残夏
「…あと何度、きみと同じ花火を見られるだろうね」
…
……
「いやあ、今日も今日とて暑いねー。
私まで倒れちゃいそうなくらい!なんて!」
どすん。大きな段ボールを置いてから汗をぬぐう、ふりをする女性。柔肌に見えるそれには一滴もそんなものはかいていないし、何よりその肌は本当のものですらない。
だから、扇情的にも見える筈の、緩い白タンクトップ一枚だけの上衣は、しかしただおぞましいだけだ。
それを、わかっている。
だからこそ、その無意味を続けている。
無意味の敢行は知性があるものの特権だ。
「あ、少年もお水飲まないと危ないぞー?家でクーラー効かせてるって言っても、身体はちゃんと水分不足になってるんだから!ほら、他人事みたいな顔してないで、もってきてあげたから飲んで飲んで!」
これ見よがしに、口をつけたペットボトルを差し出す。それを細い腕に無理矢理持たせて、満足そうに頷く。
その女性の上気した顔は赤くなっている。それも嘘の産物だ。その血は赤くないのだから、興奮したところで、赤くなるはずがない。
きっとその様を、彼女と似た存在やそれらに類する存在が見たのなら、全てが顔を顰めるのだろう。嘲りか、恐怖のどちらかで。
常軌を逸した行動でしかない、と。
「今日で夏休みも終わりだっけ?
あっという間だったねぇ〜、私もきみとずっと遊んでたからすっかり、日にち感覚バグっちゃった。もうそんなに経ってたんだねぇ」
ある少年の横に、座って。
そうして小さな掌を包むように手で握る。
じっと、目を見つめながら。
その真っ黒の目の奥には青い色が明滅している。
青色と、黒の奥。光は、どこにもない。
「最後の日くらいはゆっくりしてたい?
うんうん、分かるよ。でも、だからこそ!
外に行って、ハッスルしないと!」
熱弁を振るう女性。
それの名前はイエトと言った。
これは、嘘ではない。正確には、嘘でもなければ真実でもない。少なくとも少年にはそれでありたいと思っていた。
「ね!ジエーくん!」
彼女は、花が咲くように笑った。
そのジエーと呼ばれた少年に、にっこりと。
車椅子にもたれかかった、骸骨のようなものに。
ほんの少し、息をしていて脈拍がある。
そんなような、ものに。
「………ァ…」
少年に反応はない。その呻きを、反応としていいのならばそれは珍しい反応ではあったのだろう。
そしてそう、思ったのか。イエトは嬉しそうにおめかしをし始める。鮮やかな水色の着物に、瞬間に切り替わって。金魚の柄が華やかさを演出する。気づけば少年の服装も、涼しげな甚兵衛に変わっている。
そうして、車椅子の後ろを握って歩き出す。
「さあ、行こうよわんぱく坊主!」
れっつ、ごー!
そうして片手を上にあげて、嬉しそうに外に駆け出した。
…
……
ぎゅりりり、ぎゅららら。ぎゃりぎゅり。
狂い果てた世界の蝉の音は、今はそういう金切音になって久しい。聞くだけで正気を失いかねない音だが、もう正気の人間などとうにいなくなっているので、問題はない。
真っ白い葉っぱを実らす樹が、車椅子を押す彼女をぎょろりと睨んだ。その眼からの視線も知ったことじゃないと、上機嫌にイエトは歩いていった。狂った太陽の、青い輝きもなんのその。
「今日は何処に行こうか?
さすがに虫取りも飽きただろうしねぇ〜…」
そう悩んでいると、どん、どん。
麓の方で祭囃子と太鼓の音が聞こえる。
人なぞ、とうに居ない場所でそのような音が聞こえる筈はない。だからそれも、ただの偽物だ。
「おお、夏祭りやってるみたいだ!
ふふ。最終日に一斉に騒ぎたいんだね。
名残惜しいから、そうする気持ちもわかるな」
「最後くらい、楽しく終わりたいもんね」
がらからから、車椅子を動かしてその祭りの音の近くへと行こうとする。舗装されていない道を通っていても、然程鳴らない車椅子の音は、その上に載った小さな身体の、軽さを表している。
ひゅぅ、と上がる音。
どおおおん。ぱらぱら。
真赤な夜空に、花火があがった。
大きくて、きれいな花火だった。
「わー、見て!綺麗だねぇジエーくん!」
「………
……あ……」
崖の上から見える花火は、光景も何もが嘘だ。それでも、綺麗だった。きっとそれでも少年が、声を上げようとしていたくらいには。
嘘の花は、嘘であっても、美しいものは美しい。
しばらく、眺めていた。
大きく上がる花火は、長く長く続いた。
風もない日だったが、煙が火を隠すこともない。
ただ、夏らしい火花を、二人は観ていた。
どおおん。ぱらぱらぱら。
どおおおん。ぱらぱら……
花火が、終わる。祭囃子の音も、止む。
終わりの音が聞こえる。
全てが、また終わる音。
なにもかもが終わる日。
今日が、夏休みが終わる日はいつもそのそれだ。
「きみは私が逃がさない」
車椅子の上の少年に覆い被さる。
「いつまでも、いつまでも、一緒にいよう?」
そう言って、強く抱きしめる。
黒い髪を、なびかせて。
「お願いだから」
ぎゅっと強く目を瞑る。
「……お願い、だから…一緒に…」
抱きしめる手は震えていて、失う恐怖と終わりかけた命に相対した哀しさで正気ではない。正気を喪うことも、知性のあるものの、特権だから。
自らの遊びで気が狂う外の神。
自らの因果が狂わせた災い神。
それを咎めるものも、崇めるものも。
もう、誰もいない。
そしてそれは、必要がない。
彼女が愛するものさえ、いればいいか
ら
…
……
………きゅる
きゅるきゅるきゅる………
…
……
「……ジエーくん、ジエーくん!」
「………ぅ…」
少年は、その声に目を覚ます。
悪夢を、見続けていた。
何が夢で、何が現実かもわからない。
身体が何度も何度もあって、たましいだけが削られていくような感覚。それを、もう何度経験しただろう。何度そうなったろう。それすらも全部夢なのだろうか。きっとそうなったのだろう。
自分がどうなっているだろう?
それを見る余裕すらももう無い。
悪夢を何度も見た。
脚が動かなくなったのはいつのことだろう。
身体が重い。
瞼が重い。
何もする気力もない。
言葉を発することすら、遠い。
だけれど、それでも。
目の前に心配してくれるひとがいるのは、確かだ。
泣きそうなほど、今にも破裂しそうなほど。
ひとではない。
このおねえさんが、そうでない事はわかってる。
このおねえさんが、何かをしているのも。
きっとこの苦しみがそうしたせいであることも。
だけれど。だから。
「おれは、ね」
「それでも、いえとさんをあいしてるよ」
…慈英は、泣きそうなイエトを抱きしめた。
弱々しく、倒れ込みながらも。
それでも大好きで、大好きなんだ。
だから心配を、かけまいと。
それだけをして、気を失った。
その抱擁は。何度も何度もした中でも、初めてだった。だからイエトは、壊れるくらいに少年を抱きしめた。黒くて青い、どろけた液体を流しながら。
「……私も」
「きみが、どうなっても愛してるよ。
どうあっても、どんな姿になっても。
どう成り果ててしまっても。
ずっと、ずっとあいしてるよ」
黒い髪を後ろに流しながら、枯れ果てたその頬に、ちゅっ、と口付けをした。そうして車椅子にゆっくりと座らせて、その頭を優しく撫でた。
暫く、ただ、優しく撫でていた。
外では狂った太陽が雲に反吐をぶちまけていた。
…
……
壊れきった人形遊びは、それでも愛と言えるのだろう。愛着と執着。たとえどれほど代わりがあったとしても、これでなければだめ、という感情は紛れもなく、混じることのない、愛だ。
それ未満の何かとも言える。
それ以上の、何かでもある。
だからせめて、それ以外に何と言おう。
「あと何度きみと同じ花火を見られるだろうね」
だから今度も、きっと。
花が咲くように、それでも笑い続ける。
全てが嘘と偽物、欺瞞で出来た美しさでも。
花は、咲き続ける。
きっと、全てが擦り切れても。
その、先にまで。
「ううん。
何度だって、一緒に見よう?
ジエーくんが、そう望んでくれる限り」
だから花火はあがりつづける。
何度でも、いくらでも。
どおおおん。ぱらぱらぱら。
どおぉん。ぱらぱら……
どぉぉん………
これで本当におしまいです。
お読みいただきありがとうございました。