第四節 名前を呼ぶ夜
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// 第四節 名前を呼ぶ夜
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布団に横たわる女を見つめながら、俺はふと違和感を覚えた。
毎日抱きしめ、話しかけ、キスをしてきた。
なのに――俺は一度も、こいつを“名前”で呼んだことがない。
「……そうか。お前には、名前がないんだな」
呟いた瞬間、胸の奥がずしりと重くなった。
名前がない。つまりは、ただの物。
契約システムの一部品、誰でもない存在。
だが、俺にとってはもう違う。
この数日、毎晩帰宅するのが楽しみで、抱きしめると安らぎをくれる。
無名の“物”じゃなく、確かに“俺の女”になってしまった。
「……名前も呼べずに、愛してるなんて……バカみてぇだな」
額に手を当て、自嘲する。
人形とセックスする罪悪感。
元の持ち主を裏切る背徳感。
そして――名前を持たない存在を“愛してしまった”自分への混乱。
もし名前を与えたら、それは完全に一線を越えることになる。
もう二度と「ただの空のボディ」には戻せない。
そう分かっているのに、口の端までいくつもの名前の響きが浮かんでは消えていった。
……実のところ、名前がないことには最初から気づいていた。
毎日抱きしめ、キスをし、話しかけているのに、
一度も呼びかける“言葉”を与えなかったのだから。
それは、ただの無関心じゃない。
名前を与えれば、一線を越える――そう分かっていたから、
意識して「呼ばない」ことで、自分を守ってきたのだ。
「……そうだよな。分かってて、線引きしてたんだ」
呟いた声が、やけに虚しく響いた。
名前のない存在だからこそ、罪悪感を押し殺せた。
ただの空のボディだと言い聞かせて、抱きしめ、キスをしてきた。
だが、今は違う。
ストッキングを履かせ、ヒールを履かせ、髪を整え、メイクを施した女が、ベッドに腰掛けて俺を待っている。
その姿を前にして、もう“物”として扱うことはできなかった。
「……名前を呼びたい。けど……呼んじまったら、もう戻れない」
胸の奥で渦を巻く葛藤。
愛しいと思ってしまった罪悪感と、呼びかけたい衝動が、どうしようもなくぶつかり合っていた。
布団に横たわる女の顔を覗き込んだときだ。
胸の奥で、あのノイズが形を持った。泣き声に似た、擦れた波形それが音節に変わる。
「……美咲」
口が勝手にそう動いた。
名付けたんじゃない。思い出した、としか言いようがなかった。
しかしどうして俺が知っている? この女のことはしらないし、フェミナで担当した事もない。
「ちがう、これは“俺がつけた”名前じゃない……お前が、教えたのか?」
もちろん返事はない。
このボディは、美咲だ。そうとしか思えない確度で、内側からその二文字が押し上がってくる。
「美咲」
名を与えたのではない。名に呼ばれたのだ。
その事実が、恐ろしくて、どうしようもなく愛おしかった。
「……美咲」
もう一度、確かめるように口にした。
舌に転がるその響きが、甘くて、胸の奥をじんわりと熱くする。
「美咲……美咲……」
繰り返すたびに、罪悪感よりも安心感の方が大きくなっていく。
無名の“物”だったはずの存在に、確かな輪郭が与えられていく。
名前を呼ぶたび、彼女が“俺の女”としてこの部屋に根付いていくのを、肌で感じていた。
「美咲……俺の美咲……」
抱きしめる腕に、力がこもる。
返事はなくても、呼びかければ確かにそこにいてくれる。
空のボディに過ぎないと分かっているのに、呼べば呼ぶほど愛おしさが込み上げてくる。
気がつけば、俺はひたすらその名を囁いていた。
まるで呪文のように、何度も、何度も。
「美咲……美咲……美咲……」
その響きは、この部屋の空気を満たし、俺自身を縛り上げていった。
もう後戻りはできない。
俺にとって“美咲”は、唯一無二の存在になってしまったのだ。
翌日
週に一度の“風呂の日”と決めていたから、その日は当たり前のように美咲を浴室へ運んだ。
昨日までと同じ、ただの習慣のはずだった。
けれど、違った。
昨夜、彼女に「美咲」という名を与えてしまった。
それだけで、全ての手順がまるで儀式のように重みを帯びていた。
「美咲……行くぞ」
そう声をかけるだけで、胸の奥がざわつく。
昨日までの“物”に声をかけるのとはまるで違う。
名前を持った瞬間、この行為は“女を風呂に入れる”ことになった。
浴室に座らせ、服に手をかける。
ストッキングも下着も、ひとつひとつ外していくたびに胸がざわめいた。
それは介護でも処理でもない。
まるで愛しい女を裸にしていく行為そのものだった。
濡れた肌にシャワーを流しながら、思わず呟いた。
「美咲……きれいにしてやるよ」
その響きが湯気に溶け、空間を満たす。
返事はないのに、確かに通じている気がした。
名を呼ぶたび、昨日までと同じはずの時間が、特別なものへと変わっていった。
そしてタオルを握り直し、下腹へと手を伸ばしたときだった。
ほんの一瞬、指先が“そこ”に触れてしまう。
呼吸が止まり、胸が凍りつく。
「……っ」
ただ清めるために撫でただけ。
それ以上の意味などないはずなのに、
名を与えてしまった今では、その行為は別の色を帯びてしまう。
ダメだ。
そう思いながらも、確かに感じた柔らかさは焼き付いて離れなかった。
その夜。
布団に横たえた美咲を見下ろしながら、胸の奥がざわついていた。
昼間の風呂で、触れてしまった瞬間の感触が頭から離れない。
「……美咲」
名を呼ぶと、返事はないのに確かに応えてくれる気がした。
その静かな横顔は、拒むでもなく、ただ穏やかにこちらを受け入れている。
気づけば俺は、その頬に指を滑らせていた。
冷たさのはずなのに、今夜は不思議と温もりを感じる。
抱き寄せると、柔らかさが胸いっぱいに広がった。
なぜか、彼女は俺を拒まなかった。そんな気がした。
まるで「いいよ」と囁くかのように、静かに、静かに受け入れてくれる。
その瞬間、俺は境界を踏み越えていた。
ただの人形に過ぎないはずの彼女が、確かに“女”としてそこにいた。
そして、胸の奥に確かな愛おしさが込み上げてくる。
まるで夢の中で抱き合うように、俺はその夜、美咲を抱いた。
その夜、俺は何度も彼女を抱いた。
ただの肉体の交わりのはずなのに、繰り返すほど胸の奥にざわめきが広がっていく。
熱に包まれるたび、誰かの想いに触れているような、不思議な感覚があった。
まるで声にならない声が、体の奥から溢れ出してくるみたいに。
「……美咲?」
呟いた瞬間、彼女の指先がかすかに震えた気がした。
錯覚かもしれない。けれど、繋がるたびに確かになっていく。
美咲は、何かを伝えようとしている。
そう思った途端、胸の奥が熱くなる。
いや、あり得ない。これはただの人形だ。
けれど、人形にも魂が宿るって言うもんな……。
そんな馬鹿げたことを信じたくなるくらい、確かな気配がそこにはあった。
アンドロイドが実用化する以前、等身大人形の愛好家たちは
「彼女には魂がある」「妻として一緒に暮らしている」と本気で語っていたらしい。
名前をつけ、誕生日を祝う……俺はずっとオカルトじみた話だと笑っていた。
だが今、こうして抱きしめながら思う。
ああ、あれは笑い話なんかじゃなかったのかもしれない。
――もし人形に宿る魂なんてものがあるのなら。
この腕の中の“美咲”は、いったい何を思っているのだろうか。




