真夏の昼の黒百合
真夏の昼の黒百合もついに完結です。
ご愛読ありがとうございました。
丘の上の屋敷には魔女が住んでいる。幼い頃からずっと、そう聞かされていました。
子供の頃の記憶の中では、屋敷はいつも暗雲に覆われた灰色の空の下に建っています。
周囲は、じめじめとした薄暗い森に囲まれていて、そこからはゲコゲコというヒキガエルのやかましい声が聞こえてきます。
あの屋敷に住む魔女は、恋をしている美しい娘に呪いをかけ、醜いヒキガエルにしてしまう。
カエルの鳴き声は、姿を変えられた娘達の悲痛な叫びなのだ。自らの運命への嘆きと愛する人に会うことのできない悲しみを歌っているのだ。魔女はそんな風にして、娘達の心をいたぶり、ほくそ笑んでいる。
私の心の中には、いつしかそんな物語が生まれていました。
街を見下ろす丘に建つあの屋敷は、私にとって自分の住む世界とは違う別世界でした。
魔女や呪いという、不気味であり神秘的なものが存在する世界。
しかし、私の住む世界とは決して交わることの無い世界。
だから、あの屋敷の門をくぐる事もあそこに住む誰かに出会う事も無く、一生を終える。
そんな風に考えていました。
小さな私にとって、あの場所は得体のしれない恐ろしい場所でした。
しかし、心の奥底では密かに憧れを抱いてのです。
そして時が流れ、その別世界が思いがけず、私の元にやってきたのです。
屋敷の主だったオリヴィア様が、街の花屋で働いていた私に声を掛けてくださったのは、穏やかな春の日のことでした。
その日、オリヴィア様は、買い物のために一人街へ降りてきていました。
あの屋敷の女主人が、街に来ているらしい。あいつは魔女だ、近づかないほうがいいぞ。
魔女は、若くて美人らしい。
小さな街には、すぐにそんな話が広まりました。
もっとも、私は興味を持たず、いつもと変わらない調子で、花屋の店先に立っていました。
「ねえ、あなた、良かったら私の屋敷で働かない?」
振り向くと、美しく気品のある若い婦人が、私に微笑みかけていました。
この方があの丘の上の屋敷の魔女なのだ。私はそう悟りました。
そして、私は考える間もなくこう答えました。
「ええ、喜んで」
その瞬間、暖かな春の風が街を吹き抜けていきました。
なぜあんな風に答えたのかは今でも分かりません。私も街に住む他の住民と同じように、あの屋敷の事を不気味だと思っていたはずなのに。
「私は、オリヴィア。あなたは?」
「私はサリアです。よろしくお願いします。オリヴィア様」
とにかく、私はその日からオリヴィア様の屋敷で働くことになりました。
オリヴィア様は両親に先立たれ、莫大な遺産を持ちながらも、孤独な暮らしをしていました。
屋敷では、クリスティナという中年の小間使いが、仕事を全て一人でこなしていました。
初めて会った時、クリスティナが私を見て不思議そうな顔をしていたのを今でも覚えています。
こうして、私とオリヴィア様の日々が始まりました。表向きは主従の関係でしたが、私たちは愛しあっていました。
昼は一緒に語らって心を通わせ、夜はベッドの上で体を重ねました。
私とオリヴィア様は、いつも愛の言葉をささやきあっていました。
「サリア、永遠にあなたと一緒にいると誓うわ」
オリヴィア様は、私を抱きしめながら、そう約束してくださいました。
白百合の咲き乱れる庭を一緒に散歩したある夏の日のことでした。
でも、その言葉は嘘だったのです。
私たちの愛は、ある日終わりを迎えました。
それは、激しい嵐の日のことでした。
強風が吹き荒れ、屋敷の庭の白百合は、根こそぎ吹き飛ばされてしまいました。
「サリア、あなたに大事な話があるの。覚悟して聞いてくれる?」
オリヴィア様は、真剣な表情で私に告げました。
私には、オリヴィア様がどんな話をするのか見当がついていました。しかし、私はただ黙っていました。
「私、王都に行くことになったの」
「そうですか、それは素晴らしいことですね。オリヴィア様」
私は、必死に笑顔を作っていましたが、心の中は絶望と悲しみでいっぱいでした。
王都に行く、それはオリヴィア様に結婚相手が見つかったということを意味していました。
「私が向こうに行っている間、ここの管理はあなたとクリスティナに任せるわね。大変だと思うけど、すぐに戻るから安心して」
オリヴィア様は、そう言って、私の頭を撫でてくれました。
その夜、私は部屋の窓辺に立って、一人泣いていました。
「オリヴィア様、あなたは嘘つきです」
誰もいない暗い部屋の中で私はそう呟きました。
窓の外では、激しい雨が降り、雷鳴がとどろいていました。
屋敷の近くの森からは、ヒキガエルの鳴き声が聞こえてきます。
ああ、私が幼い頃考えていた物語は本当だったのだ。
オリヴィア様は、恐ろしい魔女だったのだ。若い娘の心を痛めつけて微笑む、美しくも残酷な魔女。あのやかましいカエルの鳴き声は、魔女の寵愛を受け、そして見捨てられた者たちの悲痛な叫びなのだ。そんな風に考えてしまいました。
*
「サリア様、お散歩でもしましょう」
クリスティナが、窓辺から外をぼんやりと眺めていた私に声をかけてくれました。
「ええ、喜んで」
やることもなく暇だった私は、クリスティナと一緒に屋敷の外へ向かいます。
年老いたクリスティナも、ゆっくりと後を追ってきます。
私達は、庭に出ました。
外は、素晴らしい散歩日和、というわけではありません。
空は薄暗い灰色で、いつ雨が降り出してもおかしく無い状況です。
しかも、夏のじめじめとした蒸し暑さで満ち溢れていました。
そんな中を二人並んで散歩する私達の姿は、他人の目から見たら、異様な光景に見えたことでしょう。
広い庭の向こうには、昔と変わらず、じめじめとした薄暗い森が広がっています。
「クリスティナ、あなたこの屋敷にいて幸せ?」
私は唐突に問いかけました。
「私は、幼い頃からずっとこの屋敷で働いてますからね。ここにいるだけで幸せですよ。でも、どうして、そのようなことをお尋ねになるのですか?」
「あら、あなたならなぜか分かるでしょう、クリスティナ?」
「いいえ、さっぱり。あなたの事は初めて会ったあの日からよくわかりませんよ」
クリスティナは、そう言って可笑しそうに微笑みます。
あれからもう20年になります。
オリヴィア様は貴族の名門の子息とご結婚なさり、瞬く間に絶大な権力を手に入れました。
今では王都の政治を陰で操っているそうです。
屋敷の庭には、オリヴィア様の好きだった白百合の代わりに、私とクリスティナで黒百合を植えました。
黒百合は他の花の養分を吸い取って、駆逐してしまいました。
今では夏になると、こんな風に庭一面が、黒百合で覆われてしまいます。
黒百合が咲き乱れる庭は、優雅で美しくありながら、どこか恐ろしさを感じさせます。
まるで魔法がかかったようです。
オリヴィア様、あなたはやっぱり魔女だったんですね。
夏の蒸し暑い空気の中、私は心の中でそう呟きます。
じめじめとした真夏の昼、黒百合はただ咲き乱れていました。