第二節 二人の父と“普通の恋”
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// 第二節 二人の父と“普通の恋”
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かつては違った。
私の家庭は、誇れるものだった。
子どもの頃、家の中には温かなものが溢れていた。
笑い声や、食卓の匂い、夜ごと灯る明かり――
どれもが当たり前にそこにあり、私を包んでくれていた。
父がいて、母がいて……いや、正確に言えば――
私には「父」が二人いる。
ひとりは、私が幼い頃に病気で亡くなった実の父。
母と父は仲が良かったらしい。
けれど、私にはその記憶はほとんど残っていない。
小さすぎて、笑顔も声も、もう思い出せないのだ。
ただ、ときどき母が語ってくれた。
「あなたを抱いて散歩するのが大好きだったのよ」
「写真を撮るたびに、笑って目を細めていた」――
そんな断片を聞かされるたびに、存在しないはずの父の姿が胸の奥にやさしく浮かんだ。
もうひとりは――父と呼ぶには少し違うけれど、母の親友であり、やがてパートナーとなった女性。
私にとっては育ての父であり、もうひとりの母でもあった。
その人は女性でありながら会社を経営し、芦屋の山手に大きな家を構えていた。
父を亡くし、失意の中にいた母は、よくその人に話を聞いてもらっていたらしい。
「大きな家にひとりで住んでるし、部屋も余ってる。あなたと美咲ちゃん、一緒に暮らせばいいじゃない」
そんな気軽な提案がきっかけだった。
「仕事が忙しいから、主婦をしてくれると助かる」
そう言われて母はその家に入り、やがて自然に――互いに支え合い、愛し合うようになっていった。
けれど、二人とも最初からそういう指向だったわけではない。
レズビアンだとか特別な関係を望んでいたのではなく、ただ孤独を抱えた者同士が寄り添い合っただけだった。
日々を共にし、弱さを見せ合い、支え合って暮らすうちに――
それはいつしか、名前をつけることのできない愛情へと変わっていったのだ。
外で説明するときは「母とその友人」と言うしかなかったけれど、家の中はいつも温かかった。
二人の母に抱かれて育ったことを、私はむしろ誇りに思っていた。
ちょっと特殊な環境で育った私ではあったが、普通の女の子として成長した。
そして高校時代、放課後は近所に住む幼なじみと一緒に帰るのが習慣だった。
一つ下の彼は、少し子どもっぽさを残しながらも、いつも隣を歩いてくれた。
やがて手をつなぐようになり、その温もりが「普通の恋」を夢見させてくれた。
彼は私の家庭の事情を気にすることなく、自然に接してくれた。
ときには家に遊びに来て、母と育ての父に囲まれ、女三人の視線にドギマギしていたこともあった。
その姿はどこか可愛らしくて、私にとっては誇らしい光景だった。
――特別でも、奇抜でもない。
けれどあの時間こそが、私の「普通の恋」と「普通の家庭」を象徴していたのだ。
「普通の恋ができる」――その実感は、私にとってかけがえのないものだった。
けれど、その“普通”は長くは続かなかった。
高校二年の冬、育ての父が病で倒れた。
母を支えてくれていた存在は、あまりにも早くこの世を去ってしまった。
残されたのは母と私だけ。
さらに追い打ちをかけるように、親族が現れた。
「所詮は他人だから」と言い放ち、家も財産もすべて奪っていったのだ。
母には法的な権利がなく、泣き叫んでもどうにもならなかった。
私たちは尼崎のボロアパートへと移り住んだ。
芦屋の街並みとは比べものにならない狭さと暗さ。
窓から見える景色も、夜に聞こえてくる声も、すべてが違っていた。
母は昼はパート、夜はスナックで働いた。
生活はぎりぎりだったが、家の中はいつも清潔に整えられていた。
母はどんなに疲れていても掃除を怠らなかった。
私はそんな母を誇りに思い、「自分も働いて支えなきゃ」と強く思った。
けれど、その頃には幼なじみとの関係は自然に途切れていた。
彼の家はそれなりに裕福で、当時の私は以前のように同じ遊びが出来る気がしなかった。
お金に余裕のない自分の家から、出かける費用すら気になるようになっていたのだ。
彼はきっとそんなことを気にしないだろう――そう分かっていた。
それでも、なぜか小さなプライドのようなものが邪魔をして、私は連絡を取る勇気さえ持てなかった。
そして高校を卒業する頃、母の体に悪性腫瘍が見つかった。
進行が早く、治療の甲斐もなく、病室で過ごす時間はあっという間に尽きていった。
死の間際、母は震える声で悔やんだ。
「実の父もいなくて……女の人と二人で育てて……お金の苦労まで背負わせて……ごめんね。
もっと普通の家庭で育ててあげたかった」
私は首を振り、母の手を強く握った。
「私は幸せだったよ」――心から、そう思っていた。
その言葉を聞いて、母はわずかに微笑みを浮かべた。
そして静かに息を引き取り、私は完全にひとりになった。
前の学校にいた頃は、大学進学を考えていた。
けれど、この状況ではそんな夢はあっさり消えた。
奨学金を受ければ行けなくもなかったのかもしれない。
けれど、未来を見通せない暮らしの中で、大学はあまりにも遠い世界に思えた。
私には手を伸ばすことさえ許されないもの。
そう思った時点で、未来は閉じていたのだ。
それでも――そんな中でも、小さな幸せは掴んでいたはずだった。
出会った頃の夫は、確かに優しい人だった。
娘が生まれたときには、それなりに幸せな暮らしを築けると信じていた。
たとえ大きな夢はなくても、ささやかな日常を守れるはずだったのだ。
……けれど現実は違った。
夫も、最初からこんな男ではなかった。
地震で実家を失い、戦争で仕事を失い、そこから完全に壊れてしまった。
災害や貧困は、人を修復不可能なところまで変えてしまう――その現実を、私は今、身をもって味わっている。
もし、あの二人の父が生きていてくれたなら。
もし、あの幼なじみにもう一度だけ連絡する勇気を持てていたなら。
何かが違っていたのかもしれない。
そう思うたびに、胸の奥でかすかな痛みが広がるのだった。




