無浄
がたん、ごとん、と電車が揺れる。
男は在来線のボックス席に座り、車窓から流れる景色をただぼんやりと眺めていた。
ふと、電車がトンネルへと入ったようで、車窓には生え際が後退し始めていて、輪郭は丸く、死んだ魚のような目をした男性の顔が映し出される。
果たして人生とは上手く行かないものである。
悲しいかな、車窓に映っている腐った肉まんのようなその顔こそが、男の顔であった。
男は思わずため息をつき、どうして自分はこうなってしまったのだろうと、不毛なことこの上ない、しかし何万回と繰り返しているような方向に思考を巡らすも、5秒と待たずにやめてしまった。
男が考えごとを始めてはすぐにやめるのを繰り返し、ちょうど高校時代に犯した失敗について考えていると、電車が駅に停車した。
ぷしゅー、という音と共に扉が開く。
男の席から見て通路の向こう側の客が電車を降りた。
男の目的地はここではないので、男はぼんやりと外を眺めながら電車が出発するのを待っているのだが、なかなか電車が出発しない。
何かあったのだろうかと男が軽く辺りを見回すと、なぜだか男を睨みつけていた他の客と一瞬目が合ってしまい、その刹那目を逸らされた。
しかし、そういった経験は何度もあったので男は特に気にしなかった。
少しすると、先程降りたはずの客がまた戻ってきた。
どうやら駅員を連れてきたようだった。
男がやはり何かあったのだろうかと思いつつも外を眺めていると、駅員は男に声をかけてきた。
「あの、お客様、少しよろしいでしょうか。」
「な、なんでしょう。」
「失礼ながら、他のお客様からお客様の…その、体臭が…その、耐え難いとのご相談を受けておりまして…」
「は、はあ…」
「我々としましても、1人でも多くのお客様に快適にご乗車頂きたいと思っておりますので、その、大変申し訳ありませんが、ここで降りていただくということでご協力いただけませんかね?」
「…」
予想もしていなかった方向からの痛恨の一撃に、男は絶句した。
別に一度拒否してみても良かったのだが、刺さるような周囲からの視線に、男は耐えられなかった。
「は、はい。…すみません。」
と一言言うと、男は立ち上がり、のそのそと電車を降りた。
「こちらこそ本当に申し訳ありません。ご協力ありがとうございます。」
そんな駅員の言葉を背に、男は改札へと向かう。
改札に着くと、男は逡巡ののち、窓口の駅員に話しかけた。
「あ、あの、すみません。」
「はい、いかがしましたか?」
「私、その、体臭がキツいということで電車を下ろされちゃったんですけど、近場でシャワーを浴びられるような所ってどこかないですかね?」
「は、はあ…。」
駅員の顔がみるみる曇っていくが、またすぐに口を開いた。
「でしたら、この駅を出て東に真っ直ぐ7、8分程行くとネットカフェがあるのですが、そこならシャワーも浴びれるんじゃないかと…」
「そうですか。あ、ありがとうございます。」
「いえいえ。」
「…あ、あの。」
「なんでしょう。」
「シャワーを浴びたらまた戻ってきて電車に乗りたいのですが、この切符で再入場させてもらえたりって…」
「申し訳ありません。決まりですので、その切符はここで回収させていただいて、またご乗車になる際には改めて切符をお買い求めください。」
「…そうですよね。わかりました。」
果たして人生とは上手く行かないものである。
男は駅の外へと歩き出した。
その日の季節は冬、天気は曇りであった。
男は先程教えてもらったネットカフェを目指して、寒空の下を相も変わらずぼんやりとしながら歩いている。
男はやりたくないことはせず、逆にやりたいことは我慢しない主義であった。
しかしそれが故に、男は欲望のままに怠惰を貪ってしまった。
そしてそれこそが男の現状の元凶なのかもしれなかった。
だがこのままではいけない、こんな生活は終わらせなければいけないと一念発起し、文字通り重い腰を上げてこうして外に出てきたは良いが、風呂に入るということを男はすっかり失念していた。
男は風呂が嫌いだった。
だから最後に風呂に入るという発想が思い浮かんだのがいつなのかさえ、男は覚えていなかったのだ。
男はそのことを深く、深く反省しながら、ひたすらまっすぐ歩き続けた。
やがて、ネットカフェのものと思しき看板が見えてきた。
男がすこし下に目をやると、「24時間営業 シャワー・ランドリー◎」という表記もあるので、駅員が言っていたのはどうやらここで間違いないようだった。
店に入ると受付用の端末に出迎えられる。
男は端末を操作して受付を済ませようとするが、この店は会員制で、登録料として300円を払わなければいけないらしい。
果たして人生とは上手く行かないものである。
男は渋々登録料を払い受付を済ませ、シャワー室へと向かった。
ネットカフェを出ると、男はなんだが視界が広くなったような気持ちがした。
風呂で禊をするという発想もあながち間違ってはいないのかもしれない、などという普段の男ではありえないような思考さえ湧いてくるのだった。
とにかく、シャワーを浴びただけだというのに、駅への帰り道は行きのそれとはまるで違って見えた。
ふと、ラーメン屋ののぼりが目に入った。
さらに、どうやら男はお腹がすいているらしいということにも気が付いた。
男は財布の中身を確認する。
所持金はたったの2034円。
実にパッとしない財布の中身だが、いっそ使い切ってしまうのも悪くはないかもしれないと思い、男はラーメン屋の中へと吸い込まれていった。
「いらっしゃい。」
と、店主の挨拶に出迎えられた男は軽く会釈をし、券売機へと向かって歩いていく。
券売機の前に辿り着くと、男は千円札を2枚、その中に吸い込ませた。
ちょっと贅沢をしてやろうと思っていたので、「チャーシューメン」「大盛り」「味付き卵」と、次々にボタンを押していく。
食券を買い終わると、案内されたカウンター席へと向かい、食券をアルバイトの若い店員に渡す。
「…麺はかため、味濃いめで。」
「かしこまりました!」
店員は食券を受け取ると「硬・濃」と走り書きをし、そそくさと厨房へ戻って行った。
数分後。
「チャーシューメン大盛り、味玉トッピング、野菜盛りネギと海苔増しの麺かため、味濃いめです!」
注文したラーメンが男に提供される。
男はラーメンを受け取ると、豪快に食べ始めた。
男がラーメンに夢中になっていると、男の頭上でことり、と音がした。
見ると、餃子が乗った皿が置かれていた。
男がなんだろうとその皿を見つめていると、今度は店主がチャーハンが乗った皿をその横に置いた。
「あ、あの、これ、頼んでないです。」
男がそういうと、店主はにっと笑った。
「いやあ、お客さん、ずっと死にそうな顔してたから心配になっちゃってさ。これ、サービスだよ。なんていうか、もっとうまそうにうちのラーメン食べて欲しくってさ。」
と、店主。
「は、はあ。じゃあ、いただきます。…ありがとうございます。」
男は若干の照れくささを覚えつつも2つの皿を受け取る。
「はいよ、ごゆっくり。」
それだけ言うと、店主はまた下がっていった。
男もまた黙々と食事を続けるのだった。
満腹になった男は、これまた文字通り膨れた腹をさすりながら歩いていた。
食事で腹がいっぱいになるのはいつもの事なのだが、こうも満たされる食事は、男にとってはえらく久しぶりのことであった。
睡魔の足音が聞こえ始めた頃、先程途中下車した駅が見えてきた。
男は切符を買うと、ちょうどよく到着した電車に乗り込んだ。
全く、果たして人生とは上手く行かないものである。
男の行先は、誰も知らない。