第十七章 官渡の決戦(七)
それは、夢幻ではなかった。
狼の仮面を被った黒衣の怪人と、紫の着物を纏った黒髪の美女は、確かに存在し、相対していた。
ただし、彼女らがいる場所は、袁紹軍の本営から遠く離れた山岳地帯だった。
彼女らが許攸の前に現れてからほんの数秒も経っていない。
その短い間に、彼女らはここまで移動したというのか。
「さぁて、ようやく見つけたわよ。あんたを探すのに、私がどれだけ苦労したことか……」
そう言って、女は肩をすくめる。その美しさとは裏腹に、俗な仕草と喋り方をする女だった。
「……何故、私の居所が分かった?」
怪人“狼顧の相”は、最初は驚いたものの、今は落ち着いていた。
あの時許攸に対して張った結界は、ごく薄いもの。
于吉の“夢幻結界”には遠く及ばない。
その于吉は死に、“あの男”の助けも無い以上、発見される危険は常にあったのだ。
今までは、単に運がよかった……いや、こいつのやる気が中途半端だったからかもしれない。
男の問いに、女は嘲るように答える。
「馬鹿ねぇ、今この中華で、官渡ほど盛り上がっている場所はないわ。
なら、あんたがここで何か企んでいるだろうなと考えるのは子供でも分かることよ」
「………………」
「まぁ、曹操と袁紹、あんたがどっちに来るのかは分からないから、適当に両陣営をふらふらしてたのよ。
今日はたまたま袁紹にいたんだけど、それが見事に大当たりってわけ」
大して熱くも無いはずなのに、羽根扇で顔を扇ぐ女。
彼女の視線は、男の被る狼の仮面に向けられていた。
「ところでさぁ、そのダサい仮面は何なのよ。正体隠してカッコつけたいわけ?
そういうのは美形とか意外な正体持っている奴がやるから格好つくのであって、
あんたみたいなイモい男がやっても豚に真珠って奴よ?
私相手に正体隠す必要も無いでしょうに。さっさとその仮面取りなさいよ。
さもないと、これから先、一生変態仮面呼ばわりしてやるんだから」
鼻を鳴らした次の瞬間……
“狼顧の相”の衣から黒い帯が伸び、女へと襲い掛かる。
後方にある大きな岩が、瞬時に砕け散る。
女は風に流されるような動きで黒い帯をかわすと、扇を一閃する。
旋風が金切り音を立て、空気の断層から鎌鼬が生じる。
大気の刃は“狼顧の相”へと一直線に飛んでいく。
狼の仮面が真っ二つに割れ、地面へと落ちる。
長い黒髪が溢れ出て、その素顔を表に晒す。
真ん中で分けた漆黒の長髪に、剃刀のような三白眼……
その顔に浮かぶ不敵な表情まで、何もかもがかつて相対した時と同じだ。
それでも、女はとぼけた口調のままで続ける。
「え〜っと、誰だったかしら。あまりに特徴の無い顔なんで忘れちゃったわ。
もう、変態仮面のまんまでいいわね?」
「ふふふ……随分と耄碌したものだな。
そろそろ記憶容量に限界が来ているんじゃないか?」
素顔で再会したのは、およそ十数年ぶりのことか。
諸葛亮、字は孔明。
司馬懿、字は仲達。
歴史の裏側に生きる二人の賢者は、互いに皮肉を飛ばしあった。
「莫迦を言いなさいな。記憶する価値も無いということよ」
「ならば、私の邪魔をしないでもらおうか……」
「うん、それも悪くない案なんだけどね。
もう何十年も続けてきたことだし、今更やめるってのも何だか面倒くさいし」
この女……正確には男でもあり女でもある存在は……全てを“面倒くさい”で片付けようとする。
何かをするのも面倒くさい……何かをやめるのも面倒くさい……
そういった惰性だけで、悠久の時を生き続けてきた。
だからこそ、気の遠くなるような時間を生きても、魂を擂り減らさずに済んだのだろう。
人間、適度な刺激と適度な安息が両立している状態こそが最も健康であることを、彼女はよく知っているのだ。
扇で自分の顔を扇ぎながら、孔明は問いかける。
気を抜いているように見えても、既に臨戦態勢に入っている。
“術”を駆使する彼女らの戦いに、構えも体勢も意味はないのだ。
「で……今から私はあんたを徹・底・的にぶちのめすわけだけど、その前に聞かせてもらいましょうか。
あんたはあそこで何をしようとしていたのか。そもそもあんたは何になりたいのか」
手っ取り早く核心を問う孔明。
「くっくっく……」
司馬懿は愉しそうに、無知なる者を嘲るように、笑う。
「神になる……といったところで貴様には理解などできまい」
「ええ、電波の妄言を理解する頭は持ち合わせていないから、
ちゃんと私みたいな清く正しい一般人にも分かる言い方でお願い」
「ふ……」
毒舌も皮肉も、空気のように受け流す。一々反応していたら、この女とは会話できない。
程無くして、仲達は本題に入る。
「“普遍なる価値”とは存在すると思うか?」
「もちろん、“いいえ”よ。そんなの常識じゃない」
拍子抜けしたような声で即答する諸葛亮。
「そうだな。価値とは、事象に関わる主観の数だけ存在する。
善も悪も、是も非も、全ては相対的な評価によってのみ生じる。
絶対的な価値基準など、言葉自体が既に矛盾しているのだ」
「それがどうしたのよ。私たちが、最初に学んだ初歩の初歩じゃない。
世の万象は常に二面性を持っている。
平和な時代に殺人を犯せば犯罪者だけど、戦時に敵兵を殺戮すれば、英雄扱い。
同じく人の命を奪う行為なのに、その評価は善悪両極端。
これは時代や状況に限った話じゃないわ。
世の中なんであれ、“自分のため”と付けると悪く思われるけど、“誰かのため”なら善行として受け入れられる。
遊び半分で人を殺すのも、已む無き事情があって苦渋の末に人を殺すのも、殺される側からすれば全く同じこと。
全くおかしな話よね。過程や結果は同じなのに、原因が違えば評価はまるで違うなんて」
「人間は遍く事象に善悪の区別をつけなければ気がすまないのだ。
理由は、そうしなければ易々と壊れてしまうほど、社会や倫理とは脆いものだと言葉にせずとも理解しているからだ」
「そういうことね。最も、善悪の区別をつけたばかりに社会を掻き乱す例もあるけれど」
「今ここで行われている曹操と袁紹の戦争のことだな。
互いを新時代に不要な存在と見なし、己を正義を標榜しているが、その行為はどちらも大して変わらない……
一対一であれ、十万同士の戦であれ、その本質は変わらぬ。
己を正しいと思い込み、他を間違っていると見なした時に、争いは生まれる……
つまり正義こそが争いの火種というわけだ。
“善”であるはずの正義が、“悪”である殺戮を生む……
その矛盾が当たり前のように存在し、輪廻の環の如く延々と繰り返す……それが人類の歴史だ。
この世界に、真実の平和も正義もありはしないのだ」
「うわぁ、気持ち悪いぐらいに同意見ねぇ。割と本気で背筋が凍ったんだけど。
でも、意見が対立するのも気持ち悪いから、やっぱりあんたは存在そのものが気持ち悪いってことなのよね」
諸葛亮は、嘲るようにけらけらと笑う。
司馬懿の方は、そうして挑発に対し完全に無視を決め込んでいる。
「で、そんな分かりきったことを持ち出して、一体何が言いたいわけよ」
「そう……“真実など存在しない”。これが唯一無二の真実だ。
だが、それは“人間”の常識における話だ。
もう一つ問おう、諸葛孔明。貴様にとって、神とは何だ?」
「そういう陳腐な言い方はそもそも嫌いなんだけどね。
あえて言うなら、そう……偶然の積み重ねよ」
「ほう……」
「人間は、自分の理解が及ばぬ出来事を神の意思だとか奇跡だとか呼んだりするわよね。
さっきと同じように、主観を剥ぎ取って考えれば、所詮はただの偶然に過ぎない。
ならば、人間が神の存在を錯覚させるほどに確率の低い出来事、それを神と呼ぶんじゃないかしら。
神が世界を創ったとするならば、この世界は、限りなく低い偶然によって今の形へと収まった。
ほんの少しの狂いが生じれば、世界は今とは全く違う姿になっていたでしょう。
存在すらしていなかったかもしれない。そんな、この世の奇跡の全てを積み重ねても及ばない大奇跡。
想像力豊かな人間が、神という意思の存在を確信しても、何らおかしくはないわねぇ。
まぁ、どれだけ天文学的確率であっても、結局はただ確率の低いだけのこと。
無造作に投げた小石が、たまたま他の小石に当たったのをありがたがっているだけの話。
その石が地面の他の一点に落ちる確率も、同じことなのにね」
「なるほど……くっくっく……」
司馬懿は嗤う。
「お前らしい答えだよ。偶然こそが神……まぁ、間違ってはいないさ。
だが、私の目指すものは違うな。
神を定義する者が人間である以上、それは何らかの意思を介在するべきものであるはずだ」
「矛盾しているわ。意思は生命体の数だけ存在する。
意思を持った時点で、それがどれだけ巨大な力を持っていようと、他の生物と同一次元の存在に過ぎない。
それとも、貴方の目指す神ってのは、ただ力が強ければそれでいいっての?」
「愚問だな。肉体の強弱などに私の見出だす価値などない。
精神の強弱などという曖昧な概念にも興味は無い。
私が望むもの……それは“完全なる支配”。
全ての価値を“神の意思”の下に統一するのだ……」
司馬懿は語る……人間の数だけ善悪があるように、この世には無数の真実が存在する。
どんな生物であれ、精神に優劣はない。
それらの頂点に立つ意思こそが、“神”と呼ぶにふさわしい。
優劣をつける方法は“ただ一つ”……
この世界に存在する意思が、たった一つになればよい。
「人間の数だけある遍く概念を一つにする。
その時こそ、善悪の境は明確になり、神の意思へと昇華されるのだ」
司馬懿が語り終えた後、諸葛亮はわざとらしく驚いてみせる。
「な、何ですって――!!
と言えば満足かしら。なるほどねー。
あんたの言う神ってのは、全ての思想や意志をあんた色に染め上げることなのね。
そりゃ神様と言ってもいいかもね。宗教がいい例だわ。
同じ宗教に属す人間は、皆同じ神を信じ、同じ思想を持っている。
そんな共通認識があって初めて、神は神となる。信者は神の存在によって、思想や行動を制限される。
それは神の支配とも言い換えられるわね。
その解釈なら、何も宗教に限った話じゃない。
尊敬であれ恐怖であれ、人々の思想を自分の意思に統一するならば、王や将軍、果ては村の長とて神ということになる。
“私たちの世界”にもあったわよねぇ?
“科学”という名の万能にして絶大なる神が……」
諸葛亮と司馬懿は、過去を思い出して互いに苦笑する。
絶対的な科学崇拝。人類の急激な進歩に、何の疑問も抱かなかった世界。
その進歩が破滅へ向かっていることに気づいた時には、既に遅かった……
あたかも人類の傲慢を裁くかのように、世界は人類自身の咎によって滅びを迎えることとなる。
天に達することを目指したために、神の怒りに触れて崩された塔のように……
「で、どうなの? あんたも皆から尊敬される宗教家にでもなって、歴史に名前を残したいの?」
「くくく……違うな、まるで違う。
私の目指すものは、そんな人間に為し得るような次元ではない……」
諸葛亮は喋らない。いよいよ問題は核心に迫ろうとしている。
今の彼は自分に酔っている……あえて口をこじ開けようとしなくても、勝手に喋り倒してくれるだろう。
彼女は、共に白衣を纏った元同僚の性質をよく知っていた。
「全ての人類の意思を、神……即ちこの司馬仲達の下に統合する……
その時こそ、幻想の真実は尽く消え去り、唯一無二の“神の真実”が世界を照らすのだ……」
目を大きく開く諸葛亮。
いくらか予想していたとはいえ、今度は本気で言葉が出ない。
半分は驚愕に、もう半分はあまりにもの馬鹿馬鹿しさに。
「そんなことが……」
「可能なのだよ。奴が遺した“未来歴史書”を利用すればな」
その言葉を聞いた諸葛亮の表情が、やや強張った。
「……実在したのね」
「ああ、こいつの存在を確認した瞬間、私は計画の発動を決断した」
「それを奪うために、先生を殺したのね……」
「“あれ”の内容と使い道を知っているのは私を除けば奴だけだった。
どの道、奴を生かしておくわけにはいかなかった……」
未来歴史書……希代の道術師、左慈が長い長い……千年を超える時を費やして完成させた、道術の秘奥義。
書物の形状をとってはいるが、実際は書の形をした“道術そのもの”であり、その記述は千変万化する。
その効用は、使用者が望んだ未来へと至る歴史を紡ぎ出すこと。
因果という言葉があるように、未来とは、いくつもの出来事が積み重なって決定されるもの。
奇跡とは必然であり、何の関係もなさそうな事象が連鎖して発生するものなのだ。
幾つもの小さな歯車が噛み合って、巨大な機械を動かしているように……
歯車とは事象であり、機械とは歴史であり、そしてその機械によって生み出されるものこそが奇跡なのである。
未来歴史書は、奇跡に至るまでの道筋を詳細に記す。
その記述通りに歴史を改変していけば、誰でも望み通りの奇跡を起こすことが可能となるのだ。
これさえあれば、世界を思うがままに動かすことも可能……まさに運命の神が持つべき禁忌の書だ。
ただし、全ての人間に扱える代物ではない。
奇跡を実現するまでにかかる期間は、千年、二千年に及ぶ。
ゆえにただの人間、武将では、生きている内にその奇跡を実現できない。
また、歴史を動かすことは誰にでもできるものではない。
権力、財力、組織力……あるいは、それを超えた力が必要だ。
だが、不老不死の肉体を持ち、数多の秘術を駆使する存在ならば……
「“馬鹿に刃物”というけれど、あんたのためにある言葉よねぇ」
諸葛亮の皮肉も、司馬懿は涼しげに流す。
「くくく、そう言うな。あの男とて、これを使って歴史を操作していたのだからな」
製作者の左慈も、この書を用いて自らの希望を叶えようとしていた。
「いや、この世界がこうして新生したのも、この書が実現した奇跡なのだ。
それがどれほどの奇跡か……まさしく神の御業だとは思わんか?」
まるで自分が作り出したように、得意げに語る司馬懿。
科学技術の暴走によって、破滅の未来が決定的となった世界。
世界が終焉を迎える寸前で、左慈は救世の書を完成させた。
世界の崩壊を避けることはできなかったが、その後、すぐに新たな世界を創造することには成功した。
そう、今二人が立っているこの中華の大地は、左慈の手によって新生された世界なのだ。
最果ての未来が滅んだ後、世界は再生し、文明は初期段階までリセットされた。
人類は再び原始時代から進化を重ね、今の時代へと至ったのだ。
「だが、完全な再生とはいかなかった。
生まれ変わった世界は、依然幾つもの歪みを内包していた……」
例えば“武将”……常人を遙かに超える身体能力を持つ彼らの正体は、崩壊前の世界に存在した、“超人”の遺伝子を受け継いだ者達だ。
科学技術の進歩は、人類を超人に変えることに成功した。
武将達が不老の肉体を持つのも、彼らの遥かなる祖から受け継いだ特質である。
ただし、不老は成しても、不死の域に達する者は誰もいなかった。
唯一の例外は、諸葛亮や司馬懿ら崩壊前の世界からそのまま転移してきた者達であり、彼女らの知る限り、該当するのはたった四人しかいない。
「奴が目指したのは、完璧なる再生。
歪みを取り除き、元通りの自然な地球を蘇らせようとしたのだ」
左慈は幾度と名と姿を変え、歴史の表舞台に姿を現し、歴史を改変してきた。
ある王朝の隆盛に加担したかと思えば、その王朝が腐敗を極めた時……
軍師となって反乱軍に加わり、新王朝の樹立に協力したのはその一例である。
全ては、未来歴史書の記述に従った通りだ。
「だが奴は愚かだった。
世界を元の姿に戻したところで、人間どもは同じ過ちを繰り返し、再びこの世界を滅ぼすだろう。
愚かな人類による統治はいずれ破綻する。それは誤った歴史なのだ……
有象無象の意志を、神の下に一つにすることこそが、未来を繋ぐ唯一の道!
そしてその神となるに相応しい者は、この司馬懿をおいて他にいない!
我こそは歴史の修正者、神になるべき男だ!!」
有頂天になった司馬懿に冷ややかな視線を送りながら、諸葛亮は考える。
(なるほど……ね……)
いかなる奇跡かはわからないが、司馬懿の思うがままに歴史が進めば、全ての生命体の意思は司馬懿に統合されてしまうらしい。
それほどの奇跡を起こす現象といえば……心当たりがないこともない。
(この世の人間全てがあいつと同じになっちゃうのか……)
男も女も、若者も老人も、美少年も美少女も、皆が司馬懿のように馬鹿笑いをあげる光景を思い浮かべてしまい、諸葛亮は気分が悪くなった。
「ぞっとしない話ね。でも、分かってんの?
全ての意思を一つにするってことは、自分以外の全てを皆殺しにするのと同義なのよ?」
人間を人間たらしめているのは、肉体ではなく精神だ。
一人一人違う心を持っているからこそ、人間は自我を、個性を確立できる。
例え肉体が一切傷つかずとも、別の精神と入れ代わってしまえば、その人間は死を迎えたことと同じである。
「それがどうした? 愚昧にして矮少なる旧人類の思想など、存続させる価値などない。
これは救済なのだ。全てが神の意思と一つになれば、苦しみも悲しみも、死すらも克服できる!
これこそ人間どもが夢見てきた、理想の世界ではないか!
そう、我は神! 真実の統合者にして、全能の救世主なのだ!!」
(ああ……)
今更ながらに再認識した。これだ……これが司馬仲達という男の本質だ。
平和だの救済だのを声高に叫びながらも、その実そんなものは彼にとってはどうでもいいことなのだ。
彼の望みは、己が神になることで得られる自己満足、ただそれだけだ。
この男は、徹底的に自分だけを愛している。自分が最も尊い存在でなければ気が済まない。
その証を手に入れるためならば、他の全てを犠牲にできる。
いや、犠牲にしているという意識すらない……
「はいはい、わかったわよ。で、さっき袁紹の陣で何かやろうとしてたけど……
それもあんたの言う、歴史の修正とやらに関わっているわけ?」
得意げに話していた司馬懿の表情が陰る。
「だとしたらご愁傷様。何をするつもりだったか知らないけど、これであんたの計画はご破算ってわけね」
忘れていた傷口に、言葉の塩を塗り込む諸葛亮。
司馬懿は何とか平静を保とうとしているが、憤怒と憎悪の念は隠せない。
あそこで許攸をそそのかし、袁紹を裏切らせれば、戦の流れは曹操に傾いたはずだった。
それが、未来歴史書に記された“正しい歴史”だったのだ。
それが、この女の乱入によってぶち壊しになってしまった。
ならば、司馬懿自らが手を下す道もあるだろうが、それはできない。
歴史書には、袁紹軍を敗北に導く者として、はっきり“許攸”の名が記されている。
孫堅、孫策の時は、誰が殺すかまでは記されていなかった。
だからこそ、司馬懿は直属の配下を動かして暗殺することができたのだ。
だが、今回は違う。司馬懿自身が曹操軍に加担することは許されない。
彼が歴史の表舞台に立つのは、もっと先の話になる。
それまでは、あくまで裏方に徹し続けなければならない。
「どんな気分かしら? 今までこつこつ進めてきた計画を、ぶち壊される気分は?
悔しいでしょう?はらわたが煮え繰り返るでしょう?
どうにかして見なさいよ自称神様ぁ!」
司馬懿の心境を読み取ったのか、ここぞとばかりにねちっこく嘲弄する諸葛亮。
実際……状況は最高に悪いと言わざるを得ない。
よりによって、この女に捕まってしまうとは!
他の人間ならばどうにかなるだろうが、こいつにはいかな取引も通用しない。
この女は何を考えているのか全く読めない。怠け者でいい加減、約束を守るという意識すらない。
そんな相手に、駆け引きを仕掛けることなど無意味だ。となると、取るべき手段は一つしかない。
「……別にどうということはない。この場で貴様を始末すればいいだけのことだ」
司馬懿の敵意が殺気へと変わる。それでも、諸葛亮は表情を崩さない。
最初から予想できていた流れだ。
「あっそ、でもあんたにそれができるのかしら。
この間だって、何とか逃げ延びただけのくせに」
「貴様と不毛な戦いをすることなど、時間の無駄だからな」
“この間”といっても、約十数年前、太平道の教祖、張角が死んだ頃の話だ。
あの時、張角に化けていた司馬懿は諸葛亮に発見され、激しい戦いを繰り広げた。
結局決着はつかず、司馬懿は戦闘の噴煙に紛れて逃げおおせた。
以後、今日に至るまで、諸葛亮は司馬懿を捉えられずにいた……だが、あの時と今とでは状況が違う。
司馬懿が目的を果たすには、目の前の敵を打ち倒さなければならない。逃げることはできないのだ。
(そして、認めたくは無いが……)
諸葛孔明は強い。戦闘に関しては、師である左慈を遥かに上回るだろう。
おまけに、厄介な特質を兼ね備えている。
こいつと真っ向からやり合って突破できる可能性は、低い。
配下に命じて自分の代行を任せる……という手もあるだろうが、自分と諸葛亮のいる場所は、既に結界により閉ざされている。
助けを求める信号を送ることもできない。
怠け者のくせに、妙なところで目敏い奴だ……
「どうしたの? さっさとかかってきなさいよ。
全く、神だの何だの言うことはでかいくせに、肝心なところで臆病者なんだから。
だから、孫堅や孫策を殺す時も、他人任せにするのよね。
万が一返り討ちに遭うのが怖いからでしょ。基本的に小物なのよあんたは」
「! 何故それを知っている!?」
「こないだ揚州に行った時にね、“兄さん”に会ったの。
試しに聞いてみたら、全部喋ってくれたわ」
「瑾か……口の軽い奴め……」
邪魔をするなとは言ったが、口止めまではしていない。
いや、あの男の口を封じるなど、誰にもできない。
この諸葛亮も厄介な敵だが、敵に回すのを忌避するほどではない。それは、諸葛亮とて同じようだ。
「でも正直ほっとしたわ。
あんたと兄さんが本気で手を組んでいたら、もうどうしようもないもんね」
言葉の端には、微かな怖れが伺える。
彼女にとっても、誰にとっても、諸葛子瑜は関わり合いになりたくない“最悪”なのだ。
「孔明……何故私の邪魔をする。
お前は生きることに飽き果て、死を望んでいたのではないのか?お前の望みも同時に叶うのだぞ」
「ちょっとお、人の願望を勝手に決めないでよ。確かに今の私達は“生きすぎた”。
新鮮な驚きなんて何もない、世界には退屈しか残っていないわ。
だからといって、それで世界なんか無くなってしまえばいいなんて、ガキくさいことを言うつもりもないわ」
あんたみたいにね、と心の中で付け加える。
「退屈を無価値と断ずるのも、ただの価値観。私はこの退屈な世界に、それなりに満足しているわ」
怠惰を貪る豚めが……司馬懿は心中で毒づく。
「ならば、やはり左慈を殺した私が憎いからか?」
「はぁ? 何で私が仇討ちなんてかび臭いことしなきゃならないのよ。
前も言ったでしょ、そんなことどうだっていいの。
それに、先生が殺されたのは自業自得よ。
あんたの危険性を知りながら、何の対策も打たずに側において……優しさと甘さを混同してたのよ。
それに、未来歴史書だっけ?
そんな下らないものを作るから、あんたが阿呆な気を起こすようになったんじゃない。
なぁーんだ、諸悪の根源は先生じゃない。考えてみれば、死んで当然よね」
嬉々として師を罵倒する諸葛亮。
「くくく……死人をそこまで鞭打てるとは、たいしたものだ」
「死人にしたのはあんたでしょうが」
左慈がいなければ、彼ら二人は道術を学ぶこともなく、今日この時まで生きていることもなかった。
されど、彼らに感謝や恩義、尊敬の気持ちはかけらもない。
彼女らが考えているのは自分のことだけだ。
左慈はそんな彼らがいつか真っ当な道を歩んでくれると信じていたが……それは未来永劫叶うことはないだろう。
両者共に骨の髄まで独善と傲慢の塊で、諸葛亮はそんな自分を受け容れ、司馬懿は自分がただの俗物であると絶対に認めない。
だから、この二人は千年を経ても決して変わらないのだ。
代わりに、諸葛子瑜……彼は必要以上に他人を大切にしすぎる。
彼の場合は、他人にしか興味がないというべきか。
ただし、彼の好意が、人間達にとってありがたいものとは限らないが……
「ホント人でなしね、私達って。まぁ、不老不死のバケモノにはちょうどいいかしら。うふふ」
「バケモノは貴様ら兄弟だけだ。私は生命の器さえも超越し……神となるのだ」
黒い帯を展開する司馬懿。ついに彼も覚悟を決めた。これ以上、口で争うつもりはないようだ。
「戦う理由……ねぇ。どうもそういう堅苦しいのは嫌いなんだけど、強いて言うなら、一つだけあるわね」
「ほう?」
諸葛亮は凄絶なまでに顔を歪めて言い放つ。
「あんたの計画がおじゃんになって、あんたがわんわん泣いて悔しがる顔が最高に笑えそうだからよ!」
羽扇を一閃すると、疾風が吹きすさび、諸葛亮と司馬懿の髪を揺らす。
「血は争えんか……今の貴様の顔、兄とそっくりだぞ。
やはり貴様は生かしてはおけん。
貴様のような怠惰と気まぐれだけで生きる悪魔が、神の道を阻むことなど、絶対に許されんのだ!」
司馬懿を中心とした空間の重力が異常に増大し、彼の足元に広い陥没を形勢する。
その半径は、急速に広がり、諸葛亮を飲み込もうとする。
重力円に飲まれた部位は、巨岩であろうと砕かれ、圧縮され、更地の砂へと変えられる。
この力でさえも、司馬懿の扱う術のほんの一端に過ぎない。
異変はそれだけではなかった。
先程まで晴れ渡っていた空が、分厚い暗雲によって閉ざされ、風の勢いも肌を切り裂かんばかりに強くなる。
「なぁにが神よ。自分が偉いと思い込まなくちゃ生きていけない臆病者のくせに!
あんたはのぼせ上がったただの無能ってことを思い知らせてやるわ!」
「神を愚弄する大罪者には厳罰を与える!
惰眠を貪る豚めが、そのまま死の眠りにつくがいい!」
今この周辺に、彼女ら以外の人間は誰もいない。
人間を超越した二人は、互いの秘術を尽くして激突する。
何か凄く間空いてしまって申し訳ありませんでした!
核心部分のネタ晴らし、
されどほとんどの登場人物にとっては知る由の無い話。
実際「司馬懿は歴史を操作して自分の野望を叶えようとしている」ということだけ分かれば十分だったりする……