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三国羅将伝  作者: 藍三郎
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第十七章 官渡の決戦(八)

 官渡、曹操軍の城塞にて……


 軍議の間には、曹操軍の名だたる将軍、軍師が集結していた。


 ただ、曹仁と荀攸は、今この場にいない。

 彼らは汝南じょなんで挙兵した劉辟りゅうへきを討つべく官渡を離れている。

 劉辟には、袁紹の元を離れた劉備が合流しているとの噂もある。

 こちらも相応の兵力で望むべきと判断し、彼ら二人に任せた。


 今、軍議の席にいる誰もが、緊迫した顔つきをしている。

 皆、現在自分達が置かれている状況を正確に把握していた。

 圧倒的兵力を誇る袁紹軍に対し、曹操軍は依然逆転の一手を打てずにいる。兵糧も残り少ない。

 このままでは、苛烈なる袁紹軍の攻撃を、持ちこたえるすらできなくなる。


 軍議が開かれるのも、後どのくらいになるだろう。

 勝利にせよ敗北にせよ、決着は後一月以内につく。それは全員の共通認識だった。


 夏侯惇を始め、この場にいるのは曹操の側近中の側近。

 曹操を勝たせるまでは決して諦めないつもりでいるが、同時に彼らは非常に聡明であり、有能であった。

 ゆえに、この戦が勝算の薄いものであることなどとうに承知している。

 そんな厳しい現実と、決して曲げられぬ想いとの間で揺れ、葛藤する彼らによって、場は沈鬱な空気に満ちていた。

 

 夏侯惇は、覇気の無い群臣に見るからにいらついている。

 降伏論でも飛び出そうものなら、即座に切り捨ててやるぐらいの気構えでいる……が、実は降伏に流れる文官達の考えもよく理解できていた。

 自分は所詮一介の武人、戦場で果てようとも全ては己の力不足ゆえ。

 責任は自分の命で払えるのだから、悔いはない。

 だが、重臣達は違う。彼らは曹操軍全ての兵、全ての民のことを考えて決断を下さなければならない。

 自分のように、軽々しく博打に打って出られる立場ではないのだ。

 そんな彼らの心情を解するからこそ……夏侯惇は決意する。

 もしもこの席で、袁紹軍への降伏が決まったならば……潔く、この首を袁紹達に差し出そう。

 自分が生贄となることで、他の四天王の命を救うことができるかもしれない。

 どのような形であれ、この命、曹孟徳のために使えるならば本望だ。


 他の武将や軍師も、概ね夏侯惇と同じ意志だった。

 降伏か、決戦か。曹操がいかなる決断を下そうと、自分達は最後まで、曹操と彼の創る新時代のために戦うだけだ。



 やがて、軍議の席に曹操が荀或と郭嘉を伴って姿を現す。

 皆の視線が一斉に曹操に集まる。

 彼らの瞳からは、主君への忠誠、信頼、不安……数多の感情が凝縮された光が放たれていた。

 あまりにも重い意志を注がれながらも、曹操は身じろぎもせずに席につく。

 そして、開口一番、本題に入る。


「今後の方針を告げる。

 各地に散らばる青州兵の任を一時解除、その後、その全てを官渡に集結させる。

 我が軍の兵力は三十万にはなろう。

 袁紹軍を官渡城塞に引き付けた後、全包囲から総攻撃をかける」


 場の空気が凍り付く。曹操が述べた青州兵の全召集……

 それは、最終作戦の発動を意味していたからだ。

 即ち、曹操の決断は降伏ではなく、徹底抗戦……


 曹操の側には荀或と郭嘉もいる。

 彼らとの協議の上で決定したならば……もはや曹操軍全体の最終決定と言っていい。



「よろしいでしょうか……曹操様」

「好きに申せ、程旻」


 真っ先に発言したのは程旻だった。

 皆が口を挟みづらい中で、彼はいつも物怖じせずに意見を述べる。

 彼自身も、それが自分の役割だと心得ているからかもしれない。


「当初の計画では、青州兵の動員は袁紹軍を撹乱、消耗、疲弊させ、こちらの優位が決定的となった時のはず。

 されど、現状を鑑みるに、袁紹軍には些かの衰えも感じられません。

 例え青州兵を動員しても、今のままでは我が軍の勝算は薄いと考えます」

「さすがは程旻、言いにくいことをはっきり言ってくれる。

 だがその通りだ。青州兵三十万を持ってしても、袁紹に勝てるとは限らぬ」


 曹操軍三十万に比して、袁紹軍は四十五万。

 そう絶望的な戦力差ではないが、袁紹軍に限ってはそれは当て嵌まらない。

 袁紹軍は、数の優位がそのまま勝利に繋がるような戦をする。

 田豊が考案し、その弟子沮授が指揮する袁紹軍の軍略は、堅実にして堅牢で、いかなる奇策も通さない。

 曹操と袁紹、両陣営の全戦力が激突すれば、軍配は袁紹に上がる可能性が高い。


 懸念すべき点はそれだけではない。

 もしも、奇跡的に袁紹に勝てたとしても、それは多大なる犠牲を払った後の勝利となる。

 南の劉表や北方の異民族、その他の諸勢力が、その好機を見逃すはずもない。

 三十万の青州兵は、漁夫の利を狙う諸侯への抑止力となる。

 本来は、使わないことで最大の効果を発揮する。

 だからこそ、曹操軍は青州兵の動員を控えてきた。

 切り札は一度切ってしまえば後が無くなる。

 例えこの戦に勝てたとしても、青州兵を失ってしまっては意味は無いのだ。

 それなのに、曹操は青州兵を動員せよと言う。

 追い詰められて、曹操もついに焦ったのか……口には出さずとも、何人かがそう思った。


 しかし、曹操はこう付け加える。


「今のままでは……な」


 曹操はいつも通りの不敵な笑みを浮かべて続ける。


「我が軍の兵糧が尽きるのと、青州兵が完全集結するまで、後三週間……

 それまでに、余はこの戦局を、ひっくり返す」


 はっきり断言する曹操。場は一気に騒然となる。

 この圧倒的不利な状況を、三週間でひっくり返す?そんなことが可能なのだろうか。

 もしできるとして、それはいかなる秘策なのだろうか。



「それは、秘策がある……と受け取ってよろしいでしょうか」


 眉一つ動かさず問い掛ける程旻。全員の視線が曹操の唇に集中する。



「ある」



 短い返事だが、今までのどの発言よりも聴衆に衝撃を与えた。


「その策のいくつかは、既に実行中だ。詳しい説明は、荀或、郭嘉に聞くがよい」


 曹操に促され、荀或と郭嘉は説明を始める。

 その策の内容は、確かに秘策と呼ぶに足るものだ。聴衆も熱心に耳を傾けている。だが……




(どういうつもりだ……孟徳……)


 夏侯惇は驚愕に顔を固めたまま、内心困惑していた。


(秘策だと?そんなもんあるはずねー。だって……)

 

 曹操は、“嘘をついている”からだ。夏侯惇にはそれがわかる。


(ガキの頃から、てめぇの冗談には散々振り回されてきた……

 だがよ……てめぇはただの一度も、嘘をついたことはねぇじゃねぇかよ……)


 だから、夏侯惇にはわかるのだ……曹操の“秘策がある”という言葉が嘘であることが……




(くくく……)


 表面上は平静を保ちながらも、賈栩は不敵に笑う。

 最も彼の場合、普段から不敵な面構えをしているのだが。


(今荀或と郭嘉が話した策を実行したとしても、勝てる可能性は低い……

 秘策などとは真っ赤な偽り……だが……)


 “あの曹操ならば”……

 彼の言葉には、実現不可能に思えるものであっても成功させてしまうような、不思議な魔力がある。

 それは、彼が長年積み重ねた実績ゆえだろう。

 だから、今回も上手くいくのではないか……

 曹操ならば、常識を超えるような策を編み出すのではないか……

 実績ゆえに通じる詐術、それが彼の最大の、そして最後の武器なのかもしれない。


(重臣達を騙してでも、猶予を作り、奇跡が起こる不確かな可能性に賭けるとは……

 いやいや、やはり貴方は最悪だ……だがそれゆえに、貴方は覇王の座にふさわしい……)




 ずっと顔を強張らせていた夏侯惇だが……いつしか彼の顔には微かな笑みが浮かんでいた。


(なるほどな……この戦は、お前でも手に負えねぇほど、キツイもんだってことかよ……)


 夏侯惇はこの時点で、曹操の真意をほぼ理解していた。それでもなお、彼は笑っていた。


(面白ぇ……だったら、俺がお前を勝たせてやるよ。てめぇの大法螺、全部まとめて本当にしてやる)


 敵が強ければ強いほど燃え上がる武人の本能。

 夏侯惇は己が内から沸き上がるそれを強く感じ取っていた。

 ふと曹操と眼が合う。彼は、自分に笑いかけてみせた。自分がどんな反応を示すのかも、彼は計算ずくだったのかもしれない。


「し、失礼いたします!」


 そんな中で、軍議の席に一人の兵が飛び込んできた。


「う、于禁様が、戻られました……!」







 于禁は左手で右腕を押さえ、足を引きずるようにして前に進む。

 全身を激しい痛みが苛んでいるが、彼の心は、そんな苦痛を塗り固めるほどの暗い怨念で満たされていた。


「関羽……」


 覆面越しに声を発し、唇を強く噛み締める。

 仕留めた……と思った。鎖で大木に縛り付け、動きを完全に封じ込めた。だが……



「ぬうぅぅぅぅぅぅぅっ!!」


 関羽の二の腕が、大きく膨れ上がる。

 鋼よりも強靭な十本の指を、幹へと突き刺し、“掴む”。


「うおおおぉぉぉぉぉぉッ!!」


 次の瞬間、于禁は信じがたい光景を目の当たりにする。

 関羽は、自分の倍以上の大きさはあろうかという大木を、根本から引っこ抜いたのだ。

 しかも、木に縛られた体勢のままで……

 つづらを背負うようにして、大木を担ぐ関羽。

 持てる力を振り絞り、大木を横に薙ぎ払った。

 真っ直ぐに飛び込んだ于禁に、天然の大槌を避ける術は無い……凄まじい衝撃が全身を襲い、脳内が漂白される。

 咄嗟に右腕で我が身を庇ったが、巨木の重量に関羽の剛力が上乗せされた一撃の前に、于禁の右腕は呆気なく砕かれる。



 そこから先の記憶は混濁している。

 あの後、関羽はたわんだ鎖から脱出を果たしたが、自分にとどめを刺さなかった。

 情けをかけられた……?

 いや、それは自惚れが過ぎるというものだろう。

 関羽自身もあの時限界以上に疲弊していた。

 暗闇の森に加えあの豪雨、自分を探すのも困難だったろう。

 ゆえにとどめを刺すことよりも、一刻も早く死地を離れることを選んだのかもしれない。

 

 全ては憶測の域を出ない。分かっているのは、自分はまだ生きていること。

 関羽を仕留めることもできず、こうしておめおめと本陣に戻ってきたことだけだった。

 燃えるような屈辱感が猛烈に沸き上がる。


 何故オレはこうして生き延びている!

 

 長く闇の世界で爪を赤く染めてきた于禁にとって、一度標的を定めた以上、その結末は標的の死か自分の死以外にありえなかった。

 于禁は、その命のやり取り全てに勝利してきたからこそ、今こうして生きている。

 獲物を仕留められなかったことが屈辱なのではない。

 敗北したにも関わらず、未だに自分が生きながらえていることが不満なのだ。

 于禁という男は、常人には理解しがたい精神構造をしていた。

 彼は、深層で己が闇の住人であることに強い誇りを抱いている。

 いや、誇りではなく執着と呼ぶべきか。敵は殺せ、負ければ死ね。

 そうした闇の掟を遵守することに対してある種の恍惚を覚えていたのだ。

 しかし、今回は彼の理想とはおよそ真逆の結果となってしまった。

 自決するつもりはない。彼が望んでいるのは、敗北の末の死、結果としての死だからだ。

 自分で自分の命を絶つようでは、戦いの果ての死とは言えない。


 だが……それは所詮、命を落とすのが怖いだけなのではないか。

 幾ら死を望んだところで、本心では生にしがみついているのではないか。

 それは違う。違わない。死にたい。死にたくない。

 彼を真に苛んでいるものは、生と死、相反する欲求が、己が内でせめぎあっていることかもしれなかった。

 

 そんな彼が、こうして本陣に戻ってきたのは一縷の望みを込めてのことだった。

 曹操に任務の失敗を告げれば、自分は処刑されるかもしれない。

 それなら、自決と違って敗北ゆえの死ということになる。

 それとも……結局は、また関羽と戦い、今度こそ殺されることを怖れたからかもしれなかった。


 曹操の前で、于禁は己の失態を包み隠さず話した。

 だが、自分の期待に反して、曹操はいつもと変わらぬ笑顔のままだ。

 于禁が全てを話し終わった後で曹操は最初にこう告げた。


「まぁ、よい」


 たったそれだけで、于禁には曹操の心情が幾つも伝わってきた。

 最初から、こうなることを予測していたようだ。

 それどころか、関羽が生き延びたことを喜んでいるようにさえ見える。

 やはりこの男にとって、関雲長は特別な存在なのだ。

 自分を関羽暗殺に放ったのも、彼の力量と天運を試す目的だったのではないか。

 続けて曹操が放った台詞は、于禁の最も聞きたくない内容だった。


「長きに渡る任務、その労をねぎらおうぞ。これからは体を治すことに専念せよ」


 その言葉を聞いた直後、于禁は不快な表情に顔面が歪むのを押さえられなかった。

 猛烈な屈辱に、わなわなと体を震わせる。一体オレは何なのだ……

 彼は今、生まれて初めて“生き恥”というものを味わっていた。


「裁きとは救済ではない。そなたにとっては、救済こそが罰となろう」


 曹操の声を聞き、顔を上げる于禁。視線の先にいる曹操は、嘲るように笑っていた。


(救いこそが罰……そういうことか!)


 あの男は、自分の心中を完全に見透かしている。

 于禁が、“他者の善意を厭う”人間だからこそ、曹操は許したのだ。

 だがそれは、ただ于禁を苦しめるためではない。


「于禁よ、そなたは闇の道を行け。

 屈辱に震え、憎しみに歯を軋り、己の心の闇を肥え太らせるがよい!」


 何と言う男だ。彼はこの于禁を、より完全な殺人人形に仕立てあげようとしている。

 どうすればその人間が最大の力を発揮できるのか、その方法を知り尽くしているのだ。

 やはりこの男は魔王としての道を行くもの。

 死ねない……この男の死を見届けるまでは、断じて死ぬわけにはいかない。

 加えて、彼の内で関羽への怨念が爆発的に膨れ上がる。


 殺す! 奴は必ず、この手で殺す!


 今までは、彼への敵意は若干曖昧だったが、今初めて純度の高い殺意として昇華された。

 武神かんうを殺し、魔王そうそうの死を見届ける。

 己の中に生まれた強い欲求を、于禁は何度も噛み締めるのだった。







 諸葛亮の手に握られた羽扇が、大気を撹拌する。

 それに呼応して強風が巻き起こり固い岩盤をもズタズタに切り裂いてしまう。

 司馬懿もまた、重力を帯びた黒い帯を自在に操り、標的を叩き潰そうとする。

 暗雲の下空を舞い、秘術を尽くして激突する両者。

 しかし、人間が彼女らの戦いを目撃することはない。

 周囲には人払いの結界が張られ、山頂を覆う曇天も、人の目からはよく晴れた空にしか見えなかった。


「は、大口叩いた割にはこんなもん? やっぱりあんたはただの口だけ野郎ねぇ」

 

 真空の断層から鎌鼬を生み出し、飛ばす。

 司馬懿は回避するが、その際に帯を一条寸断される。


 やはりやりにくい相手だ。風を自在に操るだけでなく、彼女自身も気体になったかのように捕え所がない。

 攻撃を捌くこと自体は、さほど難しくはない。反面攻撃を当てるのは至難の技だ。

 彼女はとにかく守りに特化している。

 それは、自分が怠けるためならばあらゆる手を尽くす、彼女の矛盾した心理が生む特質だろう。

 前回の戦いでは、それゆえにすんなり撤退することができた。

 しかし、今は状況が違う。歴史を修正するという目的を果たすためには、眼前の諸葛亮を葬らなければならない。

 こうして延々と攻防を続けてしまっては、奴の思う壷だ。


「抜かせ……もうじき、笑えなくしてやろう」

「確かに笑えないわねぇ。あんたの存在のサムさは!」


 扇を振るい、突風を発生させる諸葛亮。

 直撃すれば、肉を骨から引きはがすほどの威力を有している。

 だが、司馬懿は避けようとしない。不敵な笑みを浮かべて立っているだけだ。

 その直後、風は司馬懿の体を包み込んだ。

 だが、肉が骨から剥がれ落ちるどころか、風は司馬懿の肌に傷一つつけることはなく、黒髪を揺らす程度に留まった。


「!」

「ふ……どうした?そよ風程度にしか感じんな」

「……なるほど、さっきから、妙に飛びづらいと思ったら……」


 ずっしりと、肩に何かがのしかかる感覚を覚える諸葛亮。彼女は既に異変の原因を看破していた。


「そう、大気に重圧をかけたのだ。この重い大気の中では、貴様の風も真価を発揮できまい」


 得意げに笑う司馬懿。


「さらに、重力は私に近づけば近づくほど大きくなる。もはや何人足りとも、私に触れることは叶わぬ!

 これは絶対不可侵なる、神の領域なのだ!」


 彼の言葉を証明するように、司馬懿の足元の大地は深く陥没し、宙を舞う埃や砂塵も全て地面に落ちていた。

 あたかも、司馬懿を中心とした半球型の重力の結界が、彼を守っているようだった。

 その半径は徐々に拡がり、やがて諸葛亮をも圧殺するだろう。

 それでもなお、諸葛亮の余裕は消えなかった。


「触れることすらできないですって?

 はっ、気色悪いあんたに触れることなんざ、こっちから願い下げよ」


 そう言って、扇を空高く掲げる諸葛亮。

 暗雲立ち込めた暗雲が、心臓のように拍動し、狼が唸るように鳴動する。

 やがて、天を割るような爆音と共に、白き光が二人の視界を完全に覆い尽くす。

 雲の裂け目から光の槍が舞い降りて、司馬懿を串刺しにしようとする。

 咄嗟に回避する司馬懿。雷は岩盤を砕き、先程まで司馬懿がいた場所に黒い穴を穿っていた。


「雷か……」


 いつしか暗雲は、くすんだ金色の混ざった雷雲へと変じていた。

 諸葛亮は天候を自在に操る。風や雨は元より、その気象の中には雷も含まれる。


「あんたの重力でも、“光”までは止められないでしょ。一気に黒焦げの炭屑にしてあげる。

 ああ、あんたは元々真っ黒だから大して変わんないか」


 扇を口に当て、勝ち誇ったように笑う諸葛亮。

 躍動する雷雲は、既に第二射の準備を完了している。

 司馬懿に狙いを定め、扇を振って雷を落とす。だが、次の瞬間……


「!?」


 天地がひっくり返ったような感覚が、急に襲ってくる。単なる錯覚ではない。

 足元に大地、頭上に空があるにも関わらず、二の足で地を踏み締めることができない。

 そのまま諸葛亮の体は、空に向かって“落ちていく”。

 それを見る司馬懿の顔には、笑みが浮かんでいた。


(重力反転!?)


 重力とは、大地が人や物を引き寄せ、繋ぎ止める力。

 司馬懿はそういった“正の重力”のみならず、物体を空に浮かべ、飛ばす、“負の重力”をも操ることができる。

 彼の空を飛ぶ能力や、帯を自在に操ることにも、反重力が利用されている。

 過剰な重力をかけて対象を押し潰すことができるなら、過剰な反重力をかけて相手を空高く飛ばすこともできる。

 その際、人は天地が逆転し、大空に落ちていくような錯覚に囚われるだろう。

 諸葛亮が気付いた時には、彼女が降らせた雷が間近に迫っていた。

 このままでは、自分自身が焼き殺されてしまう。

 奴はこの瞬間を待っていたのだ。

 あえて反重力を封印し、自分が雷を使うことも計算して、諸葛亮を罠にかけた。


 一度降らせた雷は、彼女自身でも解除できない。

 そうなると、取るべき手段は一つしかない。

 即座に扇を強く振る諸葛亮。その瞬間、強風が吹きすさび、反重力以上の力で諸葛亮の体を吹き飛ばした。

 これにより、雷の矛先を逃れる。


「ふはははは! 無様だな孔明ぃ! だが、まだ終わりではないぞ!」


 諸葛亮が自分の風を使って緊急回避を計ることも、司馬懿は読んでいた。

 彼女が荒々しく着地するや否や、周囲に滞空していた多数の巨石が一斉に降り注ぐ。

 的の行動を読み、司馬懿があらかじめ仕掛けておいたのだ。

 岩石が次々と積み重なる。司馬懿の重力操作も加わり、例え武将であろうとも圧死するだろう。

 だが、この天然の処刑具に、一筋の穴が穿たれる。

 内部から穿たれた真空の道は、周囲の岩を削り取りながらその半径を拡げていく。

 やがて、岩石全てを吹き飛ばし、渦巻く風の塔が屹立する。


「竜巻か……」


 これもまた、諸葛亮の操る自然現象の一つだ。

 雷鳴が鳴り、竜巻が唸りを上げる戦場は、あらゆる天変地異が凝縮されたようだった……



「間一髪、といったところか」

「馬鹿ねぇ。余裕よ余裕」


 実際その通りであった。互いの手の内を知り尽くした両者にとって、今までの攻防は全て想定の範囲内。

 この程度で決着がつくとは思っていない。

 これは、自身の能力を駒に見立てた盤上の遊戯。

 傍目からは派手な道術合戦に見えるが、その本質は互いに手の内を晒した上での、知と知の戦いにあるのだ。


 司馬懿も諸葛亮も、同程度に聡明であった。

 だからこそ早い段階に理解できていた……この戦いが、千日経っても決着がつかないであろうことを。

 それは、司馬懿にとっては敗北も同然。

 この地で戦い続けていれば、官渡の戦いは終わってしまう。

 もし何も手を加えねば、袁紹の勝利で幕を降ろすだろう。

 歴史の流れは決定的となり、司馬懿の力を持ってしても改変は不可能となる。

 それは、彼の野望が頓挫することを意味していた……


 



 この時、歴史はついに神の手を離れた。

 誰も結末を知らない官渡の決戦は、数多の想いを含んだまま、最終局面へと突き進む。




 最後に笑うのは、曹操か、袁紹か……それとも――




<第十七章 官渡の決戦 完>


次回、第一部最終章です。

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