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貸出の檻  作者: メタル
第四章 記憶に残らない罪
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第一節 家を空けます

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// 第一節 家を空けます

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対象者記録

氏名:佐藤 美咲

年齢:36歳

属性:既婚・子持ち(長女7歳)

職業:専業主婦

登録区分:フェミナ・ライフサポート利用者




玄関を開けた瞬間、子どもの声が飛び込んできた。


「ママ!」


駆け寄ってきた小さな体を抱き上げたとき、胸の奥がきゅうと痛む。

ほんの一瞬、目を伏せる。


――今日、ついに登録を済ませてしまった。

「話を聞くだけ」と自分に言い聞かせていたはずだった。

それなのに、流れに呑まれるように端末に指を押し当て、気がつけば契約は完了していた。


しかもその前に……誰にも語れない体験をしてしまった。

胸の奥に刺さったまま抜けない、熱と痛みを伴った記憶。


娘を抱きしめる腕には、うしろめたさがまとわりつく。

それは、目に見えない檻の中へじわじわと押し込まれていく感覚に似ていた。


その夕方。

食卓に並んだのは、いつもと変わらぬ貧しい夕食だった。

大きな缶で買い置きしたスープは、具らしい具もなく、塩気だけが舌に残る。

それでも、我が家ではもう当たり前の味になっていた。


スプーンを置き、私は小さく息を整えた。


「……来週から、時々家を空けます」


金属の触れ合う音が止まる。

夫が眉をひそめ、ゆっくり顔を上げた。


「……時々?」

短く問い返す声。

「どれくらいだよ」


「一か月ぐらいずつ……不定期で」


わずかな沈黙が落ちた。

夫はスプーンを口に運ぶことなく、しばらくじっと私を見ていた。

やがて鼻で笑い、吐き捨てるように言った。


「はあ? 一か月も? ……お前、まさか男でも出来たんじゃないだろうな」


胸の奥がひやりとした。

けれど私は目を逸らさず、小さく首を振った。


「そんなこと、あるわけないでしょ」


夫はふっと口角を上げた。

乾いた笑いがこぼれる。


「……だよなぁ」


わざとらしい笑いを残したまま、夫は冷めかけたスープをすすった。

金属の響きが耳に刺さる。


「……一か月も家を空けるなんて、遊びじゃありえねえな。

 仕事だろ? 住み込みか何かか? ……にしても、何をするつもりなんだか」


そのやりとりを聞いていた娘の箸が、ぴたりと止まった。

大きな瞳が揺れ、震える声が漏れる。


「……ママ、もう帰ってこないの?」


一瞬で空気が凍りついた。


「やだ……やだよママ! 行かないで!」

小さな手が袖を掴み、涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。


胸が締めつけられた。

――離婚。

娘はその言葉を知らなくても、状況を幼いなりに連想してしまったのだ。

その勘違いが、かえって現実の重さを突きつけてくる。


抱きしめてやりたい。

けれど伸ばす前に、夫の声が冷たく割り込んだ。


「……で、家のことはどうすんだよ」


私は視線を落とし、震える唇を動かす。

「他に頼れる人なんていない。……あなたにお願いするしかないでしょ」


乾いた笑いが返ってきた。

「はっ、冗談だろ。俺が家事? 洗濯も、弁当も? そんなこと出来るわけねえ」


「少し工夫すれば――」


「ふざけんな!」

夫の声が一気に荒れる。

「俺にそんな真似できるか!」


子どもの泣き声と、夫婦の怒鳴り声が交錯し、狭い部屋を震わせる。

塩辛いスープの匂いが、余計に息苦しさを増した。


やがて訪れた短い沈黙。

夫は鼻で笑い、視線を逸らしながら吐き捨てる。


「……で? 本当は何する気なんだ」


胸の奥が焼けるように痛んだ。

逃げ場を失った私は、唇をかすかに震わせながら答える。


「……貸出よ」


箸の動きが止まった。

夫が怪訝そうに眉をひそめる。


「……貸出? なんだそれ」


喉の奥がひりついた。

私はしばし迷い、言葉を絞り出す。


「フェミナ・ライフサポート。……聞いたことあるでしょ。あの、たまに流れるCM」


夫の口元に皮肉めいた笑みが浮かんだ。

「なるほどな。……で、体を貸すんだろ。誰か知らん奴に」


その言葉に、胸の奥がひやりと冷えた。

あまりにも軽々しく「体を貸す」と口にされてしまうと、

自分がしようとしていることの重さまで、同じように軽く扱われてしまう気がした。


短い間を置いて、夫は無感情に問いかける。

「……金は、入るのか」


「……生活費に充てられる額は、充分」


「なら文句ねえな」

夫は鼻で笑い、ゼリー状の栄養ブロックをかみ砕いた。

「配給だけじゃ手に入らねえもんも買える。……たまには贅沢できるってわけだ」


まるで何でもないことのように。


子どものすすり泣きがまだ続いていた。

私はスープを見つめ、唇をかすかに噛む。


――自分の身体が、ただの「生活手段」に置き換えられてしまった。

その感覚に胸が締めつけられる。


それなのに、目の前の男は何ひとつ動じない。

反対も、心配も、嫉妬すらもしない。

ただ金の計算だけをして、私を送り出そうとしている。


――どうして、私はこんな場所にまで来てしまったのだろう。

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