第四節 失われた器官、次の呼び出し
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// 第四節 失われた器官、次の呼び出し
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だが夫は動じない。
慌てるどころか、口角を吊り上げて――余裕すら漂わせる、不快な笑みを浮かべた。
「よりによって……咲良の名前でッ! ……そんなの、人間じゃない!」
頬を伝う涙は熱を帯び、嗚咽が喉を締めつける。
それでも言葉は止められなかった。
堰を切ったようにあふれ出し、リビングの空気を震わせる。
「私を……蔑んで……バカにして……踏みにじって……!」
拳がテーブルを打ち据え、皿が甲高い音を立てて跳ね上がる。
転がったコップが床にぶつかり、乾いた音を響かせた。
「どうして……どうして私ばっかり……!」
叫びは裂けた布のように掠れ、痛々しくリビングを満たした。
胸を抉るような息苦しさに、膝が折れそうになる。
それでも私は崩れ落ちまいと、夫を睨み続けた。
夫は缶ビールを無造作に持ち上げ、泡立つ黄金色を喉へ流し込む。
喉仏が上下し、ゴクリと響く音がリビングにやけに大きく反射した。
アルコールの匂いが広がる中、彼は口の端を吊り上げ、挑発するように笑う。
「そういやな。――まあ全部じゃねぇが、一部は回収してやった。結果的に、だいぶ安く遊べたわけだ」
その言葉は冗談の調子を装いながらも、耳に刺さるほど生々しく卑しかった。
涙に濡れた目を見開く美咲。
「……回収?」
夫は声を潜めるどころか、わざと大きく胸を張り、誇らしげに言葉を重ねた。
「お前が貸し出されてる間、俺も“裏”で回したんだよ。知り合いの連中にな」
冗談めかした調子。
理解したくない。
理解してはいけない。
しかし夫は、氷の刃を突き立てるように吐き捨てた。
「つまり――お前、俺の友達に使わせてやったんだ。
金ももらった。儲かったぜ」
――耳の奥で、何かが弾けた。
美咲の喉から、声にならない空気が漏れた。
酸素を求める魚のように口を開閉しながら、ただ震えるしかない。
頭は真っ白に塗り潰され、視界は砂嵐のように揺らめいていた。
――あの七日間。
貸し出された“檻”の中で、自分は夫だけでなく、夫の“知っている男たち”の手にも渡されていた――。
笑い声を上げながらビールをあおる夫の顔が、視界の中心で歪む。
脳裏に広がるのは記憶の空白――七日間の、真っ黒な穴。
そこに浮かぶのは「実際の映像」ではない。
夫の言葉に引きずられ、知らないはずの影が次々と立ち上がる。
何人もの男が、何度も、何度も――美咲の体に触れていく。
記憶ではない。
恐怖と嫌悪が生み出した幻影。
「……だれ……?」
声にならないつぶやきが喉を震わせた。
思い出せない。
だが確かに、自分の知らない男たちに“使われた”のだと、突きつけられていた。
「いや……いやぁっ……!」
私は椅子を蹴るように立ち上がった。
脚は震え、体を支えるのもやっとだった。
それでも夫を睨みつける瞳は、怒りと絶望に爛々と燃えていた。
だが夫は、その視線を愉快げに受け止める。
缶ビールを掲げ、下卑た笑みを深めて言い放った。
「お前のおかげで俺は得した。いい身体してるって、みんな言ってたぜ」
耳を塞ぎたくなる言葉。
そして追い打ちのように――
「いやぁ……お前のどこがいいのか俺には分からねぇけどな。
あいつらは気に入ってたみたいだぜ。“本物の美咲だ”ってよ。
……喜んでたぜ」
夫は口角を吊り上げながら吐き捨てる。
夫は手にしていたスマホを放り投げた。
反射的に受け止めた美咲の指は震え、画面に映る文字を追う。
そこには見慣れぬグループチャット。
だが並ぶアイコンのいくつかは――夫の同僚たちだった。
同僚A
「奥さん、やっぱキレイっすね~」
同僚B
「いや~前から噂でしたけど、ほんとレベル違いましたw」
同僚C
「まさか実際に“お世話”になれるとは……最高でした」
夫
「ハハ、喜んでもらえたなら何よりだ」
同僚A
「ほんと、参加できて光栄です!w」
同僚B
「緊張しましたけど……いや、途中から吹っ飛びましたw」
同僚C
「“本物の奥さん”ってやっぱ違いますね。サービス超えてますよ」
文字の羅列が、凶器のように美咲の目に突き刺さる。
普段は「美人な奥さん」と冗談めかして言われていた言葉が、
今は参加報告として、当たり前の調子で並んでいる。
震える指先からスマホが滑り落ち、床で甲高い音を立てた。
――笑われている。
自分の体が、あざけりの材料にされている。
それは否応なく、現実の証拠として突きつけられていた。
夫は床に転がったスマホを拾い上げ、にやりと口角を吊り上げる。
「友達が送ってきた“傑作”だ。……ほら、よく見とけ」
夫が投げよこしたスマホに、震える指先で目を落とす。
そこに映っていたのは、信じがたい光景だった。
――“私”が、知らない男たちに囲まれ、弄ばれている。
複数の動画が、次々と送り合われていた。
視界が暗転し、膝が床に崩れ落ちる。
涙も声も出ず、美咲の意識は奈落へと引きずり込まれていく。
「佐藤さくら、三十六歳でーす」
軽薄に響く、自分自身の声。
画面の中で笑顔を浮かべる“美咲”は、間抜けなほど舌足らずに首を傾げていた。
背後で、複数の男たちがざわめく。
『奥さんを自由にしていいって、本当っすか?』
『ああ、こいつは“美咲”だけど美咲じゃねぇ。どうせ全部忘れる。
……だから好きに遊んでやれよ』
冗談のように交わされる言葉。
だが耳に刺さるその響きは、背筋を氷の刃でなぞられるように恐ろしく、
目の前の映像が“事実”として突きつけられていく。
「酔っぱらったぁ~……おトイレどこぉ」
映像の中の“私”が、舌をもつれさせて笑いながら甘え声を上げる。
次の瞬間、誰かの下卑た声が響いた。
「ここでやりなよ。ほら、洗面器」
差し出されたのは本来なら台所で使うはずのステンレスの洗面器。
信じられない。だが画面の中の私は、ふらつく足取りのまま、スカートをずり下げ、テーブルの上で腰を落とした。
テーブルの上に腰を下ろした私の姿は、まるで舞台に立たされた見世物のようだった。
本来なら誰にも晒してはいけない場所が、強い照明に照らされて白々しく露わになっている。
だが映像の中の“私”は、それを恥じる様子を見せない。
むしろ笑いながら、酔った声で男たちに軽口を叩き、丸出しの姿を意に介さぬかのように身を揺らしている。
「ほら見ろよ、奥さん堂々としてるじゃん」
「恥ずかしげもなく大公開だなw」
「マジでやんのかよw」
「うわ、すげぇ……こいつノリいいな!」
クスクス笑いが渦を巻く中、甲高い音とともに、濁った水音が広がっていく。
金属の底に跳ねる排泄音は、耳を塞ぎたくなるほど生々しく響いた。
「お前ら見ろよ、泡立ってんぞw」
「え、なにこれ……糖尿なんじゃねーの、おばさんw」
「三十代半ばだろ? そりゃ身体もガタつくわなぁw」
「うわー“おばさん尿”って感じだな!」
下卑た嘲笑が飛び交う。
年齢をあざ笑う言葉が、汚辱よりも鋭く胸を突き刺した。
映像の中の私は、赤らめた顔で笑いながら「やぁん……変態ぁい……」と甘ったるく声を漏らしている。
「おい、こっち向けよ!」
誰かが顎を掴み、汚物の入った洗面器を顔の横に押し当てる。
「ほら、ピースしろ」
映像の中の私は、言われるままに指を立て、吐息混じりに「チーズ」と呟いた。
惨めで、下衆で、絶望的な光景。
その笑顔こそが、何よりもグロテスクだった。
「よーし、喉渇いただろ? ご褒美だ」
「うわ、本気でやらせんのかよw」
男のひとりが、泡立つ液体をコップにすくい上げ、無理やり口元へ押し当てた。
映像の中の“私”は、むせ返りながらも喉を上下させて飲み込んでいく。
「ぷはぁ……おいしぃ……」
頬を赤らめ、笑顔さえ浮かべるその姿。
涙と涎にまみれながら、まるで本物のビールを味わっているかのように振る舞わされていた。
『カンパーイ!』
『最高の地ビールだなw』
『いや、“ババアビール”だろ!』
嘲笑が渦を巻き、画面は大きく揺れて暗転する。
残ったのは、耳を塞ぎたくなるような笑い声だけだった。
爆笑が響く中、画面は揺れ、最後には男たちの下品な笑い声とともに暗転していった。
――叫びたいのに、声が出ない。
現実の私は口を押さえて後ずさり、吐き気を必死に堪えていた。
夫はにやつきながら画面を指差した。
「最後はオスカーもんだぜ」
映像が切り替わる。
知らないリビングのソファ。その中央にいたのは、卑猥な衣装をまとった“私”。
腰をくねらせ、カメラに媚びを売るようにポーズを取っていた。
「やぁん……こんなの、恥ずかしいよぉ……」
――違う。あんな服、自分で選ぶはずがない。
だが映像の中の私は、望んでいるかのように笑っていた。
「なぁ、咲良って、娘の名前だよな?」
画面の男が囁く。
次の瞬間、耳を疑う声が響いた。
私自身の声で――私の口で。
「いいの……この体の持ち主は、自ら“貸し出される”女なんだから。
娘の名前くらい、好きに使えばいいのよ」
――やめて。言わないで。
だが映像の中の私は蕩けた笑顔を浮かべ、男の腕に絡みつきながら囁いた。
「ねぇ……咲良って呼んで……」
頭の奥が割れるように痛む。覚えていない。記憶は一切ない。
けれど確かに、そこに映っているのは“私”自身だった。
カメラが引くと、複数の男たちが身体に群がり、笑い声が飛び交う。
「ほら、奥さんノリノリじゃん」
「マジで本物だと思えねぇ」
「最高のショーだな」
嘲笑とともに、誰かの手が画面に映り込む。
私の足首を無造作に掴み、力任せに持ち上げた。
だらりと開かされる脚。無様に晒された身体。
カメラがそこへ寄っていく――。
次の瞬間、わずかな光を反射して、脚の隙間から透明とも白濁ともつかぬ滴が落ちていった。
太腿を伝い、床へ吸い込まれていく。
――どれほどの“行為”が繰り返されたのか。
映像は語らない。だが、その一滴が雄弁に物語っていた。
最後に映し出されたのは、涙と涎で濡れた笑顔。
笑っているのか泣いているのか、自分でも分からない顔。
その表情は、人としての尊厳を欠片も残していなかった。
画面はそこで唐突に暗転し、無機質な再生終了のマークだけが浮かび上がる。
私は息を呑み、震える手でスマホを持ち直す。
その下に残されたチャットログが目に入った。
同僚A
「奥さん、マジで凄かったっすね」
同僚B
「本物のさくらちゃんも、きっとすごいんじゃないですか?」
夫
「バカ、まだ7才だぞw」
同僚C
「いやー、将来有望ってやつですよねw」
三行目を読んだ瞬間、美咲の指先からスマホが滑り落ちた。
胸の奥を凍らせる悪寒が全身に走る。
――笑いながら、娘の名までもが汚されていた。
タイムラインをさらに送ると、画面には最新の投稿が浮かび上がった。
夫
「おい、あいつ妊娠してたぞ」
同僚A
「マジかよw 誰の子だ?」
同僚B
「俺じゃないっす。避妊してたしw」
同僚C
「じゃあ俺か? 認知してやってもいいぜw」
夫
「バカ。可哀そうに、もう焼却炉行きだよ」
同僚B
「うわーw 女の子だったら育ててみたかったのに」
軽口の応酬は、まるで居酒屋での与太話のように軽々しく流れていく。
だがその文字列は、美咲の心臓を直接えぐり出す凶器だった。
「……妊娠……? ……私が……?」
喉から漏れた声は、掠れて自分の耳にも届かないほどだった。
意味を理解しようとしても、頭の奥が真っ白に塗り潰されていく。
視界の端が霞み、呼吸が浅くなる。
――私が妊娠していた?
でも、そんなこと……。
膝が崩れ、スマホが床へと落ちる。
乾いた衝撃音と同時に、美咲の胸は張り裂けるように痛んだ。
胃の奥から吐き気がせり上がり、呼吸が途切れる。
絶望は鋭い刃のように、全身を切り裂いていった。
ふと目に入ったのは、充電器に差したままの自分の端末。
通知ランプが不気味に点滅を繰り返していた。
震える手でそれを取り上げ、画面を開いた。受信ボックスにはセンターからの未読メールが二件並んでいた。
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件名:【ご利用完了のお知らせ】
本文:
このたびは当センターのレンタルサービスをご利用いただきありがとうございました。
以下の通り、当該個体の処置を実施のうえ、返却を完了しております。
・貸出前検査にて妊娠反応は陰性を確認済み。
しかし貸出期間中に妊娠反応を検出。契約条項に基づき、貸出中の妊娠は堕胎処置対象となります。
保険適用処置として、外科的堕胎手術ではなく「子宮クローン交換」を実施いたしました。
・直腸に異物挿入による裂傷を確認。自己クローン組織を用いて復元処置を実施。
・乳首の切除を確認。自己クローン組織により修復を行いました。
※切除部位が後日発見された場合は、速やかに当センターまでご返却ください。
・大腸菌感染を検出。除去処置を行い、正常値まで回復を確認済み。
引き続き安心してご利用ください。
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件名:【貸出報酬入金のお知らせ】
本文:
このたびは当センターのレンタルサービスをご利用いただき、誠にありがとうございました。
以下の通り、貸出契約に基づく報酬をお振込みいたしましたのでご確認ください。
貸出期間:〇月〇日~〇月〇日
入金金額:¥〇〇〇,〇〇〇
振込日 :貸出初日(契約時即日入金)
※入金先:登録口座(佐藤家)
引き続き当センターのサービスをご利用くださいますようお願い申し上げます。
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私は震える指で、センターからの報告文をもう一度読み返した。
――保険適用処置として、外科的堕胎手術ではなく「子宮クローン交換」を実施いたしました。
クローン交換。
たったそれだけの言葉が、胸の奥に冷たい杭のように突き刺さる。
確かに今の体には“子宮”がある。
医学的にも、機能的にも、何ひとつ欠けてはいないのだろう。
けれど――それは「私の子宮」ではなかった。
母から受け継ぎ、娘へと繋げるはずだったもの。
本来なら命のバトンとなるはずの器官は断ち切られ、
今埋め込まれているのはただのコピー品。
体の空洞は塞がれているのに、心の奥にはぽっかりと穴が空いたまま。
息を吸い込むたびに、その偽物の器が自分の中で冷たく軋むような感覚がする。
「……これで……私……」
声は震え、言葉の先は喉で潰れた。
もう“本物の自分の子”を宿すことはできない――。
そう思った瞬間、美咲を支えていた世界は音もなく崩れ去った。
頭の奥に、これまで見せつけられた映像の断片が次々と蘇る。
――全部、私。
笑って、喘いで、娘の名前を欲しがって。
そして最後には……快楽に沈み切った私がいた。
現実と虚像が混ざり合い、境界が溶けていく。
どちらが本当の自分なのか分からない。
「……やめて……もう、やめてよ……」
震える声が漏れる。だが夫はソファに深くもたれ、観客のように面白そうに眺めているだけだった。
涙が頬を伝い、汗と混じって視界を曇らせる。
息が荒くなり、胸の奥で心臓が暴れ回る。
その鼓動が頭蓋骨の内側に響き、痛みに変わっていった。
――これは夢じゃない。
現実だ。
私の体が、私を裏切った。
そして夫が、それを誇らしげに突きつけてきた。
立ち上がろうとしても足が震え、膝から力が抜ける。
リビングの床に崩れ落ちたまま、声にならない嗚咽だけが漏れ続けた。
その時――。
スマホが震え、テーブルの上で短い通知音を立てる。
光る画面には、無機質な差出人名が表示されていた。
――センター管理局。
開いたメールに並んでいたのは、淡々とした一文だけ。
【呼び出し通知】
次回の利用日が確定しました。
詳細は当日まで非公開となります。
感情を欠いたその文字列は、逆に胸を締めつけた。
――次がある。
それだけは確定しているのだ。
スマホを持つ手が震える。
呼吸もままならない私を見て、夫がにやりと口角を吊り上げた。
「へっ、良かったじゃねぇか。
次は金持ちにレンタルされて、たっぷり儲けてこいよ、美咲」
耳を疑うような軽薄な声が、リビングに響き渡る。
その何気なさこそが、残酷の極みだった。




