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影は囁く

作者: おたふく

 赤や青、ピンク、紫・・・・華やかなネオンに彩られ、24時間賑やかで眠ることを知らない巨大な魔都、快楽と野望と栄光と挫折と希望と憎しみと清濁を併せ持つ、現代のバビロン、東京。

 こちらの大学を入ったの機に、憧れだった東京で一人暮らしを始めた僕は、肝心の勉強などそっちのけで遊び歩いてばかりいた。しかしそれは致し方ないことだろう。周囲を山と田園に囲まれた小さな町に生まれ育った僕にしてみれば、これほど刺激をじっと我慢出来る筈もないのだ。

 仲良くなった学友達と覚えた酒を飲み歩き、ギャンブルをして、クラブに出入りし、半裸の女性が接待をする怪しげな店に出入りしたりもした。何処まで行っても、枯れることのない井戸水のように、その街は僕の欲望を満たしてくれる。

そしてまた僕も決して飽きることがなかったのである。


 しかし数ヶ月もすると、友人達の多くは疲れ、遊びもほどほどに本分の勉学や、サークル活動へと、健全な学園生活を謳歌しはじめたが、僕一人だけは、そんな彼らを尻目に、亭楽の生活を続けた。毎晩のように浴びるほど酒を飲み、煙草を吸い、クラブで浮かれ騒ぎ、時には女性の尻を追い回し。一体何を求めていたのだろう。

その堕落した生活は、まるで何かを忘れてたくて、逃げたくて、そうしているようだ、友人の一人に言われたものだ。

そして、その言葉は核心をついていた。

そう。僕は確かに、”それ”から逃避したくて、毎夜、乱痴気騒ぎを繰り返していたのだ。

それは僕の心の奥底に、じっと鎮座したどす黒い塊だった。

目をそらさずにいられないほど、それは嫌悪感を催す記憶だった。

それを忘れたいが為に僕は漂白し、また浴びるように酒を飲み続けていたのだ。

果たして”それ”とは何なのか?いつから心に住み着いて、僕をこうも悩ますようになったのか?

 それを説明出来るようであれば、何の苦労もありはしない。そう。僕はそれが何であるか、全く判らなかったのだ。判らない・・・、いや、正確に言えば、僕は”それ”を綺麗さっぱりと忘れてしまったのだ。何故なら、”それ”は、思い出すのも辛い、自分にとってひどく忌まわしい出来事だったから。

 しかし、同時にそれは、まるで正反対な、甘美で愛しい気持ちにも僕をさせるのだった。だから僕は一層、混乱し、頭から追い払わずにはいられなかったのだ。

 思えば僕には九州に住んでいた高校生の時の約一年間の記憶が無い。言うまでもない。その時に”それ”は起こったのだろう。あまりにも強烈な体験は、僕の精神の許容範囲を超えていて、心の奥底へと封印せざるを得なかったのだ。そうでもしなければ、おそらく頭がおかしくなっていたに違いない。

 しかしそれで事が簡単に終わる訳も無く、”それ”は隙あらば僕の心の表面に出てこようとしている。残酷な真実を眼前につきつけようと。

 僕は永遠に”それ”の幻影に悩まされ、怯えていなければならないのか?やりきれなくて毎晩、街中へと逃避するのもこうした理由があったのだ。


 そんな日々がどれ位続いたろうか。

 それはある熱帯夜のことだ。都市の地表を覆うアスファルトは、深夜になってもなお冷めることを知らず、街を熱気で包んでいた。

 体中から汗を滴らせ、たまらずに僕は目に入った見知らぬバーへ飛び込んだ。

 地下一階に造られた、そこは極限まで明かりを落としたまるで深海のような静けさに満ちたバーだった。

 中央のカウンター内に俯き加減で立っているバーテンダーの他に客は一人もいないように見えた、がしかし実際にはいたのかも知れない。それほど店内は薄暗く静まり返っていたのだ。

 ビールを注文し、カウンターに腰を下ろした僕はこのバーを見つけた偶然に感謝した。その店の雰囲気は驚くほどしっくりとなじみ、気に入ってしまったから。

 すっかりくつろいでしまった僕は、ビールで喉を潤しつつ、静けさに身を任せているうちに、時を経つのを忘れてしまった。

 そのままいつしか本当に眠ってしまったようだ。はっとして、顔を上げると、店内は一層暗く、カウンターのテーブル内に仕込まれたブルーのライトが、ぼうっと浮かび上がり、幻想的な夢のような空間を造り出している。見ると、カウンターの中にいた筈の先ほどの物静かなバーテンダーの姿も見えず、もう閉店した後なのか?と、不安になった僕は前方にぼんやりと浮かぶ人影を認め、少しばかり安堵した。

 淡いブルーのライトに照らされ、その輪郭を徐々に露にしていく、その人物から僕は目が離せない。

 それは同性の僕でさえ、ハッと息を呑むような、美しい顔立ちの青年だった。

 年齢、背格好は僕と同じくらいだろうか。軽くウエーブした黒髪、目鼻立ちの整った細面の顔は歌舞伎役者のように品がある。特に印象的なのは、冬の湖のように物悲しさを湛えた瞳で、僕の心は引き込まれていた。

 そしてその肌の白さ!首筋やシャツの袖から伸びた細い腕は新雪のように淡白く、向こう側が透けて見えるようだ。

 この青年に以前会った事がある・・・・・?初めて見かけた顔であるのに、不思議な懐かしさが僕を捉える。一体何処で出会ったというのか。

 しかしいくら考えても、そのような記憶は無く、僕の心は困惑に陥った。

 そして次に襲ってきたのは、言い知れぬ恐怖の感情であった。これ以上、記憶を探るのはやめた方がいい。さもないと、取り返しのつかぬことになる。僕の本能がそう告げている。

 これほどに僕を困惑させる青年、彼は一体何者なのか?

 心臓が早鐘のように鳴り、額からは引いた筈の汗が再び浮かび始めていた。それは暑さのせいでなく、恐怖からくるものだった。

 目を離し、俯いた僕は、しかしもう一度、彼の姿を確かめずにいられなかった。しばらくして、そっと顔を上げてみると、しかしそこにはもう、青年の姿は無かった。

 目をそらしたほんの一瞬、彼は霧のように姿を消してしまったのだ。

 店内は、相変わらず深海のような静けさに満ちて、時さえ止まっているようだった。


 それからというもの、自室でいる時も、大学で授業を受けている時も、学友と談笑している時も、僕の脳裏には不思議な青年の仮面のような美しい顔が貼り付いて消えなくなった。

 彼は現実の存在なのだろうか?スクリーンに映った幻を見ていたのかもしれない。そんな風に思える程、あれは神秘的な出来事だった。

 もう一度、あの青年に会いたい。

 いつしか、僕は彼を求めて、街を彷徨うようになっていた。が、しかし何と言う事だろう。あの深海のようなバーへの道程を僕はすっかり忘れていたのだ。

 そもそもがあそこへ行き着いたのは偶然だった。暑さと酒で酩酊したまま迷路のような路地を彷徨った挙句、たまたま入ったバーなのだ。その経路を覚えている筈も無い。

 しかし僕は諦めきれず、毎夜毎夜、歩き回った。

 その姿はまるで、生き別れた恋人を捜しているような悲壮感に満ちていたに違いない。その憐れでいじらしい姿に神様が同情したのか知らないが、再会は思わぬ場所で果たされた。

 激しい夕立のせいで、白い霧の降り立った宵の街は、ロンドンのような趣を見せていた。街頭やビルの窓明かりが、ぼんやりと白く滲み、街は水の底に没してしまったようだ。

 実際、僕の耳には先ほどから絶え間なく、水の流れる音が聞こえていた。いつしか僕は公園に入り込み、噴水の傍を歩いていたのである。

 そこで僕は彼と再会した。

 目の前にゆらめくようにたって、彼は僕を見ていた。

 それは何と幻想的な出現だったことか。

 映画のワンシーンのように、声もなく僕達は見詰めあった。言葉を掛ける必要さえなかったのだ。瞳を交わしただけで、互いを理解していることが判ったから。

 さながらそれは魂の邂逅とでも言うべきものだった。出会うべくして二人は出会ったのだろう。そうとしか考えられない。

 ”彼”は微笑し、僕も同じように微笑を返す。こうして二人の奇妙な友情が始まった。

 彼はまた決してその口を開こうとしなかった。言葉にしてしまえば、僕との友情が陳腐でつまらない書割のようなものに過ぎないと判明してしまうのを恐れるように。

 そしてそれは実際その通りだったろう。彼と言葉を交わした途端に互いに抱いていた幻想は空気中に霧散して、その後は決して元通りにならないのだ。


 このようにして、言葉も出さず、触れることすらもせずに、彼と僕は会い続けた。

 と言っても、気まぐれに現れては消える彼との邂逅はいつも唐突で、別れもまた同様だった。何日も会えない日が続くと思えば、一晩中向き合っているということもまたあったりしたのだ。

 ともかく彼とこうして一緒にいることは、不安定だった僕に安らぎを与えてくれたことは確かだった。彼の沈んだ暗い瞳は、僕を落ち着かせてくれる安定剤だった。

 何故だろう。出会ってまだ数日しか経っていないというのに、彼は全てを理解してくれている。そんな気がしてならないのは。

 と同時に、また初めて出会った時に覚えた恐怖感もまた消えてはいなかった。それどころか、日増しに大きく膨れ上がっていたのだ。

 安心感と恐怖感、この相反する感情と、そして以前から見知っているような懐かしさ。彼は何者なのか?

 しかし、言葉を禁じられた僕たちにその謎を解く術はなかった。

 僕は怯えつつも、彼に会わずにはいられなかった。

 失った一年間の記憶・・・・。それが僕の肩にずっしりと重く圧し掛かる。”彼”とはその時に出会っているのだろうか?頭痛が襲ってくる。これ以上記憶を探るのは危険なのだ。そう。それはとても危険なこと。僕は目を閉じた。

 常に不安感に捕らわれて、僕はいつしか眠りにつくことも叶わなくなっていた。

 彼と会うことはもはや苦痛になっていたが、会わずにいることは、なお苦痛であった。

 僕は歩いていた。彼と肩を並べて、夜の地下街を。

 無限に続くかのようにまっすぐ伸びたコンクリートの通路。その両側は照明の消えたショウウインドウのガラスの壁。他に歩く者の影は一つも無い。まるで僕と彼を残して、死に絶えてしまったかのような。都会に偶然出来た、真空地帯。

 同じ歩調で歩く、同等の背格好をした僕らはまるで双子だ。

 何故、ここを歩いているのか。何処へ向かおうとしているのか。もはやそんな事はどうでもいい。

 二人が向かっている先にあるのは、きっと記憶の底に沈んだ、失われた一年間の真空の時・・・・。

「やめてくれ!僕はそこに行きたくない!」

 突然、抗しきれない恐怖に襲われて、思わず僕は悲鳴に近い声を上げていた。それでもなお仮面のような無表情で歩く”彼”。その存在が不気味でたまらなくなって、僕は元来た道を逆走しだした。

 ”彼”は何者だ?

 ずっと自問しているその答えは未だ見つかるカケラさえもなかった。

 ”彼”は現実に、そこに、存在しているのだろうか?唐突に浮かぶ疑問。彼は幻?もしや僕にしか見えていない、霊魂のようなものかもしれない。

 そんな考えが次々浮かび、僕はあわやパニック寸前にまでなりかけた。

 落ち着け、落ち着け、何度も心の中で繰り返しながら、しかし走ることをやめられなかった。

 永遠に続くかのような地下のガラスの通路を、僕はどれほど走り続けたのだろう。

 ようやく階段を見つけ、駆け上がった先は外へ通じていた。都会特有の冷たく乾いた風が頬をうった瞬間、ようやく自分を取り戻す。既に東の空はうっすらと白んでいた。

 振り返ると、階段の底の暗闇はひっそりと静まり返っている。”彼”は追ってこない。

 落ち着いてくると同時に、僕は狂態に近い先ほどまでの行動が恥ずかしくなる。何故、急にあんなパニックに襲われたのだろう。

 ”彼”のことを考える。そしてもはや自分が、過去から決して逃れることが出来ないのを知るのだった。


 何よりもそれを実感させたのは、ある日届いた一枚の葉書だった。

そこ書かれた宛名は、忘れたくとも出来ない、九州、生まれ故郷のもので、僕を暗澹たす気持ちにさせた。

過去から逃げて来た筈なのに、それはどこまでも追いかけてくるのだ。まるで影のように。

何よりも僕に怖気を奮わせたのは、他でもない、裏面にプリントされた一枚の画像だ。

卒業時のものらしい、クラス全員が写った何気ない、ある意味では微笑ましい一枚。

そしてその下にはカラフルなポップな書体で、クラス会の告知をしている。

友情に厚い、女子グループが中心となって、催したものだろうが、卒業してまだ一年も経っていないというのに、何を考えているのか。

そんなものに参加する気など勿論無いが、僕を驚かしたのは、何よりも、その上の先ほどの画像であった。

僕の目はまるで吸いつけられるように、画像の端に立つ陽光に目を細めている学生の一人に注視していた。

粗い画像であっても、はっきりと判る。

それは、他でもない、あの”彼”だったのだ。

ああ、やはり!

道理で懐かしい筈だ、彼は、クラスメイトだったのである!

それにしても?

いくらその当時の記憶をなくしているとはいえ、同じクラスにいた見慣れている筈の学友を忘れるなんて。

自分に呆れて、笑い出したくなると、同時に心臓を捕まれたような嫌な気持ちになる。

未だ名前も思い出せない、彼は、何故、僕をここまで追ってきたのか。自分の名も、理由も告げず、無言で付きまとっているのだろう。

考えるほどに、それは不可解な出来事だった。

そう。やはり、もう忘れていた過去から逃げることは出来ないのだ。

それと、向き合わねばならない。覚悟を決めた僕は、彼に会いに、夜の街へと繰り出した。


 体は重く、頭の奥のほうが、ずっと痺れているような、そんな状態で、僕は夜の街を彷徨っていた。

さすが世界の大都市にもひけをとらぬ日本の首都は、相変わらず、多くの人で賑わっていた。

ここには昼も夜も、まるで関係が無いのだ。いつだって無数の群集が行き交っている、筈なのに、何故だろう、街の奥へと踏み入れていくうちに、いつしか僕の周囲からは人影がすっかり消えてしまった。

見渡せば、暗闇のせいもあろうが、まるで見知らぬ場所にいて、僕は迷子の少年のような心細い気持ちになる。

顔を上げれば、見慣れた高層ビル群が輝きそびえているのだから、不安になることもないのだが、何故だろう、ここは似ているが、全く違う場所のように思える。

鏡、そう。まるで鏡の世界に入り込んでしまったような・・・・。

なんだろう、この不安な、逃げ出したくなるような気持ちは。

やはり、来るべきではなかったのか。

引き返そうと思い始めたその時に、その電光の看板が僕の視界が捉えたのだった。

そう。忘れもしない、あのバーだった。”彼”と初めて会ったあの。

キイイイイイ・・・・。

擦り傷一つ見当たらないスチール製らしき銀色のドアを開けると、いまだ残る蒸し暑さとは別世界のような、ひんやりとした空気が僕を取り囲んだ。

深海のように暗く、静けさに満ちた店内に足を踏み入れると、中央のカウンターに目をやった。

見るまでもなく判っていた。

彼がそこにいることは。あの時と、同じ場所で彼は僕を待っている。

 カウンターの席につくと、前方からゆっくりと、闇から浮かび上がるようにして”彼”が現れた。

「君は・・・・・」

 僕はゆっくりと口を開いた。

「友達だったんだね、僕の」

 頷く彼、そして驚くべきことに彼は口を開いた。

「友達・・・・それ以上の関係さ」

 初めて聞くその声はどこから響いてくるのか、僕の頭に直接届いているような気がした。

 目を閉じる。徐々に氷解していく、僕の封印していた過去。

 そう。

「僕と君は親友だった」

「思い出してくれた?ひどいじゃないか忘れるなんて」

 不思議なこともあるものだ。彼はほとんど口を開かずに喋っている。なのに、僕にははっきりとそう言っているのが判った。

 高校の一年間、確かに僕と目の前にいる彼は無二の親友だった。それがどうして・・・?いや、待てよ、そんな馬鹿な、そんなことがある筈ない。

 僕の頭は混乱し、胸の鼓動は早鐘のように鳴り響いている。

 そんなことがある筈ない・・・・。彼が、ここにいれる訳がない・・・・。

「僕は君とただずっと仲の良い友人でいて欲しかっただけなのに。何故、あんなことを」

 そう言う、彼の瞳は僕を非難していた。

 それに値することを僕はしているのだ。

今や、記憶はすっかり、甦りつつあった。

忌まわしき、と同時に甘美な、失われた一年間の記憶が。

・・・・違う、違うんだ・・・・

 僕はどうにか弁明しようとした、が喉が貼り付いてしまったみたいに、一向に声はでてこなかった。

 僕は・・・怖かった。そう。怖かっただけなんだ。

 しかし今さら、そんな言い訳をしたところでどうなるというのだ?全ては終わっている。


怖かった。

何が?

彼の僕に対する感情が、友に対するそれではなく、明らかに恋愛感情であると気付いて、だ。

彼の僕を見る瞳は、恋するもののそれだった。

いくら隠したって、そういうことは判るものだ。僕だって、鈍感な方ではない。

しかし、それは僕を戸惑わせ、狼狽させた。

無理も無い。彼の気持ちをどう受け止めればいいというのだ?

「僕を好きなのかい?」

何度そう尋ねかけたことだろう。

しかし言いかけて僕はやめた。

当然だ。もし、彼がその言葉に頷いたとしたら・・・。二人の関係は何処へ辿り着くのだろう?それを想像すると、僕の体には戦慄が走った。


「そして君は、僕を避けるようになったね」

ポツリと小さく呟く彼の言葉、水に沈む鉛の如く重かった。

黙り込んでいる僕に代わるように、彼は自らのことを語りだす。

それまで意識したことはなかったけれど、でも考えてみれば僕が気になっているのは、いつも同性である男の子だった。

 ゲイ、ホモセクシャル、オカマ・・・?

 呼び方は何だっていいけれど、とにかく僕は同性しか愛せない人間だったのだ。

 そうとはっきり気付かせてくれたのは、他でもない君だった。

君の事を見ると、いやチラッと考えているだけで、胸が一杯になって苦しくなった。

 溢れ出て止まらない君への感情の、行き場をどうすればいいのか、僕には判らなかった。

しかしこの胸の内を告げることは出来ない。それは判っていた。愛の告白などしてみれば、どんな顔をされることか。きっと露骨に嫌悪感を表して、感染患者ででもあるかのように、僕を避けるだろう。それは火を見るより明らかだった。

 その想像はどれほど僕を怯えさせたか。君にだけはそんな態度を取られたくない。嫌われたくなかった。

 だから僕は思った。君とはただ、このまま、友達の関係でいるだけ、それだけいいと・・・・・。


 彼の血を吐くような重い言葉は心の奥底に染み渡り、打ちのめされた僕にはかけるべき言葉は何も浮かんでこなかった。

都会の底、深海に沈んだバーは沈黙に満たされて、二人の青年は向き合ったまま、凍りついたように動かない。向き合う青銅のプロンズ像、さながらそんな趣だ。

 怖かったんだよ、僕は。

 友達以上の感情に気が付いて、戸惑い、どうしていいか判らずに逃げ出したんだ。

ああ!そしてなんてことだろう。

 そればかりか、僕は、君を嘲り、せせら笑ったりしたのだ。

他のクラスメイトにからかわれたのがキッカケで、彼とは何の関係もないのだと、証明するために。

 僕は誤解を払拭するために、他のクラスメイトと一緒になって、彼をいじめる側につかねばならなかったのだ。


 無言・・・・・・。そしておもむろに彼が口を開く。

「僕は悲しかったよ」

 それがどれほどの深い悲しみだったか、君に判るだろうか。生まれて初めて心から好きになった相手に、罵倒され、蔑まれる者の気持ちが。

 僕はただ君と友達でいたかっただけなのに。


「許してくれ!僕は怖かったんだ。だから・・・・」

 目の前に座る彼に向かって、僕は謝り続けた、がしかし、今更そんなことをしてももう遅いのだ。そう。全てはもう遅すぎる。何故なら・・・・。

 そして改めて、僕は青ざめた彼の顔を眺めやった。

 一時の興奮状態からようやく落ち着きを取り戻し始めた僕の頭に、徐々にそのあり得ない眼前の異変に恐怖が広がっていく。

 彼は何故、ここにいるのだ?

 それはあり得ないことなのだ。

 何故ならすでに、

「君はもうこの世にいない筈だ!」


 凍えるような寒い12月の朝だった。

 翔が自殺した・・・・。

憔悴した表情で教室に入って来た担任の先生が告げると、教室中はしいんと静まり返った。誰もがその言葉の意味を図りかね、思考の止まった顔を浮かべて黙り込んだ。

 確かに数日前から翔は学校を休んでいた。僕も気にはなっていたのだ。しかしその翔が、まさか・・・・。

 僕はその事実を受け入れかねて、ただ呆然としていた。頭の中は真っ白で、何も考えらない。

 翔が自殺?なぜ、どうして?

 しかし自問するまでもなく、僕には思い当たるフシがあったのだ。

 他でもない。翔を自殺にまで追いやったのは僕の責任ではないか?

 そう思い至り、僕の体には悪寒が走り、寒気で手足が震え始めた。

 あれほど親密だった友を、僕はある日を境に一転して苛め、あるまじき罵りの言葉を投げつけて、彼の目に涙さえ浮かべさせたのだ。

 僕の残酷な裏切りを、驚愕し絶望して、うなだれていた翔の悲壮な表情が頭一杯に広がった。

 それから後の、翔はもう決して僕と目を合わそうとはせず、暗い瞳をして教室内で孤立してしまったのだ。窓際の、今や永遠に空席になってしまった翔の椅子に座っていた在りし日の彼の悲しげな後姿が、僕の胸を締め付けた。

 僕は、何てひどい、取り返しのつかない事をしてしまったのか!

 僕は親友であった翔を殺してしまったのだ!


 残された翔の遺書には、社会に出て生き抜くには、余りに脆弱な自分の精神に不安を覚えての自害であると、死の理由が述べられていたそうだが、それが偽りであるのが僕には判る。

 翔の死の真相。それは僕の裏切りに悲嘆してのことだった。

 クラスメイトと共に、翔の葬儀に参列した僕は打ちのめされて、もはやその場から一歩も動くことさえ出来なかった。

 手首の静脈をナイフで切り、風呂場でその傷口を流したままの湯に浸し失血死を迎えたと言う彼の死に顔は蒼ざめて、より一層、妖しげな美貌を際立たせていた。

 翔は永遠に17歳の姿のままに、僕の記憶に残り続けるという方法で、甘い復讐を果たしたのだ。

 その通りに僕は苦しんだ。

 そしてようやく気がついたのだ。僕も翔のことを、その性別に関係なく、一人の人間として愛していたと。

 しかしもう遅かった。愛する者を裏切り、挙句に死に追いやった代償は高校生の僕には重すぎた。

 もはや翔との思い出が残るこの地に留まることさえ出来ない。そして、わざと故郷を遠く離れた東京の大学に入り、逃げるようにしてこちらに出てきたのだ。

 翔を忘れるため、毎晩浴びるように酒を飲み、浮かれ騒いで、夜の繁華街を彷徨ったのはそのせいだ。自己暗示をかけるようにして、ようやく僕は翔との思い出の一切を、一年間の記憶を、全て忘れた筈だったのに。

 翔は忘れさせてなるものかと、僕の前に姿を現したのだ。

 亡霊となって・・・・。


 亡霊?

 そう。この夏、毎夜、僕は翔の幽霊と一緒に過ごしていたのだ。

 まさか?ああ、でもそれしか考えられない。頭がおかしくなってしまったのだろうか?

 翔! 思わず手を伸ばしていた。目の前の彼の存在を確かめようと。

 しかし、手は冷たい壁にその行く手を塞がれた。

 驚愕に開く目、翔の方もまた、僕に向かって手を伸ばしたままの姿で凍りついた表情を浮かべている。

 鏡・・・・?

 僕と彼を隔てるその壁が、鏡に他ならない事にようやく気付いた。見渡せば、バーの四方の壁は全て一面のガラス張りであった。

 ピシッ、何の前触れもなく、鏡が横にひび割れた。力を加えた訳ではない。それはどういった現象だったのか。

 横に伸びた一本の線条は、翔の顔を鼻の上辺りで左右に分割している。彼・・・翔・・・つまり僕の顔を?

 何が起こっているのだろう?キリキリと刺すような頭痛が僕を襲う。そして唐突にある事に気がついて、僕は全身はゾッと鳥肌だった。

 一体、僕はどんな顔をしていただろう?

 それは何と馬鹿馬鹿しい疑問であったろう。しかし、判らないのだ、浮かんでこない。

 僕は自分の顔を忘れている!

 確かめるように自分の顔を撫でると、また向かい側の彼も、同じように細い指で頬を、額を撫でる。

 ああ、そんな、まさか!

動転する僕の脳裏に浮かんだ、自分の部屋、思えばそこには鏡の類が一つもないばかりか、元々据え付けられてあった洗面台の鏡さえ、綺麗に外してあるのだ。そしてガラス窓は始終、厚いカーテンに閉め切れたまま。

 フラッシュバックは続く。

 噴水の水面に映った僕と、ショウウインドウに映った僕と、そして今鏡の壁に映った僕と・・・・・。

 僕は彼、彼は僕だった!

 

 喉元まで込み上げた叫びをどうにか抑え、外へ飛び出すと、霧のような雨が全身を打った。

 細かな水滴を顔に浴びながら、奇妙な静けさの中にある街を疾走する。

 駆けながら僕は思い出していく。全てを。

 愛する友人に裏切られて、僕は果てしない自己嫌悪の後にそれまでの自分を殺してしまったのだ。それは精神的な自殺だった。僕は己の心を封印してしまったのだ。

 そして全てを忘れ、新しく、どこにでもいる”普通の青年”として生まれ変る為に、故郷を離れ、これまでの僕を知らない街へやって来たのだ。

 ああ!しかし、それは何とはかなく、無謀な試みだったろう。

 呪文のような自己暗示の果てに僕はそれまでの、自分自身を葬りさったと思っていた、がやはりそれは無駄だった。

 生まれながらの本来の自分を、簡単に捨て去ることなど、そうそう出来る訳がない。

 そして過去の翔は、幻影となって僕の前に現れ、消し去った筈の記憶を見事に甦らせたのだ。

 運命から逃げることなど出来ないのだ。

 雨はいつしか激しさを増して、冷たく、僕の体を打ちつけた。空が怪しく紫に光り、遠雷の轟きが響いてくる。それは僕に再び、逃げることの出来ない容赦ない現実が戻ってきたことを告げる開幕のベルだ。

 空を引き裂くように稲妻が光り、僕を照らす。くっきりとその後方に浮かび上がる黒い影。

 そして僕は影に飲み込まれしまった。


終 



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