死神と少女と新月と
リハビリに書いた某友人とのお題噺。
お題は、人影・争論・ボール紙でした。
毎晩毎晩メニューに沿って用意されたフルコース並みに繰り広げられる争論にとうとう耐えかねて家を飛び出した。このあたりでもちょっとした豪邸の我が家の正面堂々突破だ、こうなるといっそ清々しい。メイドや執事の静止を振り切り、背後から引きとめようと怒鳴ってくる両親の声も無視して、重たい樫の木の扉を叩きつけるようにして閉めた。我ながらよくそんな馬鹿力が出せたものだ。外へ飛び出して一歩、更に重ねてもう一歩、ドレスの裾をたくし上げながら少しずつ加速して夜風を切りながら青銅で出来た門をこじ開けて、そしてようやく家の正面に出た私は大きく息を吸い込んだ。あぁ、屋敷の中と違ってなんと広々とした世界なんだろう。何かに引き寄せられるような衝動に任せて走ったせいで息は上がっていたが、不思議と苦しくはなかった。
風が呼ぶに任せて歩けば暗い色のドレスを着せられていた私の体は、新月の闇夜の中にあっという間に溶け込んだ。溶け込んだ感覚が何とも愛おしい。片田舎のこの場所のこと、月明かりがなければほとんど明かりはないといっても過言ではない。こうなると、刈り取る前の小麦畑のような自分の髪が煩わしい。いくら月明かりがないとは言え、わずかな光に反射するこの髪が、私は嫌いだ。
家を飛び出した理由などバカバカしいほど単純で、毎晩のように繰り広げられる私の縁談話に嫌気がさしたのだ。家の存続を重視して、なんとしてでも隣町に居を構える名門家に嫁がせようとする父と、時代錯誤の政略結婚じみた縁談ではなく一人の少女として淡い恋愛をして、理想の男性の元に嫁がせようとする母。その意見は私が成人した半年ほど前から対立し続けていた。父と母はいつも私に意見を求めた。当たり前といえば当たり前だ、私のことなのだから。だが、私はそのどちらにも賛成したことはない。ただ黙ってその争論を聞くだけだった。
率直に言えばどちらもまっぴらゴメンだった。
家を存続させるための結婚なんてするくらいなら処刑台に送られた方がマシだし、淡い恋に身を任せるなんて吐き気がする。結婚だけが女の幸せだと考えている両親のアナクロさ加減にはいい加減呆れていた。
月の無い深夜の街角は、少し気味が悪いくらい冷たい風が吹き抜ける、私にとって異空間だった。車の中からただの景色として見ていた時とは違う、そこに人の生活があるのだとわかるような石畳や家の壁、窓の奥にかかる薄汚れたカーテン。何もかもが私には新鮮に映った。
自立したい。
それが私の願いだった。
親に縛られず、家に縛られず、自由奔放に生きる生き方。街角でちょっとした出店の売り子として働いて、お金を貯めて自分に必要なものを手に入れる。ちょっとした争い事に首を突っ込んでみるのも面白いかもしれない。喧嘩の一つや二つもするだろう。売り子仲間の近所の若い娘と語らい合う、そんな当たり前のことが羨ましかった。綺麗な飾りとして生きるのだけは嫌だった。
ふと街の掲示板に目が止まる。古ぼけたボール紙のような紙で作られた触書には、このあたりを警備する国立警備隊の印。何かあったのかと近づけば防犯喚起の文言がズラリと並べられている。こんな長々と書いてあって誰が読むのだろうと疑問に思ったが、私の目は釘付けだった。家の中にいては知ることのない世界で、面白かったのだ。物語の中でしか読んだことのない凶悪な事件に対するもろい対抗策。私ならこうしてやるのに、なんて考えながらワクワクしている自分がそこにはいた。
近づいてまじまじと読んでいるうちに、少し怖くなった。街には怖いものが溢れているように思われた。今にも闇夜から何かが出てくるような気がして、急にあたりを見渡した。この金色の髪、闇夜の中でも目立つに違いない。何しろここは曲がりなりにも街、街灯が少しは立っている。その明かりに少なからず反射しているこの金色に目を付けられはしないだろうか。急に怖くなってきた。きっとそのあたりが私の世間知らずなところなんだろう。もう少し歩いてから帰ろう。家の中へはベランダ伝いに入ることができる。この家出で両親も少しは頭を冷やしてくれるだろう……。
不意に路地から現れた人影に、心臓が凍りついた。ただの人影なら怯えるだけで済んだだろう。だが、私はその場から一目散に駆け出した。ドレスがどこかに引っかかって破れることも気にせず、人影と反対方向にひたすら走った。耳元に心臓が上がってきたかのようにどくんどくんと波打つ音がする。
まだ死にたくない。
私の髪と対照的な月明かりのような銀色の煌きがちらついていた。頭からすっぽりとその人影に覆いかぶさった黒いローブの上に、虹のように弧を描いてかかるその銀色の煌きは農業に使われるそれよりはるかに大きく鋭利で。振り返った瞬間に垣間見えた紅の目には生きるもの全てを吸い込みそうな闇がちらついていて。死に物狂いで走った。途中で靴のベルトがちぎれてからは靴を投げ捨てて裸足で走った。
闇雲に走ったその先は、無情にもレンガの壁で行き止まりだった。とても乗り越えられる高さではない。足場になるような場所もなかった。明かりもないのにぎらぎら光る鎌を持った人影が私を追い詰める。ここで死ぬんだな、そう思った。
あと、10歩。
あと、5歩。
あと、3歩。
と、突然人影が歩みを止めた。そして静かに私の前に跪く。あまりのことにこちらの思考回路も止まってしまった。不意に人影が頭を垂れたまま澄んだ声で話し出す。
「こんばんは、我が主」
「……え?」
「月の無い晩に現れる金髪に碧眼の少女、それが次の私の主であると、先だって亡くなられたエレア様の仰せです」
「……まず名乗るべきだと思うけれど」
妙に冷静な物言いに、私の対応も驚くくらい冷静で、何より先程までの恐怖が薄れているのが自分でも不思議で、口から出た言葉は至極常識的なそれだった。
「これはこれは、非礼をお許しください我が主。私は魔界の死刑執行人、スレア。主を求めて半年ほどこの街に滞在している者です」
鎌を置き、フードを外した下から現れたのは白銀の髪に灼眼、陶磁器のような肌の青年だった。
「死神と名乗ったほうが伝わりますでしょうか」
「私になにか……?」
「次の主である貴女にご挨拶に参った次第でございます。主である貴女の魂を他の死神から守る役目が我が務め、ですが左胸に現れる刻印が動かぬ証拠として死神に魂を売り渡したことが知られてしまったら最後、魔女裁判にかけられましょう。その身は異性を知らぬ清き体でなくては、この魔力が一瞬にして貴女を蝕む。他者との関わりは、いずれ私の魔力の暴走を招き貴女を破滅へと追いやる。貴女は常人では考えられぬ程の孤独を代償に常人では考えられぬ程の不老長寿を得ることになります」
死神の主など、聞いたこともない。
けれど――
「面白そうね、それ」
不思議と高揚した気分が私を微笑ませた。当たり前のことが今以上に私の目の前から奪われる。けれど、不思議と喪失感はなかった。
「あなたの主として認められるのには何か資格がいるの?」
「いえ、特にはございません。ひとつだけ、通過儀礼がございますが」
「なあに?」
「死神との、接吻を」
「ふうん……あなたに任せていいのかしら」
「貴女が私の主であると認めてくださるのなら」
退屈な暮らしに飽き飽きしていた。味わえそうにないスリルがそこに待っていた。こんな理由、神父様に聞かれたら怒られそうだけれど。それでも私の心はその死神に取り込まれていた。
「構わないわ」
「やはり、我が主、偶然だとしてもこの月の無い夜に私と出会えるだけの力はお持ちか……では、御名を伺いましょう」
「クレア。クレア・アリバーン」
「では、クレア。汝の魂尽きるまで、その身が我が主であらんことを」
氷のように冷たい唇が私の唇に重ねられる。心臓の上に熱が集まる。鼓動が激しく感じる。体が冷えていくのと反対に、内側には熱いものが満ち足りてくるのがわかった。今まで一度も感じたことのない、不思議な胸の高鳴り。
それはきっと、死神との恋。