憎しみを忘れないために刻んだ証。
息苦しい。世界が赤くなっていく。夢にしては苦しすぎる。私は、薄らと目を開けた。
真っ暗な部屋の僅かな明りに照らされて、ぼんやりと浮かんでいるのは、炎の顔。目は虚ろで、ただ私の首を締めている。こんなところで死ぬ気はない。しかし、無駄に抵抗しても敵うはずが無い。炎は男だ。私は賭けに出た。不動の状態から一気に足で、炎の腹部を蹴り上げる。うろたえた所に、一気に手套を打ち込む。勢いよく倒れてきた体に、押し潰されながらも、私は生きていることを確認して安堵のため息を吐いた。
「私は何故、こんなに嫌われるのでしょうね」
一日に二度も殺されかけるなど、呆れ笑いさえもできない。私自身に護身術の心得があり、相手に無かったかからどうにかなったが、双方共に命を失うところだった。
ごそごそと、炎の体の下から出でるようにして抜け出す。
「炎、黙っていてごめんね」
当然返事はない。連日の職務と心労で疲れているだろう体に、布をかけてやる。自分の寝床だが、しょうがない。
私は、炎より年上だ。三年ほど人生の先輩で、韓羽先生に弟子入りする前に二年ぐらい他の先生についていたから、炎より何でもできるのは当たり前。でも、私はそれを言わなかった。炎が、私よりも劣っている、と悩んでいたことも知っていたのに関わらず、それを言わなかったのは、私が悪い。
炎は、自分の命を救い、導いてくれた韓羽先生を慕っていた。でも、韓羽先生は、元からいた炎よりも、学問が炎よりもできる私に構うようになった。炎への対応も冷たくなっていったことに、私でさえ気付いた。それでも、私は先生から、できる限りを学び取ろうとしていた。だから、炎のことを、一番には考えてやれなかった。あくまでも、二番目だ。
しかし、若くして立派な一国の軍師になり、誰もが羨むような名誉を手に入れた青年が、未だに引き摺り続けているとは、誰が考えるだろうか。
真面目故、炎は不器用だ。今まで誰にも話さず、自分の中に溜め込み、それを抱き続けた。一途だ。真面目すぎる。だから、捨てることができなかったのだろう。
「手の掛かる妹が既にいるのに……弟までいるとはね」
安らかな寝顔に手を翳す。起きたら驚くだろう、と思い、思わずにやりと笑ってしまう。
顔立ちはもう大人だし、当然、私よりも体はずっと大きい。それでも、炎は、おそらく向こうはそうは思っていなかったとしても、私にとっては弟だ。
今まで、炎には酷いことをしたと思う。だからこそ、たとえ自己満足だったとしても、これからは、炎のためにやれることをやろう。
私は明りを頼りに、鏡の前に立った。揺れる炎に照らされた首元に、くっきりと残った爪痕は、未だに酷く痛む。でも、これは、不器用な弟の、精一杯の反抗だと思って、ありがたく受け取っておこう。