雲をつかまえる
君さ、前はそんなんじゃなかったよね。昔はうちにくる前に絶対電話かLINEで「今から行っていい?」って聞いてたし、連絡なしで来たら来たで「急に来てすまん」って言ってたのに。なんか最近はなんにも言わずに勝手に来て勝手に手洗いうがいとかしちゃってさ、あっいや今後も手洗いうがいはちゃんとしてよね、んでそのまま自分の家みたいにこたつに入ってみかん食べたりしてるし、せっかく実家から送られてきたみかん半分以上君が食べちゃったじゃん。あーあ、お父さんなんて思うかな、娘のために買って送ったみかんが半分以上娘の彼氏に食べられちゃったって知ったら。まあみかんどころか娘も喰われちゃってますけどねあははっ、とまで一人で勝手に喋っていたら、今日のお前はよく喋るなと言われた。
「そうかな」
「そうだよ」
ふうっとため息をつくように彼は煙草の煙を吐いて吸いさしを灰皿に押し付けた。煙草の煙は明らかに体に悪そうで寿命が縮む匂いがするから吸うと嫌な気分になるけど、彼が吐くその煙を吸い込むのは好き。目の前の男が私の寿命を縮めているという実感。
「前は煙草吸うとき私から離れてくれてたし、その場で吸うようになってからも煙がこっちにこないように気をつかってくれてたよね」
めんどくせえという顔をして彼はもう一度息を吐く。煙は出なかった。たぶんこの男に私の寿命を縮めている自覚なんてものは無いだろうし、もしこのせいで私が肺癌になったところでこの男は気を病むことなく煙草を吸い続けるだろう。そういうところが気に入っていた。そんなことを考えていると妙に機嫌が上向いて、柄にも無く私は子供みたいに彼の腕を叩いた。
「ねえ、あれやってよ」
「なに」
「雲をつかまえるやつ」
彼と恋仲になる前、いつか共通の友人と三人で飲みに行ったバーで、機嫌よく酔った不躾な中年男が横に座る明らかに妻ではない華やかな女にやって見せていたそれを、私は密かに好きだった。もうそれから二年半以上経っていて、私が彼にそのことを言及したことはなかったからもしかしたら覚えていないかもしれないと思ったが、彼はまるでそれを見たのが昨日のことみたいにすんなり応じた。
「じゃ、これ飲めよ」
甘いようでたいして甘くない黒糖焼酎の水割りは、すでにコップの半分以下まで減っている。解けた氷の分も相俟ってほとんど水のような透明な液体に手を伸ばすと、彼も箱からもう一本煙草を引き抜いて火を点けた。一日五本までと決めている彼の、本日六本目の煙草。
ぬるくなった酒はぜんぜん美味しくなくて、おいしくなーい、と言いながら私はそれをゆっくり飲み干した。
「はい」
空になったコップを彼の前に突き出すと、彼は煙草を持ち替えて空いたほうの手で私の頭をがさつに撫でた。この男は私の頭を撫でるのがびっくりするくらいに下手なので、たぶん私の髪は今寝起き並み。それから彼はコップを手に取り、ため息をつくように大きく吐いた煙をその中に閉じ込める。こたつに伏せられたコップと、その中で揺らめく煙。
んふふ、と笑って私はこたつに顎を乗せた。
「覚えてたんだね」
「こっちの台詞だ」
笑うようにふっと息を吐く彼の口から、細く煙が流れた。その煙に向かって、私もふうっと息を吹きかける。煙は結露した窓のほうに流され、消えた。訪れる沈黙。
「それを言うなら」
たっぷり黙ったあとに白み始めた窓の外に目をやりながら彼が唐突に言うので、私はそれってどれだっけと首をかしげる。
「お前も前はそんなんじゃなかったよ。軽率に笑わないし細かいことグチグチ指摘してこなかったし言ってくるにしてもすごい低姿勢のお願い口調だったし。あとお前が言ってたことだって前は煙草吸ってたらお前が嫌な顔するから避けてたのになんかいつのまにか嫌どころか吸ってる最中に寄ってくるから別にいいかってなっただけだし」
ゆっくりと、しかし淀みなく言い切る彼の手元には私のウイスキーが入っていたコップ。氷は解けて、コップの外に結露した水分がコースターに染みを作っていた。悔しい。
「じゃあ勝手に家に上がるようになったやつは、みかん食べちゃうやつは」
「それは申し開きのしようもございません」
真顔。沈黙。ため息。
「怒ってるのか」
「ぜんぜん」
「じゃあ拗ねてる」
「拗ねてないもん」
「そっか」
「うん」
ふふ、とどちらからともなく笑い声が漏れた。そろそろ寝ろよ、と彼が言い、ウイスキーを一口飲んで私に寄越す。一気に飲み干すと、解けた氷で薄められたとはいえまだそれなりの度数を保っていたアルコールが喉を焼いた。
「泊まってく?」
「帰る。寂しい?」まさか、と私は鼻で笑い飛ばしてこたつの電気を消す。寂しかった。
思い出したように一瞬キスをしたあと、ダウンジャケットを引っ掛けて玄関に向かう男の後姿を追いかける。
「またね」
「うん」
ドアが閉まると、すぐにサムターンを回して私は部屋に戻る。部屋のドアを閉めてから、ああ、と思った。前はこうして見送ったあと、足音が聞こえなくなるまで待ってから鍵を閉めていたんだっけ。
逆さまのコップに、雲はもういない。