ぎりぎり唇を噛んで嗚咽をあげる。
私が軍師に上り詰めて間もない頃、ひょんなことから、胸騒ぎのする情報を手に入れてしまった。呉にいる劉遷が、宰相となった、というその事実に直面した時、私に生生しい記憶が蘇った。そして、沸々と沸き起こる感情。
劉遷。それは、私の弟弟子であり、そのくせ、私よりもいつだって遥かに優れていた。書を覚えるのも早く、理解も早く、意見も私よりずっと素晴らしかった。
仲が悪いと言う言葉があるが、私と遷の間には、仲の良さも悪さも無かった。仲が無かったと言っても良い。私は遷が嫌いな訳ではない。憎たらしいのだ。素晴らしい才能と人格を持ち合わせ、何の落ち度も無い遷のことが。
「呉の宰相か……」
私は筆を置き、目の前の使いを見た。どうしようもない感情が沸き起こっても、今はどうしようもない。この所為で職務に支障が出たら、本末転倒だ。
再び書面に向かい合おうとした私の顔を、使いは見た。
「炎先生、如何なさいましたか」
「何でもない」
顔も上げずに即答する。さっさと退室しないかと思いながらも、それは口にしない。すぐに手で行くことだろう。
しかし、使いは退室しなかった。
「唇から、血が……」
そう言われて初めて、私は唇に血が滲んでいることに気付いた。此処まで堕ちていたとは、と心の中で、自嘲する。
「切れてしまったようだね。見苦しい物を見せた。申し訳ないね」
ぺろりと唇を舐めれば、広がるのは鉄の味。
顔を上げて微笑むと、使いは我に返ったのか、慌てて返事をして、一礼した。
退室する使いを見届けてから、私は鉄の味が滲む口元を、手で擦った。白い手には、べったりとした赤が広がっていた。