殺したい衝動に耐える苦痛。
郭が呉に攻め入る。郭の王、縦王は、呉へ軍を進めることを決めた。時は戦国、当然多くの国がある。燕も多くの小国と、国境を共有している。
「よりによって、呉国か」
ぼそりと零し、仕事の為の筆をとる。静かな空間だ。
関わらなくて済むこともあるだろう。遷の存在を忘れようとして、忘れかけていた矢先だった。当然負ける気はない。
私は今まで、重臣を殺すように指示することは無かった。むしろ、郭の兵士には、殺すのは兵士のみ、と堅く言って聞かせた。無駄な殺傷は避けるべきことだ。
しかし、遷がこの戦で死ねば、もう私が苦しむことは無い。遷を忘れ去り、遷という存在に呪縛されずに済む。
病んでいる。そう、この気持ちこそが遷に縛られている。私の職務と遷は関係ない。遷は宰相、私は軍師。関わることもない。私は、ただ、呉の国の軍を攻略するために、策を練るだけだ。
しかし、殺す機会を与えられた。それは、今の私にとっては大きすぎた。私は、異様な程に沸き立つ心を、必死に押さえ込もうとした。しかし、その抵抗も空しく、私は筆を置き、ゆっくりと部屋を出るという選択肢を採らざるをえなかった。
小鳥は優しく鳴く。私は澄んだ空気を吸いながら、その小鳥を見た。その小鳥が、憎たらしくて仕方が無かった。
「炎」
ふと、後ろから声がかけられる。優しい女性の声。
「昭妃様、如何なさいましたか」
昭妃。縦王の美しい王妃だ。品の良い簪で豊かな髪を操り、静かに留める。着物は、薄らと模様が織り込まれた、華やかな紅色。一国の王妃が、軍師に一体何の用があるのか。私は丁寧に尋ねた。
「次の戦も必ず勝ってね」
昭妃は微笑んだ。しかし、その眼光が鋭く光ったのを私は見逃さなかった。
「勿論ですが。何故、突然、そのようなことを……」
「あの国の宰相には恨みがある」
昭妃が笑みを絶やすことは無かった。
動揺しているのか、ぐらりと何かが揺れた気がした。それ故、残像で歪んだ王妃の顔は、あまりにも醜かった。
失礼しました、と私は一礼し、その場をそそくさと立ち去った。頭の中を占めるのは、遷の笑顔。どちらにしろ、遷は殺されるのだ。安心すべきことだ。しかし、何かがさらに揺れ始めた気がした。