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三国羅将伝  作者: 藍三郎
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第十七章 官渡の決戦(二)

 官渡の戦いが始まって、一ヶ月……


 三倍近い兵力を誇る袁紹軍に対し、曹操軍は城壁を盾によく持ち応えていた。

 これだけの規模の激突にも関わらず、両軍の戦死者は少なかった。

 しかし、時が流れるにつれ、次第に明暗は分かれて行く。

 豊富な兵力と潤沢な資産により、余力を残している袁紹軍に対し、曹操軍は常に死に物狂いで敵の攻撃を跳ね除けざるを得なかった。

 次々に降りかかる危難は、物資は元より、耐える兵の精神力を確実に消耗させていった。

 そして、疲弊という名の毒は、上層部まで回り始めて行く……



「何だ何だてめぇらは! 揃いも揃ってしけた面しやがって!」

 

 軍議の席に顔を出した夏侯惇は、軍師たちの顔を見て一喝する。

 今ここには程旻、荀攸、荀或ら曹操軍の中核となる頭脳が集まっていたが、彼らは皆、やつれ、沈んだ顔立ちをしている。

 完全無表情の程旻、いつも通りの笑顔を浮かべている曹操を除いては……


「そりゃあよ、確かに奴らは手強い!

 俺たちは、未だ奴らの陣を崩すことはできてねぇ。だがよ!!」


 夏侯惇は一枚の紙を取り出し、彼らの前に突き付ける。

 この紙には、袁紹の発言が書き記されていた。

 彼は律義にも、開戦当初から自分の発言を矢文にして送り付けていたのだ。

 内容は、想像通り……袁紹らしい敵を見下した大言壮語の羅列であった。

 中には全く的外れな、曹操個人に対する子供のような文句や中傷が書き殴られているものもあった。

 

「これを見ろよ。袁紹の奴、これだけでかい口を叩いておきながら攻めあぐねていやがる。

 そいつぁ取りも直さず、俺たちの力が奴らの想像以上だってことじゃねぇか!!

 奴らは間違いなく焦っている。もうじき奴らはボロを出すだろうぜ……その時こそが……」


 熱弁を振るう夏侯惇だが、軍師達の憂いは消えない。曹操などは、口許に手を当てて笑いを漏らしている。


「って! 何がおかしいんだ! 孟徳!!」

「おお、済まぬ。何せ、そなたが袁紹陣営の期待通りの反応をしておるからのう」

「な、何……!」


 聞き捨てならない指摘だ。夏侯惇がそう思うこと自体、袁紹の罠だというのか。


「そなたにしろ、ここにいる者達にしろ、いささか袁紹を軽く見すぎるきらいがあるな。

 それもまた、敵の狙い通りだというのに」

「じゃあ、この矢文は……」

「自分達は慢心している……そう思わせるための策であろうな」


 あっさり言ってのける曹操。


「袁紹が言っていることは、全部出鱈目だってのか!?」


 俄かには信じがたい。あの袁紹が、こちらを騙すような策を打ってくるなど……


「いや、あやつ自身は本気で言っているのだろうよ。

 余らが劣勢を強いられているのは確かなことだからな。

 少しでも優位を確信すれば、途端に有頂天になる……どこまでも袁紹らしいことよ」


 その時の曹操の口調には、どこか親しみが込められていた。


「だが、この文の真贋などどうでもいいこと。

 袁紹の……いや、その軍師達の策略に、この文は利用されたのだ。

 袁紹と同様、自分達は曹操軍を見くびっている……そう思わせたいがために」

「本当は違うってのか……」

袁紹軍あやつらは動揺などしておらんよ。

 それどころか、今日までの戦局の推移は、全てあやつらの軍略通りの結果であろうな。

 あやつらの狙いは、この官渡での戦局を互角のまま維持すること。

 無理に城壁を崩すつもりは無い。

 これまであやつらが行ってきた攻撃や作戦は、こちらの隙を誘うためのもの。

 その証拠に、あやつらは反撃を受けてもやり返すことはなく、即座に自陣に戻って守りを固めるだけだ」

「そういえば、あいつらたまに仕掛けて来ても、こっちが追い払おうとしたら、すぐに逃げていくんだよ。じゃあ、あれも……」

「もちろん罠だ。血気盛んな武将を突出させて自陣に引きずり込み、集中砲火で確実に仕留めるためにな。例えば……」


 意地の悪い視線で惇を見つめる曹操。惇はバツが悪そうに目を逸らした。


「よしてくれ。もう良い歳なんだ。そこまで馬鹿じゃねぇ」


 空っぽの左目が疼く。あの時のような失態は二度と御免だった。


「派手な新兵器、袁紹の強気な発言……全てが見せかけであり、挑発だ。

 あやつらの狙いは、最初から持久戦だ。

 如何にここが許都に近いとはいえ、兵糧にも限界がある。

 兵糧が尽きれば、いよいよ余らは玉砕覚悟で総攻撃を挑まざるを得なくなる。

 それこそが敵の待ち望んでいた時。あやつらは躊躇いなく全軍を投入し、悠々とこちらを押し潰すであろう」

「……上等じゃねぇか。相手がなんぼいようが関係ねぇ。俺が千倍、万倍働けば済む話だ」


 いかに袁紹の兵力がこちらの二倍、三倍はいようと、将の質ではこちらが上回っている。

 ならば、死に物狂いで戦えば、あるいは……


「本気でそう思うか?」

「………………」


 曹操にそう返され、夏侯惇は言葉に詰まる。


「袁紹軍は取るに足らぬ凡将と烏合の衆の集まりだと、実際矛を交えて、そう思ったか?」

「……わかっているよ……奴らは、ただの数任せじゃねぇってことぐらい……」


 そう、恐らく曹操よりも、実際に戦場で戦った自分の方が良く分かっている。

 袁紹軍は強い。掛け値無しに。

 大軍という印象に惑わされがちだが、将兵達の質も、こちらに勝るとも劣らない。

 

「確かに、袁紹軍には名の知れた武将は少ない。

 されど、それはあやつらが完璧な統率の下勝ち続けているから、自然と個々の武名が広まらなかっただけのこと。

 実際には、人材面においてもこちらに匹敵するものがあるのだぞ」


 また、武将の性質の違いもあるのだろう。

 曹操軍の将を“矛”とするならば、袁紹軍の将は“盾”。

 “矛”を振るう将は華々しく活躍し、名を広めるだろうが、目立たず堅実な戦を行う“盾”の将も、戦場での貢献度は同じ。

 袁紹軍は、そういった将を束ねて一つの軍略の下動かしている。

 だからこそ、守りに、物量戦に、そして、持久戦に強いのだ。


「あやつらはただの数任せではない。数で優位に立った場合の戦のやり方を誰よりも熟知しておる。

 決して焦らず、先走らず、数の優位を活かし、確実にこちらの息の根を止めようとしている。

 惇の言う通り……余の部将たちが想像以上の力を発揮して、数の優位を覆したところで、あやつらは何も焦ることはない。

 守勢に長けた兵五万を捨て石にそなたらを釘づけにして、官渡を、そして許都を攻め落とせばよい。

 一騎当千の将を殺すのは難しいが……封じ込めるだけならば存外に易しい。

 さらに袁紹軍には、そうした戦法に慣れた将が揃っておるのだ」

「だからか……俺たち四天王や張遼たちに、深追いするなと命じたのは」

「そなたらは余の切り札だ。そしてそれは、敵側もよく分かっておる。

 だから、罠にかかればなりふり構わず封じ込めにかかるだろう。

 それだけは、何としても避けたい。そなたらの出番は、決定的な勝機が見えてからだ」

「はっ、それは一体いつになるのやら……まぁいいぜ。

 お前が待てと言うなら、いくらでも待ってやる」


 納得できる、できないの問題ではない。

 曹操の臣ならば、主を信じ、その采配に従うことこそ務めだと、夏侯惇はよく理解している。


「……勝てるんだろうな」

「聞くまでも無かろう」


 笑みを浮かべる曹操を見て、これ以上言うことはないと言った様子で、夏侯惇は部屋を後にした。

 




 夏侯惇が退出した後……末席に座る賈栩は、くぐもった笑い声を漏らした。

 

「さすがは曹操様……さも勝機があるような言い回しで、将軍を納得させましたな」


 意地の悪そうな口ぶりで発現する賈栩。


「実際は、これだけの頭脳が集まりながらも、まるで打開策を打ち出せていないというのに……」


 賈栩にそう言われ、荀或、荀攸らは顔を伏せる。


「さぁて、あれで惇も中々に鋭い。安心しているふりをしているだけかもしれぬ」

「ふむ。義兄弟ならではの信頼関係という奴ですか。私には理解の及ばぬ分野ではありますが……」


 顎をさすりながら、賈栩は不敵な笑みを崩さない。


「しかし……正面突破も無理、持久戦も分が悪い……ここまで八方塞はっぽうふさがりとなれば、逆に策は一つしか無いように思えてきますな」


 賈栩に代わって、荀或がその策を述べる。


「それは相手の補給線を断つこと……ですね」

「そう、持久戦が不利なのは、あくまで敵の補給が万全であればこそ……

 しかも、敵は四十五万の大軍……兵糧の消耗も激しいはず。

 その場合、こちらが十五万程度に兵を抑えているのは逆に有利な点なのです」


 三十万の青州兵達を最初から動員しなかったのは、こういった事情もある。

 曹操軍には元より、三十万の大軍を長期間維持できるほどの兵糧は無いのだ。

 この戦略は、実は開戦当初から定まっていた。

 半数の十五万で袁紹軍四十五万を押さえつけ、その間に補給線を断ち、敵軍を飢餓状態において戦意の低下を狙う。 

 その後、こちらは温存しておいた残り半数を投入し、一気に勝負を決める……


「その為には、肝心要の補給線を特定せねばならぬわけだが……どうなのだ。程旻」


 その任務を担当している程旻に曹操は視線を送る。

 程旻は、いつも通りの感情の篭らぬ声で答える。


「こちらも広範囲に兵を放ち、食糧基地の捜索に当たらせていますが……

 敵は極めて細分化された補給経路を用いており、数箇所を潰したところでまるで効果がありません。

 補給経路は数百以上に及ぶと見られ、捕らえた敵兵から聞き出そうにも、彼らの中も食糧基地の所在を知る者はいませんでした。

 官渡周辺にいる彼らは末端に過ぎず、その上にはさらに複雑に入り組んだ補給経路があるものと思われます」


 彼らしく、終始淡々と程旻は報告を述べた。

 続けて、補給経路に関する彼の推測を口にする。


 袁紹軍の補給経路は、恐らくこのようなものだろう。

 食糧基地より運び出された兵糧は、途中いくつもの中継地点を経て本陣まで輸送される。

 最初から最後まで同じ兵が輸送するのではなく、複数の担当の引き継ぎながら運搬される。

 その際、輸送に関わる兵が知っているのは、自身が担当する中継地点のみで、誰も補給経路の全貌を知らないのだ。

 もちろんこれは、食糧基地の場所を掴ませないための情報対策。

 袁紹軍の補給経路は無数の輸送路が蜘蛛の巣のように入り組んでおり、糸の数本切られたところで全体の機能には全く影響を及ぼさないようになっている。

 ならば、糸を下から辿る……捕らえた兵から次々に中継地点を聞き出していけば、自ずと食糧基地に行き当たりそうだが……

 袁紹軍の頭脳、田豊が作り上げた機構はそんな単純なものではない。

 補給経路は、日単位で変動を繰り返しているのだ。

 例え一人の輸送兵から情報を聞き出したところで、次の日には中継地点も輸送路も大きく変わってしまっている。

 これでは食糧基地へは到底辿りつけない。

 さらに、補給部隊も強力に武装しており、易々と生け捕れるものではなかった。



「要は、何の成果も上げられてはいないということですか」


 揶揄するような賈栩の言葉にも、程旻は何の反応も返さない。

 彼はただ、自分の成すべきことを成す……そこに如何なる私情も挟むつもりはなかった。


「よい。敵側もこの戦の要が補給線にあることは承知しているはず。

 その根源である食糧基地については、万全を期して秘匿していよう。

 引き続き捜索を続けよ」

「は……」

「問題は、それまで我々が持ちこたえられるか、ですな」


 賈栩の発言に言葉を返す者はいなかった。皆心の中では気付き始めていたのだ。

 開戦からもう一月が過ぎている。

 それだけ時間を費やしても見つけられないということは、もはや食糧基地の所在を突き止めるのは不可能なのではないか、と……

 しかし、それで諦めてしまうような軍師は曹操軍にはいない。

 可能性は限りなく低いと分かってはいても、程旻は自分の任務を最後まで果たすつもりでいた。

 誰も言葉を発しないので、賈栩がさらに続けて発言する。


「敵の心臓というべき食糧基地……その所在を知っているのは、袁紹軍でも極小数……

 上層部の一握りに限られるでしょうな」


 曹操と袁紹との戦いは、派手な力と力のぶつかり合いが全てではない。

 その水面下では、多数の斥候らによる熾烈な情報戦が繰り広げられていた。


 この情報戦……曹操は最初から勝ち目はないと踏んでいた。

 情報収集においては、人海戦術に勝る方法はない。

 自分と袁紹とでは、動員できる斥候の数が違いすぎる。

 全軍を官渡に集結させたのも、情報の漏洩を防ぐためだ。

 拠点を広範囲に分散すると、拠点間の伝達を簡単に奪われてしまう可能性が高い。

 これでは、どんな策も不発に終わってしまう。

 官渡一帯の情報網は全て制圧されていると見てよいだろう。

 対策としては、兵を一箇所に集め、堅い城壁で閉ざし、情報を奪われにくい環境を創るしかなかった。


 そして、袁紹軍には一年以上も前から、数十名の間諜を派遣してある。

 こちらの情報は鎖し、相手の情報を奪い取る。

 これで、少しでも優位に立とうと考えていたのだが……

 


「そうなると、後は食糧基地の場所を知っている人間……

 即ち中枢に近い人間から情報を引き出すしかないわけだが……」

「荀攸」

 

 曹操は、斥候の指揮を担当している荀攸に視線を送る。

 荀攸はずっと辛そうに面を伏せていたが、顔を上げて話し出す。


「袁紹軍に潜入させていた間諜の報告は……完全に途絶えました。

 報告の出来ない状況に置かれているか、あるいは……」


 既に命は無いものと見るべきだろう。

 彼らを結果的に死地に送ってしまったことを、荀攸は深く悔やんでいた。

 場が暗い空気に沈む中、沈黙を破るのはまたしてもこの男だった。


「皆殺しにされたか。それとも、調べる内に向こうの方が旗色が良いと気付いて、寝返ったか……」


「賈栩!!」


 机を叩いて立ち上がり、怒りを込めた視線で賈栩を睨みつける荀或。

 先程からの人の神経を逆なでするような発言に、いよいよ我慢できなくなった。


「貴方という人は……!」


 当の賈栩は、荀或の憤りなど意に介さぬように、人を食った顔をしている。


「おやおや、機嫌を損ねてしまったかな? ならば素直に詫びるとしよう。

 ただ、私は可能性を挙げているだけの話でね。それは、我が主君の利益にも繋がることだ」

「え……」

「もし間諜の誰かが生きて戻って……そいつが袁紹軍に抱き込まれていたとしたら……どうする?

 偽の情報に躍らされ、袁紹軍の罠にかけられるかも知れない。

 そうした可能性を常に頭に入れておくのも、軍師の務めではないのかね?」

「賈栩殿の……言う通りです」


 弱々しい声で答えたのは荀攸だった。


「荀攸……」


 彼とて理解しているのだ。賈栩の言うことは正しい。

 軍師とは、軍の誰よりも冷静で……非情な人間であらねばならないのだ。


「賈栩よ、その辺にしておけ。そなたの毒は、慣れておらぬ者には苦すぎる」


 たしなめるような物言いだが、曹操の顔には笑みが浮かんでいた。


「これは失礼いたしました……これでも、相当自制しているつもりなのですが……」


 やはり、不敵な笑みを崩さない。

 この男のいちいち癇に障る言い回しは、明らかに場の空気を悪くしていた。

 決して相手を面罵などしない。見下したりもしない。

 だが、言葉の端々に忍ばされた毒は、不快感を催すのに十分だった。

 それでも、曹操が受け入れている以上……排斥することは出来ない。

 逆に、あの程度の発言に苛立ってしまうほど、今の自分には余裕が無いのだと、荀或は自省する。

 今はつまらないことに思考を割いている時ではない。



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