後編
昨日投稿した話の、後編部分となります。最後まで楽しんでいただければ、幸いです。
それから数日後、つぼみは1号館にある事務室からの帰りに、十月桜もどきの前を通った。
スマホが普及した今ではすっかり使われることのなくなった公衆電話ボックスに、寄り添うようにたたずむ桜の木。たしか、春先に咲いていた記憶がある。一般的なソメイヨシノだった気がしたが。ともかく、桜なのは間違いないのだ。それがどうして写真が撮られた10月に咲いていたのだろう。ますますわけがわからなかった。
しばらく桜の木を眺めてから、何気なく視線をその向こうに移すと、1人の男性講師が渡り廊下のところに立っていた。少しだけ白が混じった焦げ茶色の髪とその上背には見覚えがある。日本文学の講義でお世話になっている、桃園先生だ。彼はこの季節にふさわしい、朱色のセーターを着ていた。
声をかけようかと思ってつぼみは口を開きかけたが、なんとなく話しかけづらい雰囲気があったのですぐに閉じた。彼は今、つぼみがさっきまで見ていたものと同じものを見ている。つぼみは、視線を戻した。桃園は桜の木を見ているのだ。
もう一度、桃園に視線を移したら。彼はその場を立ち去ろうとしていた。いったい何だったのだろうか。彼が1号館に消えてから、十月桜のことを聞けばよかったと思い至る。桃園はたしか、かなり前からこの大学で講義を受け持っているはずだ。なら、十月桜のことを知っている可能性があるだろう。
まあいいや、日本文学の講義は来週もあるのだから。そのときに聞いてみよう。空きコマの暇をつぶすために、つぼみは今日も部室棟の115号室を訪れた。
部屋に入るなり、佐保は珍しく本をすぐに閉じてこちらを見てきた。もしかしてタイミングが悪かっただろうかと思っていると、佐保は「待ってたわよ」と言った。
「珍しいね。私を待ってたの?」
「そうよ。あれから十月桜のことが気になって、ちょっと調べてたのよ」
「へえ」
佐保は閉じた本を、机の上に平積みされている本の塔の上に置いた。つぼみはいつものように、バランスの悪い椅子に座って、手にしていた鞄を足元に置く。佐保は着物の下の足を組んで、膝の上に肘を載せると、にこりと微笑んだ。
彼女がそういう笑い方をするときは、決まって彼女の機嫌が良いときだ。しかも、自分の好奇心を満足させるようなことに出会ったときに決まっている。1年ほどの付き合いだが、ようやくつぼみは、彼女のことがわかってきた。
「おじいさまに聞いたら、たしかにあったのよ。十月桜が」
「それって、食堂ホール前の電話ボックスの脇にあるやつ?」
思わず口をはさむと、佐保は黒色の目を見開いて「なんだ、知ってたの」とつぶやいた。つぼみはうなずいて、小春に見せてもらった写真の話を始めた。最後にここ数日。ずっと気になっていた疑問を、佐保にぶつけてみる。
「でも、あれってホントに十月桜なわけ? むしろ葉っぱが散ってるんだけど」
「いえ、あれは十月桜ではないわ」
首を振った佐保の黒髪が、またもサラサラと音がしそうなくらいに揺れた。その仕草を羨望のまなざしで見つめながら、「やっぱり」と相槌を打つ。でも、そしたらあの桜はなんだろう。しかも佐保は十月桜が「あった」と言っていた。
「じゃあ、今はないってこと?」
「うん、そう。でもあそこには十月桜が植わっていたのはたしかなのよ。10年くらい昔かな」
ということは、20年前――つまり、小春が持っていた2002年10月15日に撮られたと思われる写真とも合致する。あの日付は、正しい日付が書かれていたことになる。
「10年前までは確実にあったってこと?」
「そう。でも、10年前に無くなったのよ。その桜」
「なんで? 枯れたとか?」
「違うわ。結構大きい台風が直撃したみたいで、そのときに。十月桜は、根っこごと。ごっそり土からはみ出した挙句、幹も折れたみたいで。で、その代わりにあの桜が植えられたってわけ」
「へえ、なるほど」
では、今電話ボックスに寄り添うようにしてある、あの桜は十月桜ではないということだ。それを聞いたら、なんだか小春のことがかわいそうになってきた。彼女はきっと、あの桜を十月桜と信じて疑っていない。あえて教えないでおくべきか、けれど何かのきっかけで十月桜ではないと知ってしまったら、どのみち落ち込むに違いない。
「ちなみに、その友だちの持っていた写真って、どういうものなの? 十月桜の前で撮ったとかいう」
「どんなって、普通の写真だけど」
つぼみは天井を見上げながら、小春が見せてくれた写真をもう一度よく思い出そうとした。
この学校は女子大のため、女学生が10人ほどと、小春の母の隣に男性講師が映ったごく普通の写真だったはずだ。そして裏面には、写真を撮った日付と、あの写真に映っていたメンバーがどんな人たちなのかが書かれていた。
「ああ、そうだ。その写真の裏に『十月桜委員会のみんなと』って書かれてたよ」
刹那、佐保の黒色の瞳が目に見えて輝きだしたのをつぼみは見逃さなかった。好奇心が刺激されて、謎が解けたときに見せる表情だ。いったい、今の一言で何がわかったというのか。
「え。なんなわけ?」
さすがに気になってしまって、つぼみは身を乗り出した。同時に授業終了のチャイムが鳴り響いた。あと10分もすれば次の講義が始まってしまう。けれどそれよりも、目の前にある謎の解明の方が気になった。
「十月桜委員会っていうのは、あそこにあった十月桜を保存する委員会のことよ」
「ふぅん?」
「十月桜は20年くらい前に、一度切り倒す計画があったらしくてね。食堂ホール前だから見栄えは良いけど、電話ボックスがすぐ真下にあるもんだから、害虫の被害がひどかったらしくて。だから切り倒そうっていう話になっていたみたい」
「ああ、だから保存する委員会ってことね。えぇ、でも結局台風で倒れちゃったんだから、委員会の人たちショックでしょ」
「たしかにショックかもね。でも、その委員会に人一倍熱を込めていた当の本人は、20年前にすでに亡くなっているらしいから、そうでもないかもだけど」
「20年前に?」
だとしたら、それは写真に映っているメンバーの誰かだということになる。不幸な事故か、あるいは病気だろうか。あのメンバーのなかの、いったい誰が?
「たしか苗字は、秋原っていったかしら」
「それ、小春の苗字! ってことは、亡くなったのは小春のお母さんってこと?」
あれ、でもそしたらおかしい。
大学に入るのに年齢という縛りはさほど関係はないが、写真に映っている小春の母親は、どう見ても20代だった。
あるいは、小春の母親は若くして小春を身ごもり、それから大学に入ったということだろうかと思ったが、それを聞いたら佐保は首を横に振った。
「在学中に身ごもったそうよ、その秋原って人は。で、いったん休学して。出産に備えていたみたいだけど。結局、復学することなく……。原因は子どもを産んだときに出血があまりにも多くてそれで。だったらしいけど」
「……じゃあ、小春はお母さんのことをよく知らないんだね」
「そういうことになるわね」
そういえば、小春が祖父母と一緒に住んでいる家は、母方の実家だと聞いたことがある。父親のことはまだ聞いたことがなかった。
「でも、一度は切り倒そうとしたのに、台風が起きたあともよく同じ場所に桜を植えようと思ったよね」
「それは、たしか講師の誰かがどうしても植えてほしいって言ったそうよ。ソメイヨシノだけど。花言葉は『純潔』とか『優れた美人』とか」
「ふぅん。まあ、花言葉はどうでも良いけど、どうせなら同じ桜にすればよかったのに」
「弔いの意味もあったんじゃないかしら」
「誰の?」
「その女学生の、よ」
なんで、とつい聞いたが。話はここで終わりだとばかりに、佐保は本の塔に置いていた読みかけの文庫本を手に取り、1人の世界に入ってしまった。こうなっては何をやっても、無反応を決め込む。つぼみは仕方なく、部屋をあとにした。
1週間後の日本文学の講義。その開始前につぼみは教室で小春に会った。いつものように彼女の隣の席に座った。
「おはよう」
「ああ、おはよう」
朝一の授業のせいもあってか、小春は眠そうな目をこすりながらこちらに目を向けてきた。かくいう、つぼみも眠かった。昨夜は好きな深夜ドラマを見ていてすっかり夜更かしだ。
つぼみも目をこすりつつ、小春が手にしているものに目を向けた。それは、あの十月桜の前で撮られたという写真だった。
「小春って、お父さんはどうしてるの――って、聞いても良い?」
「って、それもう聞いてるし」
小春は苦笑いをしながら、写真を鞄にしまった。
「ごめん、話したくないなら良いんだけど」
「全然良いよ。でも、お父さんには会ったことないんだよね。私」
「そうなの?」
「うん。というか、おばあちゃんたちが多分、会わせないようにしてるんだと思う。聞いても、昔に亡くなったとしか聞いてないし。写真もないしね」
「そうなんだ」
そのとき、教室のドアが開いて桃園が顔をだした。同時に講義開始のチャイムも鳴り響く。つぼみたちは慌てて教材を机の上に広げた。
1時間半にも及ぶ授業は、ただ座って聞いているだけでは何かと退屈だ。つぼみはあくびをかみしめつつ、最初のうちは授業を聞いていた。しかし、やがて次のチャイムが鳴り響いた。気が付くと教室にある時計は講義開始から1時間半経っていた。黒板とノートの写しが合っていない。完全に寝ていた。
桃園がチャイムを合図に教室をでていこうとする。その背中をぼんやり眺めていると、彼が手にしていた教材から何かが滑り落ちていくのが見えた。つぼみは気付いて席を立つ。
「先生、何か落としましたよ」
それを拾い上げて、つぼみは目を見開いた。それは写真だった。しかも、小春も持っている、10人ほどの女学生と1人のサングラスをかけた男性講師の写真。思わず裏返すと、そこにはただ「10月15日」とだけ書かれていた。見覚えのある字だった。毎週の日本文学の講義でよく見ている字――。
「先生、これ」
こちらを振り向いた桃園の顔を、つぼみはまじまじと見つめた。彼は「ありがとう」と言いながらそれを受け取り、その写真をポケットにしまった。
「とても大切なものでね。失くしたら大事だったよ」
桃園は「それじゃあ、また来週」と言いながら教室をでていこうと、踵を返す。その髪色を、つぼみは注視する。白が混ざっているが彼の髪は焦げ茶色だ。しかも癖一つない。
「つぼみぃ、お昼一緒に食べない~?」
「あ、うん」
つぼみはすぐさま、小春のもとへと向かう。小春の癖一つない焦げ茶色の髪が、開いた窓から入る風によって、わずかに揺れた。