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乙女の祷り  作者: 夏生由貴
乙女の祷り
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Ⅴ Dies irae(ディエス・イレ)~怒りの日

 お姉様は先ほどよりも聲を上げられたようですが、それでも内容は聞きつくことがかないませんでした。


「儂とて紳士のはしくれ、椿殿の身の上を存分に配慮してきたつもりだぞ。精力

旺盛な壮者が情動を抑えるは、ひどい苦痛と苦悶に苛まれたものだが、それも椿殿を大切に思うがゆえの――」

隈笹くまざさ様」


 ぴしゃりとさえぎったのは、これまで聞いたこともない聲量を発するお姉様の

とがり聲でありました。


「此処は清純なる早乙女たちの学び舎にございます。いささか、おたわむれが過ぎるかと」


 平生のお姉様の楚々とした佇まいからは想像しがたいほどに、それは気丈な物言いでございました。


「そう含羞(※)せずともよいよい。まこと女子おなごよの。それに儂は夫となる身。名で呼んで呉れてかまわぬと再三、申しておるに」

「わたくしは、この門を出るまでは清白すずしろのいち生徒ゆえ。まだ、いずれ様のものでもございません」


 そのさなか、わたくしの膚は粟立ち、心は千千に乱れておりました。


 お姉様が……ご結婚?


 高等女學校令の目途である《賢母良妻タラシムルノ素養ヲ為スニ在リ》の教育

方針はミッション女學校とて例外でなく、日本的作法やたしなみを取り入れた良妻賢母主義をかかげる科目もわたくしたちは学んでおりましたから、卒業後に嫁ぐは稀な行く末ではございません。


 それなのにわたくしは、お姉様のようなお家柄であれば当然にいらっしゃるであろう許嫁の存在を、つゆほども考えていなかったのでございます。


 かりに、お姉様のお輿入れを受け入れるといたしましょう。なおも解せないのは、お相手の為人ひととなりでありました。


 ミッション女學校生徒総代というお役目を務めあげた労をねぎらうでもなく、つつがなき晴れやかな卒業を言祝ことほぐでもなく、自らの下卑た所望――それも耳朶を

おおいたくなるような淫慾ばかり――を披瀝し、たぎらせる。そんな放逸で居丈高な

殿方がお姉様にふさわしいなどと、どうして思えましょう。あまつさえ、ご尊父様ほどの年嵩としかさではありませんか。


 いったい、どのようないわれで斯様な殿方とお姉様が……。


 そんな折、わたくしの怪訝を酌みするかのように、最後列にいた女性教論たちの忍び音(※)が耳朶じだにふれたのでございました。


「噂にたがわぬ低俗な侯爵様よねぇ。沢瀉おもだかさんも不憫なこと。子爵家存続のおため

とはいえ、あのような好色漢に操を捧げなければならないだなんて。夜ごと手酷い慰み物にされるのはあきらかだわ」

夜伽よとぎだけとはかぎらないわよ。あれほど脂ぎった性豪の方だもの。昼夜を問わず奉仕させるに極まってるわ」

「おぞましいこと。ご両親の苦渋はいかばかりだったでしょう」

「あら、本当に大切な一人娘なら、たとえおいえお取りつぶしの憂き目にあおうとも我が子のさちをとるものじゃなくて? 所詮は地位と名誉が一番なのよ」

「やんごとなきお生まれも安穏ではないのねぇ」

「こんなとき平民の出自でよかったと、つくづく感じ入るわ」


 今にして思えば、聖職者の発言としてあまりに世俗的で口さがないと申せましょう。ですが当時のわたくしは、そう判断する余裕も冷静さも、持ち合わせておりませんでした。


 お姉様が……わたくしの純正なるお姉様が……自らの意思ではなくお輿入れされる。それも、野人のにえとなってしまわれる。宣教師様の御言みことばによってゆるされた筈のお姉様の新しい人生が、あんな……あんな低俗で粗野な者の手に渡ってしまうだなんて……!


 まるで炎をかき抱いたかのような苛烈な激情を、初めて己が胸にやどした瞬間でありました。


 と同時に《あの日》のお姿が、まざまざと甦ってきたのでございます。のぞまぬ

許嫁にむごたらしく身をけがされるくらいなら手ずから純潔を散らしてしまおうという、処決を秘めたお姉様の後ろ姿が。


 そして、ようやく判明したのでございます。これまでは像を結べずにいた、お姉様を狂気の淵へと追い立てた者の実体が。

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含羞がんしゅう…恥ずかしがること

※忍びしのびね…辺りを憚るようなひそひそ声

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