韮田航平の場合
その日は朝からみんなどこか浮足立っていた。多分、日本中が。
『若き音楽家を乗せた飛行機は、今日の昼過ぎには到着する予定です』
それは俺とて同じことだ。だからこうしてわざわざ仕事を休み、朝早くから鏡の前で身支度を整えている。
『彼女はヨーロッパでも権威ある音楽コンクールで、日本人として初めて1位を受賞しました。ずっと欧米で活動されていましたが、今回のこの受賞を機に日本を拠点とした活動をする方針だと発表されました』
朝からつけっぱなしにしているテレビの向こうでは、綺麗な女性アナウンサーが興奮した声を上げている。
その声がなんだか耳障りで、手元に引き寄せたリモコンを操作して、テレビの電源を落とす。どうせ時計代わりにつけていただけだったし。
画面が真っ暗になってしまうと、部屋の中は静かなものだ。平日の昼間だからか、両隣の部屋からの生活音すら聞こえてこない。
それでも、俺の世界から音が消えることは無い。機械音のような、甲高い機械音のような耳鳴りが絶えず俺の耳を貫いている。
幼いころから続く、俺の心を憂鬱にさせるその音も、今日ばかりは心を曇らせるまでには至らない。
だって今日は、彼女が帰ってくるのだ。
お気に入りのワックスを適量手に取って、少々長めの髪をかきあげる。そういえばこの前会社の給湯室で後輩の女子が騒いでいるのを聞いてしまった。
『韮田先輩の髪をかきあげる仕草ってヤバいよね』
『わかるわかる、あのフェロモンにあてられたらイチコロだわ』
この仕草の一体どこにフェロモンを感じたんだろうか。髪のセットは完璧だったけど、気になったから余分に二回ほど手を髪に滑らせてみる。
こんなことしなくても、この顔はもともと魅力的だというのに。
鏡の中の自分に微笑んだ後、顎に手を掛けて自分の顔を左右に傾ける。どうやら髭をそる必要はなさそうだ。
「よし、おっけ」
左手に時計を巻き付け、動いているかどうかを軽くチェックする。万が一にも不備があったら、今日という一日にケチがつく。
それだけは本当に嫌だった。
鏡に映る自分の姿をもう一度まじまじと見つめる。かきあげて撫でつけられた黒くて固い髪。ツン、と上がった目尻、一重瞼に切れ長の目。
「完璧だな」
思わず漏れた呟きに、我ながら笑ってしまった。久々に彼女に会えるから、気が緩んでいるのかもしれない。ナルシストだと他人に思われないよう、気を付けなくては。
俺の名前は、韮田航平。
心の中で、自分に言い聞かせる。この名前も、身体も。生まれ持ったものではない。
誰にも信じてもらえないだろうけれど、それは真実だ。
『春川由紀乃、凱旋』
新聞の一面に大きく踊る、一人の女性の名前。視界の端に捉えたその五文字の名前は、懐かしさを俺に呼び覚ます。俺が本来名乗るべき名前、本来あるべき姿。
それを歪めてまでも手に入れたかったのは、初恋の人の幸せだった。
だからこれがどんなに罪深いことだとしても、俺は後悔していない。
***
彼女の出迎えのために空港につくと、まだ昼前だというのにすごい混雑だった。
全員が彼女の出待ちというわけでもないだろうが、それにしても数が多すぎじゃないだろうか。少し見回しただけで『春川由紀乃』の名前が書かれた団扇や横断幕を持った人がやたらと目につく。
「すっごい人気者になったな。由紀乃は」
彼女に最後に会ったのは一昨年の年末で、その時の彼女の帰国は寂しいものだった。
『おかえり、由紀乃』
出迎えは俺一人で、春川の家では彼女と俺の両親がごちそうを作って帰りを待っていた。
『ただいまー! 航平、元気だった?』
あの時からそう時間は経っていないというのに、大した違いだ。
「見つけてくれなかったら嫌だなぁ」
そう呟いて、そっとため息を落とす。
彼女が人気者になることを幼馴染として喜ぶべきなんだろうけれど、それでもなんだか複雑な気分だ。何時だって、彼女を一番に迎えるのは俺でありたい。そして、彼女にも俺に真っ先に声を掛けて欲しい。
それは本当に些細な、だけどとても大きな、自分の独占欲。
「誰が?誰を?見つけてくれないって?」
空港を行きかう人たちを眺めて若干憂鬱になる俺の背後から、楽しそうな声がかかる。はじかれたように振り返れば、帽子を目深に被った小柄な人影が俺の後ろに立っていた。
「由紀乃!? どうしてこんなところに? 飛行機の到着予定はもっと後の予定だったはずだろ?」
「なんだかすごい騒ぎになってる、って母さんから聞いてね。飛行機を一便早いのに変更したの」
どう? 驚いた?
いたずらっ子のような笑顔を浮かべた彼女は、とても俺と同い年には見えない。それよりもずっと若く、幼く見える。
「そりゃあもう、すっごく。おかえり、由紀乃。一位おめでとう」
「ただいま、航平。ありがとう」
彼女を抱きしめて、肩に流れる絹の髪をさらりと撫でた。触れたら壊れそうなほどの小さく柔らかな体で、世界を戦ってきたのか。
それを想うだけで、胸が締め付けられる。
彼女にこの姿を押し付けたのは紛れもなく自分なのだから。あの時はそれが彼女にとって救いになると信じていたけれど、今となってはそれが正しかったのか悩むばかりだ。
「由紀乃、本当にお疲れ様」
「どうしたの、航平。大げさだなぁ」
まるで幼い子供をなだめるように、由紀乃は俺の頭をゆっくりと撫でた。それは昔からの、彼女の癖。
『由紀乃ちゃん、泣かないで』
まだ俺が『由紀乃』で、彼女が『航平』であった時から変わらない、彼女の癖だ。
優しい手つきに、俺が泣きそうになってしまうのも。
「早く帰ろう、航平。母さんたちが待ってる」
「うん、帰ろう。由紀乃」
俺は彼女の手から荷物を受け取り、歩き出した。横断幕を掲げ『春川由紀乃』の到着を今か今かと待っているファンには悪いけれど、長時間のフライトで疲れているだろう由紀乃をこれ以上疲弊させるわけにはいかない。
マスコミは騒ぐだろうが、それもこれも彼女の優秀なマネージャーが何とかするだろう。
足早に空港を抜け、駐車場に停めておいた自分の車に彼女を乗せた。
気づかれる前に、と慌ただしく車を発進させる。幸い、由紀乃に気づいた人はいなかったようだ。
「そういえば、すばるさんは一緒じゃなかったの?」
走り始めてしばらくして、彼女に問いかけた。昨日連絡をもらった時点では、彼女はマネージャーであるすばるさんと一緒の便で帰国すると聞いていたからだ。
「急だったから、飛行機の座席が取れなくて。すばるは予定通りの便で帰ってくるよ」
「そうか。由紀乃と2人で戻ってこれなくて残念がってなかった?すばるさん」
「残念っていうか、悔しがってた。あとすごく心配された。無事に日本にたどり着けるのか、って」
彼女は素晴らしい実力を持つフルート奏者だが、それの代償なのか日常生活は恐ろしいくらい何もできない。方向音痴で、機械音痴。料理もろくすっぽできないし、金銭感覚だってめちゃくちゃだ。
そんな彼女を公私問わずサポートしてくれているのが、すばるさん。由紀乃が海外での生活を送っているときはすぐ近くの部屋に住んで、電話一本ですぐに駆けつけられるようにと気を配ってくれていた。彼がいなければ、由紀乃はどこかで死んでしまっていたかもしれない。もしかしたら誰かに騙されて大金を失っていたかもしれない。冗談ではなく、本当の話だ
「他には? なにか言ってなかった?」
「うーんとね、“無理に日本に帰ることは無いんじゃないか”って言ってたかなぁ。〝欧州の方が貴女の需要はあるでしょう?”ってさ」
「ついでに“俺と結婚すればずっと面倒見てあげますから帰国するのはやめませんか”なんてことも言われなかった?」
「ああ、それも言ってたかも。航平すごいね! エスパーみたい」
エスパーも何も、彼の気持ちに気づいていないのは由紀乃だけだ。
すばるさんがこんなに手のかかる由紀乃のマネージメントを、わざわざ海外に移住してまで引き受ける理由。それは彼がとても親切な人で、厚意で引き受けてくれている……訳では無い。
『由紀乃さんは、俺の理想の女性です』
彼は120%の下心で彼女の世話をしてくれている。公私混同もいいところだ。
由紀乃の大学の卒業演奏会にやってきて彼女の演奏に惚れ込んだ彼は、事務所の社長をあの手この手で説得して、由紀乃の家にも、それから俺のところにも挨拶しに来て頭を下げて、由紀乃を事務所に招き入れた。
そこまでする必要があったかどうかは別として、彼は本当に真剣に、一途に彼女のことを大事にしている。多分すぐにでも籍を入れたいと思っているはずだ。少なくとも、すばるさんにはその覚悟がある。
「でも、すばるだってそのうちもっと素敵な人がいるって気づくと思う。私の取り柄は本当にこのフルートの腕だけだもん」
「……由紀乃、それを本気で言ってるんだとしたら、それはすばるさんが可哀想だよ」
すばるさんが残念なのは、その本気度が当の本人に伝わっていないことだ。
「本当だって。すばるにはきっともっと素敵な人がお似合いだと思う」
「……由紀乃。俺はすばるさん以上にお前のことを大事にしてくれる人を知らないな。いっそ、本当に結婚しちゃえばいいんじゃないか」
半分は本心だけど、半分は冗談。そんな体を装った口調でミラー越しに彼女に話しかける。
本当は、諦めの気持ちがほとんどだ。由紀乃のことは、今でも世界一大切だし、愛してる。彼女が泣くのならどんなことだってしてあげたいし、彼女のためになら命だって惜しくない。本当だ。
『ねぇ。航平くん、私に任せて』
それは幼いあの日から変わっていない。涙を流す彼に、そっと誘惑をささやいたあの日から。
でも、今の俺はこの気持ちがエゴだと知っている。彼女には彼女の心からの幸せをつかんでもらいたい。
そう思いながら何気なく覗き込んだバックミラー越しに、彼女と目が合う。その目を見て、驚いた。由紀乃は、俺の言葉に真剣に怒っていたから。あんな、からかい半分の俺の言葉に。
「お願いだから、すばると結婚しろだなんて二度と言わないで。少なくとも航平の口からはききたくない」
「……わかったよ、悪かった」
車内に沈黙が広がる。低くうなるエンジン音がやたら大きく聞こえてきて、居心地が悪い。その音にも慣れてしまうと、また俺の耳を貫く耳鳴りが戻って来た。
「……まだ耳鳴り、続いてるの?」
無意識に左耳を覆うように持ち上げた俺の手を目で追いながら、助手席の由紀乃が口を開いた。不安そうな声色に、動揺してしまう。
「違う違う、ちょっと頬っぺたがかゆくてさ」
おどけて誤魔化してみせても、彼女の眉間のしわが薄くなるわけじゃない。このところ癖になっていた自分の仕草に舌打ちしそうになる。
「それより由紀乃、コンクールの話聞かせてよ」
意識して明るい声を出した。無理をしてでも会話を続ければ、耳鳴りも気にならなくなる。せっかく彼女が一年ぶりに帰って来たのだ。うっとおしい耳鳴りのことなんて、忘れてしまいたい。
『由紀乃ちゃん、ずっと音が鳴ってる。なのに、音が聞こえないんだ』
この耳鳴りは、あの日泣いていた『彼』を思い出す。嫌な音だから。
***
韮田航平と最初に出会ったころ、俺はまだ『春川由紀乃』として生きていた。
『はじめまして、こーへーくん』
『……は、はじめまして。ゆきのちゃん』
その頃の俺、つまり『由紀乃』の母は、音楽教室を営んでいた。と言ってもそう大層なものではなく、音大出身であった彼女が趣味の延長で始めた小さなものだった。
教えていたのは、バイエルレベルのピアノと音大の専攻だったフルート。
生徒の大半は小さな子どもたちばかりで、『航平』もまた彼女の生徒だった。
『こーへ―くん、すごぉい』
小学生のころの『航平』は、ちょっとした有名人だった。
『航平』は誰よりも上達が早く、誰よりも音楽センスに溢れていたから。そしてその才能を裏打ちするように、誰よりも努力を惜しまなかったから。『彼』の実力はとびぬけていた。
『彼』には才能がある。凡人がどれだけど色しても手に届かない力を手に入れられる。その権利がある。
誰もが口々にそう噂した。
『航平』の輝かしい未来に、栄光に、誰もが羨望のまなざしを向けていた。
そんな風に期待されていた彼はしかし、ある日突然レッスンに来なくなった。
それまで毎日のように彼の家から聴こえていたフルートの音色も、いつしか聞こえてこなくなってしまった。
『ねぇ、どうしてこーへーくんはきてくれないの?』
『私』は何度も母に尋ねたけれど、はぐらかされてばかりではっきりしたことは何もわからなかった。
ただそこには、当時子どもだった自分が口を挟めないような事情があるのだということしか。
『僕の左耳は、もう聴こえないんだって』
やっと『航平』に事情を聞き出した時、彼は寂しげな顔をしてそう言った。
『普段の生活には支障ないし、続けようと思えば楽器だって続けられる。だけどね、ゆきのちゃん。もう前みたいに、音を拾うことは出来ない』
嫌なんだ。僕は、どうしても。だからもうフルートは続けられない。
今にも涙を零しそうな『航平』を前にして、『私』は決心した。
『ねぇ、こーへーくん。耳が元のように聴こえるようになれば、またフルート吹いてくれる? 私、もっともっとこーへーくんのフルートを聴きたい』
『それは……もちろん。僕はまだまだ吹きたい。沢山賞だってもらいたい。音大にだって通ってみたい。けど……』
それだけ聞ければ、十分だった。
『彼女』は『航平』の、彼のフルートの音色の一番のファンだった。彼の気持ちがまだフルートに向いているのなら、ふたたび吹けるようにするのが自分の義務だと思うくらいには。
『私が何とかしてあげる』
彼の手を取って、『彼女』は言った。
その時『由紀乃』の頭の中にあったのは、近くにある神社の井戸の存在。その昔、ひょんなことから祖母に教えてもらったのを、よく覚えていた。
――由紀乃ちゃん、あの神社の井戸では時々不思議なことが起こるのよ。
――あの井戸は「入れ替わりの井戸」と言うの。望めばその姿形を入れ替えることが出来るのよ。
――姿形を入れ替えたい二人が、一生懸命願えば、必ず願いは届くのよ。
あの井戸なら、『航平』の涙を止めることが出来る。『彼』が泣かなくて済むのなら、この身体だって惜しくない。子供ながらのまっすぐな気持ちは『由紀乃』を動かし、『航平』を説得した。
そうして二人は何か月もかけてこっそりと準備を進めた。お互いの思い出を共有し、お互いの癖を覚えた。入れ替わった後、誰にも気づかれず、お互いが困らずに過ごせるように。
すべての準備が整ったのち、二人は誰にも内緒で井戸に向かった。幼いながらも一生懸命な二人の願いを井戸は聞き届けた。そして幸か不幸か当の二人以外、誰一人として彼らが入れ替わったことに気付かなかった。
あの井戸に願った日から、『私』は俺になり、『彼女』は彼になった。そして、二人を取り巻く世界はガラリと変わった。
韮田航平は、またフルート教室に通うようになった。けれど周りがあからさまに落胆するほど、彼の音色は凡庸なものとなった。片方の耳が聞こえなくなったからだ、と聞えよがしに噂する人も少なくなかった。けれど彼は以前のように吹けなくなったことを嘆くわけでもなく、かといってフルートから離れる訳でもなく。楽しそうに楽器を吹き続けた。
代わりに春川由紀乃はメキメキと上達した。沢山のコンクールに出て、賞をもらい続けた。その上達ぶりは母である講師を驚かせるほどに。
彼女の生活は、フルートを中心に回っているようだった。それはもはや義務に限りなく近い執着だった。『何が貴方をそんなにまで追い立てるのか』と何度もそう問われたが、彼女は曖昧に微笑むだけで、
俺は航平としての人生に満足していた。由紀乃が活躍してくれることが、俺にとって一番の幸福で、それ以外はどうでもよかった。
だから由紀乃がどんな思いでいるのか、考えた事すらなかった。
『どうすれば、私は貴女に償うことができる?』
俺が自分の罪を自覚したのは、入れ替わりから七年程の時が経った、高校二年の冬。
その頃俺は由紀乃と同じ高校に通っていて、たまたま教室に二人きりになったタイミングで、由紀乃にそう声をかけられたのがきっかけだった。
『私は……ううん、僕は由紀乃ちゃんの人生を奪ってしまった。もしあの日僕が由紀乃ちゃんの申し出に頷かなかったら、君は女の子としての幸せを手にしていたはずだ。半分に欠けた世界に生きることも、その寂しさを感じることもなかった。僕はどう償えばいい?今僕に残ったものは僕の心だけだ。君にあげられるものはこれしかない』
『彼』の瞳には『由紀乃』だけが映っていた。そうやってまっすぐ真剣に『彼』が『由紀乃』を見つめれば見つめるほど、俺は絶望に打ちひしがれた。
“今僕に残ったものは僕の心だけだ。君にあげられるものはこれしかない”
その言葉は、俺の心に重く響いた。
『ねぇ、由紀乃ちゃん。君は僕になんでも望んでいいよ。僕にできることなら、何でもかなえてあげる』
『違う、そんなつもりじゃ……』
零れ落ちそうなほど目を見開いて、彼女は俺に迫った。
かけられた声も、言葉も、この上なく甘美だった。望んでしまいたかった。願いを言葉にしてしまいたかった。『その心が、欲しい』と。
一言俺が口にしたのなら、彼女はきっと頷いてくれるだろうと思った。十歳の時に『由紀乃』が自分の身体を『航平』に差し出した、その対価として。
だけど、俺が望んだのは、こんな結果じゃなかった。
ただ『航平』を自由にしてあげたかっただけで。音の欠けた世界に縛られた彼を救ってあげたかっただけで。見返りなんて何もいらなかったのに。そんな風に差し出される『彼の心』なんて、欲しくもなんともなかったのに。
一体どこで間違えてしまったのだろう。どうすればよかったのだろう。
俺は人生を入れ替えたことに後悔などしていたなかった。満足していた。だから彼女もそうだと思っていた。今この瞬間までは、俺の世界は幸せで満ちていたのだ。隣に彼女がいるだけで、『彼』と寄り添っていられるだけで、『私』はそれでよかった。
心から、愛していたから。
『……私は何も望まないよ。今も、昔も私は航平くんのことが一番大事なの、それこそ本物の家族みたいに。……償う必要なんて、どこにもないよ』
気づけば俺はそう口にしていた。
『航平くんは……ううん、由紀乃はもう自由だよ。好きに生きていけばいい。俺は君が元気でいるのなら、それで十分だから』
『わかった』
その時、俺は悟ったのだ。人にはそれぞれ与えられた運命がある。どんなに納得がいかないからと言って、それを歪めるような真似はしてはいけないのだと。運命に無理やり抗うような真似をすれば、必ずどこかで罰を受けることになるのだと。
俺は『彼』の涙を止めることを引き換えに、彼女の心を手に入れることができなくなった。
それは『由紀乃』が犯した罪で、航平に課せられた罰。俺は誰よりも近くで、愛する彼女の幸せな未来を守ることしか許されていないのだ。