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前編

 ちょっと、これはまずい。結構まずい。かなり、まずい……!

 サシャは強く目を閉じてこみ上げるものをぐっとこらえた。黒い視界がぐるぐると回る。


「ギース様、すこし、席を、外します」


 それだけなんとか唇の隙間から吐き出すと、ふらふらする足を叱咤して壁伝いに廊下へ出た。ギースからは唸り声のような返事があったのだが、あってもなくてもサシャは関係なくこうしただろう。

 きもちわるい。吐きそう。というか、吐く。

 必死にこらえてトイレに行くと、迷うことなくサシャはうえええぇと胃の中のものを吐き出した。


 朝、あまり食べられなかったから固形物はなかったが、胃液が軽く咽喉を焼く。ぐったりと突伏したいのも我慢して口をすすぎ、また重い足を引きずって執務室へ戻った。書類を汚さずにすんでよかった。

 山盛りの書類や本、ギースの立てるペンの音しかない執務室は、ついさっきサシャが出て行ってからなにひとつ変わっていない。


「こらえろ。この案件が終われば一段落する」


 椅子にくずれるように腰かけたサシャへ、書類に目を向けたまま低い声が言った。

 サシャが仕えるこの男は、なぜ席を外したのか正確に読み取っているのだろう。


「ギース様も、お気をつけください」


 次期宰相のギースは、サシャよりも多くの書類を片付けている。唐突に課された仕事のほかに通常のものもこなしている状態だ。

 ふたりして机に張り付いて過ごすこと、今日で四日目。お互いの顔は疲れ切っていて目の下には立派な隈が居座っている。この四日、家へは帰っていなかった。

 書き終えた紙を山の頂へ乗せたギースは、ぼすっと背もたれへ身を預けて目頭を押さえることでサシャへの返事とした。部屋に入ってきた文官が容赦なく資料の山を高くしていったのに舌打ちが響く。




 たまりにたまった書類が片付いたのは、月が高くのぼった真夜中。

 夕食も食いっぱぐれたサシャは、ふらふらと王宮の回廊を歩いていた。

 サシャはまだいいほうだ。ギースはようやくまとまった書類を携えて、王太子殿下へ報告に上がっている。自慢の銀髪がくしゃくしゃだった。厳格な彼があそこまで余裕がないのはめずらしいことだ。明日はさすがの彼も休暇を取らないと倒れてしまうんじゃないだろうか。


「サシャさん?」


 殿下の人使いが荒いことはいつものことだが、さすがに何度もこんな目にはあいたくないと思ったところで、駆け寄ってくる足音がサシャの耳に飛び込んできた。

 のろのろと見上げると、宮廷医師のコンラッドが目を丸めていた。斜めに傾いだサシャの体をさっと支える。


「コンラッド様、遅くまでお疲れ様でございます」

「それはどう考えても僕の言葉だよね。殿下から至急の調べを仰せつかったと聞いたけど」


 優男の風貌なのに意外とがっしりした体つきのコンラッドは、サシャの腰に回した腕を離さずに小さくため息をついた。

 ご令嬢やメイドたちがこぞって見惚れる顔が近くにあって、ドキリとサシャの胸が跳ねてしまい、慌てて口を開いて誤魔化すことにした。


「今回は四日ですみましたから、まだ大丈――ぐっ」

「全然、大丈夫じゃないよ」


 大きな手が、サシャの肩をぐっとつかんだ。首にほど近いそこは、彼の指が食い込むことも許さない。


「正直に。頭痛は?」

「……もう数日ガンガンしています」

「それで、何回吐いたの」

「……きょ、今日は二回です」

「サシャさん、僕いつも言ってるよね? ここまでひどくなる前に見せに来てって」


 しっとりと落ち着いた声は、咎めの色を隠そうともしない。

 机に張り付いて仕事をしているサシャは、常にひどい肩こりに悩まされている。

 机から動かずに、長時間同じ姿勢で書類に向き合う。資料として読む文献は小さな字がみっしり並んでいるものばかり。サシャの筋肉は鉄板のように固まるほかない。

 そのパンパンに張った肩や首は頭痛の原因だし、ひどくなると吐き気までもよおす厄介なものだ。


 体を動かして血行をよくしたいのはやまやまだが、その時間を作るほどの余裕がない。

 ギースはサシャの力を買い補佐官として使っているのだが、うれしいのか悲しいのか、ギースの業務量についていけるのがサシャしかいないと周りには噂されている。

 認められれば認められるほど、仕事が飛んでくるし席を立たなくてすむように文官が資料や書類を運んでしまう。余計に机に向かうばかりという悪循環にふたりで捕まって抜け出せない。


 だが、貴族とは名ばかりの家であるサシャからしてみれば、こうして力を買われて仕官できることは身に余る光栄だった。

 勉強は好きだったし、とくに数字に強い。父の仕事をこっそり手伝っていたら、家の財政状況がちょこちょこと改善をみせてきた。どうやら娘が噛んでいるらしいと噂が立ってあれよあれよと士官学校へ入学。そこは騎士育成の学校とはまた別であり、王宮勤めを目指す者たちが門戸を叩く場であった。

 少ないながらもほかにも女性がいることに安堵したサシャだったが、教授の資料をまとめる手伝いをさせられたとき、学校の経理に不正な流れがあるのをうっかり見つけてしまった。素直に指摘をしたところ大事になってしまったのだが、それがきっかけで王宮仕えに引っこ抜かれた。


 本来なら同等の貴族と結婚する人生だったのに、結婚など遠のくばかり。

 サシャには弟と妹がひとりずついたから、家のことは心配するなと父には太鼓判を押されている。これもまた、うれしいような悲しいような話だ。

 ギースの元で働くこと、これで二年が経つ。学校での一件も含め、異例の文官採用だったために王太子殿下に目をつけられ――いや、大変ありがたいことに殿下の覚えもめでたい。

 普段は国の政に関わるギースを補佐する仕事だ。

 それだけでも大層な仕事量だなと思って書類に埋もれていたのに、半年に一度くらいの頻度で殿下からの爆弾が投下されて泣きながら必死にペンを動かす日々。


 初めての無茶振りのときに、今と同じくひどすぎる肩こりで吐いてしまい、それをコンラッドに見られた。だから彼は今、眉を寄せて琥珀色の瞳を鋭くしているわけだ。

 あれ以来、コンラッドはなにかとサシャを気にかけてくれている。

 もっともな言葉になにも返せずにいるサシャを、支えていた腕が回廊の先へとうながした。


「おいで。ほぐしてあげる」

「で、でも、もうずいぶん遅いですから」


 すでに月が高い。とっぷりと夜も更けたころだろう。

 慌てたサシャをじっと見つめたコンラッドは、表情を優男のそれに似つかわしくなくしかめた。


「……きみ、この状態で帰って眠れるの?」

「うっ……お、お願いいたします」


 本音を言えば、今すぐにでも休みたい。ふかふかの布団に包まれて、夢も見ないほど深く眠って重たい体のことも仕事も忘れたい。

 うなだれたサシャは素直に医務室へと向かうのだった。




 湯であたためられたタオルを肩にあてられ、自然とため息がこぼれた。

 服を脱がされて寝台へうつ伏せになったサシャは、恥じらいよりも疲れが上回っていて争うことなど思いつかない。まして、コンラッドが相手だ。医師が患者の素肌に触れるのは普通だから気にもならない。


「殿下はなにをそんなにお急ぎだったんだい?」


 清潔なシーツに、ふわりとしたクッション。

 横たえた体はひどく重くてだるい。


「先日の川の氾濫で田畑が潰れてしまって。その対策などです」


 五日前まで、稀に見る大雨が降った。何日も続いた雨は川の水を増幅させ、溢れ出た水による被害が深刻な状況になってしまった。

 水による死亡事故も多く、また国の四分の一の麦が畑ごとダメになってしまったことは深刻だ。

 今からの栽培で持ち直せる量と、各地にある備蓄庫の状況の調査とその結果、代替作物の候補、あとは堤の補修などもろもろのことを早急にまとめることがギースに課せられた。それが現場から報告が入った四日前だ。


「ああ、被害のあった町と村には、騎士団が向かって食料も支給したと言っていたね」


 しばらくしてタオルが外されると、適当にくくっていただけのサシャの髪を、男の手は自然な仕草でまとめた。絡みやすい亜麻色の髪。しゅるりと髪紐を解いて、コンラッドは難なく邪魔にならないところで結び直す。

 次いでかちゃりとガラスが立てた音に、サシャは彼が香油の瓶をあけたことを察した。ほどなくして、触るよ、と小さな声が降る。つっとコンラッドの手がむき出しの背中を走った。


「状況把握と、復興作業も含めています。その報告もまとめたり……」

「きみがこんなってことは、ギース様もさすがにお疲れだろう」


 体が冷えていたのだろうか。香油を塗り広げるコンラッドの手は、やけに熱く感じる。

 さらされた首から肩、背中にかけてを丁寧に手がすべっていく。


「わたしを先に、解放してくださったので、明日はお休みになってくださいとお伝えしたのですが……たぶん、まあ、お見えになると思います」

「だろうねえ」

「ですが、必要なことですから。早ければ早いほうがよい内容です」


 王太子殿下はにやりと笑って無理難題を投げつけてくるのだが、それが意外と理にかなったものだからギースも眉間にしわを刻むだけで異論は唱えない。たとえ、五日でできると答えたのに、じゃあ締め切りは四日にしようかと満面の笑みでおっしゃる方であっても。

 食えないお方だ。苦笑交じりの声が背中に降り注ぐ。

 初めは触られている感覚しかしなかったサシャの背中は、何度も行き来する手のおかげでだんだんとくすぐったさを伝える。脇腹に熱い手が走って、ビクリと肌が跳ねた。


「サシャさん、ガッチガチだよ」

「……やっぱり、そうですか」


 気持ちいい。目を閉じたまま口だけをなんとか動かす。


「痛いかい?」

「いえ、少しくすぐったいです」

「じゃあまだまだだね。もう少しほぐれれば、ようやく痛みがわかるようになるからね。感覚が鈍るほど固まっているよ。……まったく、腕が鳴るなあ」


 妙にうれしそうな声だから、サシャは思わず苦笑を浮かべる。以前からコンラッドには世話になっているが、どうにも彼はサシャの体をほぐすことにやりがいを見出したようだった。

 流行りの服を着た美丈夫は、甘い表情で、優しく落ち着いた声で労わってくれる。女性に人気なのがよくわかる。

 が、さしずめサシャはよい被験体。サシャという人間というより、彼にとっては腕によりをかけて正常に導かなければいけない肉体というところか。

 心なしか機嫌よく肌を滑る手。

 なでているように感じるが、彼の言葉からすると実はそうではないのだろうか。

 どれくらいそうしていたのか、首や肩にかけてをコンラッドは優しく揉み始めた。気持ちのよさにため息がこぼれる。


「……ギース様も」

「うん?」


 左腕を脇から指先にかけてなでた。

 血流をうながすように動く手が、指にたどり着くことを何度かしてから、筋に沿って筋肉を揉みほぐしていく。

 最後に手のひらをもみもみ。親指の付け根を集中的にやられると、とてもとても気持ちよかった。サシャの気持ちをわかっているのか、労わるようにやさしく、手を手が慈しんだ。


「たぶん、ガチガチだと思いますが……こうして、施術を受けて、いらっしゃるのですか?」


 左が終われば今度は右腕。


「いや。ギース様はいらしていないよ。彼には彼専用の癒しがあるだろうからね」


 脇に親指を入れて強く押される。その手が緩むと、どっと血が流れるのがわかった。

 だんだんと体がポカポカとしてくる。


「専用の……お医者様が、いらっしゃるのですか」


 コンラッドのほかにも医師はいたはずだが、ギース専属がいるとは初耳である。

 たしか、バルフレアという名だったか。サシャは会ったことがなかったが、彼がギースの治療をしているのだろうか。

 あの堅物なギースが素直に肌を晒している姿は想像もつかないが。


「ああ、そうじゃなくて。ギース様はご自分のお邸で治療を受けるはずだよ。たぶん、今晩もきちんとそうするだろうから、彼の心配はいらないと思うよ」

「……そうなのですか、う、んんっ」


 ぐっとコンラッドの指が肩甲骨のくぼみを押す。そこから一番張っている首にかけての部分に手がかかった。


「これじゃあ頭痛も吐き気もするはずだ。首も回らなかったんじゃないの?」

「ふあっ……そ、そうではありますが……ううぅ」

「ゆっくり息を吐いて。――吸って。止めちゃだめだよ」

「……はい」


 うううう、気持ちいい……。痛いけど気持ちがよくて、遠のきそうな意識をサシャは必死につなぎとめる。


「一回じゃよくならないから、ちゃんとしばらくここに来るんだよ? 体を動かすことが一番だけど、それが無理なら僕が治療をするしかないでしょう」

「……はい」


 肩だけでなく、全身のこりをほぐすことが望ましい。

 ふくらはぎを中心に脚も撫で上げ、揉みほぐし、それからまた腰、背中、肩、首にあの魔法の手が動く。

 ああ、気持ちがいい。

 殿下の仕事はきつかったけど、こんなご褒美をもらえるのなら頑張ってよかった。

 この素敵な手が、自分だけに与えられる時間はとても贅沢だ。彼にとって、サシャはただの手のかかる患者だけだとしても。

 サシャがそう思ったところで、この日の記憶はプツリと切れた。




 一週間ほど経って。

 あのときは眠ってしまったサシャを、コンラッドが仮眠室まで運んで甲斐甲斐しく世話をしてくれたのだった。翌朝、顔から火が出るほど恥ずかしかった。忘れたいし、二度と起こしたくない失態である。

 それからは二日に一度、コンラッドの世話になっている。業務を終えてから医務室を訪ねるわけだが、長引いて書類に埋もれていれば迎えに来たコンラッドに強制的に回収された。おかげで体の調子が非常によい。


 今日も仕事を納めて医務室へ向かった。殿下の一件はお褒めの言葉とともに落ち着き、何事もなければ無茶振りもなりもひそめるはず、というのがギースの見解である。願わくばずっとそのままでいていただきたい。

 日暮れの回廊を進んで医務室の扉をたたけば、コンラッドがにっこり笑って迎えてくれる。

 はずなのだが。この日は違う声がサシャを迎えた。

 驚きながらも中をうかがえば、波打つ金髪の女性が綺麗な笑みを浮かべている。


「あなたがサシャちゃん? コンラッドから聞いてるわ~」


 赤い唇からこぼれる艶のある声は、なんともいえない色気をかもしだす。思わず姿勢を正したサシャは、慌てて口を開いた。


「ぶ、文官のサシャです。本日は、コンラッド様はいらっしゃらないのですか?」

「席を外してるわよ。いつ戻るかは、ちょっとわからないわねえ」

「そ、そうですか」


 長身の美女。ご令嬢の装いではなく、医務室の資料をめくり、器具を片付けているのだから、彼女も医師なのだろう。こんな方がいたとは知らなかった。

 色男と言われるコンラッドと並んだら、さぞかし絵になるだろう。そう思うと、サシャはなんともいえない気持ちになって頭を振る。


「あの、わたしは急ぎではありませんので、また明日改めてうかがいます」

「あら。遠慮することないのに。こりがひどいんでしょ? よければ、私がやるわよ?」

「えっ」


 やわらかな灰色の瞳が悪戯っぽくサシャをうかがう。

 これは、どうすればいいんだ。コンラッドに慣れ親しんでいるから彼にやってもらいたいとは思うが、医師を目の前にほかの人がいいと言うのもどうか。


「たまには違う人にやらせて、あいつが上手いか下手か判断するのも一興よ」

「そ、そんな。コンラッド様はいつもお上手です」

「あらら、ずいぶんかっこつけてるのね」


 呆れのこもった声にサシャはきょとんとする。すると、美女はくすくす笑った。


「ま、いいじゃない。今日くらい私に楽しませてよ」

「は、はあ……」

「取って食いはしないって。――私のことはフレアって呼んで」


 さあ、座った座った。押しに押されてサシャは寝台の縁に腰掛ける。長いものには巻かれたほうがよいときもあるのだ。


「いつも背中と肩をやってる?」


 上着の袖をまくったフレアに、サシャはうなずいた。


「はい、基本的には。タオルと香油であたためてから――」

「えっ」

「え?」


 話しながら上着を脱いで、シャツのボタンを外そうとしていたサシャは、フレアの低い声に目を見開く。

 見上げると、灰色の瞳をまん丸にしたフレアがまじまじとサシャを見つめていた。


「……あいつ、直接肌に触ってやってるの?」

「え、ええ。香油を塗りながら」

「なでて、揉んで、押して?」

「は、はい」

「あの、コンラッドが!」


 ブハッと吹き出したフレアは、腹を抱えて笑いだした。な、なにがおもしろかったんだ? こりをほぐすって、普通はそうやるものなんじゃないのか。

 戸惑って腰を浮かせるサシャへ、フレアはひいひい言いながら手を振った。


「い、いいの。サシャちゃんはなにもおかしくないわよ。……あ、あのコンラッドが、ね……ぶくく……そりゃあよかった」


 いいのか。よくわからないけどいいならよかった。気になるけど、怖くて聞けないからサシャはそのまま口を閉じてフレアの笑いが収まるのを待った。

 こほん、と咳払いをしてフレアはサシャに座るよう促した。

 ボタンにかけた手を、脱がなくていいと言って止める。


「今日は脚を中心にやるわ。足で血液が折り返して流れるからね、痛いところだけじゃ根本的な改善にはならないの」

「は、はい」

「それじゃあ、始めまーす」


 にっこり笑った綺麗な顔に、もちろんサシャは逆らう術など持たなかった。




 思いのほか、力強い手がサシャの足首からふくらはぎをさする。

 裾をまくってから香油を塗られ、下から上に向かって押し上げるように動く、手。


「ほら……力、抜いて。ここと――」

「ぅあっ……」

「ここ」

「んっ……うぁ、くっ」


 優しい手つきとは裏腹に、容赦がなかった。


「ゆっくりやってあげるから、我慢しなさい」


 幼子に言い聞かせるかのようなやわらかい声色なのに、サシャの弱点を正確についてきている。

 気持ちがいいと気を抜くと、許さないとばかりに痛みを与えるその手に、サシャの口から悲鳴がこぼれた。


「……フ、フレア、さ…ああぁっ」


 苦しげに息を乱しても、フレアは手をゆるめることはしない。


「少し強すぎた? でも、まだまだよ。ちょっとしか力も入れてないわよ」

「やだぁっ……い、いたぃ…っ」

「体は正直ねえ。もっと頑張ったらちゃんとご褒美あげるから。――そう、いい子ね」

「――なにをしているの」


 バンッと開いた扉。

 響いた硬い声に、ようやくフレアはサシャの肌から手を離した。


「なにって、脚の血行とリンパの流れをよくしてるところだけど。あんたのほうこそ、盗み聞きしてなにを想像したのかしらね」


 寝台の上で痛みに悶えているサシャと、脚をさすりあげているフレア。どう見ても、施術中。

 部屋へ飛び込んできたコンラッドは言葉を失って固まった。

 涙目になって体を起こしたサシャは、にやにや笑っているフレアと手で顔を覆ったコンラッドにきょとんとする。

 痛かった。痛かったけど、コンラッドのおかげで中断した。ふたりの顔色を見ながら、ほっと息をつくサシャ。


 苦々しいと言わんばかりに唇を噛んだコンラッドは、フレアを一度睨んでからサシャをひょいと抱き上げた。

 驚きの声なんて聞こえていないみたいに、有無を言わせず医務室を飛び出す。後ろから快活なフレアの笑い声が追ってきて消えていった。




 足早にコンラッドが向かったのは、すぐ近くにある中庭だった。

 宵の口に染まった庭の、ポプラの木の下にあるベンチにサシャをおろす。そして自分は目の前に膝をついた。


「どうして肌に触らせたんだ」


 真剣な眼差しに、サシャはどうしてよいのかわからない。そのまま、困った表情を隠しもしないでなんとか口を開いた。


「ど、どうしてとおっしゃいましても……フレア様もお医者様ですし」

「それはそうだけど! あんなに簡単にふたりきりになって衣類を――」


 はっと、コンラッドの言葉が止まる。

 わずかに目を見開いてサシャを見つめた。


「……もしかして、サシャさん。やつのことは知らない?」


 フレアのほほえみを思い浮かべたサシャは、どうしてこんなに雑な扱いなのだろうと内心で首をかしげる。コンラッドは基本的に女性相手に丁寧な印象だ。


「ええと、本日初めてお会いしましたが」


 有名な方だったのだろうか。執務室に閉じこもっていると噂話に疎くなってしまう。

 言葉に嘘はないことが伝わったのだろう。コンラッドが大きなため息をこぼした。


「あのね、きみがフレアと呼んでいるあれは、バルフレアという名前でね」

「……え?」

「あんな格好をしているけど、男だから」

「……え?」


 バルフレアという名前には、もちろん聞き覚えがあった。コンラッドと同じく宮廷医師だ。

 そりゃあ、背が高くて大柄な美女だなあとは思ったけれど。思ったのだけれど!

 驚きに固まったサシャに、コンラッドはふうと息を吐き出して少しだけ表情をやわらげた。


「知らなかったとはいえ。だめだよ、簡単に男とふたりきりになるのは。肌を触らせるのは以てのほかだ」


 慌ててサシャはうなずいた。


「は、はい」


 たしかに、フレアが男性であるなら軽率だったかもしれない。ぼんやりそう思ったサシャに、コンラッドはなおも言い募る。


「とくにきみは疲れ切っていて寝てしまうことだってあるんだ。無防備な姿をさらすことが、どれだけ危険かわかるかい?」

「は、はい。……あの、ですが、そうしますとコンラッド様もですか?」

「僕はいいの。きみの専属だからね」


 間髪入れずに即答されて、サシャは面喰らった。

 専属。そうか、専属か。

 たしかにそうだ。いや、でもフレアだって医師だから、肌を触るのは普通のことなんじゃないだろうか。それとも担当外だとだめなのか?

 よくわからなくなってきたサシャなのだが、目の前の男はそんなことを気にした様子もない。


「大丈夫だとは思うけど、バルフレアに変なことはされなかった?」


 真面目な顔でたずねるのに、サシャはこくこくとうなずく。


「フ、フレア様は、その……コンラッド様がわたしに香油を使って背中や肩をほぐしてくださっていると聞いて、ご自身は脚を中心にするとおっしゃっいました」

「……あいつ、笑ってたでしょ」

「ええと、はい」


 それはもう、盛大に。

 サシャにはなにがそんなにおもしろいのかわからなかったけれど、コンラッドはちがうのだろうか。

 一緒に働く彼らにしかわからないなにかがあるのは当然だが、不思議なことに複雑な気持ちになってしまう。こりはほぐれてきているのに、頭がぐるぐるしてサシャは余計に戸惑った。


「僕はね、サシャさん」


 まっすぐ向けられる琥珀色の瞳と、落ち着いた声。


「見た目のせいか、女性に声をかけられることが多い。こちらにその気がなくても、怪我や具合をたずねることや治療で触れることだけで、あらぬ気を抱かれることもある」


 月に照らされた綺麗な顔から、サシャは目が離せなかった。


「だから、普段は治療以外では直接触れないようにしててね」

「で、ですが、わたしのときは」


 思い切り触っていたはずだ。一度ではなく、何度も。それも、もうずっと前から。

 困惑すると、コンラッドもめずらしく言葉をつまらせた。わずかに眉をさげて視線をはずす。


「……うん、だから、それは、そういうことなんだけど」

「そういうこと」


 サシャが見つめる先で、相手の顔はどんどんうつむいていった。


「……頭がいいんだから自分で考えてください」

「はあ」


 ああ、かっこ悪い。顔に手を当ててつぶやいたコンラッドは、これまためずらしいことにきまり悪げに顔を赤くした。

 サシャはきょとんと彼を見上げて、なんだかかわいいなあと思った。まさか、彼をかわいいと思う日がくるなんて。

 くすりとこぼれた笑みに、コンラッドが困ったように眉を下げたけれど、咳払いをした彼は家まで送るよと手を差し伸べた。


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