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三国羅将伝  作者: 藍三郎
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第十七章 官渡の決戦(六)

 伸ばした腕さえも霞んで見える豪雨の中、関羽は気配を殺しつつ全周囲に警戒を払っていた。

 曹操の下を離れてからずっと、彼は何者かに命を狙われ続けている。

 曹操の立場からすれば、当然の措置と言えるだろう。


 その者は、決して正面から襲ってこない。

 気配を完全に殺して関羽を追跡し、一瞬でも隙を晒せば即座に仕掛けてくる。

 殺意だけは、昼夜問わず傍にある。それでいて、居場所は決して掴ませない。


 本物の“暗殺者”だ。これにより、関羽は、一瞬たりとも気を抜けない旅路を強いられている。

 睡眠もろくに取れていない。それこそが、敵の本来の狙いなのだろう。

 標的を片時も気を緩めぬ緊張状態に置き、体力と精神の消耗を狙っている。

 その双方が尽き果てたところで、一気に始末するつもりなのだ。


 今関羽は、深い森の中にいる。既に時間は真夜中……加えて暴風雨が森の木々を揺り動かしている。

 森、夜、雨……今関羽は、視界を閉ざす三重の闇に囚われている。

 暗殺者が活動するには実に理想的な舞台だ。

 好んでこんな場所にいるわけではない。

 敵から逃げ、あるいは追いかけている内に、いつの間にかこの森に閉じ込められてしまった。

 全ては敵の作戦通り。

 多数の兵から成る軍を率いて敵の軍を打ち破る策を練るのが軍師ならば、暗殺者はただ一人の標的を殺すために知略の限りを尽くす策士なのだ。


 闇の中から、鉄の爪が襲い来る。これで一体何十回目の奇襲になるのだろうか。

 関羽は手にした直剣で黒い爪を打ち払う。

 曹操軍を出奔した際、青龍偃月刀はやはり偽物とすり替えられていた。

 自分の手にあるのは、兵卒用の直剣だけだ。だがその剣も、もう限界が近づいている。

 後一撃受ければ、木っ端微塵に砕け散ってしまうだろう。

 自分の身体についても、冷静に分析する……こちらもまた、蓄積された疲労が限度に達しつつある。

 自分の体のことは、自分が一番よく分かっている。

 少しでも体力の回復を計らねば、いずれ力尽きてしまう。


 関羽は大木に背を密着させ、背後からの攻撃を断つ。

 ここにいれば、前と左右、そして頭上に注意を払っていればいい。

 敵の正体はもう分かっている……以前、下丕城で共闘したこともある、于禁という男だ。

 彼には恩があるが、敵味方に分かたれた今となっては関係ない。


 于禁も本気で自分を殺しにかかって来ている。

 任務に忠実なだけでなく……それ以上の強烈な殺意が感じられた。

 何日も狙われ続けていると、やがて相手の心理や気負いのようなものが伝わって来る。

 だが、彼が自分にいかなる確執を持っていようと……相手はこちらを全力で殺そうとしていることに変わりはない。

 自分は何としても生き延びなければならない。

 于禁の冷たくどす黒い殺意の網を突き破り、何としても兄弟達の下に帰らねば……

 

 

 その時……微かな気配の変化を察知して、関羽は前方に注意を払う。

 豪雨の中からぼんやりと、黒い人影が浮かび上がる……

 銀髪に黒い覆面、黒い衣を纏った姿は、翼を折り畳んだ蝙蝠こうもりのようだ。


「于禁……殿……」

「貴様は……」


 于禁は覆面の下から言葉を発する。

 丸一ヶ月以上追跡されているが、彼の声を聞いたのはこれが初めてだ。


「関羽……オレは貴様を認めない……貴様の全てを否定してやる……」


 彼の言葉が何を意味するのか……そんなことはどうでもいい。

 暗殺者が眼前に姿を現した今こそ、千載一遇の好機。

 残り体力を考えれば、ここで奴を仕留めなければならない。


 すかさず前へ足を踏み出した瞬間……雨音に混じって、鎖のしなる音が聞こえる。

 それに気付いた時には、既に遅かった。



 背後の大木を突き破り、黒い爪が飛び出てくる。

 避ける暇も無く、于禁の爪は、関羽の背中へと深く食い込んだ。


「……ッ!」


 激痛が背中を襲う。全て敵の狙い通りだった。

 大木を背にしたのが裏目に出た。危険を承知で姿を現したのは、関羽の注意を前ににひくため。

 話しかけたのは、大きく円弧を描いて背後を撃つ鎖の音を掻き消すため……

 暗闇に豪雨という有利な環境に加え、さらに工夫を凝らすことで、己が策を万全のものとした。

 鉄爪は関羽の肉を掴んだまま、大木へと引き付ける。

 それと同時に、爪と接続された鎖が周囲を旋回し、関羽の体を縛り付ける。

 この鎖は、曹操軍の許楮でも容易に引きちぎれない代物だ。

 これで、関羽は大木という天然の十字架に、磔にされたことになる。


「ぐ……」


 太い幹をも突き破った爪の力が、関羽に苦痛を与える。

 まるで、于禁の激しい敵意が爪に宿っているかのようだ。


「死ね……!」


 静かな死刑宣告と共に、関羽の脳天目掛けて、もう一方の鎖鉄爪が振り下ろされる……






 袁紹軍本陣……

 

 鉄の壁で護られた官渡要塞に、地下道を掘って侵入するという策略を立てた袁紹軍だが……

 三日三晩降り続けた豪雨と、曹操軍の妨害により、地下道は崩落してしまう。

 天運は曹操に味方し……その命脈を保つこととなった。

 しかし、依然袁紹軍の絶対的優位は揺るがない。

 地下道も、袁紹軍にとっては早期に決着につけるための手段の一つでしかない。

 失敗したところで、袁紹軍にはさしたる損害などないのだ。

 急がずとも、後一月で曹操軍の兵糧は尽きる。

 長期戦になれば、兵力で勝るこちらが圧倒的に有利なのだ。


「く……くくくくく……!!」


 杯の中の酒をあおってた袁紹の口からは、自然と笑みが零れる。


(感じる……感じるぞ! 我が掌中で、勝利の鼓動が高鳴っておるのが!

 後一月……その程度、これまで積み重ねてきた戦いの日々に比せば、刹那の一時に等しい……!)


 驕りでも幻想でもない。確かな勝利の実感を、袁紹は掴みつつあった。

 一方で、どれだけ精神が高ぶろうと、彼の根源は冷静さを保ち続けている。

 極めて客観的に判断して……自分の勝利は揺るぎないことを理解したのだ。

 しかし、だからといって、この後戦の手を緩めることはない。

 最後の一瞬まで気を抜くことなく、全力を尽くして戦う……

 それが真の王者の、真の勝利者のあるべき姿であり、長年自分の好敵手であり続けた曹操への礼にもなるはずだ。


(礼か……くくく……)


 ついらしくないことを考えてしまい、苦笑が零れる。

 しかし、不思議と違和感がない。

 思えば、長年事あるごとに対立してきたものの、曹操に怨みや憎しみの念を抱いたことは一度もなかった。

 確かに、曹操にしてやられ、悔しさや劣等感を抱いたことは幾度とある。

 だが、思う存分感情を爆発させた後に残るのは、曹操という男の桁外れの才への素直な感嘆の念だけだった。

 幼少期から、あの男の才覚は袁紹を圧倒し、魅了してきた。

 しかし、袁紹は決して屈服しなかった。

 名門出身の意地と誇りで自分を繋ぎ止め、曹操にだけは負けたくないと克己し続けた。

 その一念は名門袁家の名よりも、中華統一の野心よりもさらに大きな力となり、袁紹を今の場所まで押し上げた。


 自分がここまで来ることができたのは、曹操がいたからなのだ。

 彼が最強の敵でい続けてくれたからこそ、自分は強くなれた。

 今、胸の内から沸き上がる、この感情の渦は……


(ああ……そうか……私はお前に、感謝したいのだな、曹操……)


 敵意も悪意も超えた先にあるもの……それは、混じり気のない感謝の念。

 曹操という男に、この破格の才と同じ時代に生まれたことに、心から感謝していた。

 彼がいなければ、自分の半生はここまで実りあるものにならなかっただろう。


 曹操だけではない。田豊、沮授……文醜、顔良……

 自分を支えてくれた、部将や軍師、戦の最前線で戦う末端の兵士達、

 生きるに欠かせぬ食を生み出す民草……自分を産み落としてくれた両親、そして今自分が立っている、悠久なる中華の大地。


 もし何か一つでも欠けていたら、今の自分は存在しえなかったかもしれない。

 袁紹は、同じ大地に住まう生きとし生ける全てに無上の感謝を捧げていた。

 いつしか、彼の瞳に涙が浮かぶ。


(おお……何と快なることか……

 全てを赦し、ただ感謝するだけで、世界がこれほどまで輝いて見えるとは……)


 彼の瞳に映る世界は、黄金の輝きを放っていた。

 燦然たる光に照らされて、袁紹はついに悟る。

 世界を美しく輝かせるのは、己の気持ちの在り様にかかっている。

 身の回りの世界の全てを愛し、認め、受け入れる。

 さすれば世界は直ちに黄金郷に変じ、心を豊饒の海で満たすだろう。


(これこそ王者のあるべき姿。

 今こそ私は、真の王者に成ったぞ……成ったのだっ!!)


 果てしなき寛容の精神こそが、真に世界を豊かにする。

 この真実を世界中に広めていくことこそが、王たる者の務めなのだ。


 袁紹は今初めて、己が何故この世に生を受けたのか理解した。







 勝利がほぼ確定したとはいえ、袁紹軍内は弛緩した空気とは無縁だった。

 皆、最後の一瞬まで油断すまいと気を引き締めている。

 そんな中……軍師、許攸もまた、憮然とした表情で通路を歩いていた。

 ただし彼は、新たな策に頭を悩ませているわけではない。

 袁紹軍の勝利はもう決定している。彼が気にしているのは、この戦が終わった後のことだ。


(まずい……まずいぞ……)


 彼は焦っていた。この戦で功績をあげて、来るべき新王朝で要職に就くつもりだったが、彼は未だ満足できる成果を上げられていない。

 このままでは、“その他大勢”と同じく、凡庸な軍師として歴史に埋もれることとなるだろう。

 勝利が決定的となった今、彼にはさらにその上を目指す欲が生まれ始めていた。

 自尊心の強い彼は、自分が評価されない理由を己の無能ゆえとは考えない。

 彼の苛立ちは、袁紹に重用される田豊や沮授……そして袁紹自身に向けられていた。


(私の才能はまだまだこんなものではない。力を十二分に発揮できないのは、環境が悪いからだ!

 身内びいきの袁紹様に、ただ媚びへつらい、上の命に従うだけの重臣達!

 個の功績を全の勝利に取り込むこの軍では、我が名を歴史に刻むことなど叶わない……!)


 個人の力を全体に還元する方針こそ、袁紹軍の要であり、許攸も当初はそれに賛同していた。

 しかし、勝利が確定するに至り、ただ勝つだけでは満足できなくなっていったのだ。

 酒が入っていたせいもある。やがて彼の思考は、禁断の領域に達する。


(曹操……奴の下に行けば、あるいは……)


 この戦の趨勢を翻しかねない情報を、許攸は握っている。

 それを曹操に明かせば、曹操軍にも勝機が出てくる。

 もしも曹操軍が勝利するようなことがあれば、自分は大戦の勝敗を決定づけた男として、必ずや歴史に名を残すだろう。


(……ちっ、何を考えているんだ私は……)


 万が一の情報漏洩を防ぐため、重臣らの行動には厳しい制限がかけられている。

 袁紹の許可なく陣を出ようとする者は、誰であろうと斬ってよいと、衛兵達は命を受けている。

 協力者を募ろうにも、逆に袁紹に密告でもされたら我が身の破滅となる。

 冷静になればなるほど、危険と成果の釣り合いが取れていないことが分かる。

 今のは気の迷いだ。こんな馬鹿馬鹿しい考えは、直ちに頭から消し去らなければならない。 そう自分に言い聞かせながら通路を歩いていると……


 眼前を、黄金の光が包み込んだ。



「え、袁紹様!!」


 先程まで謀反のことを考えていただけに、主君の顔を見た瞬間、許攸の心臓は跳ね上がった。

 心を読まれてしまったのかと戦々恐々になる。

 そんなありえないことを想像してしまうほど、今の許攸は動揺していた。だが……


「どうした? 許攸……」


 柔らかな笑みを浮かべて話し掛ける袁紹。

 許攸は、どう反応してよいものか解らなくなる。

 今の袁紹は、許攸の知る彼からは考えられないほど、暖かな雰囲気を湛えていたのだ。


「随分、浮かない顔をしているようだが……」

「は、はぁ……」


 袁紹には、許攸が悩んでいるように見えたのか。

 確かに外れてはいないが……そんなことよりも、あの袁紹が部下を気遣うような発言をしたことが驚きだった。


 袁紹の瞳に憂いの色が浮かぶ。

 これまた袁紹には似つかわしくないが、まるで雨に打たれる仔犬を見るような憂慮の気持ちが伺えた。

 いつもと全く違う袁紹に、許攸はどう反応してよいか分からない。


「不安なのか? 曹操に勝てるのかどうか……」

「は、はい。その通りです……」


 とりあえずこの場を繕うために袁紹に同意する許攸。

 この期に及んで弱腰な態度だと一喝されるのだろうか。

 叛意を見抜かれるよりはずっと良いが……萎縮する許攸に対し、袁紹はその肩に優しく手を置いた。


「そうか。私も同じ気持ちだ」

「え……!?」


 これまた想定外の反応だ。勝利を確信して、有頂天になっているとばかり思っていたのに……


「戦は生き物……何が起こるか分からぬ以上、どこまで行っても不安から逃れることはできぬ。

 だが、それは恥ではない。むしろ、恐れがあるからこそそれを消し去るために努力し、思考し、慎重になる……

 完璧な軍略とは、不安と恐れ無くしては生み出せぬ。

 その点、お前の在り方は実に軍師として相応しいと言えよう」


 一体、どうしたというのか。今までの袁紹とはまるで違う。

 彼はこんなに穏やかな声音で喋る男だったのか?

 彼の言葉は、こんなに安らぎを感じさせるものだったのか?


「時に許攸よ……お前には済まないことをしたな」

「は……な、何のことでしょうか?」

「お前が、今の扱いに不満を持っていることは分かっている……」


 身体が一気に冷え込む。この男は、自分の心中を見抜いていた。

 先程芽生えた叛意もお見通しなのかもしれない。

 生きた心地がしなかった。だが、袁紹が次に発した言葉は許攸にとって全く意外なものだった。


「済まない……」


 袁紹は眉に憂いを浮かべて謝罪する。

 許攸は困惑のあまり、何故袁紹が謝るのか理解できない。


「私はこの戦に勝つために、思いつく限り最善の手をとってきた。

 だがその結果、許攸、お前達一部の軍師を冷たく扱ってきたことは否めない……」


 許攸は声も出ない。今まで不満に思っていたが口には出せなかったことを、主自ら指摘したのだ。


「だが、理解してくれ。全ては我が軍を勝たせるため……ひいてはお前自身のためでもあるのだ」

「も、もちろん、分かっております。不満などあろうはずが……」


 慌てて返事をする許攸に、袁紹は笑いかける。

 それは、見る者全てを和ませる、まるで聖母のように邪気のない笑顔だった。


「安心せよ。私はお前を無能だとは思わぬ。

 この戦は通過点に過ぎない。お前の未来はまだまだこれからだ。

 私はお前もまた、我らが新王朝に必要な人材の一人なのだ。わかるな?」

「袁紹……様……」


 自分は、袁紹に必要とされている……

 今まで生きてきて、かつてこれほどまで心を打たれることがあっただろうか。


「私が今の地位にいられるのも、お前達が長年尽力してくれたからだ。

 心から……感謝したいと思う」


 感謝!

 あの唯我独尊、傲岸不遜の化身とも言うべき袁本初から、そんな台詞が飛び出そうとは!

 だが、今の袁紹ならば何の違和感も無く受け容れられる。

 この人物に感謝されることを、心から光栄に思う。

 

「そ、そんな、袁紹様……それは、臣下として当然の務め……」

「何を言うか。奉仕に対して感謝するのは、人間として当然の行いであろう。

 だが、私もつい先ほどまでは、そのことに気づかずにいた……

 私はついに知ることができたのだ。感謝する喜びと言うものを……

 私が、どれだけ多くの人間に支えられて、この場所にいるのかという事を……」


 世辞でも冗談でもない。袁紹の瞳は、どこまでも真摯で澄み切っている。


「自分を取り巻く全てを愛し、感謝する……

 そうなれば、世界から醜い争いは消え、豊かな平和が永遠に続くだろう。

 そんな美しい世界を、私は創りたい……」


 許攸は、己を恥じた。

 こんな自分を素直に受け入れてくれる袁紹を前にして、

 名誉や功績にこだわっている自分が、いかにちっぽけな存在か思い知らされたのだ。


 袁紹の体から、金色の光が立ち上っているのが見える。

 それは、彼の黄金の装いから放たれているのではない。

 彼の内面から発せられる、高貴なる魂の輝きなのだ。



「許攸……どうか、我が臣として、私に力を貸してくれ……」


 袁紹の言葉を聞き、許攸は自然とその場に跪いていた。

 あまりにも大きな器を見せ付けられ、真っ先に魂が平伏したのだ。

 そんな自分自身の反応から、許攸は確信する。


 この御方は必ずや中華の、いや世界の覇者となる。

 何人であろうと、この果てしなく美しく、高貴な魂に魅せられずにはいられないだろう。

 袁本初こそ、全ての民の信望を一身に集めることのできる、真の王者なのだ。



「この許攸……改めて貴方様に永遠の忠誠を捧げることを誓います……!」


 袁紹は満面の笑みを浮かべると、ゆっくりと頷いて見せた。








 袁紹と別れた後の許攸は、実に晴れやかな顔つきだった。

 もはや迷いは微塵も無い。自分は最期まで、あのお方に曇りなき忠誠を捧げるのだ。

 その結果、自分の名前が歴史に残らずとも構わない。

 そんなことより、袁本初という偉大な英雄の名を歴史に留める。

 その礎となることこそが、自分に課せられた使命なのだ。

 心から敬服できる主に巡り逢えた……それ以上の幸福が、一体どこにあるというのか。


 感謝と喜びに満ちた顔で、軍議へと向かう許攸。だが……



「!?」


 突如、目の前の空間が歪む。眩暈でも起こしたのかと思ったが、確かに空間が捻れている。


「な、何だ……?これは!?」


 程無くして、空間に亀裂が生じ、中から黒ずくめの怪人物が現れる。

 何もかもが、許攸の理解を超える現象だった。

 その人物は、狼を模した紫の仮面を被り、黒い布で全身を包んでいた。


 明らかに不審人物である。

 声を上げて誰かに知らせようとするも……喉に鉛を詰められたように、一言も発することができない。

 周囲の様子もどこかおかしい。ここには大勢の人間がいるはずなのに、全く人の気配を感じない。

 目に見える光景は同じでも、別の場所に飛ばされてしまったようだ。



「許攸よ……」


 困惑の極みにある中で、その者は男の声で喋る。


「今ここには、私とお前しかいない。

 疑問を抱くな。助けを求めるな。ただ、あるがままを受け入れよ」



 仮面の男は、一歩一歩こちらに足を進める。

 異常な状況に脳が追い付いていかない。

 そんな中で、考えるのを止めて全てを受け入れてしまうのは、中々に甘い誘惑だった。

 その言葉と存在には、思考を停止させる魔力が含まれていた。


「光栄に思うがいい、許攸よ……お前に、歴史の修正に参加する資格を与えよう。

 その名を史書に刻みたくば、我が命に従うのだ……」


 仮面の怪人は、許攸に手を伸ばす。困惑する許攸は、それに抗う術を持たず……




「はぁい、そこまでにしておきなさい」


 頭の中を丸ごと洗うような、強烈な風が吹き抜ける。その風力に、許攸は一瞬目を瞑ってしまう。

 再び目を開いたその前には……


 紫の衣に身を包み、流麗な黒髪を背中まで伸ばした女がいた。

 羽根を束ねた扇を携えたその姿は、仮面の男と同様、この世の者ではないかのような異質さを有していた。

 だが、あの女からは仮面の男のような恐怖は感じなかった。

 なぜなら……一瞬だけこちらを振り向いた時の彼女の横顔が……

 息を飲むほどに、小賢しい思考をねこそぎ刈り取るほどに……


 美しかったからだ。








 彼女はすぐに前を向き、仮面の男と対峙する。


「貴様……」


 男の声には、明らかに忌々しい相手と出会ったと言わんばかりの嫌悪感が込められていた。


「さて……いくらか言いたいことはあるけども……ひとまず場所を変えましょうか」

「………………」


 女は手にした扇を一振りする。

 すると、今度は横から突風が吹き込む。

 局地的な竜巻は、轟音と共に許攸の視界を白と灰色で覆い尽くす。



 風の音が止んだ頃には……許攸は、元いた通路に戻っていた。

 仮面の男も、黒髪の女も、影も形も無い。

 まるで全てが白昼夢であったかのように、先程の異変の痕跡はどこにも残っていなかった。

 

 幻覚でも見たのだろうか。あの数々の怪現象を説明するなら、最も合理的な説明に思える。

 だが、許攸はあれを幻覚として片付けたくなかった。

 夢と違い、先程自分が遭遇した事態は、確かな体験として記憶に刻まれている。


 それに何より……あの美女の存在を、幻想とは思いたくない。

 脳を蕩かす美貌は、しかとこの頭に刻まれている。

 この世ならざる美しさ、あれはまさしく……



「あの方は……天女様だ……!」



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