたその時……彼は予想外の行動に出た。
先程まで荒れ狂っていた表情が、一瞬で冷徹な将のそれに変わる。
「全軍、後退せよッ!!」
そう叫ぶと、曹仁は、即座に鉄網から馬の足を引きはがす。
そして斧を旋回させ、張飛の蛇矛を弾いた。
「な……!?」
まさか弾かれるとは思っていなかった張飛は瞠目する。
あの反応の速さは、予め奇襲されることを分かっていたとしか思えない。
曹仁の号令に従い、曹操軍は全速で後退する。曹仁もまた、全速で自軍の下まで戻る。
それによって、劉辟軍の伏兵は討つべき敵を見失い、白日の下にあぶり出されてしまう。
「じ、爺さん……」
動揺する劉備には答えず、劉辟は口を開けて呆然としている。
もはや疑いようもない。こちらの策は、完全に読まれていた!
「矢を射かけい!」
凛とした声で叫ぶ曹仁からは粗暴な雰囲気など微塵も感じられなかった。
最初から全て示し合わせていたように、一斉に矢を放つ曹操軍。
矢の雨に射抜かれ、劉辟軍は次々に屍と化す。もはや勝敗は完全に決した。
「がはははは……敵は俺のことを馬鹿だと思っているから、
必ず罠に嵌めようとする……殿の言った通りだ!!」
得意満面の顔つきながらも、油断は一かけらもない。
その眼は周囲の地形全てに向けられ、罠や伏兵を見逃すまいと光っている。
「よぉし! このまま一気に叩き潰すぞぉ!!」
兵の士気を鼓舞しつつ、馬を走らせる曹仁。
最初の罠が失敗した劉辟軍に、この猛攻を凌ぐ術は残されていなかった……
(お見事です。曹仁将軍)
早くも勝敗を決めた曹仁に、荀攸は心中で拍手を送る。
かつては人並み外れた剛力だけが取り柄の将だった曹仁は、いつしかそんな自分を変革したいと思うようになった。
だから、程旻に弟子入りし、戦術の基礎を徹底的に学んだ。
幾多の戦場を渡り歩き、戦いとは力押しだけでは勝てぬことを知った。
ただの猪突猛進の暴れん坊だった曹仁はもういない。
今や彼は、曹操軍の将にふさわしい知勇兼備の男になっていた。
だが、曹仁についての風評は以前のままだ。
曹仁……いや、曹操はそれを逆利用して曹仁に策を授けた。
それが、先程の戦果に繋がったのだ。
成長しているのは曹仁だけではない。
他の四天王も、将軍達も、軍師も、兵卒の一人一人でさえも、死線をくぐり抜けるたびに大きく成長している。
ある者は手柄のため、ある者は主君のため、またある者は自分自身を磨きたいという大志ゆえ……
理由は様々なれど、皆上を目指して成長を続けている。
曹操軍の自由闊達な気風が、それを可能にしたのだ。
一人一人の向上心……それこそが、曹操軍の強さの源にあった。
「では、私達も動きますか」
示し合わせていた通り、荀攸は兵に号令を発する。戦の勝敗は既に決した。
だが、彼らの目的はさらにその先にある。
(劉玄徳……曹操様を裏切って、なお生き延びている貴方の存在は危険すぎる。
いずれは、反曹操の御旗となることでしょう。
そうなる前に、その命、処断させていただきます!)
「……将の器を見誤るとは、儂も老いたかのー……」
衝撃に打ちのめされていた劉辟だったが、次第にその表情は、悟ったようなものに変わる。
時が流れれば、新たな武将達が次々に現れ、古き強者を駆逐する。
自分もその一人……老兵の時代は終わったことを、劉辟ははっきり自覚していた。
「じ、爺さん!あれを……」
狼狽しながら、ある方向を指差す劉備。
劉辟軍が潜む岩場を囲むように、曹操軍の兵が現れる。
伏兵を忍ばせていたのは劉辟軍だけではない。
曹操軍も、劉辟が布陣する場所を先読みし、気付かれる前に包囲していたのだ。
「……完全に、してやられたようぢゃのう……」
「劉辟軍に告ぐ!既に勝敗は決しました!
貴軍に一度だけ降伏の機会を与えます!
貴軍が匿っている、劉備、張飛の両名を引き渡しなさい!
それ以外の条件では、降伏を認めません! 一兵残らず殲滅します!」
荀攸の降伏勧告が、劉辟軍に浴びせ掛けられる。
それを聞いた劉備は、苦笑いするしかなかった。
「ははは……どうするよ。俺の首を差し出せば、命だけは助けると言っているぜ?」
曹操軍に引き渡されれば、今度こそ確実に殺される。
例え劉辟が降伏を選んでも、劉備は従うつもりなどなかった。
しかし、劉辟は口元淋しげな、されどどこか晴れやかな笑みを浮かべる。
「玄ちゃん、あんたを死なせはせんよ。
言うたぢゃろ? あんたはこの中華の未来に必要な男ぢゃと……」
「爺さん……」
「ぢゃが」
体中の苦悩を全て搾り出したような顔つきで、こう続ける。
「儂は将ぢゃ。儂に付き従ってくれた兵達を、無駄死にさせることは出来ん……」
(ああ、そうかい……)
心の中が、急激に冷えていくのを感じる。
劉辟の配下を想う気持ちも、劉備を息子にしたいと言ってくれた時の気持ちのどちらにも、嘘偽りはないのだろう。
二つを天秤に掛けてどちらかを選ばねばならないことは、劉辟にとっても苦渋の決断だったはずだ。
その心境はよく理解できる。同情してもいい。裏切られることへの怒りや憎しみは微塵もない。
どちらも同じぐらい大切でも、いずれか一方を切り捨て無ければならない。
それが“選択”というものだ。
だが……
劉辟は涙を流しながら、心底辛そうに訴える。
「玄ちゃん、本当に済まない! 儂もすぐに後を追う……ぢゃから――」
彼が最後まで言い終わることはなかった。
劉辟の顔面が弾け飛び、血の柘榴と化す。
劉備が至近距離で、劉辟の口内目掛けて発砲したのだ。
馬から崩れ落ちる劉辟。顔面は破砕され、かつての好々爺の面影は微塵もなかった。
その直後、遠く離れた場所で声が上がる。
「曹操軍だぁ――っ!!曹操軍が劉辟殿を撃ったぞぉ――っ!!」
声を発したのは劉備だった。
彼は周りに見えないような角度で劉辟を撃ち、その瞬間的廬の空間転移でその場を逃れる。
これにより劉備は容疑から外れ、劉辟は曹操軍に狙撃されたように見えるはずだ。
「降伏勧告は嘘っぱちだぁ――っ!
奴らは俺達を皆殺しにするつもりだぞぉ――っ!!」
劉備の言葉に、劉辟軍は煽られ、恐慌状態となる。
主君の死に怒りを燃やすもの、一か八か曹操軍に挑むもの、恐怖のあまり逃げ出すものと反応は様々だ。
それによって生じる混乱こそが、劉備の望んでいたもの。
彼が最も恐れていたのは、劉辟軍までもが敵に回り、自分を捕らえようと襲ってくることだった。
そうやって内部分裂を引き起こすことが、荀攸の狙い。
劉辟軍は所詮寄せ集めの軍隊、大半が雇い入れた兵達だ。
だから、命惜しさに劉備と張飛を差し出すことは、十分にありうることだった。
事実、劉辟はそうしようとした。だから、劉備は劉辟を殺し、軍を混乱に陥れたのだ。
悲しくないと言えば嘘になる。世話になった恩人を自分のために殺めて、胸が痛まないわけではない。
ただし、後悔は微塵もなかった。
劉備にとって自らが生き延びることは、全てにおいて優先される。
己の命を護ることに比べれば、その手段が善か悪かなどと瑣末な違いでしかない。
生き延びることが出来なければ、結局全てが水泡に帰すのだから……
(悪いな爺さん………俺は、本気であんたの息子になってもいいと思っていたんだぜ……)
だが、劉辟の価値は、自分の命よりも遥かに軽かった。
どちらも大切であっても、いずれか一方を捨てなければならない。
それが“選択”というものだ。
劉備は急いで、劉辟の朗らかな笑顔を頭から打ち消す。
この程度で感傷に浸るようでは、本当の意味で非情に徹しきることはできない。
死人に魂を引っ張られているようでは、生きた人間の世界を変えるなど夢のまた夢……
涙を流すのは人前だけにしろ!
心の中では、いつも冷たく笑っていろ!
己を叱咤し、内なる“病”を押さえ込む。
現実問題として、感傷に浸っている暇はない。
相手は曹操軍、すんなりと逃がしてくれる相手とは思えない。