中体連の夏
夏。
入道雲が空に浮いて、おひさまが肌を焼く。
汗でべとつく体操着の襟を引っ張りながら、中学二年生の女の子、十塚美波は三本のフラッグを抱えて歩いていた。
ここは甲斐葉市の総合体育館で、今年の県大会の会場だ。
美波は卓球部の所属だが、甲斐葉のこの部はてんで弱くて、あっという間に予選敗退をしてしまった。
かくして美波の中二の夏は一瞬で終わり、今は中体連のお手伝いとしてこき使われる夏休みが始まっていた。
くすん。みんなは山に海にめいめい遊びに行っているのに……。
クラスの一人なんか、お兄ちゃんにサーフィンを習うと言ってはしゃいでいた。
きっとそこで素敵な出会いとか掴んで、彼女はひと夏の思い出をつくったり……。
はぁ。いいなぁ。
ぽつりとジェラシーを呟いて、美波はフラッグの運搬を続ける。
初めて彼と出会ったのは、そんな最低の夏だった。
「……あのさ、ちょっといい?」
不意に声をかけられ、美波は振り返った。
「君、スタッフの子?」
わ。
わわ、どうしよ。
美波はにわかにパニックになった。
他校の男の子だ。
それも――ちょっと、かっこいい。
一見すると線は細く見えるが、袖から覗く腕はがっしりしている。
背が高く、切れ長の整った顔つき。
あの目で見降ろされると、美波の胸は妙に高まる。
この紺色で浴衣みたいな衣装は、剣道着だろうか、柔道着だろうか?
あの寸胴鍋みたいな大きな巾着は防具入れだ。
だったら、剣道部員で間違いない。
「剣道部の大会ってどっち行けばいい?
遅刻しちゃってさ、急がないと」
優しい声だ。聞くだけでドキドキと胸が高鳴る。
どうしてだろう。
目を合わせるのが、すごく、恥ずかしい……。
「って、聞いてる?」
聞いてます、聞いてるんですっ!
でも、どうしよう、……胸が疼いて声が出ない。
「あ、あの……、」
美波は俯く。
初対面の人に道を教える、それはすごく簡単な事。
そのはずなのに……。
「――あっち、です」
ネズミが内緒話をするならこんな音量かもしれない。
そのくらい小さな声で、美波は剣道会場への方角を示した。
もしかしたら声すら聞こえてないかも……。
「ん、ありがと」
彼はそう言って、立ち去って行く音がする。
「……うぅ……ぐすん」
美波は泣きそうになった。
俯いて、返事もせず、ほぼ無言で指を差して応えちゃった。
まるで人見知りが始まった幼稚園児だよ……。
美波は涙を拭い、仕事をこなすべく――、
「あ」
足元に、真っ黒い手帳が落ちていた。
メモ用紙かと思ったが、表紙が合皮で出来ていて、中を見てもっと大事なものだとわかる。きっと剣道の段級を示す証明書だ。
「さっきの人が落としたんだ……ッ!」
黒曜桜示という名前を確認すると、美波は剣道の会場へ走った。
美波は二階席から会場を見渡す。
試合は四つが同時に行われていた。
選手は前掛けに名前が書いてあるからすぐわかるはず。
黒曜……黒曜さん……どこですか!?
パァンッ!!
何かが爆ぜるような音。
脚で踏み込む大きな音。
そして、
「めぇぇ――――んッ!!」
力強い、一撃の宣言。
黒曜桜示はそこにいた。
対戦相手の頭上に、竹刀で一撃を浴びせたその瞬間だった。
美波は目を奪われた。
格子状の仮面をつけているにもかかわらず、彼はその存在感を見せつけていた。
圧倒的な強さだった。剣道を知らない美波にもわかる。
「――かっこいい」
ぽつりと声に出てしまい、美波は耳まで真っ赤に染まる。
どうしてだろう、でもいつまでも見ていたい。
彼を見ていると、すごくワクワクする。
「黒曜――桜示さん、か……」
美波は手元にある手帳を見た。
これで声をかければ、もしかして、知り合いになれるかな……?
そんな淡い期待が頭をよぎったからだ。
――届けてくれたんだ、ありがとう。
――君、名前は?
――夏休み空いてるかな。よかったら一緒に……、
「…………」
美波は首を横に振る。
そんな、マンガみたいにうまくいくわけないよ。
第一、またまともに声も出せないで終わるのが見えてるし。
諦めた笑みを浮かべ、彼女は静かに落し物センターへ向かった。