唇を伝う鉄の味が全てを活性化させるように。
起きた時に、口の中がまったりとしている、ということはよくある。しかし、起きた時、血の味がするのは初めてだ。私は起き上がる。目を擦り、ぐるりと周囲を見渡す。そこは、私の部屋ではなかった。
冴えてきた頭で、慌てて昨日の夜のことを思い出す。夢と現実の境が無い。どこまでが現実なのかは分からない。何かが体の中で騒ぐ。しかし、昨日の遠いところにあるような記憶から分かるのは、ここは、遷の部屋であるということだ。
となると、遷はどこにいるのか。私は何故ここで寝ているのか。一体何をしたのか。一人の所為だろうか。考えは悪いほう悪い方へと転じていく。私は立ち上がり、部屋から出た。向かう先は自分の部屋だ。
廊下はひんやりと冷たかった。爽やかな朝ではあった。それを堪能する余裕は全く無い。むしろ、それが更に私を焦らせた。頭の中でひしめき合う何かに、押し潰されそうだ。
私は戸を開けようと、手をかけた。しかし、戸は開かない。鍵が掛かっている。鍵を探すように、袖の中に手を入れたが鍵は無い。焦る気持ちを抑え、軽く戸を叩く。
中で物音がした。そして、すぐに戸は開いた。
「おはようございます。大丈夫でしたか」
既に、しっかりとした衣を纏った遷は、慌てたような驚いたような表情を浮かべ、私に尋ねた。私は、それを質問で返す。
「私は昨晩何を……」
自分でも、声が震えているのが分かった。遷は微笑む。
「私の部屋に来て下さった時、具合が悪かったようで、倒れてしまったんですよ。ですから、私が炎の部屋使わせて頂きました」
私は、ゆっくりと息を吐いた。体から力が抜け、頭の中を僅かな風が通った。
「すみません。ご迷惑をお掛けしましたね」
普段の落ち着いた声で、出来る限り丁寧に謝ると、遷は優しい笑みを浮かべた。
「体調が優れない時は、お互い様です」
そう言ってから、一度、言葉を切る。そして、僅かに顔を強張らせた。
「今日、呉の国に戻ります。大丈夫ですか」
私は頷いた。全てを受け入れる覚悟は出来ているはずだ。私は国を滅ぼし、王を殺した罪人だ。怖い。そう思うが、それを出さないようにするのは、郭の国の軍師としての最後の仕事だ。
本当に死ぬかもしれない。しかし、生き延びることが出来るかもしれない。それは、まだ分からない。ただ、一つ分かることがある。それは、どちらにしろ、私は変わるだろうことである。
「ですが、私にできることはします」
はっきりと遷は言った。口元は緩められたが、声は力強かった。決して大きな声ではない。低い声でもない。しかし、包み込むような深さを持つ声だった。
では、と部屋に戻ろうとする遷に尋ねる。
「何故、私の命を助けたのですか」
遷は歩みを止め、振り返った。ふらりと衣が揺れる。
「韓羽先生亡き後、あなたしかいないのですよ」
遷の言葉に、私は自己嫌悪に陥った。私が遷の立場だったら、遷のように声をかけてやれただろうか。答えは問う前に決まっているような気がした。しかし、それを思っても、遷が喉につっかえるのだ。
ふわりと微笑んだ遷のその穏やかな笑顔は酷く悲しげで、何故か崩れてしまいそうな色を孕んでいた。顔を上げて、それを見た時、じわりと、と私の中で何かが動いた。