第三節 家の匂い、崩れる日常
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// 第三節 家の匂い、崩れる日常
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小部屋を出る頃には、美咲の胸に妙な高揚感が残っていた。
スクリーンに流れていた「幸福な貸出の一例」の映像が、頭の奥に焼き付いていたのだ。
笑顔で暮らす女。
子どもと手を取り合い、穏やかに微笑む姿。
――なぜか、自分も同じように扱われてきたのだと信じていた。
気付けば、そう思い込んでいる自分がいた。
疑うことなく、自然に。
その余韻のまま、足取りは軽く、自宅の玄関に立つ。
鍵を回し、ドアを押し開けた瞬間――
むっとした湿気と油の焦げた匂いが鼻を突いた。
換気されぬまま閉じ込められた空気は、酸っぱく濁っている。
古い揚げ物の残り香に、台所の排水口から上がる臭気が混じり合って。
キッチンに目をやると、鍋の蓋は半ばずれ落ち、油膜の張った汁が縁を伝ってこびりついていた。
流しには洗われていない茶碗やコップが幾重にも重なり、その底に溜まった水は薄く濁っている。
その中に、ひときわ小さなプラスチックのコップが混じっていた。
娘の咲良が朝、牛乳を飲んで学校へ行ったときに使ったものだ。
口縁にはまだ白い筋が乾きかけに残っていて、思わず胸が締めつけられる。
(……こんな空気の中で、咲良が過ごしていたなんて)
一瞬、センターで見せられた“幸福な女”の映像が頭をかすめる。
清潔な台所、整った食卓。
――ほんの数時間前まで、自分も同じ光景を生きていたと錯覚していた。
「……はぁ」
ため息をつきながら、袖口を気にしつつ食卓の皿を片づけ始める。
「お、帰ったか」
リビングに腰を下ろしたまま、夫がテレビから目を離さず声をかけてきた。
「咲良、晩飯、早く作れよ」
――咲良は娘の名前。
「……え?」
思わず手を止め、振り返る。
だが夫はテレビに釘付けのまま、当然のように言葉を繰り返した。
(……疲れてるのね。ただの言い間違い……)
自分にそう言い聞かせ、皿を流しへ運ぶ。
わざと気にしないふりをしなければ、胸の奥で何かがひび割れそうだった。
「咲良、茶碗も片づけといてくれよ」
また、娘の名前。
けれどリビングにいるのは、夫と私――美咲だけ。
手の中の茶碗ががちりと鳴った。
振り返った私は、つい声を荒げていた。
「いい加減にしてよ! 私の名前くらい、間違わないで!!」
夫はきょとんとした顔でビールのグラスを傾ける。
その態度が余計に胸を抉った。
(……センターの映像で見せられた女たちは、笑っていた。
貸し出されていたときの方が、今よりもマシな生活だったのかもしれない……)
自分でも気づかぬうちに、そんな思い込みが芽生えていた。
「貸し出されている間はね、もっといい生活だったはずよ。
帰ってきた途端これよ、もううんざり」
吐き捨てるように言った言葉に、返事はない。
リビングにはテレビの音だけが流れていた。
数秒後、夫はようやくこちらを見て、にやりと口角を上げる。
「……なぁ。さくらちゃん、俺の子、妊娠してないよなぁ?」
その言葉に息が止まった。
茶碗を握る手が、わずかに震える。
「ど、どういうこと……?」
夫は笑みを深めると、手にしていたスマホをテーブルに放り投げた。
硬い音を立てて滑った画面には、冷たい通知の文字列が浮かんでいる。
――【国民庁 母体管理センター】電子通知。
「処置完了報告(契約貸出後妊娠対応)」
無機質な件名が、突き刺さるように視界へ飛び込んできた。
胸の奥で心臓が強く鳴り、呼吸が浅くなる。
震える視線で、次の文字を追った。
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【国民庁 母体管理センター 電子通知】
件名:処置完了報告(契約貸出後妊娠対応)
契約ID:MSK-1989-0612
貸出名義:咲良
貸出台帳区分:一般貸出(7日間)
診断結果:妊娠反応 陽性(判定日:貸出6日目)
処置内容:クローンによる子宮全交換処置(胎児焼却処分)
実施日時:08/15 14:32
※本処置は「母体管理制度 第17条」および当該貸出契約規定に基づき、速やかかつ適正に執行されました。
※貸出期間中に発生した妊娠については、「母体保護管理法(母体資源適正化推進)」のもと、妊娠を継続することは認められていません。
※胎児の引き渡しは契約上行われません(最終処分済)。
※本通知は契約者および被貸出者端末に同時送信されています。
―― 国民庁 母体管理センター
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「……え?」
思わず顔を上げる。
(また……あの人、女をレンタルなんてして……?
しかも咲良の名前で? どうして……?)
喉が震え、怒りとも混乱ともつかない声がこぼれた。
「ちょっと待ってよ。これ、あなたがまた女を借りたってことでしょ?
なんで咲良の名前で? ……それに、妊娠って、どういう意味よ?」
夫は返事の代わりに、くっくっと笑いながらスマホを操作した。
次の瞬間、画面に動画が再生される。
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一本目――
ピンポーン、とインターホンの電子音。
動画は、見慣れた我が家の玄関から始まっていた。
ドアを開けると、そこに立っていたのは――私と同じ顔をした女。
だがぴちぴちのタンクトップにミニスカート、濃すぎる化粧。
鏡の中の“私”とは似ても似つかない、若作りで滑稽な姿だった。
「佐藤さくら、三十六歳でーす」
「おデブで冴えないおばさんですけど、なんでもご奉仕するのでよろしくお願いしまぁす」
間延びした声と、わざとらしい自己紹介。
見ているだけで、胃の奥がざわついた。
場面はリビングへと切り替わる。
ソファに並んで座るのは――私と、夫。
けれど画面の中の“私”は、間抜けなほど甘ったるい笑みを浮かべ、首を傾けていた。
『ねぇ、さくらって、娘さんと私、同じ名前なんだぁ?
でもねぇ……わ・た・し・の方が、かわいいでしょ?』
女は夫の胸にぴたりと身を押しつけ、頬をすり寄せる。
尖らせた唇で「ちゅっ」と音を立て、子供のように甘える仕草を繰り返していた。
夫の笑い声が映像に重なる。
『そうそう、やっぱり“さくら”が一番だな』
その一言に女は歓声を上げ、頬を赤らめながら夫に身をすり寄せる。
無邪気に、鼻先を擦りつけて。
「……ふざけ、て……」
思わず声が漏れた。
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二本目――
動画が切り替わる。
そこに映っていたのは、信じられない姿の“私”だった。
肌を大きくさらし、網タイツに吊り紐。胸元は不自然に隠されたまま――下品としか言いようのない衣装。
その格好のまま、娘の部屋へと入っていく。
「ほら、さくらちゃぁん。もう寝る時間よ」
布団の中、小さな体が顔だけを覗かせる。
幼い娘は無邪気に笑い、こう言った。
「ママ、今日のお洋服……かわいいね」
もちろん、彼女には卑猥な衣装の意味は分からない。
その言葉に、”映像の中の私は”はぺろりと舌を出し、背後にいる夫へと振り向いた。
「だって~、さくらちゃんが可愛いって!! ねぇ、聞いた? 私の方が可愛いってことよねぇ?」
夫の笑い声が、画面の中で混じり合う。
娘は意味を分からないまま、笑いに釣られて「うん、ママかわいい」と言う。
――次の瞬間、場面が切り替わる。
同じ衣装のまま、女は床に額を押しつけていた。
泣きじゃくり、髪を振り乱しながら、必死に謝っている。
『ごめんなさい……ごめんなさい……! さくらちゃんのママ、ごめんなさぁい……!』
額を擦りつけるようにして繰り返される謝罪。
だが口元は、涙に濡れているはずなのに――どこか笑っているようにさえ見えた。
『だってぇ……旦那さん、奪っちゃったんだもん……ごめんなさぁい……でも、もう返せないの……』
泣き声にまぎれて漂う、甘ったるい声音。
頭を下げながらも、腰はいやらしく夫に擦り寄っている。
背後から、夫の下卑た笑い声。
『おう、ちゃんと謝っとけ。お前はもう“こっち側”なんだからよ』
画面の中の“私”は、嗚咽まじりに必死で繰り返す。
『ごめんなさい……ごめんなさい……旦那さん、奪っちゃってごめんなさぁい……!』
その謝罪の響きは――懺悔ではなく、媚びと快楽の宣言にしか聞こえなかった。
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リビングの照明は白々しく、食後の皿が片付けられぬままテーブルに散らばっていた。
冷めた味噌汁の匂いと、電子機器の熱気が、空気を重く押しつぶす。
喉の奥から吐き気がせり上がる。
胃の底に沈んだ黒い塊が逆流し、拳は震え、爪が掌を切り裂き、血がにじむ。
「……私を……売った金で……」
声が自然と漏れた。
――フェミナに支払う利用料は高額だ。
夫の稼ぎでは到底まかなえない。
つまり、今この映像に映る“私”は……私自身が貸し出された対価で買われた存在。
売られて、得た金で、また買われて。
ぐるぐると回る歪んだ循環の中に閉じ込められていた。
夫が顔を上げるより早く、私は拳を握り込んだ。
「私を売った金で……私を買ったっていうの!?」
叫びは壁に反響し、リビング全体を震わせた。




