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8.内閣のパワーバランス

 清水ミチコの昔のネタに「渡米するあなたに」というのがあります。アメリカ人の名前を覚えるのは大変そうだが、男性はみんなジョニーで女性はみんなルーシーなので心配しなくていいという話だったと思います(アルバム「幸せの骨頂」に収録)。


 デイビッド・ロイド=ジョージは生まれたときはデイビッド・ジョージでした。姓はジョージ、名はデイビッドです。しかしジョージお父さんは若くして亡くなり、ジョージお母さんは(苗字なので女性でもジョージです)実家のロイド家に戻って弟と同居しました。このロイドおじさんがウェールズ人の政治運動に熱心で、デイビッド・ジョージの師父となったことが、ロイド=ジョージの二重姓を名乗るようになった理由と言われています。


 デイビッド・ロイド=ジョージはDavid Lloyd Georgeと綴ります。私はロイド=ジョージと書くことにしていますが、原語に忠実に書くならロイド ジョージですよね。ところが本人がもらった伯爵位はEarl Lloyd-George of Dwyforでして、長男の血筋はロイド-ジョージ伯爵ロイド ジョージみたいな名前の表記になっています。改姓のハードルがすっごく高い日本にも不便なところはありますが、イギリスみたいにフリーダムなのも大変ですね。アメリカだったらみんなジョニーなのに。


 何でこんなことを書くかというと、これから自由党の話をするからです。自由党は長年のいきさつでアイルランド人の自治に前向きであり、アスキス政権のころにはスコットランドの自治も同様の考え方で推進するようになりました。ウェールズ聖公会をイングランド国教会から切り離す運動は……自由党というよりもロイド=ジョージの推進した施策でした。もともとそんなつもりはないにせよ、イングランド以外全部が平等を目指して同じバスに乗るようなところがありました。これは「自由党の変化」でもあって、行き過ぎを感じたメンバーの離党・分党も慢性的な問題として抱えていました。


 第1次大戦のころ、ロイド=ジョージ内閣がアスキス派を追い出すように成立した話はすでにしました。1920年代半ばからロイド=ジョージは内閣に入れず、党内での人気は落ちました。1931年にマクドナルド内閣が連立政権として発足したとき、協力を拒絶したロイド=ジョージは孤立して三男グウィリムなどわずかの議員とともに離党し、サイモンを中心とする旧アスキス派は連立政権に参加し、サミュエルを中心とする一派は1932年に帝国特恵関税が我慢ならず政権を離れて、自由党は3つに分かれてしまったのです。


 1935年の選挙は、すでに述べたように保守党の圧勝、自由党の惨敗でした。サミュエルが落選し引退したのをきっかけとして、ロイド=ジョージに従っていた議員の生き残りは当時野党側の自由党に合流しました。


 なお衆目を集める政治家でしたから、チェンバレンも大戦が始まるとロイド=ジョージを閣僚にする道を探りましたが、彼を嫌がる閣僚もおり、だいいち本人がチェンバレンを嫌っていました。そこでチェンバレンは、自由党から個人的にグウィリム・ロイド=ジョージを引き抜いて貿易政務次官として遇することを思いつきました。グウィリムは招きに応じ、チャーチル政権になっても留任しました。チャーチル内閣にもチェンバレンがいたので老ロイド=ジョージは参加しませんでした。グウィリムは他の政務次官職を経て1942年に燃料・電力大臣となり、戦後は1946年に自由党を離れ、チャーチルの個人的な選挙支援と引き立てを受けて何度も閣僚職に就きました。


 さて、今まで野党だった方の自由党ですが、サミュエルの後を継いだシンクレアは、じつはチャーチルの「戦友」でもありました。1915年に失意のチャーチルが中佐の戦時階級を得て騎兵大隊長を務めたとき、その次席士官としてシンクレア少佐がつけられたのです。そのまま、ロイド=ジョージ内閣で一緒に仕事をしたこともありました。チャーチル内閣では航空大臣を任され、チャーチル退陣まで勤めました。


 そしてチェンバレン内閣のいまや古参閣僚であったサイモンですが、これもいかにもイギリスらしい話ですが、内閣発足間もない5月13日に子爵に叙され、20日には貴族院議長に任じられました。祭り上げです。外務大臣としての在任が長かったサイモンでしたが、国内での権力基盤が弱いので互いに身を切る妥協をまとめられず、気の毒な人という印象をマイソフは持っています。原敬が刺されてからの幣原外務大臣……と言ってしまうと色々失礼でしょうか。サイモン派自由党(自由国民党)でサイモンの次の下院指導者は、チェンバレンの労働大臣だったアーネスト・ブラウンなのですが、イングランド生まれなのにスコットランド担当大臣にされてしまいました。上記のように自由党はスコットランド問題に関心を払ってきましたし、選挙区はスコットランドなので間違いではないのですが、やや従来より軽く扱われた感があります。大戦中に保健大臣、ランカスター公爵領担当大臣(実質的な無任所大臣)と歴任しました。


 海軍大臣としてチャーチルの後任に据えられたのは、労働党のアレクサンダーでした。じつは1929年の第2次マクドナルド内閣で、海軍大臣をやったことがありました。つまりそれは、イギリス海軍にロンドン軍縮条約を呑ませた人ということなのですが。アレクサンダーは1931年に落選して1935年までただの人だったので、労働党首レースで少し遅れてしまったのでした。労働党で上から三番目の男として、順当に要職に座りました。終戦直前にチャーチルが退陣した後も、アトリー内閣の海軍大臣に留任しました。


 そして陸軍大臣は、1938年にチェンバレンがイタリアと妥協したので外相を辞めた保守党の若手有望株、イーデンでした。大戦が始まると自治領担当大臣として内閣に呼び戻されていましたが、チェンバレンが退陣したことで要職への道が開けました。


 まだまだこの内閣には物語が詰まっています。チェンバレンの(文字通りの)運命もひとつのドラマですし、サイモンのように棚上げされたり遠島申しつけられたりした人々のお話、ビーヴァーブルックと戦時生産大臣職の話などが残っていますが、今回はここまでとします。

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