第四節 娯楽にされた名前
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// 第四節 娯楽にされた名前
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スーパーを出ても、胸の鼓動は収まらなかった。
忘れられるはずなのに、忘れられない。
記憶に残らないはずの熱が、皮膚の奥にまだ焼きついている。
その残滓の恐怖を抱えたまま帰宅すると、夫はいつものようにソファに寝転び、だらしなくテレビを眺めていた。
呑気な笑い声が流れるバラエティ番組と、私の胸のざわめきが、あまりにかけ離れている。
私は靴を脱ぐ間も惜しんで、夫に詰め寄った。
「ねえ……あなた、本当に、何とも思わないの?」
夫がちらりとこちらを見る。
「は? 何がだよ」
「私が……体を売るのよ。知らない男に抱かれて……それでも平気なの?」
声が震え、涙がにじむ。
夫は眉をひそめることもなく、リモコンをいじりながら平然と答えた。
「……それで金が出るなら、俺は構わない。
むしろ反対する理由なんかあるか?」
その無機質な言葉に、胸がえぐられるように痛んだ。
けれど夫はさらに、鼻で笑って付け加えた。
「ていうかよ……お前の体が売れるなんて驚きだろ。
鏡見たことあるのか? シワだらけでくたびれた三十女だぞ」
夫は鼻で笑い、リモコンをテーブルに放り出した。
「まぁ、人にもよるけどな。……お前のママ友な。
あの人は乳も大きいし、肌もまだ張りがあったな」
「……なんで、そんなこと知ってるの?」
思わず声が裏返る。
夫はにやつきながらポケットからスマホを取り出し、画面をこちらに突きつけた。
フェミナのアプリ――そこにはレンタル履歴がひとつだけ残っていた。
「ほら、見ろよ。たまたまリストに顔が出てきてな。……見知った女が並んでたら、試したくなるだろ?」
画面には“真紀”という登録名とともに、見慣れた顔写真が映っていた。
――スーパーで笑っていた、あのママ友の顔。
頭が真っ白になる。
「……嘘……でしょ」
夫は下卑た笑いを浮かべ、さらりと言った。
「そういやさ……お前が何日か家を空けてた時あったろ? あの時だよ」
心臓が止まりそうになった。
「泊まり込みでレンタルしたんだ。便利だよな、あの制度。
……お前のベッドで真紀を寝かせて、俺は隣で「新婚ごっこ」してやった」
血の気が引く。息が詰まる。
夫はさらににやりと笑った。
「お前の服も着せたぜ。動画も撮った。“結婚しましたぁ”とか“美咲さんさようなら~”とか言わせてな。
『さくらちゃんのママごめんなさい』ってな」
世界がぐらりと揺れた。
――私が必死に生活をつなごうとしていた間、
この男は、私の家で、別の女に私の服を着せて――私の名前を弄んでいた。
吐き気と怒りと絶望が渦巻き、全身が震える。
夫の下卑た笑みを見ながら、胸の奥で何かが爆ぜた。
――私は追い詰められて、貸出登録をした。
娘を育てるため、生活をつなぐため。
そうするしかないと思って。
なのに。
この男は、大切な金で女を買っていた。
しかもよりによってママ友を。
そんなお金はなかったはずだから娘の補助金にでも手をつけていたのだろう。
「……ふざけないで」
震える声が喉から漏れた。
「こんなに必死にやってるのに……!
娘のお金で、あんたは女を抱いてたの?」
夫は鼻で笑った。
「だから何だよ。俺だってストレスを溜めているんだ息抜きも必要だろ?」
夫は肩をすくめ、さらに追い打ちをかける。
「記憶は消えるって話だから安心だろ? どうせ終われば誰も覚えちゃいない。
だから俺は、“ママ友ごっこ”ってことで呼ばせてやったんだ。
背徳感ってやつだな」
夫はにやりと笑った。
「そういやさ……あの女、「真紀」って名前になってたな」
「美咲さんに悪いです、ごめんなさいぃ」って言わせてやったぜ。
お前の名前を泣きながら叫ばせると、背徳感が最高なんだよ」
血の気が引く。吐き気が込み上げる。
「赤ちゃん欲しい、でも家は大変だから美咲さんにあげなきゃ……ってな。
真紀って女、自分でも何言ってんのか分かってなかったろうが、
あの必死な顔は笑えたぜ」
夫は下卑た笑いをこぼす。
「お前の大事なママ友、俺は散々使ってやった。
……普段、スーパーで値引きシール探してるただのおばさんをな」
頭が真っ白になる。
――あの檻で私を抱きしめ、狂気のように名を呼んだ“真紀”。
その唯一の熱を、こいつはただの娯楽にして踏みにじった。
夫は肩をすくめ、わざとらしく笑った。
「家はこれ以上子どもが出来たら生活できないだろ?
だから俺は手ぇ出さなかったんだ。“家族のため”にな」
その声に、胸が焼けるように痛んだ。
夫はさらに顔を近づけ、にやりと笑った。
「でもレンタルは別だ。あれは妊娠しねぇからな。
安心してやりたい放題できる。
……お前のママ友に“美咲さんごめんなさいぃ”って言わせながらな」
血の気が引く。吐き気がこみ上げる。
――私は追い詰められて貸出登録をした。
娘の未来を守るために、自分を削ってもそうするしかなかったのに。
この男は、その裏で、知人の体を好き勝手に弄んでいた。
怒りと嫌悪で視界が滲む。
「……最低」
声が震えた。
それでも夫は、何事もなかったようにソファに沈み、テレビの音に笑みを浮かべていた。
私の怒りも涙も、画面の中の笑い声より軽いものだと言わんばかりに。
そのとき、端末が短く震えた。
画面には「フェミナ・ライフサポート」からの通知。
――貸出登録、初回スケジュール確定のお知らせ。
胸の奥が冷たく締めつけられる。
いよいよ、始まってしまう。
隣でそれを覗き込んだ夫が、ふっと口の端を吊り上げた。
その笑みに、私は胸の奥がざらりとした。
――きっと、金が入ることが嬉しいのだろう。
私のことよりも、生活費の計算だけをしているのだ。




