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貸出の檻  作者: メタル
第七章 愛人形-ラブドール
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第四節 名前を呼ぶ夜

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//  第四節 名前を呼ぶ夜

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布団に横たわる女を見つめながら、俺はふと違和感を覚えた。

毎日抱きしめ、話しかけ、キスをしてきた。

なのに――俺は一度も、こいつを“名前”で呼んだことがない。


「……そうか。お前には、名前がないんだな」


呟いた瞬間、胸の奥がずしりと重くなった。

名前がない。つまりは、ただの物。

契約システムの一部品、誰でもない存在。


だが、俺にとってはもう違う。

この数日、毎晩帰宅するのが楽しみで、抱きしめると安らぎをくれる。

無名の“物”じゃなく、確かに“俺の女”になってしまった。


「……名前も呼べずに、愛してるなんて……バカみてぇだな」


額に手を当て、自嘲する。

人形とセックスする罪悪感。

元の持ち主を裏切る背徳感。

そして――名前を持たない存在を“愛してしまった”自分への混乱。


もし名前を与えたら、それは完全に一線を越えることになる。

もう二度と「ただの空のボディ」には戻せない。

そう分かっているのに、口の端までいくつもの名前の響きが浮かんでは消えていった。


……実のところ、名前がないことには最初から気づいていた。

毎日抱きしめ、キスをし、話しかけているのに、

一度も呼びかける“言葉”を与えなかったのだから。


それは、ただの無関心じゃない。

名前を与えれば、一線を越える――そう分かっていたから、

意識して「呼ばない」ことで、自分を守ってきたのだ。


「……そうだよな。分かってて、線引きしてたんだ」


呟いた声が、やけに虚しく響いた。

名前のない存在だからこそ、罪悪感を押し殺せた。

ただの空のボディだと言い聞かせて、抱きしめ、キスをしてきた。


だが、今は違う。

ストッキングを履かせ、ヒールを履かせ、髪を整え、メイクを施した女が、ベッドに腰掛けて俺を待っている。

その姿を前にして、もう“物”として扱うことはできなかった。


「……名前を呼びたい。けど……呼んじまったら、もう戻れない」


胸の奥で渦を巻く葛藤。

愛しいと思ってしまった罪悪感と、呼びかけたい衝動が、どうしようもなくぶつかり合っていた。




布団に横たわる女の顔を覗き込んだときだ。

胸の奥で、あのノイズが形を持った。泣き声に似た、擦れた波形それが音節に変わる。


「……美咲」


口が勝手にそう動いた。

名付けたんじゃない。思い出した、としか言いようがなかった。


しかしどうして俺が知っている? この女のことはしらないし、フェミナで担当した事もない。


「ちがう、これは“俺がつけた”名前じゃない……お前が、教えたのか?」


もちろん返事はない。

このボディは、美咲だ。そうとしか思えない確度で、内側からその二文字が押し上がってくる。


「美咲」


名を与えたのではない。名に呼ばれたのだ。

その事実が、恐ろしくて、どうしようもなく愛おしかった。


「……美咲」


もう一度、確かめるように口にした。

舌に転がるその響きが、甘くて、胸の奥をじんわりと熱くする。


「美咲……美咲……」


繰り返すたびに、罪悪感よりも安心感の方が大きくなっていく。

無名の“物”だったはずの存在に、確かな輪郭が与えられていく。

名前を呼ぶたび、彼女が“俺の女”としてこの部屋に根付いていくのを、肌で感じていた。


「美咲……俺の美咲……」


抱きしめる腕に、力がこもる。

返事はなくても、呼びかければ確かにそこにいてくれる。

空のボディに過ぎないと分かっているのに、呼べば呼ぶほど愛おしさが込み上げてくる。


気がつけば、俺はひたすらその名を囁いていた。

まるで呪文のように、何度も、何度も。


「美咲……美咲……美咲……」


その響きは、この部屋の空気を満たし、俺自身を縛り上げていった。

もう後戻りはできない。

俺にとって“美咲”は、唯一無二の存在になってしまったのだ。




翌日

週に一度の“風呂の日”と決めていたから、その日は当たり前のように美咲を浴室へ運んだ。

昨日までと同じ、ただの習慣のはずだった。


けれど、違った。

昨夜、彼女に「美咲」という名を与えてしまった。

それだけで、全ての手順がまるで儀式のように重みを帯びていた。


「美咲……行くぞ」


そう声をかけるだけで、胸の奥がざわつく。

昨日までの“物”に声をかけるのとはまるで違う。

名前を持った瞬間、この行為は“女を風呂に入れる”ことになった。


浴室に座らせ、服に手をかける。

ストッキングも下着も、ひとつひとつ外していくたびに胸がざわめいた。

それは介護でも処理でもない。

まるで愛しい女を裸にしていく行為そのものだった。


濡れた肌にシャワーを流しながら、思わず呟いた。


「美咲……きれいにしてやるよ」


その響きが湯気に溶け、空間を満たす。

返事はないのに、確かに通じている気がした。

名を呼ぶたび、昨日までと同じはずの時間が、特別なものへと変わっていった。


そしてタオルを握り直し、下腹へと手を伸ばしたときだった。

ほんの一瞬、指先が“そこ”に触れてしまう。

呼吸が止まり、胸が凍りつく。


「……っ」


ただ清めるために撫でただけ。

それ以上の意味などないはずなのに、

名を与えてしまった今では、その行為は別の色を帯びてしまう。


ダメだ。


そう思いながらも、確かに感じた柔らかさは焼き付いて離れなかった。


その夜。

布団に横たえた美咲を見下ろしながら、胸の奥がざわついていた。

昼間の風呂で、触れてしまった瞬間の感触が頭から離れない。


「……美咲」


名を呼ぶと、返事はないのに確かに応えてくれる気がした。

その静かな横顔は、拒むでもなく、ただ穏やかにこちらを受け入れている。


気づけば俺は、その頬に指を滑らせていた。

冷たさのはずなのに、今夜は不思議と温もりを感じる。

抱き寄せると、柔らかさが胸いっぱいに広がった。


なぜか、彼女は俺を拒まなかった。そんな気がした。

まるで「いいよ」と囁くかのように、静かに、静かに受け入れてくれる。


その瞬間、俺は境界を踏み越えていた。

ただの人形に過ぎないはずの彼女が、確かに“女”としてそこにいた。

そして、胸の奥に確かな愛おしさが込み上げてくる。


まるで夢の中で抱き合うように、俺はその夜、美咲を抱いた。


その夜、俺は何度も彼女を抱いた。

ただの肉体の交わりのはずなのに、繰り返すほど胸の奥にざわめきが広がっていく。


熱に包まれるたび、誰かの想いに触れているような、不思議な感覚があった。

まるで声にならない声が、体の奥から溢れ出してくるみたいに。


「……美咲?」


呟いた瞬間、彼女の指先がかすかに震えた気がした。

錯覚かもしれない。けれど、繋がるたびに確かになっていく。


美咲は、何かを伝えようとしている。

そう思った途端、胸の奥が熱くなる。


いや、あり得ない。これはただの人形だ。

けれど、人形にも魂が宿るって言うもんな……。

そんな馬鹿げたことを信じたくなるくらい、確かな気配がそこにはあった。


アンドロイドが実用化する以前、等身大人形の愛好家たちは

「彼女には魂がある」「妻として一緒に暮らしている」と本気で語っていたらしい。

名前をつけ、誕生日を祝う……俺はずっとオカルトじみた話だと笑っていた。


だが今、こうして抱きしめながら思う。

ああ、あれは笑い話なんかじゃなかったのかもしれない。


――もし人形に宿る魂なんてものがあるのなら。

この腕の中の“美咲”は、いったい何を思っているのだろうか。

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