海が透明だった頃
海。それは母と同義とされる。その純粋で透明な神様を写したかのような広大な鏡は全ての源として崇められていた。
海は広大な存在で、世界に命を与え、その命を創造神のように放置せず自身によって生きながらえさせた。海に住まう魚やその他海洋生物は、母の中に生まれる生まれながらにして最も近しい神聖な存在であるとされ、海の化身、海の意志を形にした生命とされた。
我々生命が生きるためには必ず海から与えられる水を摂取しなければならない。これは神が与える慈悲であり、一種の信仰である。生まれながらにして海に生かされている我々は必然として海を愛すのだ。
* * *
僕には生まれながらにして海と深く繋がっているらしい。
それは僕以外の村人全員も同様であり、ごく一般的なことだ。だから、何も違和感は持っていなかった。
——あの時までは。
熱い。沸騰した湯に沈められたような衝撃。
皮膚の内側から焼ける痛みが、瞬時に全身を支配した。
ただ直ぐに自分がコケたこと、目の前に水溜りがあったことを思い出し、自分が躓いて着地をしくじり頭から大きな水溜まりに突っ込んだことを理解した。
まずは、激痛が走ったことに驚いた。
幼い頃からウザったいほどに海の偉大さについて教わってきた僕は海に対して少しの信仰心と大きな憧れを抱いてきた。海からの恵と受け取ってきた水は全て毒抜きされていて美味しかった。
そのため、水というものの本来の恐ろしさを知らなかった僕は自分が浸っているのは水ではないなにかであろうと思った。
あまりの痛さに僕は叫んだ。聴覚からの刺激で、触覚からの刺激を上回ろうとする。その努力によって多少、体の痛みは和らいだが、自分のものとは思えない悲惨な声とともに僕の心には深く痛みが刻まれた。
近くにいた母があまりの痛みに動けなくなっている僕を水溜まりから引きあげた。
「大丈夫っ?」
母は大きな声で僕の安否を確認した。
痛みに頭を支配されていた僕は自分の安否を確認する余裕なんて少しもなくただ小さく震えるしか無かった。
それが、海の源たる“本当の水”との初めての出会いだった。
水と源である海にトラウマを抱えた僕は周りから軽蔑の目で見られることになった。
僕は間違えたのだ。村の信仰を甘く見ていた。
道ですれ違うたびに挨拶を交わしていたおじさんは軽蔑の目線のみ送るようになり、おつかいに行くたびに何かおまけをくれた店主は僕のことを無視した。
小さな村だったので噂が広まるのは早く、普段会話のネタもない彼らにとって誰かに対する噂は好物だった。
よく遊んでいた友達とも遊ばなくなった。どうやら親に遊ぶな、と言われたわけではないらしく本人が僕のことを嫌っているらしかった。
少しの過ちのせいで僕の人生は大きく崩れた。おそらく村のみんなは僕に早く儀式を済ませて村を出ていってくれと伝えたいのだろう。
僕に対し村のみんながいくら呆れていたといっても、僕が海への信仰を忘れたわけではないとまだ思っているらしく、海への感謝を伝えるまでは逃してもらえなさそうだった。
強い風が僕の髪を撫でる。広大な砂浜には僕以外誰もおらず、雲ひとつ無い空と、色とりどりな海が地平線まで永遠と続いていた。
小刻みに震える足を必死に押えながら、じっと母と面を合わせる。
みんなは口を揃えて透明な海を美しい表す。だけど僕には、怒り、妬みの感情を飽和限界寸前まで入れ混ぜた液体のように見えた。
僕はあの一件が起因して海を怖がるようになった。
散々海の尊さについて教わっていた僕は唐突に裏切られたことによって海に対して巨大なトラウマを抱えることになった。
そんな僕が何故わざわざ震える体を抑えてまで海と対面しているかというとこの村の儀式の為だ。
この村では他の村よりも一際海に対する信仰が深い。
そのため、成人するときに海そのものを浴びるという儀式があるのだ。
海に対してトラウマを抱える僕にとって心臓を抉り出され切り刻まれることに等しいその儀式はとても恐ろしいものだった。
そんな僕は、あと数ヶ月で15歳を迎えようとしていた。
もちろん、代々伝わる成人の儀式を受けないことは許されない。最悪の場合、追い出されてしまうだろう。村の風習は嫌いだったが、村自体は好きだった僕に選択のよりはなかった。
ただ、儀式に耐えられる希望は限りなく遠い。ただ海と対話を試みるだけでもこんなにも恐ろしい。唐突に雨が降ってきて殺されるのではないかとも思うほどだ。
僕はその後体感5分ほど無心で耐えたのちに帰宅した。達成感はあったが成果はなかった。
あの出来事から二日間。僕は一滴の水も飲んでいなかった。
母親はすぐに僕が水に対し恐怖心を抱いていることに気づき、精一杯の工夫をしてくれた。
ただ、僕が海に対しても得体の知れない恐怖を抱いていると言うことは知らないらしく、あくまでも毒抜き前の水が怖いという認識だった。そのため、僕の飲み水はいつも味がついていた。(あとからこれがジュースと呼ぶことを知る)
水に甘みがあると安心する。あの透明な海とよりかは味覚的に濁るからだ。もちろん、果実を絞って入れるなどは神聖さが失われるとして禁止されている。ただ、砂糖は毒抜きの延長線上で例外らしい。そのため僕は干からびずに済んでいた。
村長の息子が成人の試練を早くも13歳で乗り越えたと知った時は流石に真実か疑った。
トラウマがある僕はそもそも15歳でもできないだろうが、トラウマがないからといって儀式は怖いだろう。いつも飲んでいた水、いつも敬愛していた海の”本性”を知るのだから。
もちろん、事前に痛みを伴うことは告知される。そうでもないとトラウマになりかねない体。
ただ、ほとんどの人はその痛みを乗り越え、それどころかさらに信仰を深めるものもいるらしい。
その時が近づくにつれ僕の恐怖心は大きく肥大化しつつあり、夜な夜な家を抜け出して海と対話する時間は日に日に短くなっていった。
ただ、たった1日の出来事が大きく僕を変えることになる。
ある日、僕は全てを投げ出したくなり海に向かって叫んだ。
「どうしてみんなを騙すんだ!」
少し震えながら大きく息を吐く。
僕の誰に向けてでもない精一杯の主張は、うるさい波の音にかき消された。
いや『かき消されていて欲しかった』といった方が正しいのかも知れない。
実際は、僕の声などかき消されず、帰ってきたのは静寂ではなく明確な声だった。
『逆に問おう。なぜ神を恨む。お前のその憎しみは、昔転倒した自分自身に向けられたものではないのか』
まるで何回も反響したかのような重なり合った深い声が頭に響いた。
「違う。牙を隠しているお前が悪い」
『隠しているのは村の民だ。私の意思ではない』
「ではせめて暗い色をしていろ。お前は毒があるのになぜ主張しない」
僕はさらに声を大きくあげ叫んだ。
『民は美しさを求める。貴様もそうだろう』
美しさ。その透明で、中身のないのが美しさと言うのか。それは本性を隠し、中身のなさを隠し、魚たちというヴェールをかぶっているだけだろう。
「では、せめて暗い色をしていろ。毒があるなら、そう主張すべきだ」
『民は美しさを求める。お前もそうだろう』
「美しさ? それは魚たちの色だ。お前は空っぽだ」
『——空っぽか。ではお前は何色だ?』
僕はハリボテではないと思う。友達もいた。家族もいる。思い出......はトラウマでもいいのならある。生きてきた記憶がある。
「僕にはこれまで生きてきた人生がある。それで僕のキャンバスは彩られている」
少しの沈黙が流れる。しばらくして、また声が響き始めた。
『それは......何色なのだ』
「何色...?」
『貴様が私を妬むのは我に色がないからだろう。色を借りているからだろう。それならば私を憎む貴様は何色なのだ』
僕は記憶を探る。失態を犯す前は僕の人生は花のように色鮮やかだったかも知れない。
そんな昔のことは忘れてしまった。普段、何気なく意味もなく過ごす日々は悔しいことに無色でしかなかった。今まで意思を持たず、ただ日々を生きていた僕こそ無色だったのだろうか。
唯一、確実に色があったのはトラウマ。長いこと心に居座り、時によって熟成された色。
誰とも会わない浜辺に一人座り、海と対話を試みたあの時。
海と向き合っていた時は——色があった。
それは青色、だと思う。悔しいと言う感情、憎しみの感情、悲しみの感情。
それら全てが混ざり合った色だった。
「青......」俯きながら、僕は呟いた。
『青か。それは、何が作り出すのだ。私にはわからない。教えてくれ』
「色は......感情が作り出す」
『感情か。民が私に向ける尊敬も、感情なのか。あれは青色か?』
「違う、と思う。あれは黄色、どちらかというとオレンジに近い」
『なぜお前は青色なのだ』
「僕はからっぽだから」
先ほどまで海に向けていた思いは、そのままブーメランのように綺麗に僕に返ってきていた。
でも僕には確実に色があった。悲しみの色が。
『空っぽなのに色があるのか?』
「僕には感情があるからね」
一瞬雨が降っているのかと思った。頬を一滴の滴が伝っていた。上を向くが、雨なんか降っておらず散り散りの細かな雲があるだけだ。もう一滴。また一滴。僕はようやく自分が泣いていることに気づいた。透明な雫は砂を濡らし、それ波がさらう。
『これが——感情か』
「違うよ.......僕は空っぽだ。色なんてない」
『だが、塩味を感じる。これはなんという感情だ』
「これは、悲しみ、かな」
今まで押さえてきたものが溢れ出すかのように、雨は止まる気配を見せなかった。
その瞬間、透明な海の一部が、かすかに青を帯びた気がした。
一滴、また一滴。
波は僕の悲しみを抱き込み、色を深めていく。
たった1つの過ちすら許されない事を、生まれた時点で空っぽの海を愛さなければいけなかった理不尽を、ひとり孤独な世界に対して、僕は嘆き続けた。
海は唯一それを拾ってくれた。徐々に染まっていく様子は僕の涙から過去を汲み取り、共感してくれているかのようだった。
僕がようやく顔を上げた時、海は青く染まっていた。
泣き続けた僕の涙腺はすっかり枯れていて、なんだか心も軽くなっていた気がした。
今夜、村を出てどこか遠くへ行こう。海の信仰から遠く離れた場所へ。
前の前に広がるのは、どこまでも続く青い絨毯と黒い空。
海は、悲しみの感情を知った。
読んでくださりありがとうございます。
『海』をテーマに短編を書いてみました。