第十六章 江東の小覇王(六)
「さぁて……」
警戒を強めながら、孫策は声を荒げる。
「おいコラァ! 誰だか知らねーが、てめぇらの狙いは、この俺の命だろ?
だったら、とっとと仕掛けてきやがれ!!」
幻想の砂漠の真ん中で、虚空に向かって叫ぶ孫策。その直後……
彼の挑発に応えるように、周囲の砂地が一際高く盛り上がった。
そして、砂の津波と化して、四方八方から孫策に襲い来る。
「それがてめぇらの歓迎かぁ!」
摩訶不思議な状況ながらも、迫り来る危機に、彼の心は高ぶっていた。
やはり自分は王である前に一人の武人。どんな形であれ、戦に心踊らぬはずがなかった。
「るあぁっ!!」
裂帛の気合いと共に剣を振り下ろす。
その剣圧は砂の津波を軽々と切り裂き、吹き飛ばす。彼の周囲に、砂が舞い上がる。
「どうしたぁ……まさかこんなもんじゃ……」
その刹那……砂の壁を貫いて、孫策に無数の矢が飛んでくる。
「ねぇよなぁ!!」
だがその奇襲も、孫策の脅威とは成り得なかった。
剣を手に体を旋回させ、数十の矢を砂ごと切り飛ばす。
孫策の碧眼は、既に襲撃者の姿を捉えていた。
宙に浮いた矢を掴みとると、その方向に投げ付ける。
襲撃者は動じることなく、その矢を素手で弾き落とす。
舞い上がった砂が全て地上に落ち、周囲の風景が明瞭となる。
「女……か」
そこに立っていたのは、黒髪を短く切り揃え、細い体を茜色の着物で包んだ女だった。
見た目はまだ少女であるが、蛍色の瞳には生気が全く感じられなかった。
「き・しゅ・ウ・しっ・パ・い」
その口から紡がれる言葉も、まるで抑揚のないものだった。
相手が女とはいえ、孫策は決して油断などしない。
彼が思い返すのは、父、孫堅が今際のきわに遺した言葉だった。
別の世界……女……これで答えははっきりした。
「親父を殺したのは……てめぇかぁぁ!!」
全身から雷電のような殺意をほとばしらせ、孫策は吼える。
彼の瞳は、碧から金色の“虎の眼”に変わっていた。
実のところ……父を殺した相手に、強い怨恨があるわけではない。
彼の中では既に折り合いがついている……だが、彼はあえて激情に身を委ねた。
これは計算ずくの行為。
今から始まる戦いは、まさに死力を尽くしたものとなるだろう。
この死地を切り抜けるのに必要なのは、無理矢理にでも己の感情を高ぶらせ、潜在能力を余さず引き出す必要がある。
己の闘志を、野性を全て解き放つ。そうでなければ、生き残れない。
「まっ・サ・つ・か・イ・し」
空へ飛び上がり、掌や背中から大量の矢を発射する貂蝉。
だが、孫策は乱れ飛ぶ矢を全く恐れず突き進む。
剣を振るい、矢を叩き切り、道を切り開く。
荒ぶる野獣の勢いは千の矢を持ってしても止めることはできず、懐への接近を許してしまう。
腕を旋回させて、突きを繰り出す貂蝉。
だが、孫策の一太刀は、素早さも威力も彼女を遥かに凌駕していた。
腕を弾き飛ばし、致命的な隙を作り出す。
しかし、孫策の剣は、彼女に食い込むことはなかった。
その切っ先は、背後から現れた新たな敵の体を刺し貫いていた。
「おいおい……あんたら双子だったのかよ」
背後からの不意打ちを企み、結果返り討ちに遭った敵は、貂蝉と瓜二つの容姿をしていた。
剣を引き抜くと、もう一人の貂蝉は無言で崩れ落ちた。
ここは敵の罠の中……新たな敵が現れることは、驚くほどのことでもない。
孫策が不審に思ったのは、確かに女を刺し貫いたはずの剣に、肉を抉った感触がなかったことだ。
刀身を見ても全く血に汚れていない。確かに、心臓を迷わず貫いたというのに……
「き・の・ウ・か・イ・フ・く」
次の瞬間……倒れていたもう一人の貂蝉が、突如として起き上がった。
前方の貂蝉と共に、孫策を挟み撃ちにしようと襲い掛かる。
心臓を貫かれた者がまだ生きている……だが、この衝撃も、孫策の態勢を崩すには至らなかった。
前方の敵に蹴りを放ち、同時にもう一人の首目掛けて剣を振るう。
増援として現れた方の貂蝉は、瞬く間に首を跳ね飛ばされる。
頭部を失った貂蝉は、そのまま倒れ伏し、今度こそ動かなくなる。
やはり首を刎ねたというのに、血の一滴も出てこない。
「てめぇら……人間じゃねぇな?」
「は・い・ワ・れ・わ・レ・は・ニ・ん・げ・ン・で・ハ・あ・リ・マ・せ・ン」
独特の口調で肯定する貂蝉。
「ほぉ、そうかい……」
獰猛な笑みを浮かべる孫策。
「なら、バラバラになるまでぶち壊せば、それでいいってことだよなぁ!?」
その直後、背後から飛来する矢の雨。孫策は素早く地面を転がって、難を逃れる。
起き上がった孫策の前には……多数の敵が立ちはだかっていた。
いずれも若く、貂蝉と同じ蛍色の瞳を光らせていた。いつの間にか、孫策の周囲は多数の敵達に囲まれていた。
彼女ら全員、数瞬の遅れもなく、全く同じ声音と口調で話し掛ける。
「ほ・ウ・い・カ・ん・りょ・ウ」
対象を特殊な空間に引きずり込む、于吉の夢幻結界であるが、この術には欠陥がいくつかあった。
まず、空間に送れる命は、たった一つだけということ。
夢幻結界はあくまで術で作り出したかりそめの空間……一人分の命を入れるだけの容量しか存在しないのだ。
これは体積や質量といった数値の問題ではない。
道術や幻術において重要となってくるのは、命や魂などの観念的な要素なのだ。
夢幻結界は外部との行き来を鎖す隔離空間であるが、空間そのものに対象を殺すことは出来ない。
空間を維持する、それが于吉に出来る限界だ。
ならば、永遠に閉じ込めておけばよいものだが、そうもいかない。
極めて脆いとはいえ、異なる空間を作り出す大秘術。そう長く持続できるものではない。
于吉の精神力が尽きるまで……およそ一時間、それが夢幻結界を維持できる限界だった。
様々な制約がある夢幻結界だが……命を持たない人形ならば、いくらでも放り込むことができる。
その中の暗殺者として選ばれたのが、貂蝉達である。
彼女一体の戦闘力は、並の武将一人、兵百人分に相当する。
孤立無援の中、孫策は数十体の人形……
実質数千の敵になぶり殺しにされるしかない……はずだった。だが……
「はっ!どうしたどうしたぁ!!」
迫り来る人形の群れを次から次へと斬り伏せていく孫策。
急所のない人形とはいえ、体を真っ二つにされては戦えない。
孫策は、阿修羅のごとき疾風迅雷の攻めで人形達を残骸へと帰していく。
「て・き・せ・ン・と・ウ・りょ・く、よ・ソ・く・イ・じょ・ウ。
さ・ク・せ・ン・へ・ん・コ・う・の・ヒ・つ・ヨ・う・ア・り」
そう呟いた人形は、頭から真っ二つにされる。
孫策は、剣を肩に乗せ、獰猛な笑みを浮かべて立っている。
これまで彼が斬り倒した人形の数は、既に五十。その大半が潰滅したことになる。
一滴の血も浴びていないにも関わらず、今の孫策は血で血を洗う悪鬼のごとき風格を備えていた。
並の人間……いや、野生の獣達でさえも、この殺気には竦み上がるだろう。
人形達には、威圧や恐怖といった感情はないが、孫策の予想を遥かに越える異常な強さに、有効な策を何も打てずにいた。
孫策は太刀を振るう度、砂漠の上に転がる残骸の数が増えていく。
いつしか、五体満足で立っているのは最初にいた貂蝉だけとなっていた。
「さて……後はお前一人だな。命が惜しかったら、とっとと元の世界に戻しやがれ」
孫策の降伏勧告を聞いても、貂蝉は眉一つ動かさない。
ただ一言、こう告げる。
「きょ・ゼ・ツ・し・マ・す」
「だろうな。じゃあ……とっとと逝ねよ」
孫策は、全身に纏わり付く殺気を、さらに凝縮させる。
だがここで、貂蝉に異変が生じた。
『それもまた拒絶しよう。孫伯符。死ぬのは君の方だ』
これまでの機械的な口調が、普通の人間のものへと変わる。
心なしか、その言葉には感情らしきものが含まれているように思える。
以前の彼女とはまるで別人……いや、違う人間が乗り移ったかのようだった。
無機質な蛍色の瞳が、いつの間にか紫色に輝いている。
『渾元暦以前の技術で造られし機械人形、貂蝉……
性能を落とした量産型とはいえこの様とはな……
これでは、本物だろうと結果は見えている。やはり、私が手を下すしかなさそうだ』
「誰だ、てめぇは……」
あの女の言っていることはまるで理解できないが……危険性が増したことだけは、はっきりとわかる。
『答える必要はない。私はただ、歴史をあるべき方向に修正するためにここに来た……この人形に、我が意志を表出させてな』
「修正……だと」
『そう……だからこそ、君はここで死ななければならない。
君の死によって、正しい歴史は導かれる』
紫の瞳は全く動かず、感情も読めないが、その尊大な言いように、孫策は不快感を覚えた。
『本来ならば、君は許都に発つ前に、刺客の手にかかって死ぬはずだった……
しかし、君はあまりにも強くなりすぎた。
今更人間の刺客ごときでは、君の命を奪うことなど叶わない……ゆえにこそ、私は動いたのだ』
「……てめぇの言ってることはさっぱりわからねぇ……だが、二つだけわかったことがあるぜ」
『ほう……』
「一つは、てめぇがこいつらを動かし、俺の親父を殺した黒幕だってこと……」
『今更否定する必要はあるまい。
君の父、孫堅もまた、正しい歴史を逸脱して分不相応な野望を求めた……だから、消えてもらった』
それを聞いた孫策は、怒りに歯を食いしばることもなく、ただ笑っていた。
「はっ! てめぇはそうやって、人を見下したような喋り方しかできねぇのかよ」
『………………』
「もう一つは……てめぇは、大口叩いちゃいるが、影でこそこそ動き回る事しかできねぇ……
どうしようもなく性根の腐った野郎だってことだ」
次の瞬間……強烈な衝撃の波が、孫策の身体に叩きつけられる。
勢いに飲まれ、後方へと吹き飛ばされる孫策。
「ぐ……」
貂蝉の衣装から、数条の紫色の帯が発生する。
彼女の足が地上から離れ、宙へと舞い上がる。
『この人形では、我が力の八割程度しか発揮できないが……孫伯符、貴様を殺すのにはそれで十分……!!』
「何だ……怒ったのか? こんな安い挑発に乗るたぁ、器が知れるぜ」
『黙れ……』
静かな口調の中には、確かな怒りが込められていた。
掌をかざして命じる。
『跪け』
「!?」
突如孫策の身体に、凄まじい重圧がかかる。
まるで大気が鉛と化しているかのようだ。
両の膝を突き、その場にうずくまってしまう孫策。
「てめぇ……」
『誰も歴史の流れに逆らうことはできんのだ。この私が、神となる運命にもな!!』
さらに数倍の重圧が、孫策に襲い掛かる。
その重さたるや牛百頭分に匹敵し、筋肉も骨もまとめて押し潰そうとする。
「ぐ……は!!」
『そのまま埋もれてしまえ。歴史の闇に……』
「………………」
地面をのたうつ蛇のような赤い字で、奇怪な方陣が描かれている。
全身に白い札を巻いた水色の髪の少女は、手を合わせて口から呪文を唱え続けている。
彼女……于吉が、孫策を閉じ込めた夢幻結界を作り出した張本人であり、今も霊視の眼で結界内の様子を観察している。
やはり、こうなった……もうすぐ孫策は死ぬ。誰もあの方に抗うことなどできない。
それが定められた運命なのだ。ある教団によって、夢幻結界の使い手として生み出された彼女は、早々に絶望し、全てを諦める道を選んだ。
自由を欲さず、ただ術を使うためだけの道具として生きる。
自分が異質な存在であることは、長い年月を経る内に理解していった。
だが、それで何も変わることはない。所詮、人間は運命の支配から逃れることは出来ない。
中身が違うだけで、人間も貂蝉ら人形と変わらない……
ならば、心を鎖して生きた方が、苦しみも悲しみも味わわずに済む……それが于吉の結論だった。
だが……彼女の眼の前で事態は意外な展開を見せる。
『!?』
人形の瞳を介して見ている彼は、思わず眼を疑った。
重力制御による過重をかけられ、とうに押し潰されているはずの孫策が、立ち上がっているではないか。
「重くねぇ……全然、重くねぇんだよ」
『馬鹿な……』
孫策にかかる重圧を、さらに倍加する。
さらなる加重に肩を落としてしまうが……それでも彼は倒れない。
それどころか、前へ歩を進めている。
「公瑾や張昭……仲謀に尚香……大喬に小喬……」
血管がちぎれ、鮮血が吹き出す。
骨が軋み、筋肉繊維が破裂し、卒倒するような痛みと苦しみが、絶えず彼を苛む。
しかし、孫策は歩みを止めない。重力はどんどん増しているにも関わらず、歩みはさらに力強いものになっていく。
「四将軍に将兵達……そして、守るべき孫呉の民達……!
そいつらが俺に乗せてくれる想いの方が……何倍も……何倍も重いんだよ!!」
孫策の虎の眼が、太陽のごとく輝き出す。
「うおぉぉぉぉぉぉぉぉッ!!」
咆哮と共に重力のくびきを断ち切る。
枷の外れた獣はその本能の赴くままに、眼前の敵へ飛び掛かる。
『くっ!!』
あの状態からよもやの反撃。虚を突かれる形となったが、重力を宿した帯を周囲に巡らせ、防御壁とする。
斥力の障壁は、あらゆる攻撃を跳ね返すはず。しかし……
(何という力……!)
体重を丸ごと乗せて来る孫策の一撃に、貂蝉は押されてしまう。
彼の気魄が剣に宿り、重力の壁を削ぎ落とそうとしているようだ。
「らぁ!!」
ついに孫策の太刀は、重力の壁を切り裂いた。
貂蝉も背後に逃れるが、孫策は執拗に追撃をかけてくる。
(信じられん……我が重力制御に抗うとは……奴め、道術を無効化できる特質でも備えているのか!?)
それ以外にも可能性はあった。
だが、彼はそれを認めるわけにはいかない。それが許されるのは、神である自分だけなのだから……
(“奇跡”だとでもいうのかっ! 信じぬ! 私は信じぬぞ!!)
そう……確かに奇跡ではない。
今の尋常ならざる孫策の強さは、紛れも無い彼の実力だった。
誰も、本当の孫策を知らない……ただ一人、周瑜を除いては。
周瑜が孫策に全幅の信頼を寄せているのは、単に彼が親友だからというだけではない。
元より周瑜は、私情に流されて人を過大評価する人間ではない。
冷静に、客観的に評価した結果……孫策のこの規格外の強さならば、必ず天下を統一できると思ったのだ。
江東の虎、孫堅の血筋、生まれ持った天賦の才、他者の期待を力に変えられる人間性……
それら申し分ない素質に加え、ここ数年、修羅場を潜り続けたことで、その才はさらに磨かれた。
才能と努力と経験の結晶は……孫策を中華でも最高峰の武人へと昇華させた。
そして孫策は、逆境に追い込まれるほど強くなる性質を備えている。
周瑜が不利を承知で許都侵攻を唱えたのは、この孫策の強さを知るがゆえ……
彼は孫呉の総大将にして、最強の切り札なのだ。
だから……周瑜は信じている。この窮地からでも、孫策は必ず生還すると……
(奴のこの強さ、関羽や張遼に匹敵……いや、それ以上かもしれん)
貂蝉は完全に劣勢に立たされていた。
帯や重力弾を用いた攻撃はことごとくかわされ、手痛い反撃を喰らってしまう。
貂蝉が飛び上がれば、孫策もそれを追ってより高く跳躍する。
驚異的な速さと力強さ、双方を兼ね備えた今の孫策はまさに野生の獣、無敵の虎だった。
『貴様……一体何者だ!?』
あえて問いかける。孫策は胸を張り、誇らしく名乗りを上げる。
「我は江東の虎、孫文台の嫡男、孫策! 字は伯符!」
その威風堂々たる姿には、王者の風格が感じられた。
だが、“彼”にとってはただ恐れの対象でしかない。
(奴の強さ……尋常ではない。生かしておいては、必ず後の歴史に狂いを生じさせる。
何としても、ここで始末せねば……!)
こいつは害獣だ。
放っておけば、歴史を歪め、彼の望む未来を壊してしまう。
貂蝉の体が宙に舞い上がる。砂粒が飛び回り、彼女の周囲の空間が歪んでいく。
所詮は意思と能力を表出しているだけの代行体。
前時代からの貴重な一品ではあるが、ここで失ったところでさして問題はない。
持てる最大の重力波動を放ち、孫策を潰す。
反動でこちらも壊れてしまうだろうが、相討ちとは、即ち自分の勝利だ。
孫策も、決着の予感を察していた。次は最大の攻撃が襲って仕掛けて来るだろう。
今度ばかりは五体満足でいられるかわからない。
だが、恐れはない。自分には、自分を支えてくれる多くの人々がいる。
例え身体は離れようとも、絆は切れることはない。
剣を水平に構え、呼吸を整える孫策。この剣の先には、輝ける未来が待っている。
『烏有に帰せ! 孫伯符!!』
貂蝉を中心として、黒い球状の空間が広がっていく。
触れたもの全てを圧縮し、粉砕する異常重力領域だ。
「行くぜぇぇぇぇぇッ!!」
孫策は、輝ける獣となりて黒の世界へと突撃する。
無明の闇に光をもたらし、邪悪なる黒幕に牙を突き立てんがために。
孤独の中で戦う孫策だったが、彼の奮戦は、知らぬ内に他へも影響を及ぼしていた。
夢幻結界を作り出した張本人……于吉もその一人だった。
(孫……伯符……)
于吉は孫策を見ながら、その戦いに心打たれるものを感じていた。
正確には、その魂に、だ……
このように心を揺り動かされたのは、生まれて初めてのことだ。
何故あの人は、絶望的な状況下でも諦めないのだろう。
何故、笑っていられるのだろう。それは、全てを捨てて諦観の中で生きてきた于吉には、到底理解できないものだ。
“あの方”は、人間とは未熟で不完全な、欠陥だらけの種族と言った。
これまで、一度も疑念を抱いたことはない。
だが、あの孫策という人間は、“あの方”が取るに足らないと切って捨てたものの力を借りて、あれほどの強さを発揮している。
“あの方”のおっしゃっていたことは、本当に正しいのだろうか。
運命とは、定められたるものではなく、自分の意志で切り開いていけるのではないか。
(私も、あの人のように……)
それは、道具として育てられ、それ以外の生き方を知らない少女が、初めて抱いた感情だった。
孫策の魂の輝きは、暗黒に沈んだ彼女の心に光を点したのだ。
于吉が、自分の中に生まれた新たな感情に戸惑う中……
彼女の胸を、背後から鋭利な刃が刺し貫いた。
「ようやく見つけたぞ。貴様が術者だな?」
一片の情けもない冷たい声で話し掛ける周瑜。
彼の持つ刀は、寸分違わず于吉の心臓を突き刺していた。
「か……は……」
左胸を中心として、彼女の身体が瞬く間に鮮血に染まっていく。
もう助からない……彼女は瞬時にそれを察した。
周瑜は、冷たい眼で彼女を見下している。
彼は、都全体の敵が潜んでいそうな場所を虱潰しに探した。
果たして、懸命かつ的確な捜索の末、ついにその術者を捜し当てたのだ。
相手が少女だったとは意外だったが、それで手心を加える周瑜ではない。
孫策を救うため、直ちにその命を絶つことにした。
「死ぬ前に一つ問う。貴様の裏で糸を引いているのは誰だ?」
「……ぁ……ぁ……」
もはや口を開く力も残っていない。唇の隙間から、微かな吐息が漏れるばかり。
もし口が聞けたとしても、彼女は殺されてもあの方の名前を出さなかっただろう。
そうなるように造られているのだから。
それにしても、この人は何て……何て冷たい眼で自分を見るのだろう。
これが、人間の持つ“憎しみ”の感情なのだろうか。
「答えられぬか。答える気力も無いか。ならば、これ以上貴様に構っている暇はない。
そのまま死ね」
一瞬の迷いも無く、周瑜は少女の背中へと刀を振り下ろした。
鮮血が吹き上がり、激痛が彼女の意識を奪い取る。
不思議だ……これまで意識したこともなかった死への恐怖。
今の自分は、それを確かに感じている。これも、あの男のお陰なのだろうか。
あの方は本当に正しいのか、人間とは、本当に取るに足らない存在なのか。
それらの答えを追求する時間は、自分には無い。未来は、永遠に鎖されたのだ。
于吉……道術を行使するために作り上げられた彼女は、最期まで人間を理解することなく逝った。
死に際に、両の眼から流れる、涙の意味も知らぬまま……
「し、周瑜様……」
周瑜と同行していた呂蒙は、震える声で主の名を呼ぶ。
捜していた術者が年端も行かぬ少女なのには驚いたが、その娘を躊躇いなく惨殺した周瑜には、戦慄を禁じえなかった。
分かってはいる……相手が女子供だろうと、主君に仇なすようなら殺すべき。
彼の行動に間違いはないし、周瑜の親衛隊たる者、甘いことを言ってられないのも分かっている。
呂蒙が真に怖れたのは、周瑜の表情だ。
自分はかつて、あれほど恐ろしい顔の周瑜を見たことがない。
憎しみと殺意が凝縮したような、あの表情……自分は決して忘れないだろう。
「呂蒙」
「は、はいっ!」
名前を呼ばれ、直ちに姿勢を正す呂蒙。
「我らの役目はまだ終わっていない。術者はこいつ以外にもいるかもしれん。捜索を続けるぞ」
「はっ!周瑜様!!」
はきはきと答えたのは、内なる恐れを覆い隠すためか。
このお方には、決して立ち入ってはならぬ領域がある……そのことを呂蒙は胸に刻むのだった。
「許さぬ……」
誰にも聞こえないほど小さな声で、周瑜は一人呟く。
「私と伯符の夢を妨げようとする者は、誰であろうと許しはしない……
殺す……一人残らず、殺す……」
その声音からは、普段の彼からは考えられぬほどの暗い情念と執心が込められていた。
それは、断金の交わりで結ばれた親友すら知らぬ……彼の底知れぬ“闇”の発露だった。
「だぁらぁ――――ッ!!」
剣を前に出した突撃で、重力の波を突き破る。
身を皮から剥がされるような激痛が彼を襲うが、その勢いを止めるまでには至らない。
しかし、貂蝉に近づけば近づく程重力は増していき、足を一歩前へ出すことすら困難になる。
「ぐぅぅ……!」
『無駄だ……人の身で、この超重力を突破することはできぬ!』
いかに孫策が想像を超える力を持っているにせよ、生身の肉体には限界がある。
遠からず、奴は自滅する。だが……安心できないのは何故か。
あの男が重力の壁を突き破り、喉笛に喰らいつく想像を捨て切れないのは何故か。
(馬鹿な……それではこの私が、奴を……)
「ビビったな」
そんな“彼”の考えを見透かしたように、孫策は笑みを浮かべている。
「はっきり分かるぜ……てめぇは俺に飲まれている。俺がこれから何をやらかすか、恐ろしくてしょうがねぇんだ」
何をやってくるのかわからない、未知の存在。
それならば、条件は同じはず……なのに何故、この男には恐れが無いのだ。
「俺はてめぇなんぞ怖かねぇ……てめぇが何者だろうと関係ねぇ……
俺はただてめぇに喰らいついて、噛み殺す……それだけだ!!」
極限まで高められた、野性の殺意。その思いを支えているのが、彼の帰りを待つ者達の存在だ。
必ず、生きて彼らの下へ帰る……その一念がある限り、孫策という大樹は折れることはない。
「俺にはよ、何千何万って孫呉の民がついているんだ。てめぇ一人に、負けるわけねぇだろうが!!」
『そのようなもの! 神の力の前では烏合の衆に過ぎぬわぁっ!!』
重力を最大限にまで高め、孫策も持てる力の全てを振り絞る。その時……
周囲の空間が突如として崩れ落ちていく。
『夢幻結界が……壊れる!?』
于吉の身に何か起こったのだろうか。通常では考えられない異変だ。
だが、これによって生じた隙を、孫策が見逃すはずもなかった。
「だあぁぁぁらぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
貂蝉の脳天目掛けて、剣を振り下ろす。
渾身の一撃が、彼女の頭に食い込み、左右真っ二つに断ち切った。
「き・き・キ・キ・き・ノ・う・て・テ・テ・て・イ・し…………」
奇怪な機械音を残して、貂蝉という存在は消え去った。
それと同時に、崩壊していく結界。
術者の死により、世界を隔離していた壁は壊れ、現世へと繋がる……