全身全霊をかけて敵の命を追う。
特徴的な穏やかな笑顔を久しぶりに見ると、憎たらしいと言う気持ちを忘れてしまったかのような心地がする。その瞬間に全てから解放されたような、安心感に似た喜びがあった。
遷は兵士たちを退出させた。敵も味方も。ざわざわと兵士たちが出て行ったのを確認してから、遷はパタリと戸を閉める。久しぶり、と相変わらず笑顔を浮かべている遷の目線は、昭妃の方へいった。
「お前は、何故逃げた」
昭妃の突然の低く太い声に私は驚き、思わずその美しい顔を凝視してしまう。白い顔に浮かんだ苦々しげな表情は、昭妃のものとは思えない。そういえば、二人には因縁があった、などと呑気に思い出している状況では無かった。
張り詰めた空気に、遷の笑顔だけが浮いている。遷は答えようとしない。堅く、昭妃の唇が結ばれる。そして、昭妃は、その懐にゆっくりと手を当てた。
一瞬だった。金属音が鳴り響く。昭妃の短剣と、遷の錫である。昭妃は、狂ったように叫び声を上げ、遷に斬りかかろうとする。私は急いで、後ろから昭妃の体を押さえ込んだ。
「お前は、お前は……」
あまりの感情に、言葉が出ないのだろうか。昭妃は、涙を流しながら暴れていた。私は必死で昭妃を押さえ込む。短剣を持つ手を掴み、動かないように固定する。
遷が立ち上がった。影が差す。私は短剣を持つ手を止める力を強くする。すると、重い衝撃とともに、昭妃の力が抜けた。すかさず短剣を手に取り、自分の隣に置いてから、昭妃を抱きとめた。
昭妃の懐に拳を入れた遷は、ぐったりと私に凭れ掛かっている昭妃を見下ろしていた。その眼光は、鋭くも冷たくも無い。諦めに似たような、優しさのある目だった。
すぐに折れてしまいそうな儚さを持つ美しい王妃は、あれだけの憎しみを募らせていた。優しい笑顔の下で、あれだけの炎を絶やすことなく燃やしていた。突然の自体に惑わされ、憎しみを忘れてしまう私とは違う。昭妃は、あまりにも幸薄い。
私は遷を見た。ただ昭妃だけを見る遷の口元が、ゆっくりと動いた。