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三国羅将伝  作者: 藍三郎
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第十七章 官渡の決戦(五)

「え…………」

 

 全ての時間が凍り付いたように感じた。

 今、自分の目の前には主、曹孟徳がいる。

 つい先程彼が告げた言葉が、荀或を烈しく打ちのめした。

 その言葉は、実に鮮明に刻み付けられ、頭の中を回り続けている。

 それでも、荀或はその言葉を信じることができなかった。いや、認めたくなかった。


「い、今、何とおっしゃいました?」


 無礼を承知で聞き返す荀或。彼は、縋り付くような目で曹操を見上げている。

 荀或は切に願う……曹操が、冗談だと笑い飛ばして、今の発言を否定してくれることを……

 しかし、答えは変わらず、荀或を更なる絶望で打ちのめすだけだった。

 曹操は、いつもの笑顔のままこう言い放つ。


「袁紹に降伏する。そう言ったのだ」


 足元の大地が割れ、自分の体が奈落へ吸い込まれていくような錯覚に捕われる。

 夢だ……これは悪い夢だ、そうに違いない。だが、曹操の次なる一言が、荀或を現実に引き戻す。


「この戦……余の敗北まけだ」


 あれから……官渡要塞を包囲した袁紹軍に対し、曹操軍は劣勢を強いられていた。

 そんな中、曹操は荀或に、二人きりで話したいことがあると自分を呼び出した。

 そこで曹操ははっきり言い放った。もはや勝ち目は無いから袁紹に降伏する、と……


「何故……ですか?」


 震える声で荀或は問い掛ける。彼の中では、まだ曹操の意志を受け止めきれていない。


「何故、何が何故なのだ?」


 聞きたいことは沢山ある。

 何故、今なのか。何故、急に心変わりしてしまったのか。何故、何故、何故……


「……どうして、僕だけにそんなことを?」


 混乱の中、荀或の口から出たのは最も関心のない問いだった。

 少しでも核心から遠ざかりたいという怖れがあったのだろう。


「無論、全員に話すつもりぞ。たまたま最初に話したのがそなただったというだけのことよ」

「そ、そうですか……」


 言葉が出てこない。未だに気持ちの整理がつかず、混乱している。

 次に口から出たのは、実に間の抜けた台詞であった。


「本気……なのですね?」


 これが二度目の確認になるが、曹操は気分を害した様子もなく頷いた。




(ああ……)


 これ以上、何を聞く必要があるのだろうか。荀或にもよく分かっている。

 自分達はもう、完全に追い詰められてしまっていることを。

 今や逆転の可能性は無に等しく、降伏こそが最善の道であることも……勝てない戦に無駄に消耗するぐらいなら、潔く降伏する。

 全てが理に適っている。そして曹操は、いかなる時も最も合理的な道を選んで来た。


 だか、それで全てを諦めてしまえるのか?

 数多の犠牲を払い、幾多の死線を乗り越え、ようやく後一歩のところまで至った天下の頂。

 ここまで来て、理想も信念も、今まで積み重ねてきたもの全てを、こうもあっさりと捨ててしまえるものなのか?


 しかし、ここで荀或は考え直す。真っ当な人間なら誰もが二の足を踏むであろう、“諦める”という選択……

 それを何の躊躇いも無く選んでしまえる決断力は、間違いなく曹孟徳のものだ。

 一体どれだけの人間が、こうも晴れやかに敗北を受け入れられるのだろう。

 彼はどんな時も、最善の策を速やか選んできた。

 ならば、敗北という道も、彼にとっては選択肢の一つに過ぎず、ゆえに迷い無く決断を下せるのだ。


「全く、大した男よの、袁紹は」


 荀或が口を開かないのを見て、曹操は一人で話し出す。


「兵力差で圧倒的に劣るこの戦、最初から、袁紹の隙に付け入る以外に勝機はないと考えておった。

 だが、蓋を開けて見れば、あやつらの陣形や戦略には一部の隙も無く、情報対策も完璧であった。

 互角の戦いを見せているようで、余らは少しずつ泥沼に嵌まり……

 あやつらは安全な場所から、棹で突いて沈めていった。

 今や余らは、肩まで沼に浸かっている状態ぞ……されどあやつらは、最後まで警戒を緩めないであろう。

 四肢が使えずとも、近づいて来た相手の喉笛を食い破ることはできる。

 あやつらはそこまで読み切っている。こちらの歯をへし折るか、口より上まで沈むのを待つか……

 どの道余らに待っておるのは、頭を叩き割られるか、完全に沈められるかのどちらかぞ」


 比喩を交えた曹操の例え話は、荀或にはよく理解できた。

 食糧の備蓄にはまだ少し余裕があるとはいえ、このまま戦局が推移すれば尽き果てるのも時間の問題……

 そうなれば、満足な作戦行動も取れなくなる。曹操の言う、肩まで泥沼に浸かった状態となる。

 後は、飢え死にするか嬲り殺されるのを待つだけだ。


「当たり前のことを当たり前にこなす。

 意識してかどうかは知らぬが、袁紹は最後まで揺らぐことなく、己の最大の長所を出し切った。

 そして、ついにはこの余をここまで追い詰めてみせた……

 こんな結末になることは、開戦する前から分かっていた。

 それでも、逃げずに袁紹との戦に踏み切ったのは、

 余の中にあやつを侮る気持ちが僅かながらあったゆえやも知れぬ……完敗よな」


 曹操の顔は、敗北の悔しさなど微塵も感じさせぬほどに晴れやかだった。

 一片の未練も後悔も無いかのようだ。

 恐らく彼にとっては、勝利も敗北も、ただの結果でしかないのだろう。

 既に定められたる結果は、一つの事象に過ぎない。あるがままに受け入れるだけだ。

 それが曹孟徳という男なのだと分かっていても、荀或は言わずにはいられなかった。


「結局、余が今まで勝ち続けて来られたのは……皆が余を侮っていたからに過ぎぬ……

 余はそんな敵の足元を掬うことで、勝ちを収めてきた。

 されど、袁紹は違う……あやつは最初から、余だけを見、余に勝つためだけに戦ってきた。

 余を侮ることも無ければ、過大に評価することもない。

 これで付け入る隙は何処にも無くなった。

 名門に生まれ、ありあまる富を持ち、天下の頂に最も近い男が……

 余のようなちっぽけな男を潰すのに全力を尽くすのだ。勝てるはずも無かろう」


「まだ……まだ全てが終わったわけではありません!

 この先何が起こるかなんて、誰にもわからないじゃないですか……!」


 達観したような曹操の物言いに、荀或は思わず叫ぶ。

 彼の言いたいことは理解できる。しかし……


「そうよな。確かに、何か予想だにしない事態が起こって、勝利の風が余に吹くやもしれぬ……

 されど、いつ起こるやもしれぬ奇跡に縋って戦うのは、果たして、曹孟徳の戦なのか?」

「そ、それは……」


 それは戦と呼ぶのもおこがましい、ただの悪あがきではないのか……

 そんな勝算の無い戦いに、明日の生を信じて戦っている、曹操軍の兵全てを巻き込めというのか。

 荀或が答えないのを見て、曹操はさらに言葉を紡ぐ。


「袁紹軍は今、官渡の城壁を越えるため、地下道を掘っていると聞く。

 幽州で、公孫贊の城を崩すのに使った手と同じよな。

 あやつらに要塞への侵入を許せば、その瞬間に勝敗は決しよう。

 そして、南方からもこちらを挟撃する動きがあると聞く。

 余らに残された時間は、あまりにも少ないのだ」


 荀或も、それはよく理解していた。それだけに、何も言い返すことはできない。


「李典が開発している“あれ”が完成したとしても……“あれ”はあくまで短期決戦において効果を発揮する。

 現在の状況が好転せねば、ただの悪あがきにしかならぬであろうな……」


 自分は、どうすればよいのだろうか。

 自分は曹操の臣下であり、彼を勝たせるために全力を尽くすつもりでいた。

 しかし、当の曹操が、今敗北を認めようとしているのだ。


 主君の意に従うことこそ臣下の務め。

 今も城の内外で苦しみながら戦っている兵達を思えば、降伏は英断と呼べる選択だった。

 時間が経てば、その降伏すら受け入れられなくなる。

 相手の一方的な粛清と処刑を免れるためには、こちらもある程度の影響力を残しておく必要がある。

 それを考えれば、降伏するのに今以上の好機はありえないだろう。

 その時節の見極めは、さすがは曹操といったところだ。

 そこまで分かっていながら……それを受け止めきれない自分がいることに気付いていた。


 彼の脳裏に、郭嘉の姿が浮かぶ。

 己の命を削ってまで曹操を勝たせようとしている彼が、このことを知ったらどう思うだろう。

 臣下として全てを受け入れるのか。

 それとも、二度と立ち直れないほどの絶望に打ちのめされてしまうのか。

 彼の生命いのちを繋いでいるのは、この戦に懸ける想いだけだ。

 それを無理に断ち切られれば、彼はどうなってしまうのだろう。


 いや……ここで荀或は考え直す。全て言い訳だ。

 自分の気持ちの整理をつけるのに、郭嘉を引き合いに出しているだけだ。

 重要なのは、自分がどう考えているかだ。

 曹操の臣として、主君に従うのが正しいと、理性は結論を出している。

 しかし……本心ではどうなのか。自分はこの男に、一体何を求めているのか……


「なぁに、そううなだれることはない。

 この戦に敗れたところで全てが終わるわけではない。

 生きている限り、余らの人生は続くのだ」


 そんな弱気な台詞を彼が口にしていること自体、信じられなかった。

 だが、信じられないからこそ、逆に曹操らしく感じてしまう。

 曹操が変わってしまったのではない。自分の心が、彼を受け入れられないだけなのだ。


「どうだ荀或、世界を目指さぬか?」

「世界……?」


 曹操は、実に清々しい笑顔で問い掛けてくる。


「中原ばかりが世界ではない。漢王朝の版図の外にも、世界はまだまだ広がっておる。

 中華のごく一握りの人間しか踏み入ったことのない未開の地。

 中華とは、人種も言葉も文化も異なる新たな世界。考えるだに心が踊ってはこぬか?」


 曹操の琥珀色の瞳は、未知への好奇心に輝いている。

 曹操の言う通り、中華が世界の全てではない。

 漢の領土を越え、異民族の勢力圏のさらに外側には、広大無比な世界が広がっている。

 古の世から、お伽話として語り継がれてきた外の世界。

 中華の常識に囚われない曹操という男には、実に相応しく思える。


「そなただけではない。惇も淵も、仁も洪も、

 許楮も張遼も楽進も于禁も李典も徐晃じょこうも郭嘉も程旻も荀攸も賈栩も張繍も、皆で新天地を目指そうではないか。

 むろん、最初はほとんど無からの始まりとなろう。

 されど、余の下に集うは、中華、いや、世界最高の駿英達だ。

 何を恐れることがあろうか。そう、中華など、世界に比せば、ちっぽけなものよ。

 そんな狭い世界は袁紹にくれてやればよい。

 余らは外の世界に乗り出すのだ……そこには、無限の未来と可能性が待っていよう」

 

 荀或は、しばし無言を通していたが……やがて顔を上げる。



「素晴らしいお考えだと思います」


 苦悩を取り払ったような顔で答える荀或を見て、曹操は彼にある決意が宿っていることに気付く。


「僕以外の皆さんも、答えは同じだと思います。

 貴方が望むことならば、あの人達は喜んでついていくことでしょう。

 それが何処であろうと関係ない。僕らはただ、貴方と一緒にいたい。

 貴方の下で戦いたい……そのために、今この場所にいるのですから……」


 曹操は、黙って荀或の言葉に耳を傾けている。

 荀或は僅かに間を空けた後……意を決して切り出す。



「ですが……僕は、貴方にここで退いて欲しくはない」

「………………」


 曹操は答えない。無言の圧力で、荀或に先を促す。


「貴方の器は、僕ごときには計り知れない。

 貴方ならきっと、中華の外の世界でもやっていける。

 必ずや、偉業を成し遂げるでしょう。今以上の権力を掌中に収めるかもしれません。

 ここで袁紹に敗北するのも、未来への布石。

 貴方の人生にとって必要なことなのかもしれません……

 貴方は元々、この中華の人間という意識はない。

 天上天下に、ただ一人の曹操だと思っておられる。

 だからこそ貴方は、あらゆる常識に囚われず、ただ自分の望むものを求め続ける。

 貴方の世界に境界は無い。貴方の理想に限界は無い。

 そんな貴方の夢についていくのは、僕にとって本当に魅惑的なことなのです。

 どこまでも貴方と共に、果ての無い夢を追い掛けて行きたい。

 それも紛れも無い、僕の本心です。ですが……ですが……」


「郭嘉のためか?」


 そう言われて、荀或ははっとする。

 やはりこのお方は、郭嘉の病気のことも知っていたのだ。

 確かに、それも違うとは言い切れない。


 だが、荀或はこう答える。


「確かに……それもあります。ですが、何よりも僕自身の意志だからです」

「ほう……」

「僕は、今自分が立っている中華という世界を愛しています。

 黄巾の乱が起こるよりも前……国は乱れ、政治は腐り、民は苦しみの底へと叩き落とされました。

 かつて繁栄を誇った漢王朝など、見る影も無いほどに、この国は荒廃してしまいました……

 僕は、どうにかしてこの中華を再生させたかった。

 だけど、僕程度の力では到底叶わない……いいえ、叶わないと諦めていたのです。

 そんな時……貴方は僕の前に現れました」


 荀或が思い出すのは、十数年も前の、曹操との印象的な出会いだった。

 あの時、荀或は己の価値観を揺るがされ、この男に仕えてみたい……そう思ったのだ。


「戦に政に……貴方と共に駆け抜けた十数年は、本当に楽しかった。

 生涯、貴方に仕えることができれば、どれだけ幸せなことか……そんな風にも思っていました。

 苦しいこともいっぱいありましたけど、それ以上に楽しくて楽しくて仕方がなかった。

 自分が本来どんな人間だったか、忘れてしまうほどに……」


 荀或は一瞬だけ俯き、すぐに前を向いて話し出す。


「だけど、ある男の生き方を見て、僕の考えは変わりました。

 限りある命を自分の思うままに、精一杯に生きている彼を見て……

 僕も、心の奥底で何を望んでいるかということに気付かされました。

 貴方は僕にとって、中華の救世主なんです。

 僕を生み育んできた中華の大地を、貴方と共に駆け抜けてきたこの世界を捨てたくはない。

 だから、どうか……」


 そこまで言ったところで、荀或は息を飲んだ。

 曹操の琥珀色の瞳が、言い知れぬ圧を伴った眼光を放っていたのだ。

 先程までとは全く違う、刃を突き立てられているかのような空気に、荀或は恐怖を覚える。



「荀或」


 感情を殺したような冷たい口調で声を発する曹操。

 だが、彼は決して怒っているのではない。

 曹操軍全てを預かる、総大将としての顔に変わったのだ。


「つまりそなたは、この曹孟徳の意志に逆らおう、というわけだな?」


 曹操の一言は、荀或の心に深く刺さるものだった。

 曹操の臣でありながら、彼へ忠義を尽くそうと考えていながら……曹操に意志に反しているという矛盾。

 それは、荀或自身が誰よりも理解していた。身がすくんだ荀或を見て、曹操はさらに言葉の矢を射る。


「今も最前線で戦い、日々命を落としていく兵士達……

 僅かな可能性に賭けて、彼らの苦しみを長引かせることも厭わない……そうなのだな?」


 彼の言葉は、荀或を嫌が応にも現実へ引きずり戻す。

 これも分かっていることだ。戦いを続ければ、それだけ犠牲は増えていく。

 もしも敗北してしまえば、彼らの死が無駄になってしまう。

 それら全てを飲み込んだ上で、それでも戦いを続けるのか……曹操は、その覚悟を問うているのだ。


「……自分がどれだけ罪深い存在であるかは、よく分かっております。

 もし僕の命と引き換えに貴方の望みが叶うならば、これほど悩むこともなかったでしょう……」


 荀或の表情からは、身を何度も切り裂かれたような悔恨の痕が伺えた。


「しかし……どれだけ苦しみ、悩み抜いても……僕の取るべき道は一つしかないことを、思い知らされるだけでした。

 曹操様、貴方をこの中華の覇王にする。

 それが僕の全てであり、生きる意味なのです。言い訳は一切致しません。

 己の願望を満たすためには犠牲を払うことも厭わない……僕はそんな罪人なんです」


 罪人……それは、清廉かつ実直な人柄で知られている彼には、あまりに似つかわしくない言葉だった。


「僕は、貴方が必ず天下を収める器だと信じて臣下に加わりました。

 その思いは今も変わりません。裏切られたとも思っていません」

「荀或、それは矛盾しているぞ」

「いいえ、僕はまだ信じています。貴方が戦場に舞い戻り、勝利を手にすることを……

 だから、降伏には賛成しません。僕は僕を裏切れない。

 最期の時まで、貴方を信じ続けます。それが、僕の忠誠ですから……」


 荀或はそこまで言うと、上目使いで曹操を見上げた。

 大それたことを言ってしまった……という恐れは、今でもある。

 だが、今口にした言葉は、偽りなき自分の本心だ。

 自分という存在は、どうあっても曲げられない。

 それに気付かせてくれたのは、彼の友であり……目の前にいる主君であった。

 曹操は、表情一つ変えずに荀或と相対していたが……やがて口許を僅かに緩ませる。




「そなたにここまで噛み付かれたのは初めてのことよ。人は変わるものよな」


 それは、自らの臣下、荀或に対して言った言葉ではなく、旧くからの友への台詞だ。

 今目の前にいるのは、曇りなき眼と真っ直ぐな心を持つ、あの頃の荀或そのままだった。

 軍師としての才、政治家としての器量、それよりも、彼の純粋な人柄ゆえに、自分は荀或に惹かれたのだ。

 他の臣下達も同じようなものだ。皆、信じられない程清い心の持ち主である。

 そんな、自分には決して持ちえぬ物を持っていたからこそ、自分は彼らと共に天下を目指そうと思ったのだろう。

 恐らく……自分の袁紹に対する思いも、同じようなもののはずだ。

 あの男は、自分に欠けている人間らしい感情を全て持っている。

 そんな袁紹の方が、自分よりも覇者に相応しいのではないか、と……


 自分には何も無い。ただ、己の才に相応しい役割を果たすだけの存在だ。

 その思いは、今も変わっていない。変えようがない。

 だから、ここで袁紹に敗れるのも、己の役割の一つに過ぎない。

 そう考えていたが……果たして、本当にそうなのだろうか。

 自分が目指す未来は、人々が己の才を余さず発揮できる世界だ。


 自分は己の才を、枯れ果てるまで引き出したと言えるのだろうか。


 まだだ……まだ自分は満足できていない。自分の内では、まだ何かが燻り続けている。

 結局自分も荀或と同じ……己の本性に従い、他者を傷つけることも厭わない……“悪”だったのだろう。


(劉備よ、袁紹よ、やはり余は変わることなど出来ぬようだ……)


 今ならはっきり感じられる。眠っていた戦意が、ゆっくりと起き上がろうとしているのを……




「荀或」

「は、はいっ!!」


 人生最大の緊張にあった荀或は、曹操の声を聞いて心臓が跳ね上がる。

 曹操は穏やかな笑みを浮かべると、すぐに顔を引き締めて言い放つ。


「どうやら余は、我が儘な臣下に振り回される星の元に生まれたらしい。

 されど、決して悪くはない気分ぞ……ならば最後まで、そなたらと踊り続けようではないか。

 この……中華の大地でな」

「曹操……様……」


 荀或は思わず涙を零しそうになる。

 自分の説得が通じたのか……いや、この方は自分程度が影響を及ぼせるような器ではない。

 それでも、込み上げてくる歓喜は止められない。


「まだ早いぞ。泣くのは勝ってからにせよ」

「はい!!」


 決壊しそうになる感情の流れを押し止める。これで何が変わったというものではない。

 今も状況は自分達に絶対的に不利なのだ。

 もしもこの戦に敗北すれば、これまで自分の言ったことは全て出来もしない戯言たわごとということになってしまう。

 知謀と体力の限りを尽くし、最後はただの天運に縋り付いてでも……何が何でも勝たなければならない。


「それでは! 僕は郭嘉らと今後の対策を協議して参ります!」


 矢のように飛び出していく荀或。その瞳は、勝利への覇気と情熱で輝いていた。

 そんな荀或に、微笑ましい視線を送っていた曹操だが……




「……盗み聞きはその辺にしておいたらどうだ? 賈栩よ」


 荀或の姿が見えなくなった後で、こんなことを言い出す曹操。

 その呼びかけに答えて、物陰から一人の男が姿を現す。


「これは失礼いたしました、曹操様」


 賈栩は、咎められたことへの反省など全く無いような笑みを浮かべている。


「しかし、さすがは曹操様。どうやら最初からお気づきだったようだ」

「何を言うか。元より気配を完全には殺さずにおいた癖に」


 曹操はそこまでお見通しだった。

 これ以上何か取り繕う必要も無いと感じ、すぐに話題を切り替える。


「いやはや、ここで降伏を選択する貴方様の決断力には実に驚かされましたが……

 まさかあの荀或殿が、ねぇ……

 彼は、貴方の言うことなら何でも唯々諾々と従うものだと思っていましたよ」

「荀或をあまり見くびるでないぞ、賈栩」

「ええ、今ので大いに認識を改めましたとも。

 人畜無害なお人だとばかり思っていましたが、どうやら相当の大物であられるようだ。

 私のような小物とは、比べるべくもない……」


 彼の言う大物、小物とは、“悪党”としての格の違いを指し示す。

 悪の基準とは、精神の在り方で計るものではない。

 自身のためにどれだけの数の人間を殺したか……重要なのはその点だけだ。



 多くの人間はそんな単純な理に気付いていない。

 だからこそ、平静の殺人は大罪となるが、戦時の殺戮は英雄的行為とみなされる……などという矛盾が生まれる。

 誰もがその現実から目を逸らし、都合よく解釈して、戦争という生命の大量消費を正当化する。

 賈栩の眼から見れば、曹操軍も袁紹軍も、己が欲望のために刃向かう者達を殲滅しようとしている“悪”に過ぎない。

 両軍のどちらにも正義などありはしない。

 いや、そんなものは、この世界の何処にもないのだ。

 正義とは己の悪を正当化し、罪悪感から逃れるための欺瞞でしかなく、世界には、ただ悪があるのみだ。

 自然界で生きる動物には、善も悪も存在しないだろう。

 しかし、人間は進化の過程で、ただ生きること以上の喜びを得てしまった。

 それは娯楽であり、文化であり、野心であり、矜持であり……

 そんな、本能を越えた領域こそを、欲望と呼ぶのだ。

 欲望に芽生えた時点で、善悪の均衡は崩れ、人類は悪へと染め上がったのだ。

 

 大多数の人間は、この真実を受け入れはすまい。

 愛だ情けだ正義だと人間の美徳をあげつらい、人間が他の生物に比べ如何に素晴らしいか声高に叫ぼうとするだろう。

 彼らが述べる人間の善なる部分とは、全て欲望であり、人が不必要に人を殺す動機でもあるのだ。


 だが、それでも彼らは認めようとはしないだろう。

 彼らにとって人間が悪なる存在であると認めることは、自分達の存在価値を否定されるに等しいのだから。

 それを恐れるがゆえに、彼らはさらに声を大きくして、人の善を叫び、押し付け……

 仕舞いには従わぬ者達を廃除しようとするのだ。

 あるいは、ただの無知無自覚な人間を、人類が善であるという“証明”として引っ張り出し、聖人や大徳と呼んで崇め奉る。



 滑稽……何もかもが滑稽の極みとしか言いようがない。

 賈栩にとっては、この残酷な現実を受け入れることに何の抵抗も無い。


 何故なら彼は元々、人間の悪徳を愛し、それを糧として生きている人間なのだから。

 彼にとって人間が悪であることなど何らおかしいことではなく、むしろ、故にこそ面白いと思っている。

 互いが正義の仮面を被り、相手を悪と蔑んで殺しあう。

 そんな人間の醜態が露になる乱世は、“観察者”である賈栩にとって理想の世界だった。




「それで、そなた自身はどう考えておるのだ?」


 曹操の問い掛けに、賈栩は現実へと引き戻される。

 

「私でございますか? 私は、ただ貴方様の意向に従うだけでございます」


 すらすらと述べる賈栩。それは、裏切りの軍師、賈栩の放つ言葉としてはあまりにも胡散臭かった。


「……信じられませぬか? まぁ、無理もなきことでありますが……」

「いや、信じよう。そなたは余を裏切らぬよ」


 断言する曹操。

 その反応に、賈栩は僅かに動揺する。


「それは、光栄の極みでありますが……できれば、理由をお聞かせ願いますか?」

「ふ……そなたは裏切りが服を着て歩いているような男だ。

 だが、“裏”とは本来“表”がはっきりしていればこそ生ずる概念ぞ。

 何が表で何が裏かわからねば、裏切りは裏切りとして成立せぬ。

 それは同時に、そなたという存在に意味が無くなることを意味する」

「………………」


 曹操は、賈栩以上に意地の悪そうな笑みを浮かべて続ける。


「そなたは我欲のみで生きながらも、その関心は全て他者へ向けられている。

 そなた自身が何かを成し遂げたいわけではないのだ。

 利己的ではあっても、野心家ではない。それが賈栩という男の正体よ。

 観察者として、徹底して己を殺しながらも、己のためだけに生きる……」


 賈栩は答えない。それは、曹操の読みに対する肯定を意味していた。


 観察者は常に中立であらねばならない。

 過度の干渉を行えば、観測対象を歪めることになる。

 だからこそ、彼は対象を変質させるような干渉は控え、影のように存在を薄くするように努めている。

 ただし、変質ではなく……“悪意”で持って方向を捻じ曲げる程度のことは当たり前のようにやっているが……



「そなたには自分がない。だからこそ……寄り処を求めるのだ。

 そなたの在り方は、己の存在を限りなく希薄にする。

 観察に徹するだけの存在など、元来この世界には必要のないものだからの!」


 いつになく強い口調で話す曹操に、賈栩は僅かに冷や汗を流す。

 曹操の、そして自分の言っていることも所詮は詭弁だ。

 ここで彼が狼狽したのは、自身の内面を突かれたからではなく、

 ただ曹操の機嫌を損ねたのではないかという警戒が働いたからだ。


「曹操様……もし気分を害されたようでしたら、この賈栩、心から謝罪いたします」

「ふふふ……そなたらしくもないのう。

 いや、そのらしくないところがそなたらしさなのかの」

「貴方様がそれをおっしゃいますか……くくくく……」


 相対する曹操と賈栩は、それぞれくぐもった笑いを漏らす。




「……賈栩よ」


 曹操は急に笑みを止め、遊びの混じらぬ声で呼び掛ける。


「は……」


 賈栩もそれを敏感に悟ったのか、即座に居住まいを正して応じる。


「戦を再開すはじめるぞ。死力を尽くせ」

「仰せのままに……」


 うやうやしく一礼する賈栩。

 戦意や闘志、理想に野望、あらゆる感情が渾然一体となり、尚且つ前へ向かおうとする意志。

 今の彼の姿は、百万言を費やすより雄弁に、曹操という男を語っている。

 戦があるところに曹操が引き寄せられるのか、曹操が戦を呼び寄せるのか。

 いずれにせよこの方は、生涯血塗られた道を歩むに違いない。

 一生を費やしても観察する価値のある対象だ。例えそれが自分の見込み違いだとしても、生涯を通した勘違いというのも中々おつなものではないか。

 出口の見えない無明の道こそ、元より自分の生きる道だ。




 賈栩を後ろを従えて、曹操は思う。


 自分のためか、他人のためか。

 希望か、それとも絶望ゆえの諦念か。


 彼の胸の内は誰にも分からない。曹操自身にさえも……

 ただ、前に向かう意志だけは消えていないことだけは、自覚していた。



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