第四節 北極海の浮上
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// 第四節 北極海の浮上
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同刻、北極海
海上自衛隊 しんりゅう型一番艦 “しんりゅう” 艦内
この海域に留まって、どれほどの時間が経っただろうか。
もちろん航海記録は詳細につけられているから、正確な経過時間は把握している。だが、発令所で過ごす時間は
永遠のように伸びていく。年を越してしまうのではないか――
そんなつまらない妄想でさえ、今では貴重な思考の逃げ道になっていた。
しんりゅうは、海上自衛隊中で最新鋭艦にあたる。
従来艦の数倍に達する大容量バッテリーを積み、一週間の完全無音潜航も理論上は可能だ。
いまは大きく移動せず、海流に身を委ねるドリフト潜航の状態。
主機関をほとんど回していないため、ただ“浮かんで”いるだけならいくらでも続けられる。
――だが、艦のスペックと乗員の精神状態は別だった。
艦内はずっと静粛航行が発令されている。
乗組員は話すことも許されず意思疎通は最低限の言葉で行い、シフト外であっても基本的には私語厳禁である。
主機関をはじめ。各種機器が止まっているため、聞こえるのは自分自身の心音と時折天井から伝わる氷のきしむ音だけ。
時折鯨の鳴き声が遠くに聞こえる事があるがそれが唯一の外部の音らしい音であった。
最初の三日間は、まだ士気が持っていた。
だが五日目には疲労が見え始め、七日目には、沈黙そのものが艦を支配しているようだった。
その静寂を破ったのは、
副長――柏木二等海佐の声だった。
「艦長、
……もう一週間もこの位置に止まっています。
司令部は、いったい何をするつもりなんでしょう?」
柏木は“まだ穏当な言い回しを選んでいる”つもりなのだろう。
だが、その声色には焦りが滲んでいた。
艦長は赤灯に照らされた陰影の中で黙ったまま航法席の計器を見つめていた。
その横顔にはこの数日で増えた白髪が薄く光の縁をまとっていた。
艦長――真壁 一等海佐
かつては作戦内容を幹部に丁寧に共有する“開いた艦長”だった。
だが今回は何かを抱え込んだように口を閉ざし続けている。
柏木にとって、これほど艦長の意図が読めない航海は初めてだった。
沈黙が流れ、圧力調整弁の小さな音がやけに耳につく。
艦内ではすでに妙な噂が流れ始めていた。
「艦長はロシアへ亡命する気では?」
「いや、このまま“独立潜水艦国家”として漂流するつもりじゃ……」
荒唐無稽だ。
誰も本気で信じてはいない。
しかし――
一週間の無音潜航という“考える時間だけが過剰にある環境”は、乗員の思考を少しずつ歪ませていた。
今回の任務は極秘作戦であり、乗員には正確な位置すら知らされていない。しかし彼らは熟練した海自の潜水艦乗りだ。
機関のわずかな振動、海流の変化、外洋音の密度から、艦がどれほど移動したかは自然と読み取れてしまう。
そのため今までの訓練を大きく外れた作戦が実行中であることに気付いている。
海上自衛隊の潜水艦は米ロの潜水艦と違い防衛兵器だ。
北極海にでることなど想定されていないし、しんりゅうは所謂攻撃型潜水艦である。
米国のミサイル原潜のように一か所の海域に潜んでいても特にすることなどは無い。水測員は常にソーナーの画面を眺めているが
とくに監視対象が指示されているという事も無い。
航海長がインスタントコーヒーの紙コップを柏木に渡しながら、押し殺した声で漏らす。
「位置変更もなく……。
電文の送受信もなし。
これで“作戦”と言えるんですかね……」
こうした愚痴を口にする幹部は一人ではない。柏木は、作戦全容を知っているふりをしながら、
「機密事項だ」と言って誤魔化し続けてきた。しかし、そろそろ限界が近いことを自覚していた。
柏木は艦長に視線を投げた。その視線には“知りたい”ではなく、“確かめたい”という色があった。
(艦長は……何かを知っている。)
だが艦長の唇は、それを肯定も否定もしない。
静寂が艦内へ戻ってくる......が、その沈黙を破ったのは聴音室からの報告であった。
「……新規コンタクト、方位――0‐9‐0」
低い声だったが、発令所の空気がわずかに揺れた。
ここは北極海である。そのためロシア艦がこの海域を通ること自体はそう珍しくない。
だが、いまこの状況で探知すると、ただの通過音であっても乗組員の神経を細かく削った。
「艦種は?」
柏木副長が立ち上がる。
「……回転数パターン一致。
ロシア海軍 ウダロイII級“アドミラル・チャバネンコ”です!」
ウダロイ級はロシア海軍の大型駆逐艦である。
駆逐艦はいつの時代も潜水艦の大敵であり、特にロシア海軍の駆逐艦は強大な対潜兵器を装備しており潜水艦乗りが関わりたくない艦艇の筆頭である。
乗員たちは顔を見合わせた。
「たまたま通っただけ……ですよね。」
若い士官が不安げに呟く。
「この海域を哨戒しててもおかしくはない。
無音潜航だ、俺たちがバレるはずがない。」
別の隊員が必死に言い聞かせる。
柏木も他の隊員と同意見であったがここは戦場である。
「警戒を怠るな。深度維持、航行そのまま。」
各部門に檄をとばす。
実際のところ、無音潜航中の潜水艦が発見されることはまずない。
とりわけ海上自衛隊の艦は静粛そのもので、米国海軍との共同演習では米艦長の面目を幾度となく失わせてきたのが自慢なのだ。
当然チャバネンコはしんりゅうに気付くことなく走り去って行った。
――となるはずだった。
水測員が再び身を震わせた。
「何かを投下したようです。ディップソナーかもしれません。」
発令所が凍り付く。
対潜ヘリがディップソナーを展開したということは、すでに探知されていると考えた方がいい。
たまたまこの場所で対潜水艦訓練を始めたという事はないだろう。
こちらの正確な位置を測定されてしまうと、ロシア艦長は対潜ミサイルの発射をすぐさま命令するだろう。
しんりゅうに残された時間はあまりない。
柏木副長が即座に号令をかけた。
「――対水上戦闘用意。戦闘配置。」
発令所が一瞬だけざわめき、すぐに沈黙が艦を包んだ。
「静かに。」
戦闘配置といってもこの状態でできることはあまり無い。潜水艦は見つからないことが最大の武器である。
すでに探知されていると思われるこの状態からはどんな戦略をもっても撃沈される可能性が高いことは全乗組員が理解している。
魚雷を打てば相打ちに持っていけるかも知れない。しかしこれはもう特攻である。
「艦長、このままでは攻撃されます。
回避行動を……」
艦長は計器を見つめたまま、
ただひとつの言葉を吐いた。
「――浮上する。」
発令所が爆発したようにざわめく。
柏木副長は震える声で艦長に迫った。
「艦長……!
あなた……まさか……
ロシア側に寝返るつもりでは――!?」
乗員たちが息を呑む。
その言葉は全員の胸の奥にあった“最悪の疑い”だった。
しかし艦長は、迷いのない声で命じた。
「聞こえなかったのか? ――浮上だ。これは命令だ。」
柏木の拳が震える。
「……艦長……」
艦長の瞳は、裏切りの色ではなかった。
ただ“決まっている”という確信だけが宿っていた。
艦長は、
まるで長年の友に触れるように
柏木副長の肩を軽く叩いた。
「柏木副長。……信じたまえよ。」
その声音には、説明より強い“確信”があった。
理屈でも命令でもない。ただ、信じてほしいという静かな意志。
柏木は一瞬だけ息を呑んだ。
艦長がこういう声を出すとき、それは――間違いのない時だった。
艦長は顔を前へ向け、わずかに顎を引いた。
そして、呼吸するように自然な声で命じた。
「――主浮力槽、ブロー開始。」
発令所の空気が震えた。
「メイン・タンク・ブロー……開始!」
副長が復唱する。
「主浮力槽、前・中・後。順次ブロー――入ります!」
発令所にある圧力計が跳ねる。
艦体に、空気が押し出される“低いうなり”が伝わる。
潜水艦がゆっくりと海流に逆らい、重力を溶かすように、
浮上へ向けて身じたくを始めた。
柏木副長が小さく呟いた。
「……本当に、浮上するのか……。」
「前部バラスト、良好。」
「中部、ブロー圧安定。」
「後部、上昇率確立。」
逐次報告が次々と上がってくる。艦体にかかる水圧がわずかに揺らぎ、
海そのものが艦を押し上げるように浮力が働き始めた。
艦長はただ、前方を見つめていた。
その眼差しは、
恐れではなく、
怒りでもなく、
ただ“決意”だけを湛えている。
柏木は、その横顔を見てはっきりと理解した。
――艦長は、何かを知っている。
自分たちには知らされていない、
しかし“ここで浮上しなければならない理由”を。
それは“裏切り”などではなかった。
柏木は拳を握りしめ、声を張った。
「――浮上角、維持! 全乗員、衝撃に備えよ!!」
しんりゅうは、静寂を破るようにゆっくりと上昇を始めた。
やがて、艦体の揺れがゆっくりと収まり、圧力計の針が安定域へ戻っていく。
「……浮上完了。
艦体姿勢、安定しました。」
航海長の報告に、発令所の空気がわずかに動いた。
誰も安堵の声を上げない。ただ、最悪の局面を越えたという事実だけが共有される。
艦長――真壁一等海佐は、短く頷いた。
「了解。」
その声は、いつもと変わらない。
だからこそ、副長の柏木は胸騒ぎを覚えた。
真壁はゆっくりと席を立つ。
「柏木副長。同行しろ。」
「……艦長?」
柏木は反射的に立ち上がったが、すぐに言葉を継ぐ。
「艦長、この状況で艦外に出れば――
ロシア側に拘束される可能性があります。」
「そう思うか?」
その即答が、柏木の言葉を止めた。
「……はっ?」
真壁は帽子を手に取り、淡々と言葉を続ける。
「彼らは、すでにこちらが浮上する理由を知っている。
そして――迎えも来ている。」
「……迎え?」
柏木が問い返すより早く、
浮上後、監視についていた甲板監視員の声が入った。
「報告。
前方海面、ロシア海軍内火艇を確認。
武装は……確認できません。人員は少数。」
発令所に、言葉にならないざわめきが走る。
武装していない内火艇。
それは、戦場ではありえない存在だった。
真壁は小さく息を吐いた。
「な。」
柏木は、ようやく理解した。
これは偶然でも、衝動でもない。
予定された浮上だったのだ。
「護衛要員、最小限。」
真壁は黒谷3佐を見た。
「黒谷三佐、艦内指揮を預ける。」
黒谷は一瞬、言葉を失った。
だが、次の瞬間には敬礼していた。
「……了解しました。」
艦長が先に出る。
数名の護衛が続き、最後に柏木が甲板へ上がった。
夜の北極海は、異様なほど静かだった。
海面には、黒い影のように小さな艇が揺れている。
ロシア海軍の内火艇だ。
その艇に乗った水兵たちは、
武器を携えていなかった。
真壁の姿を認めると、
彼らは一斉に立ち上がり、
揃った動作で敬礼した。
敵に対するものとは思えない、
あまりにも整った敬礼だった。
柏木の背筋に、冷たいものが走る。
真壁は一度だけ振り返り、柏木を見た。
「……信じたまえよ。」
そう言って、
何事もないかのように内火艇へと歩み寄った。
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――しばらく後。
ハッチが重い金属音を立てて閉じられた。
戻ってきたのは柏木副長と、護衛に付いた数名の隊員だけだった。
その列の中に――艦長の姿はない。
発令所の空気が一瞬にして張り詰める。
乗組員たちの視線が、無言のまま柏木へと集まった。
柏木は濡れた手袋を外し、
赤灯の陰影の中で短く息を整えると、
ためらいのない声で告げた。
「……艦長は、本艦を離れられた。」
発令所が硬直した。
誰も息を呑む音すら立てなかった。
「以後の指揮は、私が執る。」
その声は冷静だったが、
押し殺した何かがわずかに滲んでいた。
航海長が、声を失いかけたまま問いかける。
「艦長は……どちらへ?」
柏木は答えなかった。
代わりに、艦橋へ続くハッチを一度だけ見やる。
つい先ほどまで艦長が立っていた場所へ。
そして、淡々と付け加えた。
「副長には黒谷三佐についてもらう。」
黒谷三佐が静かに一歩前へ出た。
その表情には緊張と同じだけの覚悟が宿っていた。
柏木は発令所の全員を見回し、
わずかな間を置いて告げる。
「これより、司令部からの命令を全乗組員に伝達する。」
その声音には揺らぎがなかった。
しかし乗員たちは感じていた――
何かが大きく動き始めたことを。
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“しんりゅう” 発令所
艦長が去ったあと、発令所には説明できない重い沈黙だけが横たわっていた。
柏木副長はその空気を押し分けるように前へ一歩進み、沈着な声を発令所に響かせた。
「全員、聞いてくれ。
——しんりゅうはこれより“護衛任務”に入る。」
隊員たちの視線が一斉に向けられる。
ざわつきが瞬く間に広がった。
「護衛……? ロシア艦の、ですか?」
「いやいや、あの駆逐艦を? むこうの方がよほど武装してるだろ。」
「そもそも、何から護衛するんだよ。あいつらの敵は……本来、俺たち日本じゃないのか?」
ざわめきは不安と混乱を孕んだまま膨らみ、
発令所の空気が不安定に揺れ始めた。
柏木は手を上げて静めようとしたが、その時だった。
「——水測より緊急! 新規コンタクト!!」
発令所が震えるように反応する。
「方位084!
機関回転パターン一致……
——ロシア海軍、ボレイ型原子力潜水艦と推定!!」
発令所がざわつきを通り越し、ざらつく恐怖の色に変わった。
「ボレイ……!? バカな……」
「戦略原潜じゃないか……弾道ミサイルの……!」
一気に緊張が跳ね上がる。
柏木は、全員の動揺を力で押さえ込むように叫んだ。
「落ち着けッ!!」
その一言で、空気が震え、ざらつきが止んだ。
柏木ははっきりと言った。
「そのボレイ型。こそ——我々が護衛する相手だ。」
隊員たちは息を呑んで凍りつく。
理解できない。
理解したくない。
そう言わんばかりの沈黙が広がった。
「……護衛……する……?」
「我々が……あれを……?」
誰もが言葉の意味を測りかねていた。
その時、不意に通信員が顔を上げた。
「副長! 外部回線……入ります!
——呼出符号、艦長です!!」
発令所が揺れた。
「艦長!?」
通信面が開く。
しばらくノイズが続き、その後――
『——こちら真壁だ。聞こえるか、しんりゅう。』
その声は、不思議なほど落ち着いていた。
そして、全員が息を呑む中で続いた。
『これよりこの“艦隊“は戦闘配置につく。
——全乗員、対潜戦・対水上戦ヨーイ。
警戒を厳となせ。』
通信が切れたあと、発令所には深い沈黙が落ちた。
柏木は部下たちへ向け、静かに命じた。
「皆聞いただろう。全員、戦闘配置へつけ。」
その声には迷いがなかった。
しんりゅうの発令所は、静かに、しかし確実に動き始めた。
ーーーーーーー
指定された海域でしんりゅうはひたすら静止していた。
深海の静寂が、時間の感覚すら奪っていく。
その静けさを破ったのは、聴音員の短い叫びだった。
「……外部音っ! ボレイに変化!
——外部扉の開放音を感知!」
発令所がざわめく。
「外部扉……?」
「何をする気だ……?」
それは通常の行動ではなかった。
柏木副長だけが、
その瞬間の意味をすでに知っていた。
だが口を開くより先に——
「っ……高周波!
圧力波……!
——発射音! 複数です!!」
聴音員の報告が発令所を凍りつかせた。
「……何を撃った……?」
「誰に向けてだ……?」
震える声が続いた。
「S……SLBM……
——戦略核ミサイルを発射したものと見られます!!」
発令所の空気が、深海よりも重く沈んだ。
誰も言葉を失ったまま、
ただ水中の向こうで何か巨大なものが
“戻れない未来へ向かって飛んでいった”
その音だけが耳にこびりついていた。
柏木副長は静かに言った。
「……全員、落ち着け。——任務を続ける。」
その声は不思議なほど落ち着いていた。
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同時刻、大阪万博公園――太陽の塔“ 射場“
地中深くに設けられた射出口から、ごく短い、しかし決定的な震動が走った。
次の瞬間、夜空へ向かって一本の“光”が鋭く突き抜ける。
闇を裂いて上昇していく一条の輝き。
——だがそれは、紛れもない核弾頭を搭載した弾道ミサイルの噴射光だった。
その光条は高々度に達すると大気の薄い層で弧を描き、静かに軌道へ乗った。
同じ頃、北極海の黒い水平線からも、しんりゅうが護衛するボレイの弾道ミサイルが幾本も同じように“光の矢”となって放たれていた。
大阪と北極海から同じ瞬間に打ち上がった光の矢は――
意思を持ってその運命に従って飛翔していた。
だが、その光景を捉えた者はいない。
その数十分後。
ロシアの首都、中国の主要都市、戦略核施設、軍司令部、地下サイロ……
それら複数の地点で同時に巨大な“白光”が立ち上った。
大地が波打ち、都市が輪郭を失い、影が焼き付いたまま消える。
民間人は蒸発。軍中枢は一瞬で機能を失った。
——だが奇妙なことに、当事国の軍部はその瞬間を“認識”していなかった。
通信網は沈黙した。だが、爆心地の映像は送られないし報告も上がらない。
誰もこの致命的な攻撃に気づかなかったのだ。
一方で、韓国軍や米軍の監視網は弾道軌道を明確に捉えていた。
—「日本本土、および北極海上空より多弾頭・高高度物体を複数探知」
—「ロシア、中国側の迎撃は……ゼロ?」
米国防総省の分析官は報告書の末尾に一行だけ残している。
“理解はできる。しかし、信じることができない。”




