第十七章 官渡の決戦(三)
「で、賈栩よ。そなたはどうなのだ。
その捻じくれた脳細胞で、何か良い策を思いつきはせぬのか」
「お褒めの言葉と受け取らさせていただきます……しかし、残念ながら勝敗を決する策はまだ浮かんできませぬ。
ご期待に沿えず、申し訳ありません。
まぁ、これだけそうそうたる面々が集まって、
全く良い策を生み出せないのですから、私ごとき新参が何か思いつくわけがありませんがね」
その場の重臣を見渡す賈栩。またしても彼らしい、厭味と皮肉を込めた言い回しである。
「私の本領は、脳髄よりは“舌”ですので……
袁紹軍に潜り込み、内部から撹乱させるのもやぶさかではありませんが、
さすがに救援の要請を蹴って、曹操様に降った私を信用などしないでしょう。
それに、あの手の方々には私の嘘や撹乱は効きづらいのですよ……」
袁紹軍は、目的をはっきり定め、勝利に向けて迷わず邁進している。
そういった者達は焦ることを知らない為、罠に掛けにくいのだ。
「ところで、曹操様……そろそろ打ち明けられても良い頃合いではありませんか?」
「何をだ?」
「貴方様自身の策を、ですよ……
貴方はいつも、本当に重要なものは御自身の懐に隠し持っておられる。
今も、懐で温めておられるのでしょう? この劣勢を打破する策を」
皆の視線が曹操に集まる。
確かに曹操の性格上、切り札は部下にも明かさず温存しているのは十分ありうることだ。
もしかすると、今のこの状況さえも計算通りであり、彼の頭の中では、袁紹に勝つ算段はまとまっているのかも知れない。
だが、曹操が答える前に、賈栩は肩をすくめてこう言い放つ。
「おっと……またしても失礼いたしました。
自分に良い策が無いからといって、よりによって守るべき主君に縋るなどと……
軍師にあるまじき問いでしたな。お忘れください」
自身の発言を撤回した後、底意地の悪い眼で卓を見渡す賈栩。
重臣達は揃って恥じた。賈栩の言う通り……軍師としての矜持を捨てて、主君が何とかしてくれるだろうと、心の中で縋り付いてしまっていた。
賈栩の眼は、お前達は軍師失格だ……と言っている。
最初から重臣達に恥をかかせるつもりで、あんなことを言ったのかもしれない。
どこまでも性格の悪い男だ。
だが、曹操本人は、特に気にした様子もなくこう言う。
「よい、よい。軍議の席では、余もそなたらと同じ……一個の頭脳であるべきと思うておる。遠慮は無用ぞ」
戦に臨んでは、自分もまた一人の武将であり、一人の軍師。曹操らしい柔軟な考え方である。
その時、軍師の中でただ一人ここにいない男が、勢いよく襖を開いて顔を見せた。
「か、郭嘉!?」
橙色の着物を着た郭嘉は、長い黒髪を振り乱し、曹操に向かって叫ぶ。
「ようやく……よぉぉぉぉぉやく完成いたしましたよ、曹操様ぁぁぁぁぁ!!
この劣勢を綺麗さっぱり覆し、敵軍を完膚無き無きまでに攻め滅ぼす、必殺必勝の策がぁ!!」
郭嘉の手には、束になった大量の書類が握られていた。
彼は軍議にも参加せず、ただ一人、ひたすらに策を練っていたのだ。
ここ一週間、郭嘉の姿を見た者は重臣の中にはいなかった。
その瞳は血走っており、眼の下には隈が浮かんでいる。ろくに睡眠もとっていないと思われる。
郭嘉は曹操の前まで進むと、書類をうやうやしく差し出した。
「どぉぉぉぉそ御覧ください! これならば、きっと! 必ず! 確実に!
勝利の二文字を貴方様に捧げることができましょぉぉぉぉぉ!!」
郭嘉は、己の策に絶対の自信があるようだ。
彼の天才ぶりはこの場にいる誰もが認めるところ。自然と、彼らの顔にも光が灯る。
そんな郭嘉に対し……曹操は穏やかな笑顔のままで告げる。
「うむ、見事であった」
まだ一文字も読んでいないにも関わらず、早くも労いの言葉をかける曹操。
「え……」
意外な切り替えしに、言葉を詰まらせる郭嘉。
「そなたが絶対の自信を持って作り上げた策ならば、余が口を挟むこともあるまい。
この策に、余と余の軍の命運を預けよう……
この曹孟徳、そなたの脳髄にならば、命を託す覚悟はできておる」
最大級の賛辞と絶大なる信頼……しかし、郭嘉の表情は一転して青くなっている。
「う……うわああああぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
突如気が触れたように叫び出すと、持ち込んだ書類をこの場で破り捨てた。
「か、郭嘉!何を……!」
この行動には、荀或らも呆気に取られる。
「申し訳、申し訳ありませぇぇぇぇぇん!!
こんな……こんな下策に! 貴方様のお命を乗せることなどできませぬぅ!!
脳髄を洗い直して参ります故、今しばし、今しばしお待ちをぉぉぉぉぉ!!」
郭嘉はそう言い残すと、入った時と同じ勢いで退出していった。
皆、彼のあまりに突拍子もない行動に声も出ない。
ただ一人、曹操だけが、全てを見透かしたような表情を保っている。
「やはり、か……」
「曹操様、これは……」
荀攸の問いに、曹操は先程の郭嘉を思い出しながら答える。
「あやつの目には、僅かながら迷いがあった。
心の奥底では、まだ納得できていなかったのであろうな……」
場は静まり返る。あの郭嘉をしても完璧な策を思い付けないほど、自分達は追い詰められているというのか。
荀或には、郭嘉の考えが分かるような気がした。
彼もまた追い詰められているのだ。開戦当初、彼は必勝の策を用意して袁紹との戦に臨んだ。
計画通り進めば、官渡に至るまでに袁紹軍の戦力を半減させることが出来た。
だが、それらの計画は尽く袁紹軍に読まれ、潰される結果となってしまった。
彼にとっては、およそ初めての経験であろう。
それだけに衝撃も大きかったが……彼は実に冷静に、敵の強さを認めていた。
田豊と沮授、袁紹軍の中核となる二つの頭脳。
田豊が、長き経験によって組み上げた緻密な戦略に、沮授の天才的な読みが加わることで、
袁紹軍の軍略は、精密さを備えながらも柔軟に変化する、限り無く完璧に近いものへと仕上がった。
なまじ天才であるが故に、相手の才も理解できてしまう。
だからこそ、どれだけ策を練ろうとも納得できない。
思考の内には、常にこれも先を読まれているのではないかという怖れが付き纏っているから。
それは、思いつく全てが無意味なのではないかという、思考の無限循環に陥ってしまっている。
「賈栩、先程そなたは余に、何か取っておきの策は無いか、と問うたな」
「は……」
「それは買い被り過ぎというものだ。軍師としては余を遥かに上回る郭嘉が、未だに打つ手無しと言っているのだ。
余に、あやつらを出し抜ける策を出せるはずも無かろう」
実にあっさりと、無策であることを認める曹操。
彼は誰よりも才を重んじる人間だ。
だから、才の優劣についても、至極冷静に判断することが出来るのだ。
だが……皆本心では、それを受け容れようとはしなかった。
あの曹操のこと、やはり何か秘策を用意しているのかもしれない。
もしかすると、あえて重臣達を突き放すことで、自分に縋りたい気持ちを断ち切らせたいのかも……しかし、そんな悠長な段階はとうに過ぎ去っている。
それに……荀或は思う。曹孟徳という男は、いつも余裕ぶっているようで、何事にも全力で取り組む人間だ。
あえて本心を明かさなかったり、突飛な言動で皆を惑わすことなど日常茶飯事だが……こんな重要な局面で嘘をつくような男ではない。
そんな彼が、はっきり“打つ手無し”と言ったからには、
本当に、裏も表も無く、あの曹操をしても、今の袁紹には歯が立たないということなのか……
「今の袁紹軍は、自在に形を変える不定形の肉の塊のようなもの。
例え一部分が欠損したところで、その穴は他の組織によってすぐに埋められ、
全体の動きを司る核となる部分は、分厚い肉壁に阻まれて決してたどり着くことはできぬ……
単純なれど、あれだけの軍を動かすにおいては、最適な陣形と言えるだろうな」
これが、軍をいくつかの隊に分散して攻める……というやり方ならば、曹操軍としてはむしろやりやすい。
広がりすぎた軍隊は、必ずどこかに歪みが生じる。
そんな隙を突き、軍をひっくり返す戦こそ、曹操軍の最も得意とするところ。
戦局が複雑になればなるほど、真価を発揮する。
駆け引きや読み合いを中心に据えた戦ならば、曹操や郭嘉の独壇場だ。
事実そのように相手の裏をかきながら、これまで曹操軍は勝ち進んできた。
だが、今の袁紹軍に足元を掬う策は通じない。
全軍を一箇所にまとめたことで、あらゆる無駄は廃除され、同時に付け入る隙も無くなった。
正面から数に任せて攻めてくる相手に、策を仕掛ける余地などない。
小細工で多少の損害を与えたところで、大軍の優位を活かしてすぐに立て直してしまうだろう。
ただ押し潰されるのを遅らせるだけ……それでも、最終的には崖っぷちに追い込まれ、転落するしかない。
「正面からの総力戦に持ち込むことこそ……あやつらの最大の策だったのであろう」
曹操と袁紹……双方の有する人材に恐らく差はないのだろう。
両軍共に、今の中華における最高の人材を揃えている。
将の質で互角ならば、両者の優劣を分かつのは単純な物量。
実に明解な構図である。今の状況は、それが結果として出ているに過ぎないのだ。
曹操軍は攻守共に策を用いねばならないが、袁紹は守に専念すればよい。
余裕の違いは、そのまま結果として現れる。
「あやつらは常に当たり前の戦をしていた。
袁紹軍は己の優位をよく理解し、それを最大限に活かす策を採用している。
特別なことなど何もない。当たり前のことを当たり前にやっているだけ。
だからこそ、あやつらは至強の座へと上り詰めることができた。
袁紹……思えばあやつは、当たり前のことを確実にこなすことには、人一倍長けておったのう」
「されど、所詮はそれまでの男。
袁紹には、派手な象徴としての役割以外、何も無いではありませんか。殿とは比べ物になりませぬ」
重臣達も、賈栩と同じ考えだった。
袁紹は、見栄えが派手なだけのからっぽの器。
有り余る才を持ち、新たな中華の姿を思い描き、それを実現できるだけの器を持つ曹操とは、あらゆる面において劣っている。
しかし、曹操は皆の考えを見透かしたようにこう続ける。
「才や器といったものに優劣などない。一つの物差しだけで物事を見ていれば、本質を見誤る。
全ては適材適所……状況において、才の価値は変動するのだ。
確かに、政の才ならば、余は袁紹に負けるつもりはない。
されど、一軍の長としてなら、あやつにはこの余をも凌駕しうる才があるのだぞ」
「それは……?」
「先程そなたも口にしたではないか。
派手な装い、居丈高な口調、天井知らずの傲慢……それこそが、あやつの非凡さであり、同時に最大の武器なのだ」
「つまりそれは、袁紹には外面ばかりで中身が無いということなのでは?」
発言した荀攸を含め、まだ大半が曹操の言う袁紹の凄みを理解できずにいた。
「ふむ。それを説明する前に、改めて考えてみようではないか。
今余らが相手にしている袁紹軍とは、一体何なのか。いかなる集団なのか」
袁家を始めとする古い権力者達の集まり……
曹操が言いたいのは、そんな誰もが思いつくありきたりな答えでないことは分かっている。
「あやつらが目指しているものはただ一つ、“勝利”のみ。
主義も主張も、全ては外装に過ぎぬ。
その本質は、ただひたすら勝利に向かってのみ突き進む巨大な力の流れだ。
だから、揺れない。数多の人材によって構成されたあらゆる機構は、勝利に向かって十全に機能する。
何故、袁紹軍はあれだけの規模に膨れ上がることができたのか。
実に単純なことだ。それは、あやつらが勝ち続けているからに外ならぬ」
「なるほど……」
賈栩は相槌を打ち、こう続ける。
「誰でも負けて全てを失いたくはない。勝馬に乗りたがるのは当然のこと……
世の大半を占める凡人どもにとって、御大層な理想や信念などは二の次。
この乱世を生きるにおいて最も重要なのは、まず勝ち残ること。
袁紹軍は、そうした者達の格好の受け皿となり得る。
何と言っても、奴らはこの乱世が始まった頃から、ずっと勢いに乗っている。
その勢いが強ければ強いほど、勝ち残りを求めて大勢の人間が群がる。
従って、数は際限なく膨れ上がって行く……
そして、ただ己の利益だけを求める者は、政治の優劣など興味がない……
派手に着飾り、より多くの利益を与えてくれそうな袁紹に引き寄せられるというわけですな」
賈栩の発言に頷く曹操。
「その通りぞ。袁紹は、その“わかりやすさ”ゆえに多くの兵を集めることに成功した。
それこそがあやつの長所であり、余を凌駕する才よ……荀攸」
「は、はい……」
「先ほど、そなたは袁紹には中身が無い、と申したな。
されど、中身が無いということは、即ち何者も受け入れて、自分のものとすることができるのだ。
あやつの下には、多くの優れた才が集い、一まとめとなっておる。
袁紹とは、袁紹軍という巨大な集合体を束ね、それを己の力と見なせる底無しの傲慢を持つ男なのだ。
あやつの在り方は、どこまでも王であり、人間らしい。
だからこそ、数多の人間達を惹きつけることができるのだ」
瞳を天井へと向け、どこか遠くを見るようにつぶやく曹操。
「袁紹という人間は、虚栄心の鎧で自分を覆い尽くしたような男だ。
されど、強く思い込むことは、やがてその者はの外面と内面を同一化させていく……
袁本初……今やあやつは、名実ともに天下を統べるにふさわしい器になったのだ。
そして、運気すらも味方につけている。
もし、時代の流れまでもが、あやつを天の頂まで押し上げようとするならば……」
曹操の口ぶりからは、好敵手への賛辞と同時に、諦念らしきものが含まれているように荀或は感じた。
たまらず荀或は声を張り上げる。
「しかし、戦は生き物でございます!
例え袁紹に天の運気がついていようとも、それはいずれ変化するものです!
今我らがすべきことは、いつ事態が好転しても良いように、万全の備えをしておくことではないのですか!」
叫び終わったところで、荀或は自分がすっかり冷静さを失っていることに気付き、縮こまる。
「し、失礼しました……」
「いや、荀或。そなたの言う通りぞ」
曹操は、穏やかな笑みをこちらに向けて来る。
「余はただ、袁紹をあまり侮るなと言いたかっただけだ。
相手は、余らがかつて戦ったことのないほどの難敵だ。
慎重と大胆を、これでもかと重ねて挑む必要がある。
余も己が全力を尽くそう。ゆえにそなたらも、己が才の限界を突き詰めていって欲しい」
「はっ!!」
場に並ぶ軍師達の目に光が宿った。
荀或は、それを見て安心する。
ああ……やはり曹操様は、まだ諦めていないのだと。
ただ……荀或の心には、一抹の不安が燻り続けていた……