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乙女の祷り  作者: 夏生由貴
乙女の祷り
7/12

Ⅶ Hostias(オスティアス)~犠牲(いけにえ)と祷りを

 立ち眩んだわたくしは、その場にいることの耐えきれなさに、お姉様の最後の

お姿であるにもかかわらず、お見送りを投げだして、或る場処へと向かっておりました。


 が、其処には先客があったのでございます。


 祭壇のマリア像の膝下で祷りを捧げていたそのお方は、わたくしが礼拝堂の扉を閉めるやいなや、ゆるりと振り向かれました。


「What’s the matter with you? Don’t you say good-bye to the graduates?」


 わたくしにも聞きとれる速度と内容でありましたが、わたくしはあえて大和言葉でお返ししたのでございます。


「宣教師様こそ、何故ここに?」


 愛しいお姉様の修了式ではありませんか――。


 ですが、彫りの深いお顔立ちに焦燥たる陰はなく、珠のような碧眼にも憂いの澱は浮かんでおらず、見上げるほどの長躯にいたりましては、平生以上に穏やかな

物腰をたたえるばかりでいらっしゃいました。それとも、胸底では紅涙をしぼっておられるのでしょうか。


「ワタシの務め、主イエスの教え広めるコト。万人に祷り捧げるコト。今日、去ル総テノ乙女タチイたちに倖アレ。祷リ捧ゲテマシタ」


 宣教師様の口からよどむことなく「万人」「総ての乙女たち」というお言葉が

出てきた瞬間、わたくしは悟ったのでございます。


 このお方はお姉様を見初めてなどいらっしゃらない。伝道者のお立場で接していたにすぎないと。毎週の御言みことばにも深い意味は露ほどもなく、わたくしの僻覚え(※)にすぎなかったのだと。


 明治6年に切支丹禁止の高札が撤廃され、上流階級を中心として一旦は受け入れられたキリスト教でしたが、明治22年の『大日本帝国憲法』発布と翌年の『教育勅語』において、国家の核としての天皇と国家神道の位置づけが明確に示されますと、またしてもキリスト教に対する風あたりが、強く世を渡りはじめていたころでございました。


 赴任先の女学生と色恋沙汰を起こしたとあらば免職にとどまらず、棄教、あるいは国外追放になるやもしれません。斯様かような恐れを負ってまでして少女との恋に奔るお覚悟が、ただでさえ危ういお立場の宣教師様におありだったでしょうか。


 そして。


 苛酷な運命に従わざるをえなかったお姉さまにとって、宣教師様への想いは、

もとより成就を望まぬ、慎ましやかな淡い片恋。それも、清白すずしろの園にいるあいだだけ見ることの赦された――おそらくは生涯、最初で最後となる――甘い夢にほかならなかったのだと。


 否、恋や夢などという情念の象りにさえあらず、ひとえに祷りだったのではありますまいか。浮世の悪夢をそそみそぎにも似た祷りでございます。()()椿()()()()()()()()()()()()でございます。


 侯爵殿もご両親様も宣教師様も、お姉様のさいわいをひとえに願う祷りは捧げては

くださらなかった。となれば、ご自身でご自身に捧げるしか術はないではありませぬか!


 嗚呼、わたくしは、なんと浅薄で残忍な妄断を押しつけてしまったのでしょう。


 宣教師様への懸想では堕落したなどと落胆し、低俗な殿方へのお輿入れでは究極の高潔さを手に入れたなどと崇めたてまつり……。


 したが、それを償いたくとも、お姉様の塗炭の苦しみを、分かちあうも、拭いさるも、わたくしにはできないのでございます。


 そんな折、浮かんだのは、修了式の前日にお姉様が涙されたときの御言みことばでありました。


   あなたがたの中に、苦しんでいる者があるか。その人は、祈るがよい。

   喜んでいる者があるか。その人は、賛美するがよい。

   信仰による祈は、病んでいる人を救い、

   そして、主はその人を立ち上がらせて下さる。

   かつ、その人が罪を犯していたなら、それもゆるされる。

   だから、互いに罪を告白し合い、

   また、いやされるようにお互いのために祈りなさい。

   義人の祈は、大いに力があり、効果のあるものである。


 はたして、そうなのでしょうか。祷るだけで人はゆるされ、癒され、救われるのでしょうか。

 

 もし、ひたむきな祷りが、人をゆるし、癒し、救うのならば。

 

 わたくしは祷りましょう。

 犠牲いけにえとされたお姉様のため、来る日も来る日も、祷りましょう。

 わたくしのせめてもの償いとして、この世の果てまで、祷りましょう。

 お姉様が身も心も賭して護った子爵家が、どうぞ、いく久しく続きますように。

 お姉様が身も心も削って尽くす侯爵家が、どうぞ、常しなえに続きますように。

 こいねがわくは、どうか、どうか、どうか……――。

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※僻覚え…誤解

 誰かを愛することより、誰かのために祷ることのほうが、たやすくできない業だと思っている。

「愛してる」という言葉が好きではない。むしろ嫌いだ。云われると鳥肌がたつ(実話)。「死ぬほど好き」や「めちゃくちゃ惚れてる」のほうが胸に迫る。


 二葉亭四迷が、ロシアの文豪ツルゲーネフの『片恋』に出てくる「I love you.」を「死んでもいいわ…」と訳したことはあまりにも有名だが、そもそも日本には「愛」という概念がなく、明治に入り、キリスト教文化とともに《輸入》されて

きたその言葉が広く浸透しはじめたのは、昭和以降とされている。


 ここまで読んでくださった方の中には「なんだこりゃ。百合小説と謳っておきながら、全然恋愛モノじゃないじゃんよ!」と、ご立腹の方もおられよう。申し訳ない。本作が《愛》でなく《祷り》をつらぬいた内容となっているのには、かような背景がございまして……という云い訳だ。

 

 いよいよ次話が最終回。エッセイ4篇もまとめて投稿。

 毎日訪れてくださった読者の方々に、心からの感謝を捧げたい。

 

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