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貸出の檻  作者: メタル
第四章 記憶に残らない罪
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第二節 二人の父と“普通の恋”

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// 第二節 二人の父と“普通の恋”

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かつては違った。

私の家庭は、誇れるものだった。


子どもの頃、家の中には温かなものが溢れていた。

笑い声や、食卓の匂い、夜ごと灯る明かり――

どれもが当たり前にそこにあり、私を包んでくれていた。


父がいて、母がいて……いや、正確に言えば――


私には「父」が二人いる。


ひとりは、私が幼い頃に病気で亡くなった実の父。

母と父は仲が良かったらしい。

けれど、私にはその記憶はほとんど残っていない。

小さすぎて、笑顔も声も、もう思い出せないのだ。


ただ、ときどき母が語ってくれた。

「あなたを抱いて散歩するのが大好きだったのよ」

「写真を撮るたびに、笑って目を細めていた」――

そんな断片を聞かされるたびに、存在しないはずの父の姿が胸の奥にやさしく浮かんだ。


もうひとりは――父と呼ぶには少し違うけれど、母の親友であり、やがてパートナーとなった女性。

私にとっては育ての父であり、もうひとりの母でもあった。


その人は女性でありながら会社を経営し、芦屋の山手に大きな家を構えていた。

父を亡くし、失意の中にいた母は、よくその人に話を聞いてもらっていたらしい。


「大きな家にひとりで住んでるし、部屋も余ってる。あなたと美咲ちゃん、一緒に暮らせばいいじゃない」

そんな気軽な提案がきっかけだった。


「仕事が忙しいから、主婦をしてくれると助かる」

そう言われて母はその家に入り、やがて自然に――互いに支え合い、愛し合うようになっていった。


けれど、二人とも最初からそういう指向だったわけではない。

レズビアンだとか特別な関係を望んでいたのではなく、ただ孤独を抱えた者同士が寄り添い合っただけだった。


日々を共にし、弱さを見せ合い、支え合って暮らすうちに――

それはいつしか、名前をつけることのできない愛情へと変わっていったのだ。


外で説明するときは「母とその友人」と言うしかなかったけれど、家の中はいつも温かかった。

二人の母に抱かれて育ったことを、私はむしろ誇りに思っていた。


ちょっと特殊な環境で育った私ではあったが、普通の女の子として成長した。


そして高校時代、放課後は近所に住む幼なじみと一緒に帰るのが習慣だった。

一つ下の彼は、少し子どもっぽさを残しながらも、いつも隣を歩いてくれた。

やがて手をつなぐようになり、その温もりが「普通の恋」を夢見させてくれた。

彼は私の家庭の事情を気にすることなく、自然に接してくれた。


ときには家に遊びに来て、母と育ての父に囲まれ、女三人の視線にドギマギしていたこともあった。

その姿はどこか可愛らしくて、私にとっては誇らしい光景だった。


――特別でも、奇抜でもない。

けれどあの時間こそが、私の「普通の恋」と「普通の家庭」を象徴していたのだ。


「普通の恋ができる」――その実感は、私にとってかけがえのないものだった。


けれど、その“普通”は長くは続かなかった。


高校二年の冬、育ての父が病で倒れた。

母を支えてくれていた存在は、あまりにも早くこの世を去ってしまった。

残されたのは母と私だけ。


さらに追い打ちをかけるように、親族が現れた。

「所詮は他人だから」と言い放ち、家も財産もすべて奪っていったのだ。

母には法的な権利がなく、泣き叫んでもどうにもならなかった。


私たちは尼崎のボロアパートへと移り住んだ。

芦屋の街並みとは比べものにならない狭さと暗さ。

窓から見える景色も、夜に聞こえてくる声も、すべてが違っていた。


母は昼はパート、夜はスナックで働いた。

生活はぎりぎりだったが、家の中はいつも清潔に整えられていた。

母はどんなに疲れていても掃除を怠らなかった。

私はそんな母を誇りに思い、「自分も働いて支えなきゃ」と強く思った。


けれど、その頃には幼なじみとの関係は自然に途切れていた。

彼の家はそれなりに裕福で、当時の私は以前のように同じ遊びが出来る気がしなかった。

お金に余裕のない自分の家から、出かける費用すら気になるようになっていたのだ。


彼はきっとそんなことを気にしないだろう――そう分かっていた。

それでも、なぜか小さなプライドのようなものが邪魔をして、私は連絡を取る勇気さえ持てなかった。


そして高校を卒業する頃、母の体に悪性腫瘍が見つかった。

進行が早く、治療の甲斐もなく、病室で過ごす時間はあっという間に尽きていった。


死の間際、母は震える声で悔やんだ。

「実の父もいなくて……女の人と二人で育てて……お金の苦労まで背負わせて……ごめんね。

 もっと普通の家庭で育ててあげたかった」


私は首を振り、母の手を強く握った。

「私は幸せだったよ」――心から、そう思っていた。


その言葉を聞いて、母はわずかに微笑みを浮かべた。

そして静かに息を引き取り、私は完全にひとりになった。


前の学校にいた頃は、大学進学を考えていた。

けれど、この状況ではそんな夢はあっさり消えた。

奨学金を受ければ行けなくもなかったのかもしれない。

けれど、未来を見通せない暮らしの中で、大学はあまりにも遠い世界に思えた。


私には手を伸ばすことさえ許されないもの。

そう思った時点で、未来は閉じていたのだ。


それでも――そんな中でも、小さな幸せは掴んでいたはずだった。

出会った頃の夫は、確かに優しい人だった。

娘が生まれたときには、それなりに幸せな暮らしを築けると信じていた。

たとえ大きな夢はなくても、ささやかな日常を守れるはずだったのだ。


……けれど現実は違った。

夫も、最初からこんな男ではなかった。

地震で実家を失い、戦争で仕事を失い、そこから完全に壊れてしまった。

災害や貧困は、人を修復不可能なところまで変えてしまう――その現実を、私は今、身をもって味わっている。


もし、あの二人の父が生きていてくれたなら。

もし、あの幼なじみにもう一度だけ連絡する勇気を持てていたなら。

何かが違っていたのかもしれない。

そう思うたびに、胸の奥でかすかな痛みが広がるのだった。


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