私の婚約者は脳筋である
伯爵令嬢であるエメライン・ハーバーにはクロム・ラングレイという婚約者がいる。
騎士団長であるラングレイ伯爵の息子クロムは、見た目だけなら人形のように整っており、ビロードのような漆黒の髪にカーネリアンレッドの瞳が素敵だと令嬢達から人気があった。
灰銀色の髪にターコイズブルーの瞳をしたエメラインもそれなりに綺麗ではあるが、美し過ぎるクロムの横に立つと霞んでしまう。
そのせいで、心無い令嬢からは嫌味を言われたりしたこともあった。
しかし大抵の令嬢はクロムと話すと、エメラインに同情的な視線を向けるようになるのである。
何故なら、クロム・ラングレイは極度の脳筋だったからだ。
「生徒会の仕事を押し付けられた? よし、殴りに行こう」
「素行を注意したら逆ギレされた? うん、殴りに行こう」
「急な呼び出しで宿題が終わらなかった? じゃ、殴りに行こう」
黙っていれば芸術作品のように美しい男がほざく言葉がコレである。
ラングレイ伯爵家へ兄と二人で遊びに来たついでに、ちょっと愚痴っただけのつもりだったが、クロムの脳内には殴るしか選択肢がないらしく、エメラインは何でも暴力で片付けるのはよくないと、説教じみたことを言わなくてはいけなくなった。
「だめ! 何度言えばわかるの? そうだ、王都へ行こう! みたいな旅客事業者の宣伝じゃないんだから、すぐに人を殴ってはいけないの!」
「そうなのか? エメラインが言うならやめるけど……」
エメラインの瞳を覗き込んだクロムは、聞き入れてはくれるが不服そうに口を尖らせる。
ちなみに生徒会の仕事を押し付けてきたのは公爵令息であり、逆ギレしたのは教会の聖女、そして呼び出しをしたのは国王陛下である。
一人でも殴れば即処刑だがクロムならやりかねない。
「は~、本当にクロムといると毎日が刺激的だわ」
「そうか? 楽しんでもらえて何よりだ! じゃ、気分も上がったことだしちょっと上腕二頭筋を鍛えてくるわ!」
嫌味を込めて言ったのに、当の本人は褒められてると思ったのか、いい笑顔で庭へ設置された鉄棒の方へ駆けて行った。
クロムは脳筋だがエメラインの注意はちゃんときいてくれる。
今だってエメラインのための犯罪者発言(きっと本人はそこまで考えてはいないが)なので、実を言えば嬉しくないわけではない。
けれど、エメラインとてお年頃。
本当は婚約者として、もう少し甘い雰囲気を味わいたいのである。
殴りに行こうじゃなくて、肩を抱いて優しく慰めてくれるとか、髪を撫でて労ってくれるとか、砂糖を吐きそうな体験をしたいのだ。
けれど脳筋の婚約者相手にそれは無理な話だということは、嫌というほど解っていた。
「でも、脳筋でも甘くなくても、好きなんだもん」
走り去る背中へ向けて囁くが、当然クロムに聞こえるわけはなく。いや、聞こえていたとしても甘さもへったくれもない雰囲気で「おう! 俺も好きだ! 婚約者だからな!」とか言いそうである。
鉄棒の所でエメラインの二つ年上の兄と逆手懸垂を始めた婚約者を眺めつつ、エメラインは手土産に持参してきたおはぎを頬張り溜息を零した。
◇◇◇
美しい容姿をしたクロムの脳が、まるっと全て筋肉だということに気付いたのはエメラインがまだ7歳の頃である。
ラングレイ伯爵家で開かれた茶会に母親と一緒に出席したものの、退屈な夫人同士のおしゃべりにエメラインはすっかり退屈していた。
それは他の子供も同じだったようで、母親の傍から離れると、子供たち同士でかくれんぼをしようということになる。
既に何度かラングレイ伯爵家を訪れたことがあったエメラインは、息子であるクロムとも仲が良かった。
他の子供たちがめいめい隠れる場所を見つける中、エメラインとクロムは一緒に隠れることにして、どこがいいかと辺りを見回す。
「俺、絶対誰にも見つからない場所思いついた!」
突然、閃いたとばかりにエメラインの手を引き、クロムはズダダダダッと茶会が開かれている方へ走り出した。
そっちには隠れる場所なんてないのにと首を傾げながらも、引き摺られるようにエメラインが連れて行かれた先は、クロムの母親がいるテーブルの前。
「母上、ちょっと立ってもらってもいいですか?」
息子のお願いに、不思議そうにしながらも立ち上がった伯爵夫人は次の瞬間絶句し、親子のやり取りを微笑ましく見ていた周囲は固まった。
「ほら、早く入れってエメライン! 見つかっちゃうだろ!」
「ひぃっ!」
声にならない悲鳴をあげたエメラインの視線の先では、母親のドレスの裾を膝のあたりまで持ち上げたクロムが真剣な顔で急かしてくる。
ちなみに貴族の女性はあまり素足を晒さない。
というか女性は足首まで隠れるドレスを着用するのがデフォのこの国で、素足を晒すのは下着で外を歩くようなものであり、幾らこの場に大人の男性がいなくとも相当に恥ずかしいことであった。
「ヒュッ」
誰かが声を吞んだ瞬間、バキ、ドコ、ズバンッという、聞き慣れない鈍い音が響き、気付けばクロムは沈んでいた。
「うふふふふ。バカ息子がとんだお目汚しをしてしまって失礼」
笑って周囲へ謝罪した伯爵夫人だったが瞳は全く笑っていない。
嫋やかにしていてもさすが騎士団長の妻というべきか、夫人が手にしていた綺麗な扇は無残な姿となって原型を留めておらず、足元には息子が呻いている。
ぬおおお、と頭を抱えて悶える様子にエメラインが心配になる中、クロムはすぐにむくりと起き上がるとニパッと笑った。
「母上、扇を使うとは新技ですね? 是非ご教授願いたいところですが、今はかくれんぼの勝負中。たかがかくれんぼ、されどかくれんぼ。負けるわけにはいかないのです!」
なんか尤もらしいことを言ってはいるが、殴られた意味を全く理解していないクロムが、またしてもスカートへ手を伸ばそうとしたのを、夫人が素早いステップで躱す。
「こんの、バカ息子がぁ!!!!!!」
夫人のコークスクリューパンチが見事に顔面にクリーンヒットし、クロムが天高く舞い上がった(しかしクロムは楽しそうに笑っていた)のを、エメラインも周囲も遠い目をして見ているしかなかった。
結局お茶会はそのままお開きとなり、エメラインも母親に促されるままそそくさと退出したが、いつも優しい伯爵夫人の憤怒の顔は今思い出しても震えがくるほど怖ろしいもので、あの晩から暫くの間一人で寝られず両親のベッドへ潜り込むはめになったものだ。
その惨劇のお茶会から数日後、ハーバー伯爵家へ遊びにきたクロムは珍しく複雑な表情をしていた。
「正直、なんで母上があんなに怒ったのか今でもわかんないんだよな。あの後、何でか父上にもボコボコにされて、暫く外出禁止令まで出されたし」
そう言いながら顔を擦ったクロムの頬は、少し腫れている。
夫人のパンチの後、伯爵からも鉄拳制裁を受けたらしいが、腫れても相変わらず美しい顔を見ながら、それで遊びにくるのが数日空いたのかとエメラインは納得する。
夫人を溺愛している伯爵なら、それも仕方ないだろうとエメラインは思ったが、クロムが今でも殴られた理由が解らないと言ったことが、ちょっと心配になった。
「クロムって脳筋だよね」
「脳筋?」
「脳みそが筋肉ってこと」
「脳みそが筋肉!?」
驚いたのかエメラインの言葉を反芻してきたクロムに、さすがに怒るかなと思い肩を竦ませたが、彼の脳筋は見事なまでに脳筋だった。
「何ソレ、最高じゃん! 脳みそまで筋肉なら父上みたいに強い騎士団長になれるな!」
「いや、騎士団長である伯爵は強いけど脳筋じゃないと思う……」
エメラインの呟きにクロムは不思議そうに首を捻ったが、いつものように彼女の瞳を覗き込みながら頷く。
「よくわからんけど、女性のスカートは捲ってはいけないことはわかった。エメラインにする前で良かった。まぁエメラインになら殴られても全然いいし、むしろご褒美だけど」
ニカッと笑ったクロムは、どうやら考えることを放棄したようだ。
脳筋は深く考えることをしない。
自分では鉄拳制裁が出来る自信はないので、スカートを捲られなくて良かったと思いながら、エメラインのクロム脳筋説はここに確立したのであった。
そんなクロムに振り回されること10年。
なんやかやと仲が良い二人は、気づけば婚約まで結ばれていて、周囲からも既に結婚秒読みだと囁かれていた。
エメラインもそろそろ結婚式のことなどを決めようと思って、ラングレイ伯爵家へ来ていたことを思いだし、懸垂をしているクロムを呼ぶ。
すると呼ばれたクロムも何かを思い出したかのように、珍しく真面目な顔つきでエメラインの方へやってきた。
「そうだ、大事なことを言うの忘れてた!」
「大事なこと?」
脳筋のクロムが結婚式のことを考えてくれていたの? と、エメラインが食べていたおはぎを慌てて飲み込んで喜んだのも束の間、次に言われたクロムの言葉に時が止まる。
「エメライン、婚約を解消しよう!」
「え?」
言われた言葉の意味が解らず放心状態のエメラインなど気が付かず、クロムはニヤッと笑った。
「もうすぐ学園も卒業だからな! ケジメつけないと!」
ドヤ顔で言い切ったクロムに、エメラインは激しく動揺する。
そう、もうすぐ卒業だ。卒業したら結婚する予定だったはずだ。
それなのにどうして今になって婚約解消の話が出てくるのか、エメラインは足元が急速に寒くなるのを感じる。
何かの間違いか、クロムお得意の勘違いかと思い、震えそうになる声を叱咤して訊ねた。
「ク、クロムはそれでいいの? 私との婚約を解消……するの?」
「勿論!」
力強く頷かれ、エメラインは殴られたかのような衝撃を受ける。
「そう……わかった」
「本当か! やった! 断られたらどうしようかと焦った~」
問い質したら泣いてしまいそうで、淑女としてギリギリ絞り出した返事に、嬉しそうに笑ったクロムは、言いたいことだけ言うとまた鉄棒の方へ戻っていった。
その後のことはよく覚えていない。
まだ鍛え足りないと言う兄を無理やり馬車へ押し込むエメラインを、クロムが不思議そうに見ていたような気がするが、とにかく早く帰りたかった。
家に帰ったエメラインは泣いた。
泣いて泣いて、泣きまくった。
好きなのは自分だけだった。
脳筋だがクロムはエメラインに優しいし、言うことは大抵聞き入れてくれるから、お互い両思いなんだと勘違いしていた。
「あんな脳筋なんか……」
悪態を吐こうにも、好きな気持ちは変わらない。
あんな脳筋が好きなんてバカみたい、そう思うのに脳裏に浮かぶのはクロムの無駄に美しい顔ばかりで、自分に嫌気が差してくる。
八つ当たりとばかりに、誕生日にクロムにもらったクマの人形を殴ろうかと思ったが、人形に罪はないので思いとどまった。その後も文房具や髪飾り、ドレスに絵画などクロムに貰ったものを捨ててしまおうと考えたが、もったいないのでやめておいた。
翌朝、目を腫らしたエメラインの顔を見た兄(ちなみにクロムに負けない位の脳筋である)が爆笑したので、人形の代わりにグーで腹を殴ってやった。
しかし日頃からクロムと一緒に鍛えている兄の無駄に頑丈な腹筋のせいで、エメラインの方が手首を痛め、余計にフラストレーションが溜まっただけだった。
◇◇◇
エメラインもクロムも普段は学園に通っている。
しかし、腫らした瞳で学園へ行くのは嫌だし、既に卒業に必要な単位は取得済なため、エメラインは休んで不貞寝を決め込んだ。
今朝はエメラインの顔を見て笑った兄も、何で瞳を腫らしていたのか気になったのか、謝罪と共に理由を聞いてきたが、答える気持ちにはなれない。
だんまりな妹の頭をポンポンと撫でた兄が出ていったのと入れ違いで入ってきた人物に、エメラインは下唇を噛んだ。
「エメライン! 体調が優れないときいたがもう平気なのか? まだ顔がむくんでいるようだが」
まだ婚約解消の手続きが済んでいないせいか、ズカズカと部屋へ入ってきたクロムにエメラインが眉を寄せる。
大体、女性に向かって顔がむくんでいるとは失礼だ。
(そういうとこだぞ。脳筋め!)
心の中でツッコミを入れる。
しかもエメラインの体調が悪いのはクロムのせいである。
「昨日は平気そうにおはぎを食べていたけど、本当は体調が悪かったのか? だからいつもより帰りが早かったんだな。それなら言ってくれれば良かったのに」
帰りが早かったのは一刻も早くあの場を立ち去りたかったからだ。
しかし当のクロムは全く悪意なく本当にエメラインの心配をしているようで、それが無性に腹が立った。
「余計な心配は不要ですわ」
「心配が不要? ならもう大丈夫ってことだな! 良かった!」
いつものように嫌味が通じないクロムに、エメラインは怒りで引き攣らないように笑顔を作る。
「ええ、そうね」
なんとか、その言葉だけを吐き出せば、あからさまに安堵したようにクロムが言った。
「そっか~、来週の卒業パーティーには出られるんだろう? 楽しみだよな~」
ニコニコと笑うクロムにイライラが募る。
幾ら脳筋でも、それを自分に言うのは酷だろうと、エメラインは掛布の下で拳を握りしめた。
卒業パーティーは婚約者がいる場合はエスコートしてもらうことが基本だ。
しかし婚約を解消されたエメラインをエスコートしてくれる人はいない。
クロムと婚約していたことは周知の事実だったので、二人が別々に入場すれば好奇の目に晒されるのは目に見えている。
それなのに、楽しみだと屈託なく笑うクロムの顔へ(もし手元にあれば)扇を投げつけたくなったが、暴力では何も解決しないことは日頃からエメラインが彼へ諭してきたことだ。
グッと我慢して笑みを深めてやり過ごす。
(ノー暴力、ノー暴言、ノー脳筋、よ!)
呪文のように唱えながら布団へ潜り込めば、一応脳筋でも病人への配慮はできたのか、クロムがそっと退室してゆく。
足音が消えるまで聞き耳を立てていたエメラインは、布団の中でまた少し泣いた。
◇◇◇
エメラインが嫌がっても、卒業パーティーの日はやってくる。
しかもエメラインは卒業生なため欠席するわけにもいかず、散々に頭を悩ませた結果、最初から会場に紛れてしまった方が目立たなくていいかもしれないと考えた。
開始時間の随分前から会場へ乗りこみ、一人きりで佇むエメラインを見て、数名の生徒が何やらヒソヒソ話していたが、なるべく隅にある壁と一体となるよう気配を消していたため、そこまで噂にはならずに済んでいる。
このままやり過ごせそうだとホッとしたエメラインだったが、その腕をグイッと掴まれるなり、大声で叫ばれた。
「エメライン! なんでもう会場にいるんだ? 誰にエスコートしてもらった?」
声に誘導されるように集まった周囲の視線に、エメラインは舌打ちしそうになったが、こうなっては仕方がない。
「私が誰と来たかなどラングレイ伯爵令息には関係ありませんでしょう」
晒し者になることを覚悟して、にっこりと作り笑いを浮かべれば、クロムの顔が困惑に揺れた。
「エメライン? どうした? こないだから変だぞ? 何か変な物でも食べたのか?」
クロムじゃあるまいし、変な物なんか食べないわよ! と切り返しそうになるのを堪え、澄ました表情のまま扇を口元へ広げる。
暗に貴方の質問には答える義理はないと示したエメラインだったが、脳筋クロムには通じるわけもなく、焦ったように捲し立ててきた。
「落ちたものは三秒以内で食べないとダメだっていつも言ってるじゃないか! それに山菜やキノコは毒がある場合もあるから注意して食べ……」
「落ちたものも、山菜もキノコも食べていません」
淑女の動作などクロム相手に通じるわけもなかったと反省しつつ、ピシャリと途中で言葉を遮ったエメラインに、クロムが安心したように破顔する。
「そうか、それなら良かった。ん? しかし、それならどうしてエメラインは俺より先にここにいるんだ?」
今日のクロムは珍しくしつこかった。
いつもはすぐに考えることを放棄するくせに、どうしてもエメラインが先にいる理由を知りたいらしい。
きっとクロムのことだから、単純にエメラインをエスコートした相手を知りたいだけなのだろうが、出来れば放っておいてほしかった。
「ですから、ラングレイ伯爵令息には関係ありませんわ」
「関係ないわけがないだろう。それにさっきから、その全然笑ってない作り笑いと呼び方なに? 気色悪いし、気分悪い」
だから淑女に向かって気色悪いとか気分悪いとか言うな! 地味に傷つくわ! と言い返したい所を、こめかみをピクピクさせながらエメラインは我慢する。
「そう言われましても、これが貴族令嬢の普通ですから」
「だから、どうして? 何でいきなり変わった? 俺、脳筋だから、はっきり言ってくれなきゃわからないって、エメラインは知ってるだろう?」
尚も食い下がるクロムに、エメラインの堪忍袋もそろそろブチ切れる寸前だ。
「アンタが私と婚約解消したからでしょうが……」
周囲には聞こえない声量だったが、地を這うような声音で言い返したエメラインに、クロムは目を丸くする。
「え? それが理由? 意味不明なんだけど?」
「は?」
「婚約解消したから作り笑いして、名前で呼ばないの? わけわからん」
エメラインは途方に暮れたようなクロムを、唖然と見上げた。
何が、意味不明で、わけわからんだ。
意味不明でわけわからんまま婚約解消されて、途方に暮れたのはエメラインの方である。
生憎エメラインは今の状況を、いみふみこ~、わけわかめ~、と往年のギャグをかまして笑って許せるほど寛容ではない。
(脳筋でも大好きだったのに!)
エメラインの頭の中で、プッツンと糸が切れる音がはっきり聞こえた。
「いいか、脳筋! 耳の穴かっぽじって、よぉく聞け! 私はアンタに婚約解消された。つまりはフリー、だから単身この会場にやってきた! この作り笑いも、呼び方も、婚約者じゃないんだから仕方ないでしょうが! 何なの? 結婚間際に婚約解消って! そんな素振り全然見せなかったくせに! アンタなんか……大っ嫌い! もう顔も見たくない! どっか行って! もう二度と私の視界に入るな! すっとこどっこい!」
うわあぁぁぁん! と、泣き叫んでエメラインは走り出す。
言いたいことを全て吐き出したが、涙が後から後から溢れてきて止まらない。
ここまで派手にやってしまえば、もう淑女とか体裁とかどうでも良い気もするが、腐っても貴族令嬢なエメラインは、これ以上の失態を晒さないため、泣きながらも扉の方へダッシュをきめた。
しかし、もうきっと新しい婚約者は望めないだろう。
でもクロム以外なら、耄碌ジジィの後妻だろうが変態オヤジの愛人だろうが、何でもいいと思った。
ところが扉まであと5歩半に迫ったところで、エメラインの体が急停止する。
後ろから猛牛にタックルされたかのように耳がキーンとして、首と腰の骨がカックンと鳴った気がしたが、吹っ飛ばされた衝撃はなく、エメラインは固い筋肉の腕の中に抱きしめられていた。
「大嫌いって何?」
腕の中へ閉じ込めたエメラインへクロムが低い声で訊ねる。
引き寄せられたと同時に見たクロムの瞳は瞳孔が完全に開ききっており、周囲の令嬢達から悲鳴があがった。
容姿が美しいクロムは令嬢達からモテる。
が、彼にエメライン以外の女性の影がないのは、脳筋であることの他に、エメラインが絡んだ時だけに垣間見せる、この裏の顔のせいであった。
現に今、漆黒の髪の隙間からカーネリアンレッドの瞳を蛇のように覗かせたクロムは、まさに伝説の邪竜と呼ばれた暗黒竜にしか見えない。
クロムに想いを寄せる令嬢は、自分を良く見せるために大体エメラインを悪し様に言う。
だが、それがクロムを諦めるトリガーになることはあまりにも有名であった。
何故なら、好きですアピールをしても、色気で迫っても、可愛く色目を使っても、脳筋であるがゆえに暖簾に腕押し状態のクロムが、ひとたびエメラインを貶す発言を聞くと、魔獣も逃げ出すような暗黒竜を降臨させるからだ。
「今、エメラインのこと悪く言った?」
一応質問しているが、握っていた鉄アレイをグニャリと半分に折り曲げ、瞳孔全開で訊ねるクロムの言葉のルビは「死にたいんだな」にしか聞こえない。
だから令嬢達はクロムと話すと恐怖と共にキッパリ諦め、彼の重い愛に気付かないエメラインへ、同情的な視線を向けるようになるのだ。
何せエメラインも結構な天然なのである。
「クロムがあんこくりゅう? 確かに竜みたいにしなやかな筋肉してるけれど、そんなにあんこ好きだったかしら?」
令嬢達の間でクロムが暗黒竜だと噂された時に、エメラインがかました発言がコレだ。
違う! あんこ食う竜じゃない、暗黒竜だ! と全員が思ったが、エメラインが不思議そうに首を傾げる後方で、クロムがカーネリアンレッドの瞳を獰猛に光らせていたので、誰も訂正できず仕舞いだった。
ちなみにこの日から、エメラインはラングレイ伯爵家へ持参する手土産を、おはぎかあんこ玉ばかりにし、それを伝え聞いた令嬢達から益々同情の眼差しで見られたのは言うまでもない。
そんなクロムが今、エメラインにだけはひた隠しにしてきた表情を曝け出している。
令嬢達の間で震撼が走る中、クロムの腕の中でエメラインは藻掻いていた。
「離して!」
「いやだ。単身来てたのは安心したけど、大嫌いって何? それにエメラインがフリーって何?」
「大嫌いは大嫌いよ! フリーもフリーって意味よ!」
まるで説明になっていないが、エメラインだって頭の中がごちゃごちゃなのだ。
もうこんな所にいたくないのに、がっちりと抱え込まれた腕がビクともしないので、いっそ噛みついてやろうかと、エメラインが口を開けた時、頭上から悲痛な声が聞こえた。
「……そんな……エメラインは俺と結婚するんだろ? いつも小さい声で脳筋の俺でも好きって言ってくれてただろ? な?」
恥ずかしいので、いつもクロムが離れた時や、誰かと談笑している時に呟いていたのだが、聞こえていたのか! とエメラインが脳内で吐血する。
恥ずか死ぬとはこういうことかと、叫びたい衝動に駆られたエメラインだったが、縋るようなクロムの言葉に違和感を覚え、視線を上に向け彼の顔を凝視した。
(何でこんなに狼狽えている? 何でこんなに、わけわかんないって顔になってる?)
エメラインから拒絶され開ききっていたクロムの瞳孔は、既にすっかり鳴りを潜め、カーネリアンレッドの瞳には生気がない。
その不安そうな眼差しが、かくれんぼ事件で母親と父親から鉄拳制裁を食らった後に見せた顔と重なって、エメラインは目を見開いた。
「………………ねぇ、何で婚約解消したのか聞いてもいい?」
「……エメラインと婚約じゃなくて結婚するためだけど?」
何を当たり前なことを? と怪訝な顔で答えたクロムに、周囲から今度は別の種類の悲鳴があがる。
「ひっ!」
「うそ……」
「バ……脳筋って、そこまで?」
最後、明らかにバカって言いかけて慌てて脳筋に変えたであろう相手に、エメラインはよく言い直せたと褒めてあげたくなった。
脳筋だが伯爵令息であるクロムを、一般生徒がバカ呼ばわりしては差し障りがあるのである。しかし言いたい気持ちは痛いほどわかった。
「普通、結婚するのに婚約解消はしないから」
諭すように、というか、脱力したように呟いたエメラインに、クロムはまだ納得できていない様子である。
「え? そうなのか? でも結婚するのに婚約してたら、二重契約になっちゃうだろ? だから一旦解消してだな……? ん? 何か俺、おかしなこと言ってるか?」
さすがのクロムも、周囲から受ける憐みと異星人を見るような視線に気が付いたようで、エメラインへ首を傾げる。
「あ~、うん。大丈夫。クロムが予想以上にバカだったから呆れてるだけ」
なんかもう、考えるのがバカらしくなったエメラインは、バカらしいだけにバカにバカだと言い切ってやった。
ちなみにエメラインはクロムと同格の伯爵令嬢なので、身分的な問題はない。
とはいえ面と向かってバカ呼ばわりは普通に失礼であるしモラル的な問題もあるが、我慢できなかったのだ。
だがバカと言われたクロムは不服そうに顔を顰める。
「は? 俺は脳筋なだけでバカじゃない! エメラインもいつも脳筋だって言ってるだろ? 俺はバカじゃない!」
「そうね……そうだったわ……クロムが脳筋だってこと解ってたはずなのに……」
そうなのだ。
エメラインの婚約者は脳筋なのだ。
頑なに本人がバカとは認めないが、脳筋であることは自他ともに認める公式ライセンスなのである。
ただ今回はエメラインの想像を上回る脳筋っぷりだったから、散々振り回されてしまっただけなのだ。
答えが解れば、不安はなくなる。
エメラインはクロムが好きで、クロムもエメラインとの結婚を望んでいる。
二人の行き先は、しっかりハッピーエンドだ。
しかし何ともやりきれない脱力感に襲われて、エメラインは遠くを見つめた。
そんなエメラインに何故かクロムは上機嫌になると、嬉しそうに破顔した。
「お? やっと名前で呼んだな! なんかよくわからんが反抗期が終わって良かった。でも、もう二度と大嫌いとか言うなよ? 俺はエメラインが大好きだから、早く結婚しような!」
結局、また考えることを放棄し、反抗期で済ませたクロムに、エメラインも思考を止めた。
クロム以上にバカだな、と自分で思うが、好きなものは好きなのである。ついでに両思いも勘違いではなかったらしい。
「そうね。なんか考えるだけ無駄だって漸く気づいたわ。うん」
「よっしゃ! すぐに結婚式の準備だ!」
エメラインが自分に言い聞かせている言葉を結婚の了承と受け取ったクロムに、周囲は完全に引いている。
けれどクロムの奇行に慣れているエメラインが幸せそうに笑ったので、これでいいのだと頷き合った。
触らぬ『あんこ食う竜』に祟りなしってやつである。
こうして皆の心に脳筋の恐怖を植え付けた卒業パーティーから数日後、エメラインはクロムの筋トレ仲間の兄を連れずに、一人でラングレイ伯爵家を訪れていた。
「何かあったら暗黒竜に対抗しようと鍛えたけど無用な心配だったな」
珍しく一緒に来ない兄を不思議に思ったエメラインが首を傾げると、兄はそう言って笑った。
兄の言ってる意味がわからず、やっぱり脳筋は理解できないとエメラインは思ったが、兄がいい笑顔で見送ってくれたことは嬉しくて、ニコニコしながら馬車へ乗り込みクロムの元へ向かったのだった。
ちなみに数日かかったのは、パーティーでクロムにタックルのように抱き着かれたため、むち打ちになっていたからである。
耳キーンと骨カックンは伊達ではなかった。
ついでに騒動を聞いたラングレイ伯爵夫妻は、玄関先でスライディング土下座と息子を両側から殴るという離れ業を一糸乱れず決めてみせ、謝罪を受けたエメラインは恐縮するやらクロムを心配するやらで、オロオロしっぱなしであった。
一方殴られたクロムは、やっぱり理由は解らなかったようで、キョトンとした顔をしていた。
しかしエメラインを怒らせたことは猛烈に反省しているようなので、夫妻もそれ以上息子へ鉄拳制裁を加えることはせず(エメラインが必死に止めたことが大きいが)、二人きりにしてくれたのだった。
「俺は脳筋だけどさ、普段は淑女なのに卒業パーティーで絶叫して泣き喚いたエメラインも結構破天荒だよな」
「グハァ!」
せっかく二人きりになったというのに、相も変わらずデリカシーの欠片もないクロムの言葉に、お土産のあんこ玉を食べていたエメラインの口から淑女らしからぬ声が漏れる。
(だから、傷口を抉ってくるな! そういうとこだぞ! 脳筋!)
そう思って睨みつけたが、エメラインの視線を受けてもクロムはどこ吹く風で、サラリと惚気た。
「ま、そこも可愛くて大好きなんだけど」
予期してなかった甘い言葉に、エメラインの心臓がドキリと跳ねる。
エメラインの反抗期(とクロムは思っている)があってから、ハーバー伯爵家へ毎日お見舞いに来ていたクロムは、好きだの愛してるだのの言葉を頻繁に言うようになっていた。
ついでに甘い雰囲気も醸し出すようになっていて、今も顔を上げれば真剣な瞳をしたクロムの(両頬がちょっと腫れた)美しい顔が近づいてきて、エメラインは瞳を閉じる。が……。
「あっ! エメライン、瞼の所に黒子がある! すげ~、閉じなきゃわかんない位置だから全然気づかなかった!」
エメラインの瞼を覗き込んで、はしゃぐクロムに全力で力が抜ける。
全力で力が抜けるって何だ? と思うが、まさしくエメラインは全力で力が抜けたのだから仕方ない。
「い、今、今いい雰囲気だったでしょ? だから、そういうとこだぞ! 脳き……」
ファーストキスに期待したドキドキを返せ、とばかりにツッコミを入れたエメラインの言葉は最期まで紡がれることはなく、再び顔を寄せたクロムによってあんこよりも数倍甘いキスで封印されたのだった。
二人を婚約させたのはラングレイ伯爵夫妻の強い希望です。
息子の嫁はエメラインしかいない! あの子がいないと息子は暗黒竜になる! と心配して、ハーバー伯爵へ頼み込んで結んでもらった経緯があります。
ご高覧くださり、ありがとうございました。