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時間泥棒

作者: 村崎羯諦

「えー、今回の被害者は30後半の男性会社員です。盗まれた時間は14:50から15:00の間で、仕事中、毎日同じ時間に固まってしまっているのを同僚に指摘され、初めて時間が盗まれていることに気がついたようです。ちなみに、来月からはこの時間帯に顧客との定例が入る予定なので、できるだけ早く時間を取り返して欲しいとのことです。まあ、連続時間窃盗事件の一つで間違い無いでしょう」


 報告ご苦労。奥本刑事は部下である稲岡警部補の報告を労い、深いため息をついた。そして、被害者についてまとめられた資料をめくりながら、他の連続窃盗犯の被害者と何か関係がないかを確認する。しかし、稲岡警部補は凝った首を回しながら席に座り、資料と睨めっこをしている奥本刑事に半ば諦め口調で話しかける。


「一応、私も何か共通点がないか調べてみましたが、特に見つかりませんでした。やっぱり犯人は愉快犯で、無差別に時間を泥棒しているんじゃないですかね?」

「フリーランスで働いている若い男性、40代後半の主婦、二十代後半の行政書士、定年間近のトラック運転手……で、次がこの30代後半のサラリーマンか。見事に被害者はバラバラだな」

「全く、一体どんな理由で人の時間を泥棒してるんでしょうね。時間を盗んだからといって自分の時間が増えるわけでもないし、時間を換金することもできない。ただ一日のうち、その盗まれた時間がすっぽり抜け落ちてしまうだけの迷惑犯罪。有名な児童文学書みたいに、時間銀行にでも預けるんですかね?」


 そんな冗談を適当にあしらいつつ、奥本刑事はじっと報告資料を見つめ続けた。連続時間泥棒の逮捕につながるわずかな手がかりを絶対に見落としてたまるものかと意気込みながら。


 連続時間窃盗事件。それはここの警察署が管轄するA町という地域で発生している事件で、その名の通り、全く関連性のない人たちの時間が盗まれてしまうという事件だ。最初の被害は二ヶ月前で、フリーランスで働いている男性が15:55から16:05の間を盗まれたという被害届を出したのが始まりだった。それから一定間隔で、次々と時間の窃盗に関する被害届が届けられ、被害者がA町の住民に限られていたことから、奥本刑事含めた捜査三課はこれが同一人物によるものだと推測していた。


 この短期間で、かつこれだけ被害が出ているのだから、犯人はすぐに捕まるだろう。奥本刑事を含めて、誰もがそう思っていた。というのも、時間を盗むことはもちろん犯罪ではあるのだが、迷惑を相手にかける以外に盗んだ側に何のメリットも存在しない。そのため、時間泥棒の多くは大抵、被害者に何かしらの悪意を抱いた身近な人物であるケースがほとんどで、すぐに犯人を特定、逮捕することが可能だったからだった。


 しかし、今回の連続時間窃盗事件は違っていた。被害者は互いに互いを知らない赤の他人同士で、交友関係を深く辿っていっても、共通の知人すら存在しない。被害時期も盗まれた時間帯もバラバラで、そこに共通点を見出すことができない。そういう理由で、奥本刑事たちの捜査は難航していた。犯人は男なのか女なのか、働いているのか働いていないのか、この町に住んでいるのか住んでいないのか、そんな情報すら奥本たちは掴めていなかった。被害者への聞き込みを担当している稲本警部補をはじめ、多くの捜査員はこれを単なる愉快犯による犯行だと考えていた。しかし、奥本刑事だけは、なぜかこれが単なるいたずら目的の犯罪だとは思えなかった。もちろん何か根拠があってそのように思っているわけではなく、ただの刑事の勘に過ぎない。それでも、今までだって何度も、この勘に助けられてきたことも事実だった。


「一度、被害者に直接聞き込みをさせてくれないか? もちろん全員は無理だろうが、できるだけたくさんの被害者の話を聞きたいんだ」


 自席に戻り、資料をもう一度目を通していていた奥本は、向かいの席に座っている稲本に尋ねた。稲本は少しだけ嫌そうな表情を浮かべたが、岡本の圧に負け、しぶしぶ聴き込みに付き添うことを承諾した。


「せめて全員がどこで時間を盗まれたのかがわかればな……」


 助手席に座る奥本の言葉に、稲本が反応する。


「別にどこか一箇所で盗まれたとしても、あんまりそこから犯人は特定できなくないですか?」

「いや、手がかりにはなる。同じ時間にそこにいた人間が容疑者になるわけだからな。そういえば、稲本。被害者全員の最近の行動について聞き取りしていたな。全員が特定のライブイベントや催し物に出かけていたとかそういう共通点はないか?」

「それはなかったような気がしますよ。もちろん被害者は全員A町に住んでる人ですから、同じ駅を使ったり、同じスーパーを使ったりとかはしてましたが、別に何か同じイベントに参加していたとかはないはずです。でも、その情報だけだと絞り込めないですよね?」

「……ああ、そうだな」


 奥本はがっかりした表情で肩を落とす。そうしているうちに、直近の被害者である男性会社員が働いているオフィスの近くまでたどり着く。二人は事前に連絡していた待ち合わせの公園に向かい、そこで被害男性と落ち合った。しかし、彼は明らかに不機嫌そうな表情で、奥本と稲本に対してもどこか攻撃的な態度だった。


「また聞き取りですか! 何回も言ってる通り、以前にお伝えした以上のことはありませんよ! いつどこで時間が盗まれたなんてわからないですし、仕事に戻っても大丈夫ですか? こっちは仕事やプライベートで不運続きで、ただでさえイライラしてるんですよ」


 申し訳ありませんが協力のほどよろしくお願いします。稲本が平謝りして、根気強く聞き込みを行おうとする。しかし、被害者の機嫌が治ることはなく、口調の刺々しさがどんどん強くなっていく。


「こっちはね、炎上プロジェクトに配員されて残業続きだし、妻は私と喧嘩して、実家に帰っている。先週には財布を落とすなんてこともあったし、上がると見込んで買った暗号資産の相場が下がって最悪の状況なんですよ! そんなタイミングで今度は時間泥棒ですよ! どれだけ酷い目にあったらいいんですか!」


 半ば愚痴に近いものを散々聞かされた後で、ようやく聞き込みが終わり、二人はぐったりした様子で車へ戻った。稲本が車を出し、助手席で岡本が電話をかけ始めた。それから電話越しに二言、三言話した後、しばらくしてから電話を切ったが、相変わらず疲れた表情のままで、電話をポケットに入れながらため息をついた。


「何を電話していたんですか?」

「いやな、他の被害者が、何か紛失物届けを出していたり、株取引で損をしてないかダメもとで聞いてみたんだ。前者については他に該当なしで、後者についてはそもそもわからない。お手上げだな」

「まだ、懲りずに共通点を探してるんですか? 犯人は愉快犯ですってば」


 岡本は腕を組み、納得いかない様子で唸る。稲本はやれやれとわざとらしく肩を落とし、二番目の被害者である主婦の自宅へと向かう。しかし、稲本がその家の前で車を停めた後、不在ですねと岡本に伝える。どうしてわかるんだと岡本が尋ねると、彼女が乗ってる車が駐車場にないんですと答える。


「まあ、車で買い物にでも出掛けてるんでしょうね。先に他の方のところに行ってから、最後にもう一度寄りますか」


 岡本が頷き、稲本は次に向かうべき場所を確認する。それから露骨に嫌そうな表情を浮かべて、次は一番最初の被害者である橋田健太ですねと呟く。


「なんだ、そんな顔して」

「知らないんですか、岡本さん。今回は時間泥棒の被害者ですけど、うちの課では有名な万引き常習犯ですよ。しかも、フリーランスで成功していて金はあるのに、ただ構ってもらいたいだけで万引きしてるようなやつなんです。一度でも話したらわかると思いますが、本当にどうしようもないやつなんですよ。俺だって、何度あいつと取調室で喧嘩したか……」


 稲本はそう説明した後で、ため息をつきながら車を発進させる。そして、橋田という男がいる自宅へと到着し、玄関のチャイムを鳴らす。扉を開け、二人の警察官の姿を見た橋田は二人に聞こえる声量で悪態をつく。そして、これだけ何回も聞き込みをしてるくせにまだ犯人を捕まえられてねぇのかよと悪態混じりの皮肉をぶつけてくる。岡本はぐっと感情を沈め、家の中に入れてもらおうとするが、警察なんか中に入れたくないと拒否される。仕方なく、二人は橋田と共に近くの公園へと行き、そこのベンチで話を聞くことにした。


「だからな、俺は被害者なんだよ。それなのに、最初はまるで俺を犯人みたいに扱いやがって。こちとら良い迷惑だよ」

「良い迷惑だと? それもこれもお前の日頃の行いのせいだろうが」


 喧嘩になりそうな二人を静止し、岡本は橋田からいつ頃時間が盗まれたのか心当たりがないか、それから最近の行動について聞いてみる。しかし、どれもこれも事前に稲本警部補が聞き出した情報のみで、これといった収穫はなかった。


「大体な、協力者っていうなら取調室の時みたいな高圧的な質問じゃなくて──────」

「質問じゃなくて?」


 岡本が続きを聞こうとするが、反応がない。橋田は先ほどまでの怒りの表情を浮かべ、口を開けたまま、まるでその場で固まってしまったみたいに動かなくなった。岡本は橋田の顔の前で手を振ってみるが、どれだけ手を近づけても瞬きひとつしない。それから時計を確認して、ちょうど今この時間が、橋田が盗まれた時刻だということに気がつく。


「時間を盗まれたらこんなふうになるんだな。知識としては知っていたが、実際の動きを見るの初めてだ」

「まあ、岡本さんはもっと凶悪犯を担当していることが多いですし、それにそもそも時間窃盗自体は珍しいですからね」

「意識が飛んでるんだろ? いたずらし放題じゃないか。盗まれた側はたまったもんじゃないな」


 いつもこいつには迷惑かけられてますし、いたずらしちゃいますか? そんな稲本を厳しく注意し、それから二人は時間を潰す。そして、橋田が固まってしまってからちょうど10分後、橋田が動きだす。


「──────もっとお願いしますみたいな誠意を見せてもいいんじゃねえのか!? この役立たずともが!!」


 やっぱり意識が飛んでいるうちにいたずらでもしておけばよかった。岡本はひっそりとそう思いながら、協力に対してお礼を言い、その場を離れることにした。そして、二人はもう一度車に乗り込み、岡本の提案で先ほど不在だった二番目の被害者の自宅へと向かった。


「またいらしてくれたんですね。本当にいつもいつもお疲れ様です」


 他の被害者とは違う物腰の柔らかさに、岡本は無意識のうちに安堵のため息をついた。それからリビングへとあげてもらい、二人は被害者の向かいに腰掛けて話を聞き始める。しかし、やはり先ほどの被害者と同じように被害を受けた場所や時期については心当たりがないらしく、岡本は今回も無駄足だったかと心の中で呟いた。


「ああ、でも……最近、家の中のものがなくなってるような気がするんです」


 最近変わったことはないですか? 岡本が半分諦めの気持ちでそのように尋ねたところ、彼女はおずおずと答え始める。


「空き巣ですか? 時間泥棒だけじゃなくて、お金泥棒もいるんですから、ちゃんと戸締りをしてくださいよ」


 岡本が眉を顰めてそう言ったが、彼女はゆっくりと首を振って、空き巣ではなさそうだと答える。


「いえ、そこはしっかりしているはずなんです。ずっと昔に空き巣被害に遭ったことがあって、それ以来戸締りは過剰なくらいに確認する癖がついているんです。だから、うっかり鍵を開け忘れたなんてこともないし、かと言って、むりやり侵入された形跡があるわけでもないし……なんだか不気味で。でも、時間泥棒から時間を盗まれた後のことですから、あんまりこの事件とは関係がないかもしれませんね」

「我々の仕事は時間泥棒だけではないですよ。明確に被害が出ているのであれば、被害届を出してください。そうすれば、捜査いたしますので」


 ありがとうございます。そう言ってから主婦は自分の時計を見て、「あっ」と声をあげる。どうしたんですか?と岡本が尋ねると、彼女はもうそろそろ時間泥棒に時間を盗まれた時間だと教えてくれた。聞くことももうないため、二人は協力のお礼を言って、彼女の家を出た。車に戻り、稲本は岡本に結局何の情報も得られませんでしたねと話しかける。しかし、岡本は稲本の言葉など聞いておらず、ただ黙って自分の腕時計で時間を確認していた。


「なんというか……ここら辺の時間で固まっているんだな」

「何がですか?」

「いや、各被害者が盗まれた時間帯だよ。もちろん同じ時間を盗まれているわけではないんだが、早朝とか深夜の時間を盗まれてる被害者はいない。全員、大体昼過ぎから夕方までに被害時刻が固まってる」

「うーん、でも、別に時間を奪ったからと言って、何かに使えるわけではないですよね? だとしたら、そこに意味はないと思いますよ。それに固まってると言っても、時間を見ると、一番早い人で13:45で、遅い人は17:20ですから、固まってると言っても別におんなじ時間が盗まれてるとは言えないです」


 そうだな。岡本は稲本の説明に相槌を打ちながらも、腑に落ちなかった。ランダムに時間を盗むのであれば、別に深夜でも早朝の時間があってもいいだろうし、逆に嫌がらせ目的であれば、朝の貴重な時間だったり、昼休憩が多い時間帯を狙えばいい。岡本は頭の中でいろんな仮説を立ててみるものの、やはりなかなか答えは思いつかない。


 署に戻っても岡本の頭は時間泥棒のことでいっぱいで、他の事務作業が全く進まなかった。岡本は大きく息を吐いてから、近くにいる稲本に話しかけると、稲本はまたその話ですかと嫌そうな表情を浮かべた。


「そうだ。そういえばこの署の中ではお前が一番時間窃盗罪の容疑者を取り調べてるよな。そもそも時間を盗むってことがよくわかってないんだが、具体的にはどうすればいいんだ?」

「窃盗犯から教えてもらったんですが、コツさえ掴めば拍子抜けするくらいに簡単に盗めるらしいですよ。相手がぼーっとしているっていう条件は必要らしいんですが、それさえ満たせば、スリみたいに盗めるらしです」

「スリみたいに盗める?」

「ええ、たとえば廊下ですれ違ったタイミングで、相手に一切バレずに盗めるんです」


 岡本はありがとうと稲本にお礼を言い、腕を組んで考え込む。違う作業をしつつ、時間が流れていき、時刻は深夜0時を過ぎようとしていた。仕事を終えた稲本が失礼しますと岡本にいいながら帰宅した後も、岡本はあちこちの照明が消された暗い部屋のなかで今日の話した被害者の言葉を思い返していた。


 最初のサラリーマンに始まり、最初の被害者である万引き常習者、物腰の柔らかい主婦。それから、今日会うことのできなかった残りの二人の被害者についても改めて確認してみた。残りの二人は、トラックの運転手、行政書士なのだが、特に目に止まるような特徴はなく、共通点はなさそうだった。それでも、岡本の心の底では何かが引っかかっていた。バラバラに見える被害者。それらを結びつける何かを、岡本はもう少しで掴めそうな気がしていた。


 しかし、岡本はぐっと背を伸ばし、今日はさすがにもう帰ろうと諦める。それから、思い出したようにメールを開き、そこでふと別の部署から頼まれていた業務を思い出す。警察官だからと言って、捜査だけやっていればいいわけではない。その事実に岡本は一人で苦笑しながら、メールを読み進める。そして、その中にあった落とし物の廃棄という言葉に目が止まる。そう言えば、最初のサラリーマンは、財布を落としたと言っていたな。ふとそんなことを思い出したその時、岡本の手が止まった。岡本の頭の中に今日の出来事が走馬灯のように流れていく。そして、バラバラだった被害者の言動や、報告書が一つの可能性を導き出す。


「ひょっとして……」


 岡本は独り言とともに、立ち上がる。そして、自分の仮説を確かめるため、慌てて資料室へと駆け込むのだった。






*****






 平日の昼下がり。二番目の被害者である主婦の家の近くに停められた車。昼時というのにあたりには人の姿はなく、一人の男がまっすくに家へと近づいてく。男は、駐車場に家主の車が停められていないことを確認すると、にやりと不敵に微笑んだ。男はゆっくりと家に近づいてく。そして、玄関の扉の前に、立ち、自分のポケットに手を突っ込んだ。その瞬間だった。


「ポケットから手を離さずに、ゆっくりとこっちを向くんだ」


 いつのまにか男の後ろに立っていた岡本がそう語りかける。男はびくりと肩を震わせ、その場で固まる。それから、もう一度岡本がこっちを振り向けと命令すると、男はようやく振り返る。男の表情には驚きが、そして、岡本の表情には悲しみが浮かんでいた。


「信じたくはなかったが、お前が犯人だったのか。稲本」


 稲本はポケットに手を突っ込んだまま岡本と、そして彼の後ろにいるもう一人の同僚へと視線を送った。聞き忘れたことがあったんで、改めて聞き込みをしようとしてたんです。稲本が絞り出すようにそう説明したが、岡本はゆっくりと首を振り、もうわかってるんだと返事をする。


「被害者に共通点なんてない。お前は何度もそう言ってたな。でも、あったんだよ。バラバラのように見えた彼らにも、共通点が」

「共通点……?」

「時間泥棒の被害に遭った被害者は全員、ここ最近、うちの警察署を訪れていたんだ」


 岡本の言葉に稲本は目を伏せる。


「最初の被害者の橋田はわかりやすいな。あいつは二ヶ月前、いつものように万引きとして捕まって、署の中で取り調べを受けていた。そして、その時の担当が稲本、お前だった。それから一番最近の被害者であるサラリーマン。彼は財布を落とし、その後交番位届けられた財布を引き取りにうちの署を訪れている。トラックの運転手は駐禁の罰則金を支払いに、行政書士は道路使用許可申請でうちの署を訪れていた」

「……ここに住んでる人は一体どういった用事で?」

「彼女はちょうど一ヶ月半前に、自動車免許の更新のために署に訪れていた。お前が言っていた通り、ある意味誰でもよかったんだ。警察署を訪れていて、署内でお前とすれ違った一般人であれば誰でも。被害者もまさか警察署の中で時間を盗まれるなんてことは思わないだろうし、しかもその犯人が、警察官だったらなおさら」


 岡本はそういいながら、稲本に近づいていく。稲本は諦めた表情で俯いていた。岡本はポケットに入れたままの稲本の手を引っ張り出し、稲本が握っていたもの、この家の合鍵を取り上げた。


「後は簡単だ。お前は時間泥棒を今まで対応していたという経験を買われ、被害者のもとへ聞き込みへ向かう。色々と言い訳を作って、ちょうど被害者が盗まれた時間と重なる時間帯を選び、その上、本当は一回で済むところを何度も何度も聴き込みに行った。被害者の多くが、また来たのかとうんざりするくらいにな。


 それからお前は聞き込みを引き伸ばして、盗まれた時間がやってくるのを待ち、そして、被害者が時間停止した隙を狙って、悪事を働いた。たとえばこの家の住民だったら、家のものを盗んだり、今みたいに合鍵を作るために家の鍵の写真を撮ったり」


 稲本は否定することもなく、ただ黙って岡本の説明を聞いていた。それでも岡本はそれが無言の抵抗を貫いているのではなく、稲本が言い逃れできないということを悟っているのだと気がついていた。岡本は自分の同僚でもある稲本の肩に手を置き、それから続きは署に帰ってから聞こうと伝えた。


「最初はちょっとした悪戯のつもりだったんです」


 稲本は顔をあげることもせず、ポツリとつぶやいた。


「橋田が万引きをした時の担当はいつも自分で、ああいう身勝手な犯罪者の相手ばかりしていると、どうしてこんなことをしてるんだろうって感覚になってたんです。世の中にはもっとたくさんの人が困っていて、警察官としてそういった人たちのために働きたいと思ってました。でも、現実は橋田のような人間の相手をするだけの毎日。比喩でもなんでもなくて、ああいうやつらのせいで、俺と同じような志を持った警察官の時間やモチベーションが奪われてるんです。だから、以前にちょっと聞いたことのあった方法で時間を盗んでみたらすんなりとうまく行って……。それから被害者として聞き取りを行ったタイミングで偶然時間停止の時間帯になって、これも同じようないたずら心で財布からお金を抜き取って……」


 もういい。岡本は今にも泣き出しそうな稲本を静止して、腕を掴んで引っ張り寄せる。岡本は稲本が自分の署に配属された時のことを思い出していた。警察官としての志を高く持ち、人のために働くことを信念とし、目は眩しいくらいに輝いていた。


「俺って昔から、正義感の強い人だって言われてきたんです。きっと、こんな仕事をする中で、俺の正義感が盗まれてしまったのかもしれませんね」

「勘違いするな。盗まれたんじゃない。お前が勝手に無くしただけだ」


 岡本は稲本に同情しつつも、力強く否定した。時間泥棒の稲本は力無く項垂れる。岡本はもう一人の警官に合図をだし、稲本の手に手錠をかけた。そして、岡本は決して晴れやかな気持ちとは言えない気持ちを抱えたまま稲本の腰を叩き、三人は警察署へ向かうために車へ乗り込むのだった。

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