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このままでは全てを失ってしまうので、完全回避を目指します  作者: 逆立ちハムスター


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「……っ、痛っ……」


頭蓋骨の内側で、何十個もの教会の鐘が乱打ちされているような、割れるような頭痛だった。

重鉛のように重い目蓋をゆっくりと押し上げると、視界いっぱいに広がったのは、精緻な刺繍が施された豪奢な天蓋のレースだった。ふわりと漂ってくるのは、消毒液の匂いではなく、心を落ち着かせるようなラベンダーと微かな薬草の香り。

私はゆっくりと、本当にゆっくりと瞬きを繰り返し、自分が今どこにいるのかを把握しようと努めた。


「奥様! 気がつかれましたか!?」

「すぐに旦那様と、お医者様をお呼びして!」


ベッドの傍らで不安そうに覗き込んでいたメイドたちが、パタパタと慌ただしく足音を立てて部屋を出ていく。その声を聞きながら、私の脳内では、まるで二つの異なるパズルが強引に一つに組み合わされるような、凄まじい情報の奔流が巻き起こっていた。


(ああ、そうだ。私、愛馬の白馬メロに乗っていて……障害物を越えようとした時に、急に馬が何かに怯えて暴れて、それで振り落とされて……頭を強打して……)


そこまで思い出した瞬間、脳の奥底で何かが弾けるような感覚があった。


『ちょっと! この企画書の数字、全然合ってないじゃないの! 明日の役員会議までに修正して出し直し!』

『あー、もう! なんで私ばっかりこんな目に……。帰ったら絶対、新作のスイーツ爆食いして、あぼドラマの続きを……』


「……えっ?」


思わず、かすれた声が漏れた。

脳裏に鮮明に蘇ってきたのは、馬に乗る優雅な貴族の私の記憶ではない。

パソコンのモニターを睨みつけ、部下のミスの尻拭いに奔走し、取引先に頭を下げ、深夜のコンビニで買った新作スイーツを買い漁る……「佐々ささき 小百合さゆり」、38歳、独身、中堅商社の営業部課長としての記憶だった。


(私……佐々木小百合? いや、違う。私はローゼンベルク公爵夫人、リーゼロッテ・フォン・ローゼンベルク……いや、どっちも私だわ)


混乱は数分続いたが、元・営業課長の記憶は伊達ではなかった。

ズキズキと痛む頭を押さえながら、私は冷静に現状を分析し始めた。


どうやら私は、落馬して頭を強く打ったショックで、前世である「佐々木小百合」の記憶を完全に取り戻したらしい。

小百合としての私は、過労とストレスが祟って、39歳の誕生日を目前にして自宅で倒れ、あっけなく生涯を閉じた。そして気がつけば、このファンタジーのような世界で、由緒正しき公爵家の令嬢リーゼロッテとして生まれ変わり、政略結婚を経て、今に至るというわけだ。


「……なるほど。いわゆる『異世界転生』ってやつね。しかも、記憶を取り戻したのが赤ん坊の頃じゃなくて、すでに結婚して子供までいる公爵夫人になってからなんて……タイミングが微妙すぎるわ」


誰に聞かせるでもなく独りごちた私は、ふと、ある重大な事実に思い至り、サァッと血の気が引いた。


「ローゼンベルク公爵家……リーゼロッテ……。待って。どこかで聞いたことがある。この世界観、この名前……」


記憶の糸を必死にたぐり寄せる。前世の小百合が、激務のストレスを発散するために一時期、唯一嗜んでいた趣味。それは、美しい青年たちとの恋愛を楽しむ「乙女ゲーム」だった。

その中でも大ヒットタイトル。


──剣と魔法の王道ファンタジー乙女ゲーム『ルミナス・ハーツ~光の乙女と運命の騎士たち~』。


「嘘でしょ……ここ、『ルミナス・ハーツ』の世界じゃない!?」


ベッドの上でガバッと身を起こそうとし、再び襲ってきた頭痛に「うぐっ」と悶絶する。しかし、そんな痛みよりも、私の心を支配したのは絶望的なまでの焦燥感だった。


『ルミナス・ハーツ』の舞台は、ここから約数年後。光の魔法の才能を見出された平民のヒロインが、貴族たちの通う魔法学園に入学し、王子や騎士団長の子息、天才魔術師たちと恋に落ちるという王道ストーリーだ。

そして、そのヒロインの前に立ちはだかり、ありとあらゆる嫌がらせを行う高慢ちきな悪役令嬢。ドリル状の金髪ロールヘアを揺らし、「平民の分際で!」が高笑いと共に口癖の、王子の婚約者。


その悪役令嬢の名前こそが、エレノア・フォン・ローゼンベルク。

他でもない、私と、夫であるローゼンベルク公爵の間に生まれた、たった一人の愛娘である。


「私の娘が、悪役令嬢……!?」


私は両手で顔を覆った。

ゲーム内でのエレノアの結末は、どのルートを通っても悲惨の一言に尽きた。

ヒロインへの度重なる嫌がらせや、暗殺未遂といった罪を暴かれ、公衆の面前で王子から婚約破棄を突きつけられる。その後は、国外追放、あるいは修道院への幽閉。ルートによっては、怒り狂った攻略対象によって命を奪われるという最悪の『断罪エンド』すら用意されていた。


さらに恐ろしいのは、エレノアの悪行の責任を問われ、ローゼンベルク公爵家そのものも没落、あるいは取り潰しの憂き目に遭うという裏設定が存在することだ。

ゲームの中では、母親である「リーゼロッテ」の存在はほとんど語られない。設定資料集の片隅に、『流行り物と社交界にしか興味がない浪費家で、娘の教育を侍女に丸投げにした結果、エレノアは愛情を知らない歪んだ性格に育ってしまった。なお、本人はゲーム開始前に流行り病であっけなく病死している』と、たった数行で片付けられていたはずだ。


「冗談じゃないわよ……っ!」


私は思わずベッドのシーツを強く握りしめた。

前世では会社に尽くして過労死。今世では、気位ばかり高い浪費家の貴族として生き、数年後に病死。さらには、残された娘は悪役令嬢として断罪され、家は取り潰される? そんな投げやりで適当に作られた設定で破滅してたまるもんですか。


「こんなふざけたシナリオ、誰が受け入れるもんですか。私は良識ある大人で、今は公爵夫人で……何より、エレノアの母親なのよ!」


前世の、困難なプロジェクトであればあるほど燃え上がった営業課長としての、一応あったプライド血が騒ぐ。

娘の破滅フラグ? 家の没落? 自分が病死?

上等の上等だ。そんなもの、私がこれまでの人生で培ってきた「教養」と「タフな精神力」、そして「ゲーム知識」をフル活用して、全てへし折ってやるわよ。


まずは現状把握と、問題点の洗い出しだ。

現在、私は幸い24歳。エレノアは先日5歳の誕生日を迎えたばかり。

ゲーム開始の学園入学は15歳辺りのはずだから、タイムリミットはあと10年ある。10年あれば、人間一人の性格なんていくらでも軌道修正できるはず。


そんな風に、頭の中で猛烈な勢いで「破滅回避プロジェクト・進行計画書」を作成し始めたその時だった。


「……おかあさま……っ」


重厚なマホガニーの扉の隙間から、ひょっこりと小さな顔が覗いた。

プラチナブロンドの柔らかな髪。まだぷっくりとした、赤ん坊の面影を残す頬。大きなアメジストの瞳には、いっぱいの涙が溜まっている。

私の一人娘にして、未来の極悪非道な悪役令嬢、エレノア・フォン・ローゼンベルク(5歳)だった。


「エレノア……」

「おかあさま、おかあさまっ……!」


私が名前を呼んだ瞬間、エレノアは堰を切ったように泣き出し、短い足でパタパタと懸命に駆け寄ってきた。フリルのたっぷりついた最高級のシルクのドレスがくしゃくしゃになるのも構わず、ベッドの縁にしがみついて、私の腕に小さな顔を押し付ける。


「うわぁぁん! おかあさま、しんじゃうかとおもった! エル、ずっとお祈りしてたの! おかあさま、おめめ開けてって……っ!」


ヒックヒックとしゃくりあげながら、必死に私にすがりつく小さな体。ミルクとベビーパウダーの甘い匂いがふわりと香る。

これが、あのヒロインを階段から突き落とし、毒を盛り、高笑いしていた悪役令嬢?

冗談ではない。ただの、母親の怪我に怯え、愛情を求めて泣きじゃくる、可愛らしくて可哀想な5歳の女の子じゃないか。


(設定資料集には『母親が愛情を注がなかったせいで歪んだ』って書いてあったわね……)


落馬する前の「リーゼロッテ」としての記憶を振り返る。

確かに、これまでの私は典型的な傲慢な貴族令嬢だった。政略結婚で嫁いだ公爵家への反発、仕事ばかりで家庭を顧みない冷たい夫への不満。それを埋めるように連日お茶会や夜会を開き、ドレスや宝石を買い漁り、娘のエレノアのことは「優秀な乳母がついているから」と育児放棄していた。

エレノアが私に話しかけようとしても、「ドレスがシワになるから離れなさい」「後にしてちょうだい」と冷たくあしらってきた記憶が蘇る。


(……なんて最低な母親なの。そりゃあ、こんな可愛い時期に母親から拒絶され続ければ、性格も歪むわよね。愛情に飢えて、執着心が強くなって、ゲームの中で王子の偽りの優しさに縋り付いてしまったのも無理はないわ)


前世では結婚も子育ても未経験だったが、今は違う。私の胸の奥底から、どうしようもないほどの愛おしさと、激しい後悔、そして燃えるような母性が湧き上がってきた。


「ごめんね、エレノア……。もう大丈夫よ。お母様は、もうどこにも行かないわ」


私は痛む体を押して身を乗り出し、泣きじゃくる小さな体を、両腕でしっかりと抱きしめた。

エレノアは一瞬、ビクッと体を強張らせた。これまで母親に抱きしめられた記憶など、ほとんどなかったからだろう。しかし、すぐに私の温もりを感じ取ったのか、小さな両腕で私の背中にしがみつき、さらに大声を上げて泣き始めた。


「おかあさま……っ、ほんとう? もう、エルを一人にしない?」

「ええ、本当よ。これからは、ずっとエルのそばにいるわ。一緒にお絵かきもしましょう。絵本もたくさん読んであげる。美味しいお菓子も一緒に食べましょうね」


私が優しく背中をトントンと叩きながらそう囁くと、エレノアは信じられないものを見るような目で私を見上げ、それから花が咲くような、とびきり無邪気で可愛らしい笑顔を見せた。


「うん……っ! おかあさま、だいすきっ!」


(ああっ、可愛い! なにこの天使! こんな可愛い子をギロチンにかけたり追放したりするなんて、絶対に世界がおかしい! 王子だかヒロインだか知らないけど、私の可愛い娘に指一本触れさせてたまるもんですか!)


娘の教育問題は、これで解決の糸口が見えた。たっぷり愛情を注いで、甘やかすだけでなく「ダメなものはダメ」としっかり教える。他者の痛みがわかる、心優しい令嬢に育て上げればいいだけだ。三十路オーバーの元管理職のマネジメント能力、なめないでいただきたい。しかし育児は未経験。そこが難点。


「……気がついたようだな、リーゼロッテ」


その時、低く、氷のように冷たく響く声が部屋に落ちた。

ビクッとしてエレノアが私の腕の中で縮こまる。扉の前に立っていたのは、長身に非の打ち所がない黒の礼服を纏った、銀髪に鋭い氷青色の瞳を持つ美丈夫。

私の夫にして、この国の宰相筆頭、アーサー・フォン・ローゼンベルク公爵(28歳)だった。


記憶の中のアーサーは、常に無表情で、私に対して義務的な言葉しか口にしない冷徹な男だった。政略結婚とはいえ、その氷のような態度に、かつてのリーゼロッテは恐れを抱き、次第に心を閉ざして散財に走っていったのだ。


(ふふん、なるほどね)


しかし、現在の私──佐々木小百合のフィルターを通した私の目には、全く別の情報が飛び込んできていた。

常に完璧に見える彼の服装だが、よく見ればクラヴァット(ネクタイ)の結び目がほんの少しだけ歪んでいる。目の下には薄く隈があり、組まれた腕の指先が、微かに、本当に微かに震えている。


(この人……冷酷なんじゃない。ただ極度に不器用で、言葉足らずで、仕事中毒なだけね。なんか親近感が。それに、私が倒れたと聞いて、血相を変えて飛んできてくれたんじゃない。)


前世で、威圧的だが実は小心者のクライアントや、無口すぎて誤解されがちな職人肌のエンジニアを何人も手懐けてきた私にとって、アーサーのような「不器用・言葉足らず・仕事人間」の三拍子揃ったタイプは、むしろ対処しやすい部類に入る。


私はエレノアの背中を優しく撫でながら、ベッドの上からアーサーに向かって、これまでのリーゼロッテなら絶対に向けなかったであろう、柔らかく、そして心からの感謝を込めた微笑みを向けた。


「ええ、アーサー様。ご心配をおかけして申し訳ありませんでした。こうして無事に目を覚ますことができたのも、貴方がすぐに優秀な医師を手配してくださったおかげでしょう? 本当に、ありがとうございます」


「……っ!?」


私の言葉を聞いた瞬間、氷の公爵様は、まるで魔法の爆弾でも食らったかのように目を見開き、数秒間完全にフリーズした。

「お、お前……今、なんと言った……?」

「? 『ありがとうございます』と申し上げたのですが。私を気遣って、公務の合間を縫って急いで駆けつけてくださったのでしょう? その少し乱れたクラヴァットが、貴方の優しさを物語っていますわ」


私がクスッと笑って指摘すると、アーサーはハッとして自分の首元を手で押さえ、なんと、その端正な顔をほんのりと赤く染めたではないか。

(うわぁ、チョロい……じゃなかった、意外と可愛いところあるじゃない、私の旦那様。最高ね)


「そ、そんなことはない! 妻が落馬したとあれば、世間体というものがあるから確認に来たまでだ! そ、それに、お前がそんな素直に礼を言うなど、やはり頭を強く打って……医者はまだか! 早くもう一度医者を急かせ!」


顔を真っ赤にして狼狽えながら執事に一喝して、回れ右をして部屋を飛び出していこうとするアーサー。その不器用すぎる後ろ姿を見て、私は確信した。


(よし。この家族、十分私がなんとかできる範囲)


これからの私のタスクは以下の通りだ。


第一段階:エレノアの情操教育。

十分な愛情を与え、自己肯定感を高める。貴族としてのノブレス・オブリージュ(思いやりと責任感)を徹底的に教え込む。


第二段階:夫アーサーとの関係改善。

すれ違いを解消し、良好な夫婦関係へ(パートナーシップ)を構築。家庭内を「安らげる場所」へと変革する。


第三段階:公爵家の財政・領地改革リスクヘッジ

万が一の事態に備え、浪費を即座にやめ、前世の知識を活かして領地の特産品開発や新規事業を立ち上げ、経済的自立を今から目指す。


第四段階:自身の健康管理。

ゲーム設定に雑にある「謎の病死」とかいう意味不明なやっつけ設定を避けるため、適度な運動(落馬しない程度に)と栄養管理の徹底。目指せ、健康寿命80年!


「……ふふっ」

あまりにもやり甲斐のある「新規プロジェクト」に、私は自然と笑みをこぼしていた。

「おかあさま、どうしたの?」

不思議そうに見上げてくるエレノアのふわふわの髪にキスを落とし、私は力強く宣言した。


「なんでもないわ、私の可愛い天使。さあ、これから忙しくなるわよ! 私とエルで、この世界で一番幸せな家族を作りましょうね! いえ、パパも入れてね」


こうして、元・社畜営業課長である私の、教養と母性(とゲーム知識)を武器にした、愛娘の破滅フラグ粉砕と領地経営兼、子育て奮闘記が、静かに、そして力強く幕を開けたのだった。

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