商売上手
人事異動の荒波にさらされ、単身赴任を始めた最初の一月。
男は忠実に妻の言いつけを守っていた。
米を流水にさらし、素手でかき混ぜてから灰汁を捨てること数回、とぎ汁から白濁色が薄め居た後、炊飯器にかけタイマーをセットする。わずか数分あれば誰にだってできるような簡単な仕事だが、元来ズボラな性格の男にはそんなことでも一月が限界だった。今の男は小さなトレーを小脇に抱え、右手にはトング。パチパチパチパチと小気味よい音を響かせながら、めぼしい物はないかとキョロキョロと視線を漂わしていた。
『昨日はバターロールとクリームパンだったから、今日はこの辺にするか・・・』
小麦色が艶やかに光るパンは、どれもこれもが美味しそうで。男はじっくりと時間をかけてから、バターをふんだんに使った濃厚なバターロールと、作りたてなのか少し暖かさが残るライ麦パンを選び出し、意気揚々にレジカウンターへ向かった。
「いつもありがとうございます。お会計260円になります」
「これで」
「ポイントカードはお持ちですか?」
「・・・ああ。そうだったね。じゃあこれも」
親切な店員に催促され、男は黄土色のカードをカウンターに置いた。
「パン一つにつきポイントが一点つきますので、2ポイントですね。あ!おめでとうございす。300ポイント貯まりましたので、特典がございます!」
「特典?」
「はい!こちらです!」
男は店員から特典として小さな封筒を受け取ると、中を確認して妙な既視感に襲われた。
「あのー、これって・・・」
「はい。ポイントカードになります」
封筒から出てきたのはあろうことかポイントカードで、先ほどのカードと違いがあるとすれば今度のカードは銀色に輝いていることだけだった。
「普通、こういう場合はクーポン券とか割引券をもらえるんじゃないでしょうか?」
「いえいえ、お客さま。そちらのカードはただのポイントカードではございません。大きな声では言えませんが、次回から当店でパンをお求めの際にはこちらのポイントカードを使って当店の裏手口からご利用いただくことをお勧めいたします」
何のことやら?男は店員に尋ねたいことがまだまだたくさんあったが、後ろに別の客が列を成していたことで、しぶしぶ店を出た。
『裏手口って言ってたよな・・・?』
確かに店の隣には細い路地があり、どこかに続いているようだが、何かあるのか?
俺は訝しみながらも路地に沿って店の裏口に回ってみると、そこにはまたしてもパン屋があった。
『なんだこりゃ?』
トンネルの先には雪国があったそうだが、パン屋の先にはパン屋があるらしい。男は既に興味を無くしていたが、店員の言葉が気がかりで念のために入店した。
「いらっしゃいませ!スタンプカードはお持ちですか?」
「これの事ですか・・・?」
「確かに。では、中へお進みください」
男は店員に促されるままに店内へ足を踏み入れると、幾つかのバケットに目を向けた。
『さっきと同じように見えるな・・・』
男の目には先ほどの店とパンの質も値段も変わらないように見えたが、ほかの客はそうではないらしい。ふくよかな女性の客と店員とのやり取りが聞こえてきた。
「やっぱり、シルバーになるとパンの質が全然違うわねぇ。いい小麦を使ってるんでしょう?」
「す、すみません。ブロンズのお客様もいらっしゃいますので、それは企業秘密ということで・・・」
「あら~。そういえばそうよね!私ったら配慮が足りなかったわ。同じ値段でいいモノ食べさせてもらってるんだから、そういう質問は野暮よねぇ」
その話を聞いて、男はようやく先ほどの店で店員が言っていた特典とやらを理解した。
『つまり、同じ値段で良いものを買えるってわけか・・・。確かにそう言われればなんだかパン生地の照りがさっきの店とは違うように見えるな』
男はすぐさまシルバーの店でいくつかのパンを買ってから店を出ると、ブロンズの店で袋いっぱいにパンを買った客とすれ違った。
『なんだか申し訳ないような気がするな・・・』
自分の方が良いものを同じ値段で買えている。その事実が男の虚栄心をくすぐり、自分が特別な存在のように感じさせてくれる。男はしばらくブロンズの客に憐みの視線を送っていると、ふと自分にも他の誰かから視線が注がれていることに気づいた。
『ん?なんだ?なぜ私を見ているんだ?』
ハイハットにブランド物のバック。一目でお金持ちと分かる女性が、路地の先の階段前で私のことをじっと見ている。男はしばらく女を見つめ返していると、その視線が私が先ほどブロンズの客に向けていたものにそっくりであることに気が付いてしまった。
「あっ!」
思わず声に出して叫んだ男は一目散に店員のところに向かった。
「ゴールドになるにはいくつ買えばいい!?」
「へっ?」
「ゴールドになるにはパンをいくつ買えばいいのかと聞いているんだ!!」
「は、はい。シルバーになるには300個。ゴールドになるにはその10倍必要になります・・・」
「つまり3000個か!?」
そうと分かればこうしてはおけない。男はその後、一日三食すべてをパンに注ぎ。凡そ一年をかけてようやくその時が来た。
「おめでとうございます!!3000ポイントたまりましたので、次はこちらをお使いください」
男は礼も無しに店員からカードを奪い取ると、すぐさま路地先の階段を駆け上がった。
『ここだ!ここに俺の求めていたものがあるんだ!!』
男は階段を上り切り、一つ深呼吸を挟むと、ゴールド専用と書かれているドアを力強く開けた。
『ここがゴールド!ここがゴールドか!!』
ドアの先にはまるで黄金色に輝くパンの数々。それに、既に店内にいた複数の客は男の来店をまるで英国紳士のような柔和な微笑みで迎えてくれた。
『やったー!やったー!やったー!』
男は天高くガッツポーズをして、彼らに交じってゴールドのパンのおいしさに酔いしれていると、一人の店員が聞こえないようにボソッと呟いた。
「バカだよな。どこで買っても同じなのに」