9.キングメーカー一代記
チェンバレンが体調を崩したのは1940年7月でした。末期の大腸がんが見つかりましたが告知はされなかったようです。逆に言えば5月、なお保守党首たるチェンバレンは内閣内の実力者であり、チャーチルの敵にいつ回るかわからない存在でした。だから、チャーチルは機会があれば、チェンバレンを全力で殴って力をそぎたい動機がありました。しかし自分でそれをするわけにはいきません。
新聞男爵ビーヴァーブルックは1910年からしばらく下院議員を務め、大戦中に男爵となって貴族院に移りました。入閣したことはなく議員としては目立たない存在でしたが、第1次大戦中に保守党首ボナー・ローとロイド=ジョージの仲を取り持ってロイド=ジョージ政権の基礎構造を作ったのはこの人でした。保守本流たるチェンバレンのために、1938年にはミュンヘン会議の弱腰を批判するチャーチルのコラムを、傘下の新聞で打ち切りにしたことすらありました。一方では成功した経営者として、良く言えば遠慮がなく、悪く言えば粗野な態度をとるので、チャーチル夫人を含むいろいろな人から嫌われていました。しかしかつての親分であるロイド=ジョージは老い、戻った先の保守党で外様扱いされるチャーチルにとってはビーヴァーブルックは貴重な盟友であり、5月14日に設置された航空機生産省の大臣として登用しました。それに先立つ組閣の数日間、チャーチルは断続的にビーヴァーブルックと会って、組閣の相談に乗ってもらっていたのです。
このビーヴァーブルックに策がありました。1938年の宥和政策にかかわった、チェンバレンとその同調者たちを批判する本を傘下新聞の記者3人に(大急ぎで、偽名で)書かせ、7月に『Guilty Men』という署名で出版したのです。これは取り上げられた人たちにとっては政治的打撃であり、今日に至るまで「宥和政策はアホであり誤りであった」という一面的な見方を広げる副作用がありました。チェンバレンは9月下旬に内閣を辞しましたが、最初の不調から立ち直っていなかった8月上旬、チャーチルは早くもビーヴァーブルックを戦時内閣に加えていました。そして秋以降、戦時内閣は新たな政治的バランスのもとで増員されていきました。チェンバレンは11月に亡くなりました。
サミュエル・ホーア航空大臣はチャーチル内閣に呼ばれず、スペイン大使として派遣されました。チェンバレンが亡くなり、駐米大使が12月に急死すると、ハリファックスは1941年1月に駐米大使となりました。
後から不和が表面化したディル陸軍参謀総長もアメリカ駐在の職につけられました。チャーチルは自分と合わない有力者を海外の任につけることを繰り返しましたが、まさにイギリスは「自分だけでは勝てない戦争」をしていたわけで、それぞれ閑職ではなく、イギリスの運命を握る職でした。
ウッド王爾尚書はチェンバレンの閣僚たちの中で比較的優遇され、せっかく航空大臣で体調を崩し王爾尚書として楽をしていたのを、財務大臣にされてしまいました。そして1943年に病死してしまいましたから、まさに塞翁が馬です。
もちろんその後も戦時内閣の顔ぶれは激しく入れ替わりましたが、それらは「大戦前のいきさつ」とはあまり関係がありません。しかしアーネスト・ベヴィンの話をしておくのは、他で触れる機会が少ない「防衛委員会(補給)」という会議の機能についても語ることになりますので、多くの読者のお気に召すかと思います。
運輸一般労働組合(Transport and General Workers' Union)は陸運・水運の労働者だけでなく、比率を問わなければほとんど全業種の労働者に門戸を開いた労働組合でした。その指導者であったベヴィンは、共産主義嫌いであったためチャーチルとも妥協の余地があり、連立内閣に入るにあたって労働党の幹部たちが気の進まない本人を説得して入閣させ、労働・兵役大臣(Minister of Labour and National Service)としました。
ちょっと昔話をしますと、第1次大戦でロイド=ジョージ弾薬大臣が成功したカギは、ちょうど敷かれた徴兵制と一体になったNational Serviceでした。つまり弾薬工場での労働もまた国家への奉仕であり、一方的な離職は認めないとしたわけです。大戦末期の弾薬大臣だったチャーチルは逆に、「兵役の方がいいか?」と労働者たちの要求をかわしたこともありました。べヴィンの肩書が「労働大臣」でないのはそういうことで、総力戦体制構築に当たって労働者の各産業への割り当てをまとめ、諸方面に呑ませる剛腕が必要になるのでした。
さて、「防衛委員会(補給)」ですが、イギリス国立公文書館の関連ファイルについての説明が数少ない入り口となっています。この会議は防衛委員会(作戦)と並んで、(防衛大臣としての)チャーチルが議長となる委員会ですが、その顔ぶれは一定しませんでした。呼ばれるのは基本的に 「Supply Ministers」と「 Service representatives」であって、 「Ministry of Production」が円滑に回るようになると、あまり開かれなくなったと。
https://discovery.nationalarchives.gov.uk/details/r/C3877
そして生産省・生産大臣については、下院でチャーチルが設置趣旨説明をしている議事録があります。
https://api.parliament.uk/historic-hansard/commons/1942/feb/10/minister-of-production-duties-and
それによると、軍需品の発注機関は陸海空それぞれに、軍需省(ministry of supply)、海軍省統制局(Controller's Department of the Admiralty)、そして航空機生産省でした。チャーチルの説明にも出てくるProduction Exectiveというのはベヴィンが主催する委員会で、労働を含むリソースを様々な産業に振り分けるものでした。いままで3つの発注機関が生産委員会と向き合って資源割り当てを受けてきたところ、参戦したアメリカから今まで以上にレンドリース物資を受け取ることになるので、イギリスを代表する窓口が必要になり、ビーヴァーブルックを新たに作られる戦時生産省(創設時にはMinistry of War Productionだった)の大臣に据えて、3つの発注機関を束ねてもらうことにする……というのがチャーチルの説明です。
ところがベヴィンもビーヴァーブルックも、自分の山へ帰ればボスであるわけです。早々に権限をめぐって衝突し、チャーチルはベヴィンも代わりのいない人材なのでビーヴァーブルックに引いてもらい、他の仕事をあてがうことにしたのでした。戦時生産大臣の後任には、非鉄金属業界の大物実業家からチャーチル内閣に招かれていたリトルトンが横滑りし、終戦まで勤めました。
これでチャーチル戦時内閣と、それに先立つ諸事情の物語を終わります。