第三節 真紀は、いない
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// 第三節 真紀は、いない
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数日後、娘を連れてスーパーに行った。
棚には真空パックされた野菜や調味料、栄養補助ゼリーが整然と並んでいる。
人が生きるのに必要な最低限。
それでも人は、こうして生きていけるのだ。
「美咲さん?」
背後から呼びかけられて振り向くと、スーパーの蛍光灯の下に“いつものママ友”が立っていた。
学校行事や井戸端会議で顔を合わせ、当たり障りのない会話を交わす、ごく普通の母親仲間。
――けれど昨日。
フェミナの事務所で、レンタルの画面に映った“真紀”という名の女性を選んだとき、
そこにあったのは間違いなく彼女の顔だった。
衝動のように指を滑らせ、一時間だけ彼女を借りた。
そして、あの狭い檻の中で、互いの体をむさぼるように抱き合った。
理性も日常も消え、ただ必死に熱をぶつけ合った。
今、笑顔で手を振っているのは――その“彼女”。
昨日は「真紀」として私を求め、今は何も知らない顔で日常に立っている。
思わず、口から零れた。
「……真紀」
けれど、声はあっけなく空を切った。
相手は怪訝そうに眉を寄せる。
「え? 誰のこと?」
そこに立っていたのは――ただの主婦だった。
買い物かごには配給引換のパック、値引きシールのついた肉。
笑えば皺が寄り、生活に疲れた目をしている。
どこにでもいる“おばさん”の姿。
けれど昨日、その“普通のおばさん”が――主婦が、女になって私を求めてきた。
ロボットでも、クローンでも決して味わえない。
恐ろしいほど生々しく、抗えないまでの熱。
フェミナの仕組みが生み出す価値を、私は否が応でも体験させられてしまったのだ。
だが――その“真紀”は、この世界には存在しない。
目の前にいるのは、昨日の記憶を何ひとつ持たないただの主婦。
狂おしいまでの熱を共有したはずの彼女は、現実には「いなかった」ことになっている。
「……もう、いないんだ」
失った感覚の残滓だけが、私の体にこびりついている。
商品としての価値を理解したその瞬間、
愛しいはずの相手を永遠に失った喪失感に押し潰されそうになった。
――けれど。
彼女が何も覚えていないなら、私もきっと忘れていける。
そう思った刹那、ほんの少しだけ安堵が胸をよぎる。
……なのに。
指先に爪の痛みが残っている。
唇の奥に、声がこだましている。
私だけが覚えている――そんな錯覚が、背筋を凍らせた。




