前編
思いのほか長くなってしまったので、前後編で分けました。最後まで楽しんでいただければ幸いです。
「だから、本当にあるんだって!」
目覚まし時計代わりの役割を十二分に果たすかというくらいの大きな声で、川添つぼみは目を覚ました。伏せていた目をあげれば、ここは大学の教室だということに気が付く。黒板の上にある時計は10時40分を示していて、どうやら授業はとっくの昔に終わったらしい。いけない、寝てしまった。つぼみは、その場でゆっくりと伸びをした。
「ウッソだぁ」
「1年以上通ってきて、まだ一度も見てないけど」
目覚まし時計並みの大声の主が、友人たちに囲まれながら何度も「本当だってば!」と繰り返す。肩までかかる焦げ茶のセミロング。その毛先は赤色だ。彼女の名前は秋原小春。顔は美人な方。つぼみの友人で、この日本文学の講義を一緒に受ける仲だった。髪は最近染め始めた。一緒に住んでいる祖父母からだいぶ渋られたみたいで、「考え方が古臭いのよ」とあきれていたっけ。つぼみたちの周りにいる子たちも、小春と同様に明るい茶色に染めていたり、緑に染めている。いったい、元は何色だったのだろう。それにしても。典型的な日本人の髪色って感じで良いな、羨ましい。つぼみは産まれたときから母親の遺伝で明るい茶色だった。ちなみに親戚に外国籍の人はいない。小学生の頃はこの髪色が原因でよく男子生徒たちにからかわれていた。
「つぼみ、信じるよね。私の話!」
突然小春が勢いよく振り向いてきたので、話を振られたつぼみは口ごもった。「ごめん、話が読めてない」と伝えると、「また寝てたの!」とやはり大きな声で返される。寝起きにはうるさい声だ。つぼみは鬱陶しく思いながらもうなずいた。
次の講義はお昼が終わってからなので、2限目は空きコマだ。とりあえず、どこかで時間を潰そうと、つぼみは机の上に広げていた文房具やノート類をまとめて、鞄のなかに突っ込んで席を立った。「じゃあね」と教室を出ていくあいだも、小春は大声でこう言った。
「10月に咲く桜はあるんだってば!」
ところ変わって、つぼみが訪れたのは部室棟。玄関から入って1階の1番奥の115号室だ。その部屋はどこのサークルも使っていないために、かつては隣の114号室のサッカー部が物置小屋として無断で使っていたはずだったが、つぼみがこの大学に入学して間もない頃、同い年の女子生徒がその部屋に置かれたあらゆるガラクタを廊下に放り投げて、自分の根城として居を構えてしまった。
本来だったら、サッカー部連中が文句を言いに部屋まで怒鳴り込んでくるところだ。ましてやこの大学は女子大。女が女から恨みを買ってしまうとあとが恐ろしいのは周知の事実。だが、文句を言いに訪れたサッカー部員たちは部屋の主を見るなり、すごすごと引き下がるしかなかった。誰も文句を言えなかったからである。
部屋の新たな主人となったその人物とは、この私立八峰女子大学の理事長・鉢峰東風の孫娘、鉢峰佐保だったからである。
彼女は部室に怒鳴り込んできたサッカー部員――もちろん、全員が年上の先輩たちである――を一目見るなり、「この空き部屋を無断で使用したこと、おじいさまに報告させていただいてもよろしいのですよ」と淡々と言い放ち、彼女たちを即刻退室させた。つぼみはその様子をたまたま部室棟の窓越しから見てしまい、サッカー部員でもないのに肝を冷やしたものだ。
その後、つぼみは何やかんやあって、佐保と友情を築くことになり2年生、秋学期の10月である今に至る。ノックをしてから部屋に入ると、ネコの額ほどの小さな部屋のまんなかで、椅子に腰かけながらデスクの上に置かれている山と積まれた本を読んでいる、着物の女性に出くわした。彼女が佐保である。
佐保は長く垂らした黒いツヤのある髪――これがまた、つぼみにとっての憧れだった――を耳にかけて、部屋に入ってきたつぼみを頭の上から足先までじろじろ眺めてきた。前髪をアメジスト色のヘアピンで留めていながらも、彼女が動くたびに揺れる髪は、まるでサラサラという音が聞こえてきそうなほどに繊細で美しい。自分なんて、茶色だし、毛先は癖が強いしで。それらのコンプレックスを少しでも隠すために短くしているのだ。
小春たちみたいに、自分も髪を染めてしまおうかといよいよ思い始めた。
「ねえ、佐保。聞きたいことがあるんだけど。今、良い?」
読書の邪魔をすると佐保はたいてい機嫌を悪くする。だから了承をとってからでないと、話の本題を進めてはならない。それが1年以上付き合っていくことで知った、鉢峰佐保のトリセツだった。佐保は「うん」とうなずいて、本を閉じる。どうやらキリの良いところだったらしい。
つぼみは近くにあった椅子を引き寄せて、佐保の目の前に座った。物置代わりの部屋に置かれた椅子なので、だいぶ不安定だ。態勢を変えるたびにガタガタいうのをうっとうしく思いながら、つぼみは口を開く。
「10月に桜って咲くの?」
「咲くわよ」
すぐに返事が来た。つぼみは目を丸くした。
「十月桜って言ってね。二度咲きの桜なのよ。春に咲いて、それから今頃にも咲く」
「珍しいね」
「まあ、桜なんて春に咲くっていうのが定番だからあまり馴染みはないかもね」
ならば、小春が言っていたことは間違いではなかったのだ。つぼみは今更、スマホでググればすぐだったなということを思い出す。試しに検索してみたら、一発で出た。佐保の言った通り、二度咲きの桜。春に咲いて、秋にも咲く桜。
「どうしてそんなこと言い出したのよ」
「さっき講義終わりに友達が、やったらデカい声で『10月に咲く桜があるんだって!』って言ってたから。つい気になっちゃって」
「ふぅん」
佐保はもう興味をなくしたか、閉じて机に置いた本を手にした。読書再開といったところか。そうなる前に、つぼみは慌てて「もう1個聞きたいんだけど」と口にだす。佐保は「何?」とこちらに目も向けずに聞いてきた。
「うちの大学って、桜が有名じゃない?」
「十月桜はないわよ」
つぼみが全てを言い終える前に、つぼみが聞きたかったことの答えを佐保は一足早く教えてくれた。
***
お昼の時間も近いということで、つぼみは部室棟からでて目と鼻の先にある食堂ホールへと向かった。ホールに入ってすぐのところにある券売機で醤油ラーメンの食券を買って注文し、まだ人もたいしていなかったので窓辺の席へと行こうと、ラーメンのお盆を手に向かったところで、つぼみは窓辺の席に座る小春の姿を見かけた。
「小春」
声をかけると、彼女は振り向いた。カウンターテーブルの上には食べかけのカレーライス。食堂の定番メニューの1つだった。そして小春の手には1枚の古い写真が握られていた。つぼみは隣に腰かけて、「何それ」と聞いた。
「お母さんたちの写真」
小春はそう言いながら、つぼみに写真を見せてくれた。その写真には20代くらいの女性の若者が10人ほどと、彼女たちよりは少し年上に見える、サングラスをかけた青年が集まった写真だった。背景には茶色い外壁をした大きな建物と電話ボックス、そして桜の木があった。
つぼみは茶色の外壁をした建物を注視する。それから顔をあげて窓の外を見た。まったく同じだ、写真と。写真に映るその風景がどこかで見たことある場所だと思ったら、教室が入っている1号館の建物と、その手前にある電話ボックス、桜の木をバックにして撮られたものらしかった。
「お母さんってどの人?」
そう聞くと、小春は「この人だよ」と言いながら、サングラス青年の隣に立っている癖のある黒髪の女性を指差した。どことなく、顔が小春に似ていた。つまり美人。親子だから当然かもしれないが。
「似てるね」
「うん、よく言われる。でも、髪は似なかったよ。お母さんは天パだったらしいし」
小春は嬉しそうに笑った。
小春は、産まれてすぐに母を亡くし、これまでずっと母方の実家で暮らしてきたそうだ。父の姿は知らないらしい。生きているのか死んでいるのかも知らず、そもそもどういう人なのかも知らないらしかった。その原因というのはいくつかあるそうだが、中でも小春の祖父母が小春の父の痕跡を彼女の前から跡形もなく消し去ったのが大きいらしい。
「もしかして、この桜が十月桜なの?」
「そうなの。ね、ほら。私が言った通り、あるのよ。10月に咲く桜はさ。あれがそうだよ」
小春が「あれ」と言いながら指差した先を見て、つぼみは驚きで目を見開く。写真の通り、1号館前には電話ボックスがあって、その隣には木が植わっていた。
「あれが十月桜だよ」
そう嬉しそうに小春は教えてくれるが、佐保はこの構内に十月桜は存在しないと言っていた。もしかしたら佐保が知らないだけという話も考えられるが、一応彼女はこの大学の理事長の孫娘なのだ。ソメイヨシノみたいに誰にでも知られているような桜ならばともかく、十月桜などという珍しい桜があるかないかくらい、わかっているだろうに。
「でも、秋にも咲くんでしょ? 今、咲いてないけど」
むしろ、木の葉が散っていた。
「違う桜なんじゃない?」
「え、でもあれは十月桜のはずだよ。写真の裏面に。ほら」
小春は手にしていた写真を裏返した。そこには手本のような丁寧な字で「十月桜の前で、十月桜委員会のみんなと。2002年10月15日」と書かれていた。もちろん、写真のなかの桜は咲いている。
「どういうこと?」
秋に咲くのだとしたら、今見えている桜は咲いていても良いはずだ。もしくは、日付を間違えて書いてしまったとか。けれど、いくら目をこらしても裏面の日付は「10月15日」と読めた。
「だからあれは、十月桜なんだってば」
なおも小春はあの桜を十月桜と信じて疑わないようだったが、つぼみにはどうにも信じられなかった。
後編は5月12日0時に公開します。