第二節 処置の部屋、返却ポッド
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// 第二節 処置の部屋、返却ポッド
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係員に案内され、無機質な廊下を歩く。
壁には「女性の未来を応援します」と書かれた標語ポスターがいくつも貼られていたが、どれも角がめくれ、色あせている。
そこには誰も目を向けず、ただ形だけが残されているようだった。
利用前の説明を受けた、明るく整えられたカウンセリング室の光景が、美咲の脳裏にふと浮かぶ。
あのときは「国の制度だから安心してください」と、柔らかな言葉で繰り返し告げられた。
観葉植物と落ち着いた照明に囲まれた、あの空間。
――だが、いま歩いているこの廊下には、その面影はひとかけらもなかった。
足取りが重くなる。胸の奥で、「やっぱりやめたい」という声が、かすかに震えながら響く。
だが同時に、娘の姿が浮かぶ。学用品、給食費、習い事。
どれも、夫の給料だけでは到底まかなえない現実。
「戻る場所は、もうない」
そう自分に言い聞かせながら、私は目を伏せた。
やがて、先を歩いていた係員が立ち止まり、冷たい声で告げた。
「――こちらです」
ドアが開いた瞬間、私は息を呑んだ。
そこに広がっていたのは、かつてカウンセリングで通された明るい部屋とは正反対の空間。
白い無機質な壁に囲まれた小部屋。
中央には金属製の簡素なベッドが一台だけ置かれている。
床も壁も薬品で磨き上げられたように明るく、汚れひとつ見当たらない。
清潔――だが、そこに温かさはなく、ただ冷たい空気だけが漂っていた。
ここは人を休ませるための部屋ではない。
外科的な処理を行うためだけに整えられた“現場”。
壁際には、用途の分からない器具や装置がずらりと並んでいる。
銀色に光る器具、透明なチューブ、無機質な計器。
名前も意味も分からないものばかりなのに、ただ存在するだけで胸を圧迫するような恐怖を呼び起こした。
差し出された端末の画面に浮かんでいるのは、私の名前ではなく無機質な数字。
「345876」――ただの番号の羅列。
「最終確認です」
そう言われ、生体認証を求められる。指先を端末に乗せると、冷たい光が指紋をなぞっていった。
本来なら「一か月」と記していた覚悟。
だがカウンセリングで告げられたのは「初回は一週間のみ」という事務的な説明だった。
そのときは、思ったより短いと安堵すら覚えた。
――けれど今、この部屋を前にすると、その一週間が果てしなく長く思える。
娘の未来のため。
そう言い聞かせるしかなかった。
「認証確認。三四五八七六番、――貸出開始」
その声を耳にした瞬間、胸の奥に冷たい氷が広がっていく。
これからの一週間。たった七日。
どんな男のもとへ送られるのだろう。
一週間の貸出しは決して安くはない。
きっとそれなりに金を持つ大人の男。
夫と暮らすよりも穏やかで、贅沢で、優しく扱われるのかもしれない。
あの狭いアパートよりも、広く清潔な部屋で、食事に困らず過ごせるのかもしれない。
――ほんのわずかな希望が、頭をかすめた。
だが同時に、それは甘すぎる幻想ではないか、と冷えた声が囁く。
一週間という時間が、どれほど体と心を削るのか。
思い描こうとするたび、暗い影がその希望をかき消していく。
それでも私は目を閉じ、心の奥で繰り返した。
「娘のため。戻る場所なんて、もうないのだから」
冷たい音声が終わるのと同時に、視界がふっと暗く沈む。
――次の瞬間。
「……お疲れ様でした。終了です」
聞き慣れない声に意識が浮上する。
まぶたを開いた瞬間、目の前に広がったのは、狭い透明な壁。
私は、細長い装置の中に収められていた。
肌にはまだ、ぬるりとした液体の感触がまとわりついている。
透明な液体が底にわずかに残り、呼吸するたびに微かに揺れた。
――返却ポッド。
そう理解したとき、背筋がぞくりとした。
内側から見える世界は、淡い照明に照らされた無機質な天井。
密閉された空間は息苦しく、まるで“処理を終えた商品”として並べられている錯覚に陥る。
やがて、装置の蓋が静かに開き、冷たい外気が頬を撫でた。
私は無意識に身をすくめ、震える腕で胸を覆った。
だが係員の目は一切揺れず、ただ事務的に確認する視線が向けられるだけだった。
立ち上がると、全身が鉛のように重い。
関節はぎしぎしと軋み、喉はひどく乾いていた。
下腹部には鈍い痛みがじんじんと残り、何度も繰り返し踏みにじられた痕跡を主張している。
鏡の前に立つ。
首筋の赤い痕も、胸元の擦り傷も――処置を受けた後のように“消えかけている”。
皮膚は不自然なほど滑らかで、まるで表面を塗り直されたかのようだった。
だが、消毒液の匂いがまだ肌にまとわりついている。
上辺だけ整えられ、その下にもっと深い爪痕が隠されている――そんな直感が胸を締めつける。
ふと、髪が視界にかかる。
――妙に艶やかで、触れた感触がいつもの自分と違う。
鏡越しに見る色合いも、不自然に均一で作り物めいていた。
(……私の髪、こんなだった?)
係員は淡々と端末を操作し、診断結果を差し出した。
「妊娠反応、陰性。性病検査、すべて陰性。皮膚・粘膜損傷、修復済み。問題は残っていません」
“問題は残っていません”――その言い回しに、私は微かな引っかかりを覚えた。
残っていない、ということは、かつて“問題”があったのではないか。
だが、その疑問は声になる前に喉へ沈んでいった。
係員が鏡越しに近づき、無表情のまま胸元の赤みを指先で示す
「皮膚損傷、修復済み」
続けて太腿に視線を移し、わずかに首を傾げただけで端末に記録を打ち込む。
私は反射的に腕で体を覆った。
だが彼の目には羞恥など存在せず、ただ“検査対象を確認する手順”でしかなかった。
確認作業がひと段落つくと、係員の指示に従い、さらに奥の小部屋へと進む。
そこには簡素なシャワーブースと、更衣用の小さなベンチが置かれていた。
机の上には、貸出前に自分が着てきた服が一式、きちんと畳まれて並べられている。
「こちらで、体を清めてからお着替えください」
係員の声は事務的だった。
私は無言でシャワーブースに入り、水を浴びる。
肌に残っていたぬるりとした液体が、流れ落ちていく。
だが、それ以上に――言葉にできない、何か気持ちの悪いものが洗い落とされていくような感覚があった。
どれだけ流しても、完全には消えない痕跡。
背筋を震わせながら、私は鏡に向かう。
曇った鏡の中で、滴を伝う自分の裸身が映る。
「……何を、されていたの……?」
問いかけても答えは返ってこない。
滑らかに修復された皮膚と、どこか不自然な艶を帯びた髪が、ただ黙って事実を示しているだけだった。
用意されていた服に袖を通す。
布の感触に、ふと違和感を覚えた。
――よく考えてみれば、貸出処理のとき、自分は服を着たままだったはずだ。
つまり、処理の最中に誰かの手で脱がされ、また畳まれてここに置かれたのだ。
想像しただけで、胸の奥が冷たくなる。
机の上に置かれていた下着に目をやった瞬間、胸がきゅっと縮んだ。
布地には、日常の中で誰にでもついてしまうような薄い汚れが残っている。
それ自体は特別なものではない。
だが――それを自分で脱いだのではなく、誰かの手によって脱がされ、畳まれてここに置かれたのだ。
その事実を思っただけで、顔から火が出そうになる。
(……こんなものまで、見られてしまったんだ)
自分の一番個人的で、隠しておきたい部分。
そこに無遠慮に手が触れ、覗き込まれたかもしれない。
ただそれだけで、胸の奥にどうしようもない羞恥が広がった。
次回は、新しいものを用意してこよう。
そう思わずにはいられなかった。
センターを出る直前、白い間仕切りの小部屋に案内された。
入口には「帰宅前確認」と書かれた札がかかっている。
中に置かれた端末のスクリーンには、他の利用者の“記録映像”が映し出されていた。
そこには、笑顔を浮かべる女性や、子どもと穏やかに遊ぶ姿が並んでいる。
「こちらは、一般貸出の一例です」
係官の声は事務的だったが、画面に流れる幸福そうな場面は、不思議と胸の緊張を緩ませた。
カウンターの上には、預けていたバッグや財布が並べられている。
「ご確認ください」
事務官の言葉にうなずきながら、私は手荷物を受け取った。
バッグの奥からスマホを取り出し、指紋認証に指を置く
……反応がない。画面は真っ黒のまま。
一瞬、故障かと眉をひそめたそのとき――
「スマホの電源、切っていました?」
横にいた係員が、淡々とした口調で声をかけてきた。
「最初の方はよく忘れられるんですよー」
軽い調子でそう言うと、事務的に付け加える。
「次回からは電源を切っておくか、起動しておきたいのであれば有料の電源サービスをご利用ください」
私は小さくうなずくしかなかった。
ほんの生活のアドバイスのように告げられただけなのに、胸の奥に冷たいものが広がっていった。
小部屋を出る頃、胸に残っていたのは――
“一区切りついた”という、わずかな安堵だけだった。
だがその安堵すら、本当に自分のものなのか。
そう問いかける声が、かすかに胸の奥で響いていた。




