黒い夜明け
ナツメは生きることが嫌いな、僕の家族だ。
家族とは言っても、血は繋がっていない。ウチの親が虐待を受けた子供への援助をしていて、その伝手で里親・里子の関係になった男の子だ。僕とは同い年だったから家に来た時からずっと学校も一緒に行っているし、なんなら「厄介な子供」ということで教師からもクラスメイトからも世話を任されているので、普通の兄弟よりも一緒にいる時間は長い。今だって、自由に組んで作業をしていいはずなのに、僕の前にはナツメがいる。
「美術の授業って、学校の授業の中で一番生産性がないと思う」
生きることが嫌いなくせに今日も生きているナツメが、画用紙を両手で持って嫌そうに言う。ウチに来てからやっと勉強を知ったナツメは、どんどんと知識を吸収して、今じゃ小難しい言葉を使うようになっていた。初めの頃は僕がひらがなを教えてあげたりしていたのに、最近じゃたまに僕がついていけないような言葉を使うときもあって、大変かわいくない。ユユシキジタイ、ってやつだ。
「生産性…あれでしょ、なんか、色彩感覚とか、個性とか、表現力とかを身につけましょう、とかなんとかいうやつ」
今日、というか今日からの課題は「自分の思い出に残っているモノを描きましょう」ってやつだった。思い出に残っているなら、描くものは物でも、人でも、風景でも、何でもいいらしい。アルバムから写真を持ってくるのも可。正直、元被虐待児のいるクラスでそんな課題出すなよ、と思ったのはクラス全員に違いない。トラウマ必至の絵を出してきたら、先生どうするつもりなんだろう。
「でも、たいてい教師が直してくるじゃん。何も個性は生み出さない」
「あー、じゃあ、“常識の範疇で”個性を発揮しましょう、ってことじゃないの」
「それは個性って言うの?前、個性は人それぞれ違うって言ってなかった?常識はみんな共通のものなんでしょ?」
教えて。ナツメは昔よりちょっと低くなった声で、昔とおんなじように聞いてきた。ウチに来てから最初にいろいろと教えたのは僕だったから、今もナツメは僕によく、教えて、って言う。そういう時は無条件に信頼されてる感じがして悪い気はしないけど、最近のナツメの疑問は難しすぎて、答えられないことが多い。
「えー…ほら、みんなが個性爆発させたら生きにくいから、常識に合わせてるんじゃないの?よくわかんない」
「ショウ君もわかんないのか…じゃあ、知らなくてもいいのかな」
勉強嫌いの筆頭を、知識の入手選択の基準にしないでほしい。
「それよりさ、今は課題やらないと。生産性にケチ付けたって、課題はなくならないんだから」
僕に配られた画用紙も、ナツメの手元に来た画用紙も、まだ真っ白だ。30分後にこれを提出して美術の授業の生産性を問いかけたところで、先生に怒られるだけだ。僕が。
下書き用の鉛筆をナツメに手渡す。僕がHBで、ナツメが4B。僕は筆圧が強いし、ナツメは筆圧が弱いから、こんなに鉛筆の濃さが違うのに結果は同じ鉛筆を使ったみたいな色が出て、ちょっとおもしろい。
「……『自分の思い出に残っているモノを描きましょう』」
「うん。そう。なんかある?」
クラスがお通夜状態になる未来を防ぐためにも、僕はナツメの思い出を聞いた。どうするよ、ケガだらけで形の変わった自分の顔、とか言われたら。いやいやお前さんもうちょっと明るめの思い出出そうぜ、と軌道修正を直ちにしなくてはいけない。
「……………」
そこは、ウチに来てから楽しい思い出がたくさんで選べないなあとか言ってくれたら、僕嬉しかったかな!
とはいえ、ひとまずは美術の授業の生産性に目を瞑ることにしたらしいナツメに胸を撫で下ろして、自分でも思い出を探る。なんだろう、心に残っている思い出。僕の中で一番強い記憶は、やっぱりナツメがウチに来たことだ。それまで僕はひとりっ子だったから、同年代の子供が来たことが嬉しくもあったし、家族以外の人間と暮らすことに強い抵抗もあった。ケガだらけで、表情のないナツメの顔が怖くもあった。そう、ケガだらけ。顔ってケガし続けたら形変わるんだっていうことを、当時のナツメを見て僕は知ったんだった。あ、まずい、僕こそ一番思い出に残ってるモノが「ケガだらけで形の変わったナツメの顔」な気がする。
「……黒」
「え?」
「黒い、世界。一番記憶に残ってる」
くろいせかい、とは。納戸に閉じ込められたりしていたらしいから、それのことか?案の定、お通夜状態確定の記憶じゃんか。先生恨むぞ。
「あの世界が一番好きだったような気がする」
「え?好きなの?ナツメ、閉じ込められるの苦手じゃなかった?」
「は?」
顔を見合わせて、首を同じ方向に傾けて、数瞬。先に動いたのはナツメだった。バカを見るような顔をしているのが、なんとも腹立たしい。
「閉じ込められる、って、納戸のこと?あれは黒い世界じゃなくて、真っ暗なだけじゃん。全然違う」
「知らないよ、僕納戸に閉じ込められたことないもん。てか、じゃあ、黒い世界って何?」
近くを巡回していた先生が、僕とナツメが閉じ込められたなんて物騒な話をしているのを聞いて、絶対に関わるものかといった風に遠ざかったのが視界の端に映った。ウチに来てから何年も経つのに、ナツメはいつまで経っても腫物扱いをされている。仕方がないことだろうけど、いい気はしない。
「外だよ。家の外」
ナツメは腫物扱いに気づいているはずなのに、何もわからなかった昔と同じように、普通の顔だ。気にならないのかな。気にならないんだろうな。そういうとこ、ナツメは図太い。だから、一緒にいる僕もできるだけ図太くなろうと、先生の進路変更に気づかないふりをする。
「外?外って、黒じゃないじゃん。いっぱい色あるじゃん」
「違うよ、黒。夜だから」
「夜」
「そう、夜」
鉛筆を走らせ始めるナツメをぼうっと見ながら、もう一回、夜、と口にした。夜の外なんて、それこそ暗いだけじゃないだろうか。ナツメの感覚は生い立ちのせいか、それとも“常識の範疇”から超えた個性のせいか、僕と違いすぎて理解できないことが時々ある。
「どういうこと?教えて」
「…ショウ君描かなくていいの。あと20分で提出時間だよ」
「もう描くもの決まってるから大丈夫」
「ふうん」
いつだったか僕が教えた鉛筆回しをしながら、ナツメが考え込む。小難しい言葉を覚えたっていうのにナツメは相変わらず表現が苦手だから、黒い世界とやらをどうやって伝えるか悩んでるんだろう。ナツメの中で文章が出来上がるのを待つ間、今度は僕が鉛筆を走らせる。やっぱりできあがった鉛筆の線はナツメの生み出したそれと同じ濃さで、ちょっと笑いが漏れた。
「昔、夜、帰って来るなって言われたことが何回かあって」
「え、なんで?」
「さあ?でも、そういうときって大体知らない大人が一緒にいたから、あれはコイビトだったのかも」
「ふうん」
「それで、家の前に座ってると誰かに見つかってオカアサンに怒られるし、でも歩き回るのも疲れるし、っていうわけで、たいてい近所にあった雑木林とか、墓地とか、人気のない所でじっとしてたんだよね」
高校生になった今でも夜道の怖い僕にとったら、発狂物の話だ。ナツメが肝試しに強い理由がよくわかった。
「んでさ、その日の居場所を決めて、夜を待ってると、だんだん周りが暗くなって、色が消えて、黒くなってくの。最後は黒ばっか。それが、黒い世界」
「それは『真っ暗』って表現するんじゃないの?」
「うーん、なんて言えばいいんだろ、暗いとさ、そこにある物の形とかもわからなくなるじゃん」
「うん」
「それと違ってさ、目が慣れてるし、ちょっと月明りもあるから、そこにあるものの形がわかるんだよね。それが、色がいろんな色から黒に変わったみたいに思えて、黒って表現した。なんか、俺の中で真っ暗とは違う」
「そっかあ。よくわかんないけど、わかるかも?日本語難しい」
「それ、俺のセリフ」
ちょっとすっきりしたところで満足して、課題を再開させる。ナツメも僕の動きを見て、小さく息をつくと右手をまた動かし始めた。なんとか伝えられてほっとしたらしい。黒い世界って、水彩絵の具でどう表現するつもりなんだろう。ちょっと疑問に思いつつ、口を開く。
「さっきさあ、黒い世界が一番好きって言ってたじゃん」
「?うん」
「なんで?エピソード的に、全然好きになる要素ないけど」
右手は止めないまま、目を合わせる。え、続けんの?ってアイコンタクトに、え、いいじゃん。と同じくアイコンタクトで返す。ナツメがちらっと教室に目線をやった。一応自分が異質なことは理解してるから、気を使って黙った方がいいかと思ったらしい。努力は評価するけど、すでに遅い。
「みんな自分たちの話に夢中だから、気にしなくていいんじゃない」
「そう?」
「うん、そう」
ついでに言うと、ナツメとこういう話をしていると先生が近くに寄ってこなくて、僕としては助かる。今年の各担当教師の中で美術の先生が一番ナツメを厄介者扱いしていて、自動的に僕は今年の各担当教師の中で美術の先生が一番嫌いだ。
「…俺、夜に追い出されるの、たしか好きだったんだよねえ」
「え、家に入れないのに?ていうか怖くないの?」
「ショウ君、夜道とか苦手だもんね」
「鼻で笑わないでくれる」
「ごめんごめん」
ごめんって言うわりに、ナツメの顔は若干笑ったままだ。くそ、器用なこと覚えやがって。男のくせにと言われようと、怖いものは怖いんだから仕方がない。暗闇が怖いのは人間の本能だ。僕は間違っていない。
「家にいたらさ、殴られたりするし。昼間に外にいると、他の人もいてすごい見られて面倒だから」
「あー……」
「夕方にその日の居場所見つけて、日が沈んで暗くなっていって、いろんな色が黒に変わっていくの見ると、ああこれが黒のまんまの間は痛い思いとか怖い思いしなくていいし、人に見られることもないんだなって思って、安心した。と思う。たぶん」
「そっかあ…」
想像の世界に鬱蒼と木を生やして、ウチに来た頃のナツメを配置する。木がいっぱいあるから、昼から暗そうだ。それが、夜が近づいてどんどん色が消えて、黒一色になって。同じ年の頃の僕だったら確実に泣き出していただろうそれは、ナツメにとったら平和な時間の始まりで。
暗闇が怖いのは、人間の本能だ。だから人は夜を外で過ごすことを嫌って屋内に入るし、夜明けを見るとどこか安心する。けれど、ナツメからすれば正反対で、暗くなっていくことこそが安心するらしい。ああ、それはなんて。
それはなんて、僕から見て悲しくて、けれどナツメから見て素敵な思い出だろう。
「……黒い夜明け」
「え?」
「タイトル。黒い夜明け。決まっちゃった」
「ショウ君が決めるの?俺の絵なのに?」
「いいじゃん。これくらいぴったりなのないよ」
「そう?まあ、いいけど」
ナツメが小さく笑って、鉛筆を動かす。どうせ黒に塗るつもりだからか、輪郭線はだいぶいいかげんだ。楽でいいな、ちょっとだけ羨ましく思う。
ナツメは生きることが嫌いだって言うから、ウチに来る前は嫌な思い出しかないのかと思ってた。でも、僕と感覚が全然違うだけで、嫌じゃない思い出もあったらしい。それがなんだか安心するし、悔しい。ウチに来て何年も経つけど、ナツメは相変わらず奥が深い。僕の一番の思い出は、違うナツメで何度も更新されていく。
「ショウ君は何描くの。それ、人っぽいけど」
ナツメが僕の画用紙を覗き込んで、聞いてくる。
「…ヒント、僕と全然感覚が違う人」
「は?」
わかんない、教えて。聞き慣れたセリフを流して、僕は鉛筆を走らせた。