雪雲の上の彼方より
季節外れ、の逆を言うならばどう言うべきか。
ともかくとして、その寒さと季に相応しく。はらはらと牡丹のような大ぶりの雪が降り頻る。そんな時節のことだ。
その、雪をたなびかせる冷たい雲。それの更に彼方の上から、流れ星が落ちた。
蒼い蒼い流星。人知らず人知らぬ場所に堕ち、それでいて破壊を齎さない。季節や時間というわけではない、ただこの世の摂理から、外れた来訪者。
それの中身は、小さな子ども。
否。ただ、まだその形をしていた。
…
……
冬至を超えて、しかし一層冷え込む世間を尻目に、世間の装いは春を迎えんとしている。だがそれに敢えて反抗をするように、ふわりふわりとと雪が降る。
これはそんな、白く染まる街角の片隅の光景。
どん。
ある婦人に、誰かがぶつかる音。その衝撃は脚にのみ感じるもので、それが示すことはつまり、ぶつかった対象が小さい背丈であるということ。
しかし婦人はその相手を倒すよりも、自分が倒れているという事に気づき、困惑する。倒れてしまった、というより身体が勝手にそう倒れる事を選んだかのような。
「わ…ごめんなさい。
けが、してませんか?」
困惑と疑問符の中で、その相手が声をかける。
まだ小学生の低学年くらいだろうか。小さな、小さな手を差し伸べて心配そうにこっちを覗き込む。
「こうして外を歩くのは久しぶりで、周りばっかり見ちゃってて。まえを見てなくて。すみません」
こちらこそごめんなさいねと、そう返しながら、思考が動く。
久しぶりに、外に。
病弱であったりするのだろうか。確かに細身で、一見頼りのないような小さな子だ。気弱で、心優しいことに変わりはないようだが。
だが。
だが、なんだろう。
その黒い目、黒い髪に違和感がある。
黒色の何がおかしいというのだろう。
「黒髪であることがおかしい」ということではない。「黒色そのものがおかしい」のだ。色そのものへの違和。
そうだ。この黒色は、どうにも──
「………さん、おばさん!?」
は、と少年の焦ったような声で正気に戻る。
慌てたような眉根は、その正気付きと共に失われ、代わりに安心のため息に変わった。
「よ、よかった。えっと、ぼーっと!してるみたいだったから。それじゃ、おれそろそろいきますね!」
「あ、いたいた!
コラ、勝手に先に行かないでよねー」
慌てたままに立ち去ろうとした少年に呼びかける女性の声。伸びやかな声は若さと活力を感じたが、長く纏められた黒髪と泣きぼくろ、そしてそれらよりも昏い眼が一瞬また、ぞくつかせた。
黒、黒。
また、少年の髪色ととても似ている深い黒だ。
だから出てきた親子かしら、という質問に、その黒髪の女性は一瞬間を置いてから答える。
「ええ、まあ。そんなところです」
「それでは、失礼」
そう怪しげにぼかしてから、不思議な一対は手を繋いで歩き去って行った。
今の子たちはなんだったのだろう。
黒色。なぜ違和感を感じたのか?
それらを思いはしたがすぐに記憶から消した。
あまり詮索をしても失礼だろう、と。
それは或いは防衛本能だったのかもしれない。
何かに気づけば、正気を削っていたという無意識の。
何にせよ、その遭遇は街の片隅の光景だった。
片隅の光景で、終わることができる、接触だった。
魂魄と苦痛を啜る、恐ろしげな人外たちとの。
…
……
雪降り頻る街並みは、少しずつ世界を白くしていく。だがそれへのコントラストのように、黒色の二つだけがそれに染まらない。
溶けて白くならないというようなことでもなく、もっと単純な事。降り積もってすらもないよう。ただ通り抜けていくかのよう。
「…いえとさん、やめてよ」
「んー?何が?」
「さっきの人になにかしたでしょ。
そういうのはさ、その、こまるよ」
「あはは、ごめんごめん。正確には何かしかけた、かな?大したことにはなってないから安心して。でも、キミったら警戒心も無いからさ。私も心配しちゃって」
「心配しなくても大丈夫だって。おれだってもう一人前…と、までは言えないかもしれない、けど…」
「ふふっ、ふふふふ。
寧ろキミの今はもちょっと自惚れていいくらいなんだけどな。相変わらずジエーくんは自己肯定感が低いね」
「もう。そうやっていつまでも子供扱いするからじゃないか」
「む、私のせいか。それもごめんねぇ。
でもしょうがないじゃん、こんな可愛いんだし」
両の手で頬を挟み、うりうりと潰すように撫で回すのはイエトと呼ばれた女性。そしてそうされるジエーと呼ばれた少年。
この、黒黒とした髪の二人はつまるところヒトではない。
元々にヒトでなかった存在。ヒトであったものを、化け物にされた存在。違いはあれど、現にある存在の本質に変わりはない。
そしてその表情も、どちらも人に近しい。
慈愛を以って見つめる家戸と。
こんなに可愛いんだし、という発言と、子ども扱いと、親子ですか?という問いを思い出して、慈英の頬はその潰された反動のように、ぷくーとふくれていた。
「あら、ふぐみたい」
「…親子、かあ。
やっぱりそうにしかみえないよね、おれ」
「そりゃまあ、この見た目じゃねぇ」
「…おれだって。
いえとさんのだんなさん、なのに」
見た目。
小さな男の子と、大きな女性。
横に立つ女性の背丈の大きさから、より小さく見える少年は確かに、何かの連れ子のようにしか見えない。
だけれど、彼が言うそれも真実で。そしてそうは見えない事実に、肩を落としているのだ。
そう落ち込む少年に、彼女はそれなら、と提案する。シンプルな解決手段があるぞと。
「なら姿を変えちゃえばいいじゃない。
私たちなら簡単だよ?」
「…うーん、おれ、まだ姿変えは苦手でさ。一応出来るんだけど、もう一回この姿に戻れる保証がないからちょっとこわいんだ」
「ふふ。どんな姿でも私は君を愛すから、自分のなりたいような姿になっていいんだよ、ダーリン?」
落ち込んだ少年の手を、全ての指を絡め合わせて握り、きゅっと締める。そうして背から屈んで彼の顔を下から睨め上げた。
その黒い眼がジエーの顔を写す。
その、赤くなった顔を。
「!…そっか。ありがと、うれしい…」
「うんうん」
「……でも」
「でも、なら、おれはこのままでいい。このままがいい。最初におねえさんに逢えた時の、この姿を大切にしたいんだ。おれの、このしあわせのかたちを」
「!…ふふ、良いねぇ。
ちょっと前までなら、くだらないって思ってたかもしれないその気持ち。今の私なら、すごく分かるような気がする」
押し付けるでもなく、否定するでもなく。
ただ配偶者の価値観に寄り添って怪物は笑う。
そのまま、しばらく雪街を歩いていく。
変わったモノは少年だけではない。
外道の神格もまた、少年と交じり合い、交わる中でその感性がヒトらしく、近く理解できるような程に感化されている。
互いの変化が互いを唯一無二にして。故に破綻は起きていない。
街を歩いていて、周囲を巡り。
あまり見たことのない物に目を輝かせては、首を傾げる。そんな不思議な様子の少年を見て何を言うではなく、にこにこと。否、どちらかと云うと、にやにやと笑う。
それをどう思ったか、慈英が口を開く。
「ふしぎな、気分だ」
「何が?」
「人じゃなくなったって聞いて、実際にそうなったのも分かってる。なのに、おれが街を歩いて、少しだけ人と話して。そうして感じた感覚はもっと思ったより、ずぅと人らしい。
それがふしぎだよ」
「そんなもんだよ」
すぐに、答える。
その問いが既にわかっていたかのように。
「人の姿をしているってことは、人の理解を出来てるってこと。理解をできてるなら、それの視点だってわかるってことだしね」
「…そんなもの、なのかな?」
「全部が全部そうだとは言わないけどね。
それこそキミが元はそれだったからっていうのも大きいと思うし。けれど、だけれど。そうであったほうがなんだか面白いと思わない?」
「面白い?」
「だって、ひひ、ひひひひ。ならば何者の姿にでもなれる私たちはこの世の全てを理解ができるってことだよ。どう、わくわくしない?面白くない?」
「……なる、のかな?
でも確かに、それは素敵だね」
「でしょ!?
さっすがジエーくん、話がわかるぅ〜!」
けらけらと子どものようにはしゃぐイエトと、それを素敵だと言って落ち着いて笑うジエー。見た目の年齢と、先までの状態とは入れ替わったような状態をそれぞれが愛おしげに想う。
素敵なのは、そうして、ことによれば邪悪なように見える笑みを浮かべる姿だと言わずとも通じる間柄になったことがただ嬉しくて、それに浸るように二人は笑みを浮かべ続ける。
「……あ、そうだ。話を戻して、さっきの話だけどさ。ならこうすれば万事解決だ」
「え?」
途端、少年の手を引っ張って、人の少ない路地裏に引き摺り込む女。
だん、と壁に身体ごと押し付けるような状態になって、ただそうしてから、一瞬。目をくらましたとなった刹那には。少年の目の前からはその背の大きい女性は消えていた。
そして、代わりに前にいるのは。
代わりに視線の目前にあるのは、女性の豊かな発育ではなく、代わりに真っ黒ないたずら好きそうな黒い目。表情にあどけなさが残る、小さな小さな顔と、不釣り合いな程の大きな眼。
細く小さい肢体にぴったりの、ゴスロリじみた派手なスカート姿は雪の降る姿にはあまり相応しくないようにも見えたが、故にこそ色合いと町とのミスマッチで、どうにも魅力的に見える。活発がすぎる筈のツインテールも、今の幼い見た目には相応だろう。
「じゃん!どーう?」
「……びっ、くりした、かな」
「なぁんだ、それだけ?ちょっとがっかり」
親子にしか見えないという、問題。姿を変えることも少し恐ろしいと云うならば、私が少女の姿に変わってしまえばいい。
キミとの小さな恋人に見えるように。
そういう、ことだった。
「似合ってる?」
「うん」
「なら行こっ!
これなら臆面もなくデートができるでしょ?」
「…うんっ」
冷たい手が、小さな手を取る。
そうして雪街を駆け出した。
黒色の少年少女が雪を踏みしだき息を切らして走る。息を切らすなど、そんなことはする必要もすることもないはずなのに、暫く二人は本当にそうしていたのだ。
「……ねぇ、イエトさん」
「なあに?」
「ありがとう。
ほんとに、うれしい。でもおれ、おれはさ…」
「うんうん、きっとキミはいつもの私の姿の方が好きでしょ?いつものままがね。でも、たまにはこういうのもいいじゃない!まったく、えっちなんだから」
今や平坦になった胸と、細くなった臀部をそれぞれ片手ずつでそっと押さえて、恥じらうように顔を逸らす少女に、え、と一瞬虚をつかれたように動きを止めてから。
「……!……!?
ち、違う!違うって!おれが言おうとしたのはそんな、そういうことじゃなくって!そっちだって可愛いっての本当だよ!…なんだよその顔!ほんとだってば、もう!」
「そうじゃなくて!おれが、言おうとしたのはさ…おれは、そのさ。実際の見た目がどうとかじゃなくて、いえとさんがそうして、おれの為に何かをしてくれるってそれだけで嬉しい。っていうのを伝えようとしたんだけど…」
そこまで早口に伝えてから、ようやく、その逸らした顔をじっと見つめてみる。
そんな事は、とっくに分かっているぞ、と。
そんないたずらな顔をして、にんまりと、小悪魔的にジエーを見ていた。
「…いひっ」
それに、肩の力が抜けるやら、怒るやら。
それらよりもまず先に。
心の底から暖かな気持ちになり、笑う。
「にしても……ふふっ」
「おや、今度はなあに?」
「いや。おねえさんがいつも、こどもみたいに無邪気で可愛いのはそうやって子どもの姿にもなれるからなんだなって、そう思ったんだ」
「…なあに、その大人ぶった発言。
なまいき〜!」
「いふぁふぁ、いふぁいっふぇ!」
意趣を返されたことが気に食わずに、頬を抓りあげて上に下に動かすその姿。
隣にまたある人が通りかかって、微笑んで一言を言う。それを聞いて二人は肩を落とし、がっくりとしてしまった。
そう、その人が言うには。
『あら。仲のいい、姉弟ね』と。
…
……
「どう?
久しぶりの下界散策は満足したかな?」
「うん、ひとまずは。
…最後に、少し見ていきたい場所があるんだ」
「お、いいよ。
どこに、行きたいのかな?…『少年』」
少年。と、あの日の奥につながる呼び方をして、されて。やはり分かっているんだと、嬉しいような、意地悪をされたようなため息を吐く気分が混じり合った気持ちになりながら。
それでも、言う。
…
……
………人口の数も今や確かな数字はわからない。
ただ数十年前に原因不明の大量死がその場を襲って以降、そこに住むまともな人も、そしてまた生き物すら居なかった。
故にそこに存在するのは、今は春の支度をして枯れた枝を揺らす木々の山と。
そして、朽ち果てかけた家にひっそりと隠れ住もうとする、何か碌でもない人間達だけだ。
もうとっくに経年劣化で崩れて腐った木の塊になったある古屋の前に、記念のように行ってから、ある家に行く。
それは、まだ人間だった頃の慈英が住んだ家。
そこに閉じ込められ生涯を呪った場所。
「……ちょっと、汚れちゃったな。
まあ、もう本当に汚いから変わらないか」
「家主が戻ってきたのに、『お前ら何者だ』、なんて失礼なこと言う居直り強盗だったねぇ。
……しっかし」
酸化して、黒っぽい赤で汚れてしまった家の中を見て。否、それを、そうした少年の姿を見て、まだ少女姿を保っていたイエトは肩をすくめる。なんだか、微妙な顔で。
「しかし、ジエーくんもすっかり、人間を何かする事に慣れちゃったね。独り立ちしたみたいで、なんだかちょっと寂しい〜」
「にんげん?」
心底不思議そうに、そう聞き返す慈英。
家戸が指差した、赤い黒。
そうされても分からないように指された方向を眺めて。
次第にその疑問を塗りつぶすほどの冷淡さで。雪よりも冷ややかな眼で、それを見ていた。
「どこに?」
それは子どもなりの、残酷さか。
人外故の冷徹さなのか。
それを見て、また。
イエトは愉しそうに、笑った。
「ね。久しぶりにこの家で寝ようか。
あの時みたいに、ゆっくり横にさ」
「もう、おれは夜は怖くないけどね」
「うん。今度はキミが夜を怖がらせる番だ」
…
……
…時はあっという間に過ぎ去り、ダーク・ブラックの天蓋が空を支配している。
それすら欺き嘲るように、青色が世界の色を劈いた。その流星は、地表から天蓋を突き破り、逆流して宇宙に飛び立った。
ぼろけて、形しか残らず、家としての機能の全てを停止した、その建物の姿。
それはまさに少年の、人としての有り様を表していたのかもしれない。
それはただ、流星の飛来と共に消えて砕けた。
そうしてまた、二つの凶星は空に。
雪雲の彼方からの支配者たちは、雪をも飲み込むほどの青さと黒さで、天蓋を支配していた。
雪雲の彼方の、更にその上の上。
人外と人外の来訪は、またいつになるか。
その厄災の到来は、いつになるか。
人々はそれに怯えなくては、ならない。