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三国羅将伝  作者: 藍三郎
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第十七章 官渡の決戦(四)

「郭嘉! 僕です、荀或です、入りますよ!」


 軍議の後、荀或は郭嘉の居室を一人訪ねた。

 自分の才はあの男に遠く及ばないが、一人きりで悩み続けるより、

 二人で話していれば、何か思わぬ着想が見つかるかもしれない。

 それは、荀或にとっても同じことだ。

 とにかく、何かせずにはいられないという思いに突き動かされ、彼はここに足を運んだのだ。

 しかし、何度扉を叩いても郭嘉からの返事は無い。

 あれから自室に戻らず、どこか別の場所に行っているのかもしれない。だが、その時……


「う、うぅ……」


 郭嘉のうめき声が、扉の内側から響いてくる。

 ただ事ではない……そう直感した荀或は、間髪入れず扉を開け、部屋へと踏み込む。


「郭嘉!?」


 悪い予感は的中した。明かりの消えた暗い室内の中心で……郭嘉は倒れ伏していた。




「郭嘉!」


 心拍数が跳ね上がる。急いで郭嘉に駆け寄る荀或。

 抱き起こした郭嘉の顔は死人のように青ざめていた。


「郭嘉! しっかりしてください! 郭嘉!」

「あ……う……」


 荀或の声に反応したのか、郭嘉はゆっくりと瞼を開く。

 そして、震える指先で床のある一点を指し示して呟く。


「く……くす……り……くすり……を」


 そこには、白い錠剤が散らばっていた。


「薬……これのことですね! この薬を飲ませればいいんですね?」


 郭嘉は無言で頷く。荀或は郭嘉の口を開き、薬を飲ませてやる。

 郭嘉がそれを飲み込むと、青ざめた皮膚に徐々に血色が戻る。


「はぁ……はぁ……た、助かりましたよ、荀或先輩……」


 どうにかまともに喋れるようにはなったようだ。


「ふふふ……情けない姿を……見せてしまいましたねぇ……」

「しっかりしてください。すぐに、医者を呼びますから……」


 そう言って、部屋の外へ大声を張り上げようとする荀或だが、郭嘉は慌てて制止する。


「ま、待ってください! 他の人は呼ばないでください、お願いします!」

「え……? で、でも、医者は……」

「医者ならもう知っています。郭嘉雑技団には医師の心得があるものもいます。

 あの薬も、医者に調合してもらったもの……それさえ飲めば、発作は治まるんです。

 だから、だから……」

「郭嘉……」


 必死に懇願する郭嘉に、荀或は口ごもる。一体彼の身に、何が起こっているというのか。


「貴方の口ぶりからすると……こんなことは一度や二度では無いようですが……」

「え〜え。さっきはつい没頭していて薬を飲むのを忘れていただけです。

 私としたことが……焦っていたんですかねぇ……」


 自嘲するように笑う郭嘉。


「……話してくれませんか、貴方の身に何が起こっているのか……」

「さすがに、ちょっと風邪を引いただけと誤魔化すことは出来そうにありませんねぇ……」

「当たり前でしょう! ふざけていると、本当に人を呼びますよ」

「ははは……それは困りますねぇ……」


 眼鏡越しに、自分の掌を見つめながら、郭嘉は話し始める。


「私は生まれつき、そんなに体の丈夫な子供ではありませんでした。

 だから、ろくに外にも出ず、家に閉じこもって本ばかり読んでいましたよ。

 ま……そのお陰で、私は天才だってことに気付けたんですけどねぇ」


 学問において、誰も郭嘉に並ぶ者はいなかった。

 一度読んだ書物の内容は全て記憶しており、そこからさらに発展させた理論をあっさりと導き出して見せる。

 周囲の大人達は、そんな郭嘉の頭脳に、驚嘆するだけでなく恐怖すらしていた。


「あの頃は舞い上がっていましたねぇ。

 自分は天才だ、自分は神に選ばれた頭脳なんだって……まぁそれは、今も変わっていませんが」

「……わかります」


 郭嘉と同様に、荀或も苦笑する。


「ですがね……なまじ頭が良いと、分かってしまうんですよ。

 私は、そう長く生きられない体だということにね」

「………………」


 荀或の顔から笑みが消える。

 この男の言うことだ……恐らくは、医者よりも正確に自分の体の状態を把握しているのだろう。


「美人薄命ならず、天才薄命って奴ですねぇ……ま、人間は必ず死ぬものです。

 それが早いか遅いかというだけのこと。

 しかし……そう言い聞かせる度に、私の脳みそが悲鳴を上げるのです……!

 まだだ、まだ終わりではない。私の脳髄は、まだ全てを出し尽くしていない!!」


 頭を抱えて叫ぶ郭嘉。その表情は、鬼気迫るものへと変わっていた。


「脳細胞の一つ一つが! その中に溜め込まれた知識が! 雄叫びを上げるんですよぉ!!

 このまま何も成し遂げずに闇に消えたくはない、

 郭嘉という天才が、この世界にいたという証が欲しい!!

 朝も昼も夕も晩も、叫び続けているんですよぉ!!」


 また発作が始まったような、異常な興奮状態に陥る郭嘉。


「か、郭嘉! 落ち着いてください!」

「はぁ……はぁ……失礼いたしました……」


 呼吸を整えてから、郭嘉は再び語り出す。


「だからこそ、私は乱世に身を投じました。

 今の世は、実力だけが物を言う時代……私の才を歴史に刻むのに、これほど適した時代は他にありません。

 そして、私は巡り会うことができた……あのお方……曹操様に!!

 あのお方なら、私の才を十全に引き出してくれる。私を誰よりも上手く用いてくださる!

 私のそんな期待に、あの方は見事に応えてくださった!

 これだけははっきり言えますよ。

 私にとって、あの方と共に戦場を駆け抜けていた日々は、どんな宝石にも!

 どんな名誉にも! どんな美女と過ごす逢瀬に勝って、輝いていたとね!!」


 曹操が、自分に最もふさわしい居場所を、充実を時間を与えてくれた。 

 その気持ちは、荀或にも分かる。


 ここまで甲高い声でまくし立てていた郭嘉だったが、突然声の調子を落として話し出す。


「…………正直言って、今でも怖いですよ。

 細かい理屈なんか無い、ただひたすら、死ぬことが怖い。

 滑稽ですよね……どれだけ頭がよくても、死がどういうものなのか理解していても、

 この恐怖を拭い去ることだけは、どうやっても叶わない……

 たかが死に何をそんなに怯えているのかと、自分で自分を罵って、少しでも気力を奮い起こそうとしても、怖いものは怖いのです。

 ああ……死にたくない、死にたくない、死にたく、ない……!」


 頭を抱え、震えながら話す郭嘉に、荀或は話し掛ける言葉を持たなかった。

 迫り来る死の恐怖が、残された時間を悔いなく懸命に生きようという姿勢が、

 彼の才能を前人未踏の域まで引き上げたのか……それを追求することに、さしたる意味はないのだろう。


 所詮自分は彼とは違う。彼のように真剣に死を意識したことなど無いのだから。

 それに郭嘉のことだ。自分が思いつく程度の慰めなど、とうに頭の中に浮かんでいるのだろう。


 自分は、何も知らなかった。彼の軽薄な態度の裏に隠されたものが何だったのか。

 彼がどんな思いで一日一日を生きてきたか。

 戦場を駆け抜け、策を練り、酒と女に耽溺するのは、迫り来る死の恐怖から免れるためだったのだ。

 荀或は自分を恥じた。彼の苦しみや悲しみも知らず、あまつさえ、彼の才を羨み、妬んでさえいたことに……


「ははは!貴方が気に病むことなんて何もありませんよ、先輩」

「え……」


 荀或の心情を見透かしたように、郭嘉は言い放つ。


「憐れみも同情も要りません。

 そんなことにより、私は、貴方が私を認めてくれたことの方が嬉しかった。

 死にかけの人間ではなく、軍師と見なし、存分に感情をぶつけたくれた……

 その時私は生きているんだと、実感することができた」


 人は孤独では生きられない。

 彼の場合は、その叡智ゆえに望む望まざるに関わらず、一人でいざるを得なかった。

 軍師として生きる以外の選択肢は、最初から彼にはなかった。

 そんな彼が人と人との繋がりを実感できたのは、血風吹きすさぶ戦場であり、

 立ちはだかる強敵であり、心底尊敬できる主であり……

 そして、自分の才を認め、好敵手と見なしてくれる同僚であった。


「私に嫉妬する貴方は、中々かわいらしかったですよ」

「な、何を言っているんですか……」

「ああ、これは曹操様のおっしゃられていたことですがね」


 憮然とする荀或を見て、郭嘉は乾いた笑みを零す。荀或はため息を吐くと、諭すようにこう告げる。


「郭嘉……貴方の事情はわかりました。

 だったら尚更、全てをみんなに打ち明けて、許都でゆっくり静養すべきです。

 時間が経てば、完治する方法が見つかるかもしれません。

 とにかく、今みたいに無茶を繰り返すのだけは、絶対に止めてください」

「はっ……! そんなの五臓六腑の底からお断りですねぇ!」


 荀或の真摯な助言を、郭嘉はにべも無く断った。


「貴方って人は……本当に死ぬかも知れないんですよ!」

「私が床でのんびり寝ている間に、この戦に負けてしまったらどうするんですか。

 この戦がどれだけ重要かは、貴方にだってよく分かっているはずだ。

 勝者は天下の覇権を握り、負ければ全てを失う……

 私の命は、とうの昔にあの方のために捧げると決めているのです。

 もしも、私の不在が原因で曹操様が負けてしまうようなことがあれば……悔やんでも悔やみ切れない!!

 それに……」


 悲痛な叫びと共に、心の奥底に貯まっていたものを吐き出していく郭嘉。


「今回の敵は……私と同じなんです!

 策を操り、いくさを弄び、ただ己の有り余る才を存分に振るいたいがために戦場にいる……」


 戦場で、矛を交えた武人同士が、面と向かって会話するよりずっと深くお互いを理解し合えるように……

 郭嘉もまた、幾千幾万に及ぶ策の応酬を繰り返す内に、相手の内面を理解したというのか。


「袁紹軍の軍師、沮授……そして、田豊!

 あの人達は本物です……! 裏をかかれないためには、一分一秒を惜しまなければならない……!

 思考を止めた瞬間、私はあの方々に先を越されるでしょう。

 そうなれば、私の存在価値は跡形も無くなる。私には、それが我慢ならない……!

 歩みを止めてしまうなら、あのお方のお役に立てないのならば、生きている意味などありません!」


 彼の言うことは全て本当だろう。

 曹操への忠誠と自尊心、それが彼に生きる活力を与えてきたのだ。

 今無理に戦場から離してしまえば、緩やかに死を迎えるだけの生ける屍となるかもしれない。


「それにね……どの道私は助からないんですよ」

「え……」

「私の病の源が、何処にあると思います?ここですよ、ここ」


 郭嘉が指で突いて示したのは、自分の頭だった。


「頭……いえ、脳が?」


 それではもう……処置のしようがないではないか。

 脳を全く傷つけずに、病巣だけを取り除く医者など、この世界のどこにも存在しない。


「できることと言えば、薬を使って病の進行を遅らせることだけ……

 くくく、何と言う皮肉でしょうか。天才のこの私が!

 よりによって脳の病で命を落とすことになるとはね!

 この頭脳は神の授かり物と思っていましたが、悪魔が命と引き換えに与えたものだったようですね! あはははは!!」


 自虐の意味も込めて、高笑いする郭嘉。

 実際、彼の異常に発達した脳細胞が、その代償として病を生み出したのかもしれなかった。


「……あの方がいなければ、私は今頃死の恐怖に押し潰され、残された時間を惨めに生きていたでしょう。

 だから、私は最期の一瞬まで、この命を一滴残らず搾り出し、あのお方のお役に立ちたいのです!

 私の望みは、ただそれだけなんですよ……」

「………………」


 この天才がずっと内に秘めてきた激情に、ようやく触れられた気がする。

 もし自分が同じ立場でも、彼のように我が身も省みず、曹操に尽くすことができるのだろうか……

 

「……貴方の病のことは、他に誰が知っているのですか? 曹操様は?」

「先程も話した医者を含む郭嘉雑技団の面々は、あらかたの事情は知っています。

 曹操様に話したことはありませんが……あの方のことです。とっくにお見通しなのかもしれませんね」

「それは……ありえますね」


 二人揃って、乾いた笑みを漏らす。荀或は、表情を改めると、郭嘉にこう告げる。


「いいですか。これからは自分の身を気遣って、薬を飲むのを忘れないようにすること。

 一人きりにならず、必ず誰かの傍にいること。それを堅く守って下さい」

「それを守れば……私の病のことを秘密にして下さるのですか……?」

「僕は曹操様の臣です。あの方に隠し事はできません。聞かれたことには正直に答えます」

「つまり、聞かれない限りは答えない、と……いいでしょう。それで構いませんよ」


 力の無い笑みを浮かべる郭嘉。荀或とて、納得できたわけではない。

 叶うことならば、彼に少しでも長く生きてもらいたい。

 しかし、曹操のために尽くしたいという彼の気持ちは、痛いほどよくわかる。それに……


「僕をいい人だなんて思わないでください。僕だって、この戦には何が何でも勝ちたい。

 そのためには、貴方の力が必要なんです。

 僕は病人を酷使しようとしている、とんだ人でなしなんですから……」

「ははは……それでいいんですよ。貴方も私を存分に利用してください。

 その代わりと言っては何ですが……」


 郭嘉は少し沈黙を挟むと、荀或に向けてこう告げる。


「どうか、貴方の力を私に貸してください。今回の敵はあまりに強大すぎる。

 私の力を持ってしても、打ち勝つことはできないかもしれない……

 私が全ての才を搾り出し、それでも彼らに及ばない時は……」


 郭嘉の懇願を聞いた荀或は、思わず笑みを零す。


「僕程度の力なら喜んで貸しますよ。そんなの、仲間なら当たり前のことじゃないですか。

 僕たちが力を合わせて頭を搾れば、必ず田豊と沮授を越えられます。

 だって僕たちは、あの方に選ばれた栄えある軍師なんですから……」


 荀或の返事を聞いた郭嘉は、しばし目をぱちくりさせていたが、天を仰いでこう呟く。


「ふふふ……そうですね……思えば、こうやって先輩にお願いするのは、初めてのことで、いささか気恥ずかしいですね……」

「貴方は、もっと他人を頼ることを覚えるべきです。

 貴方は決して、使われるだけの道具じゃない。僕にとっても、皆にとっても、大切な仲間なんですよ」


 いかにも荀或らしい、純粋で真っ直ぐな物言いに、郭嘉は苦笑いする。

 しかし、それも悪くはないと思う自分もいた。


(弱くなったんですかねぇ……私は……)


 荀或に言えば、それは弱さではなく強さだ、と説法を食らう気がしたので、あえて言わないでいた。

 代わりに、この年若い先輩の顔を見上げて、今の率直な気持ちを口にする。


「荀或先輩……ありがとう……ございます」


 荀或は穏やかな笑みを浮かべて、手を差し延べた。


「絶対に勝ちましょう。この戦を……」

「はい……」


 しっかりと握られた二人の手と、互いを見る眼差しには、同じ曹操の臣下としての決意と覚悟が宿っていた。




 だが……荀或はこの後、彼の決意を根底から覆しかねない存在にぶつかることになる。

 この時点で、彼はそのことを夢にも思っていなかった……


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