神社の裏のチョキ
昭和六十三年。高い煙突から絞り出される重々しい煙が、赤茶けたノコギリ屋根の工場の上を蠢いている。灰色、黄土色、紺色の工場廃水が、街の中央を流れる川にドボドボと垂れ流され、川の水面は、とろみがかり、淀んでいる。
二学期の終わり。小学六年生の僕は、公務員の父の急な転勤に伴い、生まれ育った自然豊かな閑静な住宅地を離れ、都市近郊にある工業地帯への引っ越しを余儀なくされた。
引っ越し先の街の風紀は荒んでいて、住民の生活は極めて貧しかった。呻き声が聞こえそうなほどギュウギュウ詰めにひしめき合って建つ巨大な工場群。その周囲には、有刺鉄線が幾重にも張り巡らされている。広大な敷地のあらゆる死角から、街の不良、チンピラ、極道者などに不法侵入をされ、場内を集会や処刑の場として利用されない為の対策とのことだった。
転校をした小学校の風紀も酷かった。同級生の一部の男子は、放課後になると運動場の遊具の陰で日常的に喫煙をしていた。校舎裏の屋外階段の一番下にあるワックス置き場の鍵を壊して、その中で嫌がる低学年の女子に淫らな行為をする者や、塗料のうすめ液をビニール袋に入れてその臭気を吸い、狐狸物の怪に取り憑かれたようになる者もいた。頼みの綱の担任の教師は、前の晩にビールを呑み過ぎたとのことで、授業中に教卓いっぱいにゲロを吐くようなやつだった。
そんな救いようのない悪環境に迷い込んだ僕は、小学校卒業間際に、他の街から引っ越してきたよそ者、父の職業は警察官、瓶底眼鏡をかけたヒョロヒョロのモヤシっ子。校内にはびこる愚連隊からすれば、さながら鴨が葱を背負ってやって来たかのような、おあつらえ向きの虐めの御馳走であった。
冬ざれて今にも雪が降りそうな放課後。僕は、通学路の途中にある最近倒産した建設会社の土場に積み置かれた高さ二メートル程の砕石の山の頂上で、白いブリーフ一丁にされて、クラスメイト三人が家から持ち寄った「マッスルマン消しゴム」をぶつけられる的になっていた。
「ぎゃはは! 見た? 見た? はい、大当たり! な、今、チンコに当たったよな!」
いわゆる番長各の同級生が、顎がはずれんばかりの哄笑をして、左右にいる仲間に判定を求める。砕石の山のふもとから投げた消しゴムが、頂上に立つ僕の股間に直撃をすると、高得点を得られるというお馬鹿なルールだ。
「え~、今の一投は、当たっとらんてえ」
「うん、自分も見とったけど、ケンボーの太ももの付け根に当たったがや」
仲間たちが口を揃えて番長に得点の無効を告げる。
「ちゃうてえ! 絶対当たったてえ! 俺のマッスルマン、絶対にケンボーのチンコに当たったもん!」
番長が仲間の判定に激しく抗議をする。その間も彼らが連投する野牛マンや千手観音マンなどが次から次へと飛んで来て、僕の乳首やへそに無慈悲に当たる。ソーメンマンが、鼻の頭に直撃をする。下校途中のクラスメイトの女子たちが、北風が吹きすさぶ建設会社の土場で、ブリーフ一丁にされて震えている僕の前を、クスクスと笑って通り過ぎて行く。
「なあ、ケンボー! 俺のマッスルマン、お前のチンコにヒットしただろお!」
仲間の判定に不服の番長が、いよいよ僕に最終判定を迫る。
「ごめん。当たっとらんよ。みんなの言う通り、太ももの付け根に当たっただけだよ」
「おまー、嘘をつくとどうなるか分かっとるな!」
「正直に言っとるがや」
今のところ僕のチンコは無事だ。チンコの持ち主である僕が言うのだ。嘘ではない。
「何だとコラ、もういっぺん言ってみやあ!」
「なんべんでも言ったるわ。只今の一投は無効。0点だ」
「このガキ、おい、てめ、マジ調子に乗んなよ」
怒髪天になった番長が、砕石の山をザクザクと駆け上がる。わわわ、来た来た来たあ。登頂するなり、僕の頭を鷲掴みにして振りまわす。
「おお、コラ、マジで調子に乗んなよ。コラ、オラ、ダア、このクソ眼鏡野郎」
薄っぺらなブリーフいっちょうの僕のお尻に、番長の蹴りが容赦なく入る。態勢を崩し、ゴツゴツした砕石の斜面を、剥き出しの体で転がり落ちる。蹴られたお尻の痛みなど忘れるぐらい、体じゅうの皮膚が焼けるように痛い。地獄だ。生き地獄。
「ちょお、おまーら、なーしとん? やめたれよ」
その時、土場の入口の方から野太い声がした。番長たちは、近所の大人が叱りに来たと思ったのか反射的にビクッとなり、その後恐る恐る入り口の方を振り返った。僕も、地面に這いつくばった姿勢のまま、砂埃の向こうに立つ人物を凝視した。
野太い声の主は、意外にも、少年だった。鋼製の大きなアコーディオンゲートをガラガラと動かし、一人の少年が場内に入って来る。少年は、真冬だというのに白いランニングシャツ一枚で、両膝のところが痛々しいほど破けたジーパンを履いていた。背格好から見て、僕たちと同年代だと思われた。僕たちの前で立ち止まった彼は、番長の顔をこれでもかと睨みつつ、ぺっ、無言で地面に唾を吐いた。
「……おまー、誰だあ?」
相手が大人ではないと分かった途端に、番長の態度が変わる。
「誰でもいいがや。とにかくやめたれ。おーおー可哀そうに。見てみん。こいつ、泣いとるがや」
少年に身に覚えのない同情をされ、僕は慌てて右手で顔を拭って確認をした。うわ~、本当だ。いつの間にか頬を涙がつたっている。かっこわるう。
「おまーに関係ないがや。おまー、殺したろか。てか、おまー、マジで見慣れん顔だな。マジで、おまー、どこの誰だあ?」
おまー、おまー、を連呼しながら、小六なのに既に中三のような体格の番長が、野生動物のように相手を威嚇する。
「俺? 俺はあれだ、神社の裏の者だ」
「……」
少年の返答を聞いた途端、クラスメイト三人の様子が一変した。
「……神社の裏って、あの神社の裏?」
番長が、空き地から数百メートル先にある鬱蒼と茂る森を指差した。
「おう。あの神社の裏に住んどる者だ。ちなみに俺の名前は――」
そう言って、彼は右の人差し指と中指を立てたVサインを、水戸黄門の印籠のように番長に突き付けた。
「まさか、おまー、あの、噂の、チョキか?」
状況を掴みかねた。さっきまで威勢の良かった番長が、ゆっくりと後ずさりを始めたのだ。少年は、無言で頬の片方だけを吊り上げる。この上なく不敵な笑みだった。
「出た! チョキだ! 神社の裏のチョキが出た! 逃げろ! あの指で目ん玉を突かれるぞ!」
番長が叫ぶと、クラスメイト三人は、散り散りになって逃げ出した。
静まり返った空き地で、少年と二人きりになった。砂埃が掃き溜めで竜巻のように舞い上がる。黄色いイボ付きの軍手が一枚、ぺらんぺらんに朽ち果てて転がっている。
「まったくよ~、あいつら、人を化け物みたいに言うでかん」
助けてくれてありがとう。服を着終わった僕は、耳をほじりながらひとりごとを言う少年に、心からお礼を言った。
「礼なんていらん。たまたま俺が間違えただけだで」
「間違えた?」
「おう。遠くから見とったら、何やらガリガリの子供が虐められとる。俺は、てっきり俺らの仲間かと思ったんだわ」
「仲間?」
「ああ。仲間だと思って助けに入った。でも、近くでよく見たら、神社の裏の者とちゃうがや。あ~あ、助けて損した。俺、おまーのその体格を見て、勘違いしたでかん」
「僕の体格?」
「おうよ。そのガリガリっぷりよ。俺らの仲間は、みんな貧乏だで。揃いも揃って、おまーみたいにガリガリに痩せとる。ほれ、見てみん」
少年が人気漫画のマッスルマンのポーズで、貧相な力こぶを作って見せて微笑んだ。わあ、本当だ、アメンボのように細くて長い腕。顔は、頬がこけてガイコツみたい。よく見たら、僕に負けず劣らずの、骨川筋衛門だ。
「おい、おまー、名前は?」
「僕は、ケン。クラスメイトには、ケンボーって呼ばれとる。最近遠くの街から引っ越してきた」
「ケンボー。ふん。覚えといたるわ」
包丁で刺した魚の腹からに滲む血液のような夕焼けが、僕とチョキを包む。二人の靴の裏から、影法師がウニョウニョと這い出てきて、地べたに長く寝そべっている。
「それにしても、ケンボー、悔しくないんか。同級生に、あんなふうにオモチャにされて」
「悔しいに決まっとる。あ~あ、僕にマッスルマンのような強靭な肉体があれば、あんなやつら片手で捻り潰したるのになあ」
「あのなあ、ケンボー、力なんか無くても、喧嘩には勝てるぞ。俺やお前のようなヒョロヒョロでも絶対に勝てる。相手を殺す気持ちさえあればな」
「相手を殺す気持ち?」
「ああ、喧嘩をする時に大切なことは、相手を殺す気で戦えるかどうか、この一点だ。相手の将来も、俺の将来も、喧嘩の最中には一切関係ない。だから俺は、喧嘩になったらこの二本の指で真っ先に相手の目を突きに行く。まず相手の眼球をほじくり出して、それから目の見えない相手の息の根を止めたるんだわ。するとどうだ、どいつもこいつも、開始早々真っ青になって俺から逃げて行く。ちゅーわけで、俺は喧嘩に負けた事が一度も無い」
少年は先程と同じようにVサインを作り、それで僕の眼球を突き刺す真似をした。
「まあ、これも何かの縁かも知れん。俺の名前はチョキ。小学六年生だ。覚えとけ。お前らとは違う学校へ行っとるけどな。よろしく頼むわ」
「チョキって、変な名前だね」
「アホ。本当の名前は別にあるわ。でも、俺はこのあだ名を、でら気に入っとる。そして俺は、このチョキマークを、でら気に入っとる。俺はこのハサミで、この下らない世界を切り裂く。このハサミで、このどうしようもない世界をぶち壊したい」
右手のチョキをまじまじと見詰めて、チョキが自分に言い聞かせるように呟く。
「ねえ、チョキ、違うよ。そのチョキマークは、破壊のマークではない。そのマークは、ピースマークと言って平和への願いを表すものだよ」
「ほえ? へへへ、ケンボー、おまー、面白いやつだな。気に入った。おまー、今から俺と神社の裏に行こまい。この俺が特別に案内したるで」
僕にくるりと背を向けて、チョキが鬱蒼と茂る森のほうへ歩き出す。擦り剥いた膝に唾を塗りたくり、僕は、誘われるがまま、チョキの背中を追いかけた。
――――
森の樹々が、今にも天から崩れ落ちそうに生い茂っている。太陽の光は分厚く遮られ、住居に向かう小道は、昼間だというのに真っ暗だ。神社の裏手にあるイノシシ程度の獣が通れる小道を、チョキに連れられてしばらく歩くと、そこに寂れたバラック集落が出現した。
雑木に繋がれた三本足の雑種犬が、僕を見るなり唸り声をげる。踏み潰された毛虫の死体から飛び出た紫色の体液が、薄っぺらなコンクリートの上で生乾きになっている。バラック小屋の入り口の扉は、冬だというのにどの家も開けっ放しで、扉の前を通り過ぎる度に、小屋の中から人間の強烈な視線を感じる。辺りをうろついていた放し飼いのニワトリが、僕たちの後ろを、ゆっくりと付いて来る。
「でら、くっさー。ニワトリの臭いかな」
「この臭いはブタ。ブタの糞の臭いだ。すぐ近くにブタ小屋があるでな」
しばらく歩くと自動車のタイヤのゴムを半分だけ地面に埋めて家の周りを囲い、それを隣地との境にしている、周りと比べると幾分か小綺麗なバラック小屋に辿り着いた。
「ここが、俺の家だ。まあ、ゆっくりしてちょ」
そのタイヤのひとつにチョキは腰を掛け、ポケットの中から赤い肉の干物を取り出して、それをかじった。
「ほれ、腹減ったろ。ケンボーも喰え」
チョキが、名刺ほどのサイズの干物を前歯で引き千切り、その半分を僕に放り投げる。僕も埋まったタイヤの天端に座り、チョキと一緒にそれを食べた。
「美味しいね。これ、何の肉?」
「知らん」
「ええ、何の肉か知らずに食べとるの?」
「聞くな。肉は、肉だ。黙って喰え」
はじめて入った神社の裏の世界は、なぜだかとても懐かしい感じがした。引っ越してくる前に住んでいた自然豊かな住宅地とは似ても似つかない空間だけど、正体不明の懐かしさが込み上げてくるのだ。少なくとも、今住んでいる赤錆と機械油と排気ガスにまみれた町内より、僕はこの神社の裏のほうか好きだ。
「ねえ、チョキ、これからも、ここに来て遊んでいい?」
「おお、ええぞ。ただし、約束だ、一人で勝手にここに入るな。必ず俺と一緒に入れ。絶対に一人でぶらりとここへ来たらいかん」
「何でだて?」
「聞くな。約束は、約束だ。黙って守れ」
干物を食べ終わると、チョキは敷地内に生えた小さな雑草を摘まんで抜いた。
「俺は、綺麗好きだでな」
そう言って、抜いた雑草をパクっと口に含んだ。いまひとつ理解しがたいチョキの行動を、何故か無性に真似したくなり、僕も同じ雑草を探して摘まみ、口に含んで奥歯で磨り潰す。青臭い、ほろ苦い味がした。
その日から、学校が終わると、毎日神社の裏の入り口でチョキと待ち合わせをし、チョキと一緒に森の奥深くにあるバラック集落で遊んだ。チョキと付き合うようになってからというもの、僕が学校で虐められることは、ぱたりとなくなった。
――――
冬休みになった。朝から自室で冬休みの日誌の算数の問題を解いていると、非番の父が、突然部屋に入って来た。
「おい、ケン。お前最近神社の裏の地区に出入りしとるって本当か?」
「うん、そうだよ。あそこに親友がおるで」
父の形相が変わる。
「いかん! 神社の裏の連中とは付き合うな! あそこの連中は危険だ!」
普段は穏やかな父には珍しい、あからさまな憤怒の表情だ。
「お父さん、何を言っとるの! 危険って、何でそう勝手に決めつけるの!」
「お父さんが、この街に転勤をして来たのは、あの連中を取り締まる為だ。近年神社の裏の者たちによる犯罪が多発しているとのことで、その防止対策の増員として、この街に配属をされた」
「……そうなの?」
「いいか、ケン。神社の裏の連中を取り締まるべき警察官の、その息子が、よりによって神社の裏に入り浸っているなんて、笑い話にもならん。金輪際神社の裏の者とは縁を切れ」
「嫌だ! 絶対に嫌だ! お父さんに、僕の親友の何が分かるの! 出てってちょ! お父さん、僕の部屋から出てってちょ!」
大声で言い争いをする僕と父の声に反応をして、お隣の加藤さんが飼っているシェパードのジョンが吠え始めた。ジョンは一度吠え始めると、しばらく鳴き止まない。犬の鳴き声に負けぬ勢いで泣く僕を見かねて、父はしぶしぶ僕の部屋から出て行った。
「ねえ、あなた、お隣の犬、毎日うるさ過ぎるでかん。流石にこれは苦情を申し立ててよいレベルだと思うわ。あなたから、加藤さんに、しっかりと犬をしつけて頂くように、お願いをしてくれん?」
居間の方から、両親の会話が聞こえてくる。
「馬鹿言うな。お隣の加藤さんは市会議員だぞ。しかも我々が住んでいるこの借家の大家さんだぞ。更に言えば、加藤さんは現在あの神社の裏の者の立ち退き運動の中心にいる人物。苦情なんて言える筈が無いがや」
以降の会話は、ジョンの鳴き声に掻き消されてよく聞こえなかったが、『立ち退き運動』という、聞き慣れない言葉がやけに耳に残った。結局お隣のジョンは、それから三十分ほど無駄吠えを続けた。
――――
それからも僕が父の言いつけを守ることは無く、両親に内緒で神社の裏に入り浸った。巷の子供たちのあいだでは、テレビゲームが大流行をしていたが、チョキがそんな高価なオモチャを持っているはずはなく、また、彼は僕に家の中を見られることを、なぜか頑なに拒むので、僕たちは、雨の日も風の日も、半ばやけっぱちになって屋外で遊んでいた。
チョキの自宅の前で、頻繁にキャッチボールをした。キャッチボールと言っても、チョキが所持している道具は、表面のゴムの滑り止めがつるつるになるまで使い込まれた軟式ボールがひとつと、もともと何色であったか判別がつかないほど色が褪せたグローブがひとつであった。
したがって、僕たちのキャッチボールは、投手の僕がひたすら投球を続け、それを捕手のチョキがひとつしかないグローブで、突っ立ったままひたすら取り続ける。捕った球は地面をごろごろと転がして僕に返球するというものだった。
なぜこのようなポジションになったかと言うと、べつに僕が是非とも投手がしたいとチョキに願い出たわけではなく、それはむしろ逆で、チョキが「俺は、野球の一番の面白さは、球をブローブで捕ることだと思う。投手も打者も、実のところ捕手にサービスを提供しとるだけだ」と言って、執拗に捕手をしたがるからであった。
投げながら、捕りながら、僕たちは沢山の話をした。
「ねえ、チョキ。チョキには、好きな女子がおる?」
「おらん。殺したい大人なら、腐るほどおるけどな」
「ここだけの話、実は僕、同じクラスの女子を好きになってまったでかん。あの女子のことを考えると、なんか知らんけど、胸のあたりがムズムズするでかん」
「胸のあたりがムズムズ? 股間のあたりがムズムズとちゃうんか? 正直に言え」
「茶化すなって。真面目に相談しとるんだで」
「あはは。冗談だて。ちなみに、ケンボーの家は汲み取り便所か?」
「ちゃうよ。前の家も、今の借家も、水洗便所。なんで?」
「そうか、ならば知らんと思うで俺が教えてやる。女は、大抵俺らの歳ぐらいになると、みんな尻の穴から大量の血を出すようになる。俺の家は汲み取り便所だもんで知っとる。お母さんが出た後に便所に入ると、便槽が血まみれになっとる大惨事を、何度も目撃しとる。俺は、お母さんが何か大変な病気を患っとるのかと、ずっと心配をしとった。でも、ふたつ年上のお姉ちゃんも、ちょうど俺らぐらいの歳から、便槽を血まみれにするようになった。どうやら女は、成長すると、尻の穴から血が噴き出す生き物になるらしい」
「嘘だあ」
「嘘とちゃうて。言っとくけど、ケンボーのお母さんも、尻の穴から血を噴き出す生き物だぞ。さらに言えば、たぶんケンボーの好きな女子も、もうとっくに尻の穴から血を噴き出す生き物に成り果てとるでな。とどのつまり、ケンボーはそういう奇妙奇天烈な生き物に、股間をムズムズさせているという、さらに奇妙奇天烈な生き物ということになるでな」
「やめろ!」
「ふふふ。ケンボー。そもそもおまーは、赤ちゃんがどうやって産まれるか知っとるのか?」
「馬鹿にするな、知っとるわ。男と女が結婚をしてしばらくすると、女のお腹に命が宿る。赤ちゃんが大きくなったら、医者が女のお腹を切って、赤ちゃんを取り出す。違うか」
「うん。男女の愛みたいなものが、女の体に何かしらの作用をして、女のお腹に赤ちゃんが宿るというところまでは、たぶん正解だろう。でも医者がお腹を切って赤ちゃんを取り出すという行為が、どうも怪しい。だって、俺のお母さんのお腹には、お腹を切った跡がない。ケンボー、お前のお母さんの腹には、赤ちゃんを取り出した跡の、でかい縫い目とか残っとるか」
「う~ん、そんな縫い目は、見たことがないなあ」
「だろ? だもんで、女の便槽血まみれ事件と関連付けて推測をすると、俺は、赤ちゃんは女の尻の穴から産まれてくるのではないかと秘かに睨んどる」
「おい、チョキ、むちゃくちゃ言ったらいかんてえ」
「むちゃくちゃと違うわ。これは現実だ。俺も、ケンボーも、お母さんのこれでもかとひろがった肛門から、糞だらけになって産まれてきたんだ。ケンボーの好きな女子が、もしもおまーと結婚をしたら、いずれはその女子も、これでもかとひろがった肛門から糞にまみれた二人の愛の結晶を――」
「やめろってば!」
――――
神社の裏の者たちは、自分たちの森に、ある日を境に頻繁に出没するようになった僕を、あからさまに訝しんだ。大人も子供も老人も、僕が挨拶をしても、挨拶を返してくれる者は一人もいなかった。
「出ていけ、よそ者!」と叫んで、草むらから小石や小枝を僕に投げつけて逃げる幼稚園児がいた。僕の背後から突然「なにを見とん、こらぁ!」と怒号を浴びせ、振り返って「誤解です。僕はあなたのことなど一切見ていません」と答えても、「嘘こけ! こっちを睨んどったがや! 俺にガンつけとったがや!」と荒唐無稽な因縁をつけてくる学ラン姿のお兄さんもいた。
「やめたれ! おまー分かっとるんか! こいつ、俺の連れだぞ!」
森の中で僕に危険が迫るたびに、チョキは身を呈して僕を守ってくれた。
「ケンボー、気にするな。ここではケンボーがよそ者だけど、森から一歩出れば、街では俺らがよそ者だ」
いつも肩をポンと叩き、そう笑って僕を慰めた。
「チョキ。僕、つくづく思う。『よそ者』って嫌な言葉だね。太古の昔から代々ここに住んどる家族なんて、この森にも、あの街にも、絶対におらんのにね。はじめはみんな、よそからやって来たはずなのにね」
「まあな。確かに、どいつもこいつも、狭苦しい世界で、ケチ臭いことを言っとるわ」
「僕も、チョキも、この国で生まれてこの国で育った仲間だがや。街のやつらも、神社の裏の連中も、この国で一緒に生活をしとる仲間だがや」
「たはは。本当に、ケンボーは面白いやつだな。確かに、おまーの言う通りだわ。でもな、ケンボー、おまーは胸を張って『自分は日本人だ』と言えるかもしれんけど、世の中には口ごもるやつもおる。この国で生まれて、この国で育った同じ人間なのに、胸を張って日本人だと言えんやつもおるんだわ」
「国なんてちっぽけな枠は、いっそのこと取っ払ってしまえばいい。僕たちは地球という惑星の上で共に生きとる仲間だ。僕たちは、みんな地球人だ」
「うーん。どうかなあ……。俺の世界はそこまで広くないなあ。悪いけど、ケンボーの言っとることが、もの凄く嘘臭く聞こえるわ。俺の世界は、まずこの森であり、次にこの街であり、次に県で、次に地方で、やっぱり最後は国だなあ。たぶん国という枠が俺の世界の限界かなあ。俺は自分をアジア人だと思ったことはないし、ましてや地球人だなんて思ったことは一度もない」
「しょぼくれたことを、いつまでもほざいとったらいかんてえ。ほれ、この広い空を見てみん。空には枠なんてないぞ、縄張りなんてないぞ、国境なんてないぞ」
「でもなあ……枠や縄張りや国境があるからこそ、人は空の広さを感じられるのかもしれんしなあ……」
チョキと話していると、自分が、表面上物事を深く考えているように見せているだけで、いかにその考えが実は幼稚で浅はかであるかを、嫌と言うほど思い知らされた。そして、一見して破天荒なチョキが、意外にも自分の考えを残酷な現実と擦り合わせて真正面から捉えていることに驚かされた。恋愛のこと、勉強のこと、家庭のこと、進路のこと、この国の未来のこと、僕たちは毎日、日が暮れるのも忘れて夢中で話し合った。
――――
「おい、ケン、喜べ。来年の夏には、マイホームに戻れるぞ」
昭和六十四年は7日で終わり、年号は平成となった。ヘイセイ……聞き慣れないだけだとは思うけど、……変なの。三学期が始まってひと月が過ぎたある日の夕方。帰宅した父が、居間でテレビを見ている僕に上機嫌で話しかける。
「え、どういうこと?」
「神社の裏の地区に住む住民の立ち退きが決定した。市会議員であるお隣の加藤さんの政治力で、来年の夏までを目途に、彼らは強制的にあの森を追い出される。必然的に街の治安は良くなる。お父さんがこの街にいる必要は無くなる。必ず異動命令が出る。以前住んでいたあの閑静な住宅地に帰れる。また愛するマイホームで過ごせる」
「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと待ってよ、お父さん。ほしたら、追い出された彼らはどこへ行くんだて?」
「なあに、心配するな。別に野晒しにするわけではない。あの集団の勢力を衰えさせる目的で、それぞれ市内の離れた場所にバラバラに住居を与える計画らしいで」
「アホかあ! 僕は承知せんぞ! この街の治安が悪いのは、神社の裏の連中のせいじゃない。ギュウギュウ詰めに建っている工場のせいだ。川や、空や、緑を汚した、ここに暮らす大人たちのせいだ。よく聞け。僕を虐めたのは、この街に住む者だぞ。その僕を助けてくれたのは、神社の裏の者だぞ。そこんとこ分かっとるんか!」
「ケン! 親に向かって何だ、その口の利き方は! いつからそんな子になった!」
「黙っとけ! 殺してまうぞ、馬鹿野郎!」
頬へめがけてビンタを張ろうとする父の小脇を巧みにすり抜け、僕は家を飛び出した。「待ちなさい、ケン!」背後から母が呼び止める声がする。我が家の騒ぎに反応をして、お隣のジョンが、また無駄吠えをしている。
一日の活動を終えた工場群が、闇に染まろうとしている。昼と夜とが、絵の具のパレットの広いところで、不本意に混じり合ったような複雑な空だ。
僕は走った。チョキに会いたい。チョキ、大変だ、この街の連中が、君や神社の裏のみんなに取り返しのつかない事をしてしまった。君に謝りたい。チョキ、ごめんね。本当にごめん。鼻の頭がつんと痛い。馬鹿。僕が泣いてどうする。辛いのは僕じゃない。チョキのほうだ。今にも泣き出しそうな自分を叱咤し、涙を堪えて全力疾走をする。気が付くと、チョキの約束を破り、単身で神社の裏の小道を走っていた。
夜の始まりの神社の裏の小道を、一人きりで奥へ奥へと進んで行く。すっかり見慣れた景色のはずなのに、チョキが隣にいないこの森は、まるで別世界だ。カラスの鳴き声が、めちゃんこ怖いでかん。草木のざわめきが、めちゃんこオドロオドロしいでかん。チョキの後ろをいつも気なしに付いて歩いていたので、道の分岐店に差し掛かると、彼の家がどちらの方向にあったのか迷ってしまう。
幾度か道に迷い、何とかチョキの家に辿り着く。すると、家の前では、角材や鉄パイプを握った五人の痩せた大人たちが、地面に倒れた一人の青年を取り囲んでいた。
集団リンチだ。
頭から血を流して倒れる青年の傍らに、彼が持っていたと思われる高級なカメラが、フイルムを抜き取られて転がっている。青年の口元から粘っこい血液が、ぷくっと大きな泡になって弾けた。全身が静かに痙攣している。
「ひいい」
合わない歯の根の隙間から、思わず恐怖が漏れた。僕の小さな悲鳴に反応した大人たちが、一斉にこちらを振り向く。
「んー、誰だ、おまー」
中でも一番凶悪な顔面の大人が詰め寄って来た。全身から、すーっと血の気が引いて行くのが分かる。僕は立っていられなくなり、その場にへたり込む。
「知らんのか。こいつ、おまーんとこのガキが最近連れて歩いとる、よそ者だがや」
周囲の大人が、凶悪な顔面に声を掛ける。
「知らん。まあ、知らんけど、面倒臭いで、このガキもやってまうか」
ほれ、ガキ、立て。ちょっとこっちにおいでん。凶悪な顔面の冷たい手が、僕の細い腕を掴み上げる。殺される。百パーぶっ殺される。「面倒くさいで」という随分とアバウトな理由により、只今より僕は、あの青年のように鶏の糞まみれの土の上に倒れて口から血の泡を吹き、十二歳という短い生涯を終えることになる。
「おいおいおい! ケンボー、あれほど一人で来るなと言ったがや!」
その刹那、バラック小屋の奥から、慌ててチョキが飛び出してきた。チョキは、凶悪な顔面の大人から強引に僕を奪い、僕の盾となって相手の前に立ちはだかった。
「こいつは、俺の大切な連れだ。頼む。勘弁したってくれ」
「ふん、鬱陶しいガキめ。そいつは、俺らのリンチを目撃した。ついでにやってまうで、ほら、こっちよこせ」
「こいつに指一本でも触れてみやあ、おっさん、燃やすぞ」
「こら、ガキ、いい加減にしやあ。それが実の父に向かって言うことか」
「……」
「お? どうなんだ? 親に向かってそんな口の利き方していいんか? お?」
「……」
「ほら、答えろ。黙っとらんで、答えてみやあ」
「……お父さん、生意気を言って申し訳ありませんでした。でも、お願いです。こいつのことは勘弁してやって下さい。自分はどうなっても構いません。でもこいつは許してやって下さい」
チョキは、消え入りそうな声でそう言うと、相手に深々と頭を下げた。嘘だろうチョキ、どうした、いつもの威勢の良さはどこへ行った。はじめて見る彼のあまりにも弱々しい態度に、僕は激しく動揺した。
「……ふん。目障りだ。三秒でここから消えろ。そしたら勘弁したる」
「ありがとうございます」
「……あ、そうそう。おい、ガキよ。おまーさん、最近庭の草むしりを、さぼっとらんかあ? ちょいちょい雑草が生えとるぞ。俺は綺麗好きだでな。今後手を抜いたら殺すぞ」
それ今言う? という忠告を、呂律の回らぬ口調でブツブツと呟き、凶悪な顔面は握っていた鉄パイプを振り上げつつ、僕たちにくるりと背中を向けた。
「ケンボー、見たらかん!」
チョキが、咄嗟に僕を抱きしめ、眼前の場景を覆い隠くす。僕は、チョキの胸に抱かれながら、重く鈍い音と、断末魔の叫び声を聞いた。ケンボー行くぞ、振り向くな。強く手を握ったチョキに引っ張られ、僕たちはさっき来た小道を戻る。
――――
足早に先を歩くチョキを追いかけ、僕は彼に質問をした。
「ねえ、チョキ、さっきリンチをされていたのは誰?」
「知らん。どうせ三流雑誌の記者か、ジャーナリストとか抜かすアホだろ。時々ああいうアホが無断でここに侵入をして、俺らの生活を盗撮しとる。アホが、捕まって、アホが」
深海のような夜の森を抜け、僕たちは神社の裏手まで出た。危うく殺されるところだった。でもここまで来ればもう安心だ。視界に広がる工場群上空のまばらな星屑と、町内のまばらな民家の灯りを見て、ほっと胸を撫でおろす。
それから、ちょうど森の入り口のところで、一匹の大型犬を連れた大人とすれ違った。その大人にも、その大型犬にも、見覚えがあった。大人は、森の中でチョキと遊んでいる時に何度か見かけた顔だった。そして、大型犬のほうは――
「あれ、今すれ違った犬、ジョンじゃない? 間違いない。僕の家のお隣の、市会議員の加藤さんが飼っているシェパードのジョンだよ。え、え、え、どうしてジョンがここにおるの? どうしてジョンが、神社の裏に住む大人に連れられて森の中に入って行くの?」
「見せしめだろう。聞くな。知らん」
やがて僕たちは、神社の境内にある苔むした神楽殿の、朽ち果てた板の上に腰を掛け、しばらく黙って夜の静寂に身を委ねていた。チョキが、神妙な面持ちで考え込んでいる。こちらから話しかけるのは、何やらはばかられる空気だった。
「ケンボー、今日でお別れだ。もうここへは来るな」
ややあって、チョキが、そう唐突に結論を述べた。
「噂には聞いとると思うけど、俺らの立ち退きが決まった。この街のお偉いさんたちに強引に決められてしまった。俺のお父さんをはじめ、神社の裏の連中ときたら、頭チンチコチンだわ。どいつもこいつも、怒りが収まらんと殺気立っとる。もうここは危ない。二度と来たらいかん。分かるな、ケンボー、分かってくれ。俺たちは、今日でさよならだ」
チョキが、自分を諭すように、僕を諭す。
「おまーら、たーけか! どたーけか! 何かと言えば、おまーらはすぐに暴力だ。そんな無駄な抵抗をして何になるの! この街が良くなるための立ち退きなのだから、黙って立ち退いたらええでしょう! この街の連中だって、別におまーらを取って食おうって話じゃないで! おまーらがこちらの要望に大人しく従ってくれさえすれば、この街の連中も、神社の裏の連中も、みんな仲良く、平和に暮らせるがや!」
やりきれない気持ちから、僕は、ついカッとなり、横にいるチョキのヨレヨレの白いランニングシャツの胸座を掴んでしまった。
「……なんだあ、その言いぐさは。ケンボー、俺ショックだわ。ふ~ん、やっまりおまーも、俺らをごく自然に上から見下せる人間だったんだなあ」
氷のように冷めた表情で、チョキが、僕のジャンパーの胸座を静かに掴み返す。
「ちゃうて! 変な意味に取るなて! なぜおまーらはそうやって直ぐにひねくれる! なぜそうやっていつもいじける!」
「ここで生きている、ただそれだけで差別される俺たちの気持ちが、おまーに分かるんか!」
僕たちはしばらくそのまま睨み合い、少し経って、ほぼ同時にお互いの胸座から手を離した。
「……分かったよ。もうここへは来ない。でもチョキ、僕たちが二度と会えないってことじゃないよね。僕のお父さんが言っていたよ、神社の裏の連中は、みんなバラバラに離れて、市内のあちこちに住むのだろう? いずれみんなこの街に溶け込んで、僕らと同化する計画なのだろう?」
「うん、そういう選択をする連中もおる。でも俺の家は違う選択をした。ごめんな、ケンボー、俺は、この国を出て、外国で暮らす」
チョキが、工場群の隙間から僅かに垣間見える空と大地の境目を見詰めている。
「外国? 外国ってどこ? アメリカ? フランス? アフリカ?」
首を左右に振り、工業地帯でかろうじて見つけた申し訳なさ程度の地平線を眺めながら、彼は答えた。
「ソコクだ」
「ソコク?」
「うん、両親が言うには、俺は、ソコクという国へ引っ越すらしい」
「そんな国、聞いたことないよ。どこにあるの?」
「知らん」
嘘だ。チョキと離れ離れになるなんて、僕は信じない。目頭が熱い、涙が零れた。見ると、チョキも大粒の涙を流して泣いている。
「なあ、チョキ、僕も連れてってちょ。僕もこんな国を飛び出して、チョキとソコクという国で暮らしたい」
「たーけ。無茶言うな」
「な、頼むよ、僕をソコクに連れてってちょ」
「俺を困らせたらいかん」
「どうして僕をのけ者にする! 僕がよそ者だからか! 僕が日本人だからか! 日本人を差別するな!」
「わはははは。ケンボー。やっぱりおまーは、面白いやつだなあ」
笑い泣きをするチョキの鼻から垂れた一本の鼻水と、泣きじゃくる僕の鼻から垂れた二本の鼻水、合計三本の鼻水が、神楽殿のささくれた板の上に落ちた。
「なあ、チョキ。僕は今夜、一晩かけてこの街の大人たちの目ん玉を片っ端から突いてまわるからさ。だもんで、お願いだで、一緒にソコクに連れて行ってちょーすか。君と共に、この下らない世界を切り裂き、このどうしようもない世界をぶち壊したいんだ」
僕は右手でVサインを作り、それでチョキの眼球を突き刺す真似をした。
「ケンボー、ちゃうぞ。このチョキマークは、世界を破壊するマークではないぞ。これは、ピースマークと言って、平和への願いを表すものだ。いぇい、いぇい」
いつか僕がチョキに言った言葉だった。彼は、両手でVサインを作り、遠足で記念写真でも撮っているみたいに、ふざけたポーズを決める。それは思わず拍子抜けするほど可愛らしくて、底抜けに明るい笑顔だった。
「なあ、ケンボー。俺は、今回のことでつくづく思った。やっぱり暴力で世の中は何も変わらん。だから俺は、今この瞬間から、このチョキマークを自分の頭の中にぶち込む。これからは、頭の中でこのハサミを使う。俺はソコクでたくさん本を読んで、たくさん勉強をする。そして、絶対に偉くなってやる。偉くなっていつかこの下らない世の中を変えてやる」
「たくさん本を読んで、たくさん勉強をする……」
「これからの喧嘩は勉強だ。破壊に勝る暴力は学問だ。ケンボーは、この国でそれをやれ」
「偉くなって世の中を変える……」
「そうだ、俺たちが変えるんだ。おおお、考えただけでワクワクしてきた。よっしゃあ、俺たちが世の中を変えたその暁には、俺はソコクの空からこのピースマークをケンボーに贈る。ケンボーは、この日本の空から俺にピースマークを贈ってくれ。いいな、ケンボー、約束だ。ほら、ケンボー、いつまでメソメソしとるの。泣くな。男と男の約束だ、守れ、ケンボー」
「分かった。約束だ」
僕たちは、涙を拭いて、お互いのピースマークを、空高く掲げた。二つのピースマークに、百点満点の未来を誓った。
森の奥から、大型犬の野太い鳴き声が聞こえる。ジョンだ。
尋常ではない威嚇の鳴き方で吠え続けている。何かを察したチョキが、急いで僕の耳を両手で塞ごうとした。
でもそれを待たずして、かん高い犬の悲鳴が虚空にひとつ響いた。
以後、鳴き声はぴたりと止んだ。
――――
冬を引っ掻いた春が、脱皮して夏になった。黒い学生ズボンに白い開襟シャツ姿の僕は、引っ越し業者が一切合切を運び出したガランとした自室に突っ立っている。
「ほら、ケン、何をボ~ッとしとるの。忘れ物の最終チェックは済んだの? 今日は引っ越しのついでにあっちの中学に転校の手続きに行かなかんで。はやく車に乗って」
「おい、ケン、今晩は勝手知ったる我が家で、お寿司パーティーと洒落込むでな。しっかりお腹空かせときゃーよ」
長らく空き家にしていたマイホームにやっと戻れるとのことで朝から快活な両親が、そそくさと自家用車に乗り込む。荷積みを完了した引っ越し業者のトラックが、ひと足先に出発をする。靴を履き、靴紐を縛り、深い深呼吸をひとつして、僕は玄関を出た。
「ジョ~ン。ジョ~ン」
あらゆる生活感を喪失し、無機質な木造建築物と化した借家から屋外へ出ると、大家の加藤さんが、また近所を徘徊している。
「加藤さん。おかげさまで、本日この街を立つことになりました。今日までいろいろとお世話になりました」
両親が、あらためて車外へ出て、背筋を伸ばし、深々と頭を下げた。
「ねえ、あなた、うちのジョンを見かけませんでしたか? どなたか、うちのジョンを見かけませんでしたか? おかしいなあ、ジョンがおらんです。ジョンがどこにもおらんのです」
愛犬の無残な死体を、自宅前に晒されたあの日から、加藤さんは、すっかり様子が変になってしまった。気の毒に……。そう言って父が再度運転席に乗り込む。
「どなたか、うちのジョンを見かけませんでしたか? どなたか、うちのジョンを見かけませんでしたか? どなたか……」
熱に浮かされるようにうわごとを言い、加藤さんがおぼつかない足取りで僕たちの前を通り過ぎる。それを憐みの目で見送り、母が助手席に乗る。僕は後部座席に乗り込み、ゆっくりと瞼を閉じた。
「たくさん本を読んで、たくさん勉強をする。偉くなって世の中を変える。たくさん本を読んで、たくさん勉強をする。偉くなって世の中を変える。たくさん本を読んで……」
僕も、あの日から、うわごとを言い続けている。僕は、僕なりの熱に、これからもずっと浮かされ続けるつもりだ。
運転キーを回す音が、眉間の辺りから聞こえ、エンジンの振動が、尻の穴から体内にじんわりと染み渡ると、僕は前進を開始する。
瞼を開くと、そこに日本。
瞬きのたびに、いつだってそこに日本。
神社の裏の者たちは、それぞれの場所へ散った。鬱蒼とした森は、伐採され更地になった。周囲を丸裸にされた神社だけが、八月の炎天下に、寒々しく佇んでいる。
本作は、過去に投稿した「この国の中心で『日本人を差別するな』と叫ぶ」を加筆・修正した作品です。