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三国羅将伝  作者: 藍三郎
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第十六章 江東の小覇王(七)

「………………」


 孫策失踪の緊急事態に、城内はすっかり慌ただしくなっている。

 城に移された孫権と尚香も、多数の兵に護られていた。

 二人とも何をするでもなく、ただ沈黙を保っている。


「……こういう時、私は何て無力なんだろうと思い知らされるよ……兄上の危機に、何もすることはできない」

「お兄さま……」


 孫権の気持ちは、尚香には痛いほどよく分かった。

 できることなら、自分も飛び出して、孫策を探しに行きたいのだろう。

 無駄と分かっていても、何かせずにはいられないのだ。

 それは、尚香とて同じ気持ちだ。


「ご自重くださいませ。お兄さまは、孫家の次男という大事なお体。

 今は動かずにいるのも、立派な務めですわ」


 尚香の言うことは理に適っていた。孫権自身も、それはよく分かっている。

 だからこそ、何もできないことがもどかしいのだ。

 しかし、妹に改めて言われて、幾分か楽になった。


「そうだね……参ったな、本来は兄が妹を元気づける立場なのに、これじゃ逆だ。 

 尚香……君は強いな」


 乾いた微笑みと共に語りかけてくる孫権。尚香もまた、微笑みながらゆっくりかぶりを振る。


「強いのは、お兄さまの方ですわ。私はまだ怖いんですもの。

 伯符兄さまに、もしものことがあるのではないかって……」


 尚香の手が微かに震えているのを、孫権は目の当たりにする。


「でも、お兄さまは、心から信じてらっしゃるのでしょう?」

 

 尚香に言われて気がついた。兄の安否を心配しているのは確かだが……最悪の事態については、まるで想定外だったことに。


「そう……そうだね。兄上は必ず私達の前に帰ってくる。いつもの笑顔と一緒に……」

「ええ……」

 

 尚香の顔が、明るく輝いた。その笑顔を見て思う……

 

 兄は、太陽のような人だ。

 一度沈むことはあっても、必ずまた空へと昇る。

 そして、太陽がいない間、夜を照らすのは月の役目だ。

 自分は、そんな月のような男になりたい。それこそが、自分の生きる道なのだ。


(兄さん……僕は……)


 話したいこと、聞きたいことはいくらでもある。

 孫策が帰ってきたら、自分は思いの全てをぶつけてみるつもりだ。


 父、孫堅の死から、兄は覇王を目指し、弟はただ勉学に励んだ。

 後継者としての責任感……周囲が寄せる期待の重さ……父の喪失による悲しみと逃避……

 それらは自然と、兄弟の間に溝を生み、お互いを遠ざけていった。

 別々の道を歩まざるを得なかった兄弟……彼らの時間は、十年前からずっと止まっている。


 その時を動かすのは今なのだ。

 お互いの内面をさらけ出した時にこそ、自分達は本当の意味での主従に……兄弟になれるのだろう。




「ぜぇ、はぁ……ここは……どこだ?」


 気付いた時には、木々が立ち並ぶ林の中で立っていた。

 体の節々が痛むが、歩けないほどではない。

 木々の向こうには、見慣れた城壁が見える。あれは孫呉の都……ならばここは近くの山の中か。


「随分遠くまで飛ばされちまったが……どうにか、戻って来れたみてぇだな」


 全身の痛みも忘れて、呉の地の空気を腹一杯に吸い込む。

 孫策は内から沸き上がる喜びに浸っていた。

 あの奇妙な世界といい、未だに不可解なことだらけだが……誰のお陰で生還することができたかまでは分かっていた。


「ありがとうな、公瑾……待ってろよ、みんな!」


 友への感謝を胸に、孫策は一歩を踏み出す。


 その時……彼の視界に、信じがたいものが飛び込んできた。


 黒い衣を身に纏い、紫色の狼の仮面を被った怪人物。

 だか、孫策を驚愕させたのはこの仮面の人物ではない。

 この者は、両腕で意識の失った女を抱きかかえている。

 その女はあろうことか、孫策の最愛の妻、大喬だった。


「大喬ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉッ!!!」


 全身の血が逆流するような激情が、孫策を貫く。


 あの狼面は何者なのか。

 何故、自分の妻がこんなところにいるのか。

 

 そんな疑問を抱く前に、彼の脳内は白く塗り潰された。

 今の彼を支配しているのは、あの仮面への燃えるような敵意のみ。



「ウアアアアアアァァァァァァァァァァァァッ!!」



 咆哮と共に、駆け出そうとした時……



 後頭部を、鋭い痛みが貫く。



「――――――――」


 

 それだけで……ただ、それだけで。


 孫伯符の肉体の機能は、全て停止する。


 彼の内では、依然前に進めという命令が発せられ続けている。

 しかし、体が全く動かない。一歩も進めないどころか、指一本動かせない。

 そして……孫策自身も、それを知覚することはない。




「“麻沸散まふつさん”……何とか効いたようでやんすね」


 背後に立ち、長い針を孫策に突き刺している男は、いつもの口調で話し掛ける。

 黒い色眼鏡に赤紫色の着物、紅色に彩られた唇。

 神医、華佗は、血に染まった針をゆっくりを引き抜く。


 孫策は虚ろな眼をしたまま、直立不動の姿勢を取っている。

 まるで、彼だけが時が止まってしまったように……


「貴方の体に全身麻酔をかけたでやんす。これで貴方は指一本動かせない……

 と言っても、貴方には、あちきが誰なのか、何が起こったかさえもわからないでしょうが……」


 彼の言うとおりだった。今の孫策は、思考までもが完全に凍り付いてしまっている。

 一切の動きを封じられた孫策に対し……華佗は迷わず、より長く太い針を胸へと突き刺した。


 孫策の口から血が溢れ出る。その針は、心臓を違わず貫いていた。



「――――――――」


 断末魔の叫びも無く、誰かの名を呼ぶことも無く……孫策の体は静かに崩れ落ちる。


 倒れ臥した彼は、既に冷たい亡骸と化していた。

 あれほどまばゆく燃え盛っていた命の炎は、すっかり消えてしまっている。



 幕切れは、あまりにも静かに、唐突に、そして意外な形で訪れた。

 

 “江東の小覇王”孫伯符は、この時、二十六年の生涯の幕を閉じた。






「今度こそ……終わったようだな」


 “狼顧の相”は、気絶した大喬をその場に放り捨てると、孫策の死を確認する。 


「見事な手並みだ、華佗……あの孫策をも僅か二撃で仕留めるとはな……

 さすがは“神医”……いや、今は“闇医”というべきか?」


 その腕前を褒められた華佗だったが、顔に浮かぶのは苦笑だった。


「あちきのわざに、神も魔も、光も闇も無いでやんすよ……

 ただ、人間の身体を好きなように弄くるだけのことでやんす。

 治すも、壊すも本質は同じ……同じでありんす」


 華佗は、人体の構造を隅から隅まで把握している。

 それは武将とて例外ではない。さらに、彼にしかできない複雑な配合による麻酔薬。

 それを用いれば、針の一本を刺すことで、人間の筋肉や神経を完全に停止させてしまうことができる。

 彼の扱う針は、まさに一撃必殺の武器である。


 華佗の扱う類い稀なる医術の源流……それは人の命を救う医学とは対極にあるもの、人の命を奪う暗殺術にあった。

 癒しと殺し、本来相入れないはずの二つの行為。

 だが、その極意は共通していた。それは、人体の構造について、深く理解すること。

 より迅速に人の体を治すにはどうすればいいか。最小限の手順で人を殺すにはどうすればいいか。

 突き詰めれば、双方の問題は人体への理解に帰結する。

 人体に関する全てを知れば、治すも壊すも自由自在となる。

 世の全てに、陰と陽の側面があるように……医と殺もまた、表裏一体の関係にあるのだ。


 華佗の使う麻沸散が良い例だ。重傷患者に使えば、患者に痛みを感じさせずに手術ことができる。だが、優れた薬も度を越えれば劇薬となる。

 大量の麻沸散を投与すれば、武将であろうと筋肉と神経を麻痺させられ、全身不随に追いやられてしまう。

 さらに華佗は、麻酔が最も効果を発揮する部位も、針を突き刺すのに適した弱い箇所も熟知しているのだ。

 先程も、患者に麻酔を使うように、素早く、静かに、孫策の命を奪ったのだ。


 一刺しで相手を殺せる暗殺者。しかし彼が完全無欠の殺人者かというと、そうではない。

 華佗は武将ではあるが、身体能力は極めて低く、正面はおろか背後からでも隙を突くのは不可能だ。

 矢や銃を用いた暗殺と違って、華佗の針は相手に近づいて直に針を打ち込まなければ意味がない。

 華佗も気配を殺す術を会得してはいるが、針を刺す時の殺意までは隠せない。

 どれだけ至近距離だろうと反応されるだろう。そんな怪物を相手にするにはどうすればいいか……


「あの人は戦場はもちろん、普段の生活でも全く隙を見せない。

 そんな男を暗殺なんてできっこない……普通はそう考えるでやんす……だけど……」


 昨夜孫策と出会った時と、全く同じ……軽快で洒脱な口調で喋る華佗。


「苦しい戦いを何とか切り抜け、一息ついたところに、いきなり気絶された奥方が現れたら……

 さすがの孫策様にも、冷静さが消えて、一瞬隙が出来たでやんすよ。

 針を一刺しするだけ、小さな小さな隙……とても殺すまではいかない。

 ……けど、あちきには、その一刺しで十分でやんす」


 孫策の肉体の構造は、昨夜顔を合わせた時に全て把握した。

 華佗は解剖せずとも、見ただけで対象の構造を把握することができる。

 さらに握手をすることで、その情報はより鮮明なものとなった。


 孫策は友好的であったが隙はなく、単独での暗殺は不可能だと早々に結論づけた。

 第一、あそこで事に及んだとしても、周りに大勢の兵がいたのでは殺されるのがおち。

 自分はまだ、死ぬわけにはいかないのだ。

 遅効性の毒を使うという手もあったが……そんな弱い毒では、彼の免疫力によって打ち消されてしまうかもしれない。

 自分一人の力では、孫策暗殺は不可能。

 そこで、彼は自分に殺しを依頼したこの仮面の男に、お膳立てを整えてもらうことにした。


「さすがは、夏王朝から続く暗殺一族の末裔といったところか」


 華佗の先祖は、古の時代、宮廷に仕える侍医であった。

 彼らが作り上げた技術と学問は、当代まで続く医の基礎になったという。

 だが、それはあくまで表向きのこと。

 彼らの真の役割は、暗殺という宮中の闇の仕事を司ることにあった。

 いつの時代もそうであるように、王朝の中は常に血生臭い権力闘争が繰り広げられていた。

 都の内外に、王の座を狙おうとする脅威は後を絶たない。

 彼ら一族の役目は、王の権勢を盤石とするため、敵対する者を秘密裡に葬り去ることにあった。

 人を救うための医術は、暗殺や毒殺という分野においても絶大な効果を発揮した。

 彼らの暗躍により、数え切れないほどの政敵が闇に葬られていった。

 一方、人を殺すことへの追究は、本業の医学においても飛躍的な進歩をもたらした。

 その逆も然り。医学と暗殺術の進歩は互いに相乗効果を生み、さらなる高みへ発展していく。



 医殺同源いさつどうげん……それが彼ら一族の在り方を象徴する言葉だった。


 彼らに、善悪の概念はない。あるのは、より人体の構造を深く理解したいという執心のみ。

 権力を得ようとしたのも、全てはより研究に専念できる環境を得るため。

 彼らはその一念で、夥しい血を流し、また後の世まで多くの人々の命を奪い、救ってきた。

 闇の仕事を司る彼らが、決して表舞台に出ることはない。

 それでも、彼らは絶大なる権力と、並ぶものなき栄華を手に入れた。

 だが、そんな彼らにも落日が訪れる。


 彼らの驚異的な暗殺術に、時の権力者は恐れを抱いた。

 彼らは毒を塗った刃のようなもの。

 今は忠実なしもべであっても、一度敵の手に渡れば、自分達の命をも脅かされかねない。

 それだけ、彼ら一族は恐れられていたのだ。

 結局、一族は権力者の手によって、関わりのあった弟子達も含めて皆殺しにされることになる。

 この出来事によって、当時最盛期にあった医学もまた、現代に至るまで停滞および衰退していった。


 だが、一族には生き残りがいた。

 権力者に敵視されていることに気づいた彼らは、もはや滅びは不可避として、せめて血だけは絶やすまいとした。

 彼らの医術を持ってすれば、仮死状態にするなど容易いこと。

 それにより、誰にも知られぬままその者は生き延び、子孫に自らのわざを伝えていった。

 その人物は、かつての一族の轍を踏むまいと、権力との交わりを避け、ただ己一人で医学を追究して行くよう子孫らに伝えた。

 一族の血脈と技術は密かに受け継がれ……現代における後継者が、この華佗というわけである。




「ところで……そちらのお嬢さんでやんすが……」


 華佗は、色眼鏡の奥の視線を大喬へと向ける。

 彼女は意識を失ったまま、叢に横たわっている。


「まだ、死んでないでやんすね?」

「ああ……この女は、今死ぬ予定は無いからな」


 狼顧の相は、運命を見透かしたように言う。


「だったら、元居たところに帰してあげてもいいでやんすね?

 目覚めた時、傍でご主人が死んでいたら……あまりの衝撃に、心を病んでしまうかもしれやせんから」


 その事を聞いて狼顧の相は、仮面の奥で笑いを漏らす。


「くっくっく……たった今、その主人を殺した貴様がそれを言うか」

「……あちきは、あくまで医者でやんす。

 できる限り、人を病から救ってあげたいと思うのは当然でやんしょ?」

「ふん……まぁいいだろう……好きにするがいいさ……」



 華佗は立ち去る前に、孫策の亡骸なきがらへと目をやる。


「孫策様……貴方は確かに、仲間想いのご立派な殿様でやんす。

 けども、貴方が考えているのは自分の大切な人々のことだけ……

 それでは、この乱世は止められないでやんす」


 昨夜孫策と直に接して……彼の人間性や魅力は十分に理解できた。

 本心を言えば、あのまま彼に仕えたいと思ったぐらいだ。

 しかし、彼の内に巣食った絶望は、この程度で癒されるものではなかった。


 病に苦しむ全ての人々を救いたい……孫策の前で語った彼の夢は、本当のことだった。

 華佗も最初は自分の腕を、純粋に人を癒すためだけに使いたいと思っていた。

 だが……彼の前で起こる現実は、あまりにも絶望的なものだった。

 世界には飢餓や貧困、殺人や暴力、戦乱や略奪が蔓延っている。

 華佗がいかに大勢の命を救ったところで、乱世の荒波はいとも簡単にその数倍の命を奪ってしまう。

 その、どうあっても覆せない現実に、華佗は絶望した。


 誰が悪いわけでもない。

 死と争いは、人間社会における当然の営み。

 それは華佗にもわかっていた。

 だからこそ、彼の絶望は一層深いものとなる。

 戦乱が人類全体の罪ならば、それは個人の力ではどうやっても消すことはできない……ということなのだから。

 華佗という男は、誰よりも命の尊さを知っていた。

 だからこそ、命がいとも簡単に失われていく今の世に、完全に絶望してしまったのだ。

 そんな、拭えぬ虚しさに付き纏われていた彼の前に……仮面を被った一人の男が現れる。


 人間じゃない……人体について深く理解していた華佗は、この者が尋常な人間ではないことは、一目見ただけでわかった。

 武将とも違う、華佗が知るいかなる生物の枠にも当て嵌まらない、それが彼だった。

 何処で知ったのか……彼は、華佗が歴史から抹消されたある一族の末裔であることも知っていた。

 そのことについて、彼は平然とこう答えた。


「私に知らぬ歴史などない。何故なら、私はあの時代から生き続けているのだから」


 男の言うことは、本来なら大法螺にしか聞こえない類のものだ。

 しかし、華佗は頭ごなしに否定することはできなかった。

 仮面を取った男の顔を見て、華佗は愕然となる。


 顔の形は関係ない。重要なのはもっと別の部分だ。

 華佗は、不老年齢に関係なく、肌を見ればその人物の年齢を正確に特定できる。

 不老の体とはいえ、寿命はある。武将達も、不老年齢に至るまでは、普通の人間と同じように成長するのだ。

 それが完全に止まるわけではない。その体には、僅かながら歳を重ねた痕跡が刻まれている。

 人体の全てを知り尽くす華佗は、それを見ただけで実年齢を当てられる。


 しかし……あの男だけは、初めて年齢を特定できなかった。

 見た目通り若くも見えるし、何十年も生きた老人にも思える。

 華佗は、俗説や迷信などの先入観に囚われることはない。

 常に自身の持つ知識によってのみ物事を判断する。

 だが、生物学的な視点を重視するがゆえに、返って確信を深めることになってしまった。

 この男は、未だ自分が遭遇したことのない、人類とは決定的に異なる存在……

 怪物や神仙と呼ばれる類の生き物であることを……


 その男は言った。


「私に手を貸すのだ、神医、華佗よ……」


 彼が語って聞かせた全ては、華佗でなくとも到底信じられない話ばかりだった。

 しかし、彼はある決意を胸に、彼の協力せよという申し出を受け入れる。それは……


「……これで、本当に歴史は正しい方向に動くでやんすね?

 争いも理不尽な死もない、静穏な世界に……」

「ああ、孫策の死には、それだけの意味がある。

 私が未来を見通せることは、既に知っていよう」


 彼が華佗の前に現れた時、彼はこの後中華で起こる出来事をことごとく予言してみせた。

 黄巾党の乱、董卓の暴政、群雄割拠の時代、曹操と袁紹による天下を懸けた決戦……

 結果として、その予言は全て的中した。

 当時は曹操も袁紹も、全くの無名だったのにも関わらず、だ。

 後の歴史を全て知っている……彼はそう言った。

 しかし、この世界では歴史の流れは歪んでしまっており、それを正すために活動しているとも。

 信用に値する男ではない……それはよくわかっている。

 だが、彼はあらゆる人間もまた信じられずにいた。

 人の手では決して変えられぬ世界、だが、人以上の力を持つ者ならば、あるいは……


「孫策の死により、また歴史は修正された……忘れるな。

 私が神となる以外、お前の望みを叶える道はないということをな……」

「ええ……言われるまでもないでやんす……」


 この男の言が真であれ偽であれ……賭けてみる価値はある。

 何もしないでいても、この乱世、命は刻一刻と消耗されていくのだ。

 その連鎖を断ち切るためならば、悪魔だろうと縋ってみせよう。

 それだけ、彼の内なる虚無は大きかった。



(それにしても……一体何が気に入らないんでやんすかねぇ。あのお人は……)


 華佗にはすぐにわかった。

 “狼顧の相”の声は、平静を装っているようで、内には激しい苛立ちが込められていたことを……



(……おのれ……)


 実際、彼は苛立っていた。仮面の奥の表情は、憤怒に歪んでいる。

 確かに、孫堅の時と同様、無事孫策を抹殺することができた。

 だが、華佗の手を借りたのは、あくまでも保険。

 本来ならば、夢幻結界の中で決着をつけるつもりだった。

 しかし、孫策の予期せぬ抵抗に遭い、結局自ら手を下すことはできなくなってしまった。


(私は、神になるべき男だぞ……それが……それが、あんな人間などにっ!!)


 あの時孫策が見せた、魂の反抗。それは、狼顧の相に深い屈辱感を刻むに至った。

 怒りに手を震わせながらも、目的を果たした優越感で何とか相殺しようとする。


(全ては私の筋書き通りに進んでいる……何を恐れることがある!

 所詮人間の力では、我が大望を止められぬと証明されただけではないか!!)


 そうやって何度自分に言い聞かせても、心に負った敗北感は消えない。

 孫策は死しても……彼が突き立てた牙は、神を目指す男の胸に残り続けていた。


 



 江東の小覇王、孫策死す。


 これによって、快進撃を続けていた孫軍は、一転して存亡の危機に立たされる。

 それはまさに、かつての孫堅の死の再来であった。

 王としてだけではなく、人間的にも孫呉の精神的支柱だった孫策の喪失は、あまりにも大きく、孫呉の民は悲しみの淵に沈んだ。

 勿論許都攻めどころではなく、孫呉はこの深すぎる悲しみに耐え、態勢を立て直すのに必死だった。


 だが……彼らは孫堅の死からここまで、ひたすらに壊れた器を直そうとしていた。

 端からは快進撃のように見えても、その裏には想像を越える艱難辛苦があった。

 そんな彼らの先頭に立ち、皆を引っ張ってきたのが孫策だったのだ。

 彼は孫呉の者達にとって、希望の象徴であった。

 そんな彼が、二十六歳の若さでこの世を去った。

 最も光り輝き、今まさに新たな時代を切り開こうとしていた、その矢先に……

 家臣達の受けた衝撃は、孫堅の時以上だった。

 さらに二度に渡る主の突然の死……何重にも渡る衝撃は、孫呉の者達から気力を根こそぎ奪い取るのに十分だった。



「……どうだった?」


 凌操は、城から戻ってきた太史慈に問い掛ける。

 他の臣下と同様、彼の顔もまた憔悴しきっていた。

 息子の凌統は、今も家で泣き続けている。


「見ちゃいられねーよ。大喬さんはずっと泣いている……

 今は、妹さんがつきっきりでずっと慰めてるよ。

 伯符のいねぇ今、あの人を癒やせるのは妹さんだけだろう……」


 若くして未亡人となった大喬の心の傷は、あまりにも深い。

 その悲嘆に暮れる姿を見て、太史慈は自分程度では何を言っても無意味だと悟った。


「周瑜様は……」

「あの人も変わらねぇ……まだ抜け殻のまんまさ。下手すると、立ち直れないかもしれねぇな……」


 あの日……孫策の死体を見つけた時の周瑜の取り乱しようは、今もまざまざと思い出せる。 彼は親友ともの死を信じようとはせず、激情のままその名を叫び続けた。

 それは、普段の沈着冷静な周瑜からは考えられないほどの狂態だった。

 ひときしり荒れ狂った後……彼は糸が切れた人形のように何の行動も起こさなくなってしまった。己の生きる意味を、完全に見失ったように……


「だがよぉ……俺ぁ、孫権様が一番危うく見えたぜ……」


 孫策の死により、その弟の孫権が孫家の当主へと収まった。

 彼は、あっさりとその地位を受け入れ、今は張昭と共に政務に携わり、領土内の混乱を鎮めている。しかし……


「泣くどころか、悲しむ素振りさえ見せねぇんだ。

 表情一つ変えずに、領主の椅子に座っている。

 まるで、何事もなかったようによぉ……俺は、そいつが恐ろしくてならねぇ」


 凌操も、同感とばかりに頷いた。

 孫権が薄情な人間などとは、決して思わない。

 それは、彼を知る者ならば誰でも分かっていることだ。

 凌操は言う。


「大喬様や周瑜様のように、全てを忘れて悲しめば、まだ傷が癒える可能性もある。

 しかし、その時を置かず、無理矢理悲しみを封じ込めてしまえば……」


 人間は、涙を全く流さずに生きていけるほど強くはない。

 理性と感情の齟齬は、やがてその器となる心を、砕いてしまうかもしれない。

 しかし、それでも彼らは孫権に、全てを捨てて悲しめ……とは言えなかった。


 現在、孫呉は極めて危ない情勢下にある。

 孫策の死による混乱に歯止めをかけるには、信望に足る新たな指導者を立てることは急務。

 この隙に乗じて、劉表ら敵対勢力が攻めてくる可能性を考えると、もはや一刻の猶予もない。

 今孫呉に必要なのは、事態を冷静に収拾できる指導者なのだ。


「こういう時……張昭の奴が恨めしくもあり……頼もしくもあるぜ」


 あの、孫呉で最も冷静な男は、この大事に取り乱すこともなく、為すべき事を迅速に処理していった。

 彼は、誰よりも理解しているのだろう。

 主の死に乱されることなく、この孫呉の地を護り通す。

 それが孫家の臣下の務めであり、孫策の意志に応えることなのだと……



「畜生ぉっ!!」


 拳を握り締め、脚を大地に振り下ろす太史慈。

 瞳に涙を浮かべて、己の無力さを呪うように叫ぶ。


「何で……何で死んじまったんだよ!

 俺ぁいつか、あんたを超えたいと思ってたんだぜ!

 あんたよりも強くなって、あんたを天下の主にしてやりたかったのに……なのに……なのに!!」


 血が流れるほど歯を食いしばる太史慈。

 孫策に力で敗北して配下となった彼もまた、孫策の器に魅せられた男の一人だったのだ。

 その空虚は、いくら大地を踏みしめても埋まることは無かった。






 良い、夢を見ていた。


 兄弟、手と手を取り合い、力を合わせて民に安寧をもたらす。

 兄の傍で、共に泣き、共に笑い、終生兄を支える……それが、孫仲謀が初めて見出だした、己の生きる意味だ。


 だが、兄はもういない。


 孫権の抱いた夢は、実に呆気なく破れ去った。この時……人間、孫仲謀も、同時に死を迎えた。

 ここから先、自分は兄の代わりに王となって、ただその役割を果たすためだけに生きるのだ。

 王の器にあらざる自分にできるのは、兄の築いたものを何とか壊さずに保つ……それだけではないか。

 それでいい……それ以外は、何も考えない。考えたくもない……



 兄が座っていた座に腰掛け、孫権は凍れる面を保っている。

 生きるための標を失ったこの男は……残りの人生全てを、虚ろな王座に埋没する道を選んだのだった。



 そんな孫権の横顔を……諸葛瑾は、黒い微笑みを浮かべて眺めていた。


(全ての感情を押し殺したその冷たい表情……ぞくぞくするっすねぇ……)


 凍れる面の下には、一体どれだけの心の闇が渦巻いているのか……それを想像するだけで、瑾の心は満たされる。

 彼は何もしない……全てを成り行きに任せ、運命を傍観するだけの存在。

 彼には善悪の概念がない。観察対象に降り懸かる事象は正であれ負であれ、等しく彼の興味となる。

 そのために、そのためだけに、彼は孫権の傍にいる。

 一人の人間の生涯をあますことなく見届ける。それこそが、何にも勝る至上の娯楽ではないか。


 彼はよく知っているのだ。

 自ら行動を起こさずとも、流れるままにしておけば、世の中は常に面白い方向に転がるということを。


 生きるということは、よく出来た芝居を観客席から見つめるようなものだ。

 他者の身に何が起ころうと、世界がどれだけ変わろうと、所詮は“舞台の上”の出来事……

 客席にいる自分は、どうあっても演者になることはできない。

 彼らがどれだけ傷を負い、悲しみ嘆いたところで、それを全く同じに感じ取ることはできないのだ。

 ただ、自分の心の中に投影して、共感という名の幻覚を見る。それが、他者との交わりの正体だ。


 諸葛子瑜は、喜び、怒り、悲しむなど、人並みの感情を持っている。

 だが、彼は決して舞台の上には上がろうとしない。運命とは完成された演劇。

 素人が乱入して筋書きをぶち壊すのは、観客である自分のためにもならない。

 物語は、先が読めない方が面白い。

 自分は、これからも傍観者として観劇を続けるのだろう。

 主人公そんけんが、運命に翻弄される物語を……


 されど、そんな自分も結局は物語に組み込まれた存在。

 何かの拍子で、舞台に上げられることになるかもしれない……

 そのことも、諸葛瑾はよく理解していた。




 孫策の急死により、孫呉軍は中原の争いから遠ざかるを得なくなってしまった。

 劉表は、この期に乗じて長年の宿敵である孫家を駆逐しようと目論み、あらゆる搦手で攻めてくる。

 孫呉も新たな主となった孫権を中心として頑強に抵抗し、これ以上の混乱の広がりを防いだ。

 だが、結果的には賈栩の作戦通り……揚州、荊州を中原の争いから切り離すことに成功したのである。


 こうして曹操軍は、背後を突かれる懸念を除去し、袁紹との戦いに専念できるようになった。




 そしてこれを最後に……怪人、“狼顧の相”は劉表の前から姿を消した。




<第十六章 江東の小覇王 完>


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